調査報告書
某月某日、【はざま探偵事務所】(以下、事務所)近隣にて、誘拐事件が発生。
被害者は少年A。
幸いにも、事件は解決し、無事に家族の元へ帰る。
ここでは、そこに至るまでの経緯を記す。
事件当日、午前11時台に当方助手、胡桃沢水面(以下、助手)より事務所へ連絡。
当初は――――
「おはようございます」
……と。
気合い入れて調査報告書を書いてる所に、我が助手がやって来た。
今日は、某月某日+1日。
つまり、事件翌日だ。
今日は平日なんで、彼女の出勤は夕方。
この時間まで報告書作成が行われなかったのには、訳がある。
「胡桃沢君。どうだった? 金一封、出る?」
「また所長はお金の事ばっかり……一応、出るみたいですけど。
あと、感謝状を朝会で渡すって言ってました」
「おー。晴れて探偵事務所の助手って事が全校生徒に広まる訳だ」
「うう……なんかフクザツ」
キツネ耳をピコピコ揺らしながら、胡桃沢君はホントに複雑な顔をしていた。
さて、報告書が遅れた理由を述べよう。
ついさっきまで、警察と連絡を取っていたからだ。
内容は、報告書冒頭にも書いたように、誘拐事件に関して。
昨日、この近隣で誘拐事件が発生していた。
そして、胡桃沢君はその現場に出くわしていた。
といっても、例えば被害者の少年Aが車に連れ込まれた……という場面じゃない。
胡桃沢君が偶々通りかかった路地裏(野良猫を追っかけてたらしい)の
一角にある空き屋から、『坊やも運がなかったな。ま、とーちゃんが身代金を
ちゃんと全額払えば、釈放してやっからよ』等という声が聞こえてきて、
そこで誘拐事件が起きていると判明した。
そこで胡桃沢君は、俺に連絡を寄越す。
ただ、逐一変わる状況を把握する為には、その場を離れるのは得策じゃない。
なので、メールで『誘拐事件発生!』と俺に送ったらしい。
でも、残念ながら俺の携帯は猫カフェに忘れている。
当然、返信はない。
困りつつ、胡桃沢君は事務所の方に連絡を寄越した。
携帯用のボイスチェンジャーを使って。
これは別に、誘拐犯に自分の声をわからせないように――――という意図はない。
当たり前だが。
そもそも、声が聞こえた時点でアウトだ。
胡桃沢君は、一旦空き屋から離れて、俺に電話を寄越した。
ボイスチェンジャーを使ったのは、別の意図だ。
そして、それこそが、彼女の探偵助手としての機転に繋がってくる。
何しろ、その場は誘拐犯が直ぐ近くにいる。
仲間が近くにいるかも知れない。
万が一、『誘拐事件が発生しています』等と口にすれば、最悪彼女自身が
危機に瀕す事は想像に難くない。
だから、胡桃沢君は『誘拐事件が起きている事を暗に示す』電話を、事務所に寄越したんだ。
ボイスチェンジャーを使って、彼女が伝えたかった事。
それは――――シュレーディンガーの猫だ。
今や、ミステリーの題材としては明らかに使い古されたネタ。
それどころか、普通の小説にもよく引用されている、というか引用されすぎて
飽食気味なくらいらしい。
それくらいメジャーなネタだから、胡桃沢君は俺を信頼した。
気付いてくれるだろう、と。
俺が最近、猫カフェにハマってる事も知ってるし。
まず、彼女は声を変えて俺に電話を入れた。
この時点では、まだ単なる『何者かわからない人』だ。
だが、胡桃沢君はヒントをくれる。
『面白い探偵さんですね』
これは、彼女が初めて俺に電話をくれた時の言葉だ。
俺と彼女しか知り得ない、彼女であるという証拠。
だが、その後彼女はこう口にする。
『いいえ違います。私は胡桃沢水面ではありません』
証拠に対する明確な否定。
これで、電話の主が胡桃沢君である可能性は、1/2になる。
その後、また彼女は過去の自分の言葉を口にする。
『探偵さんって、スゴい職業なんですね』
当然、これも彼女が胡桃沢水面であるという証明だ。
それなのに、またも彼女はこう告げる。
『私は胡桃沢水面じゃありません』
ここでまた、可能性は1/2に戻る。
胡桃沢君だという証明、違うという証明が2つずつ。
2/4だ。
次に彼女は、『私は、胡桃沢水面です』と、さっきとは全く異なる、
正反対の事実を突きつける。
そして、俺の問いに対して胡桃沢君はこう返した。
『ネコ耳です。ネコです。ネコの耳です。もふもふしてないでしょう?』
これは、最初に彼女と電話で話した時の科白
『ネコ耳じゃありません。キツネです。ホッキョクギツネの耳です。もふもふしてるでしょう?』
の反対を意味する言葉。
それがわかり易くなるように、わざと露骨に、強引に肯定文にしてあった。
しかも、事実と反するにも拘らずの肯定。
つまりは、『胡桃沢水面』である事の否定。
ここまでくれば、流石に気付く。
彼女は、一度の自己証明および自己否定に対して、過去の自分の言葉を使い、
自己否定および自己証明を表現している。
『電話の主が胡桃沢水面である』確率が、常に1/2になるように。
ボイスチェンジャーで声を変えたのは、その下準備。
彼女が彼女であるかどうかを判断する材料をなくす為だ。
だけど、ここで問題が発生する。
ボイスチェンジャーは、どうしても最初の彼女との会話を思い出す。
ボイスチェンジャー自体が、胡桃沢水面を想起させるアイテムなんだ。
だから、彼女は『全体像』でバランスを取った。
全体的に、彼女らしくない素っ気ない発言が目立ったのは、そのバランス取りの為。
全ては、1/2にする為だ。
何故、ここまで1/2に拘ったのか。
ボイスチェンジャーで隠れた声の主が、1/2の確率で自分、1/2の確率で別人になるように
コントロールしたのか。
そして、何故『胡桃沢君である自分』、『胡桃沢君でない自分』を混合させたのか。
シュレーディンガーの猫を、俺に想起させる為だ。
シュレーディンガーの猫は、一つの箱の中に『猫』と『核分裂を起こす原子』と
『核分裂を検出する検出器』と、『検出器が反応すると、毒ガスを発生させる装置』が
入っている状態で、その箱の中の猫が『死んでいる』か『生きている』か、どっちかを
問うというもの。
原子が核分裂すれば、猫は死ぬ。
しなければ、猫は死なずに生きている。
なので、量子力学的には、死んだ猫と生きている猫が混ざり合った状態で
箱の中に入っている――――という解釈になる。
その確率は、1/2。
ただし、本来『猫が死んでいる確率』と『生きている確率』は、厳密には1/2じゃない。
観測者が箱を空けるまでに、原子が核分裂する可能性は1/2とは限らないのは、
誰でもわかる事だ。
観測者がいつ箱を空けるか、決まってないんだから。
だけど、このシュレーディンガーの猫では、その確率を便宜上1/2とした。
これは、猫の状態が『生きている』、『死んでいる』の2通りしかないので、
その2つに1つ、1/2とした――――という、確率論で言えばおかしな解釈だ。
ただ、量子力学的な見解を示す上で、その部分は便宜上『1/2である』と仮定している。
で――――ここからが重要なんだけど、今回の件の胡桃沢君の自己証明と自己批判は、
このシュレーディンガーの猫の法則に則っていた。
実際には、電話の主が胡桃沢君である確率は、1/2じゃない。
色々複雑な可能性が混じり合って、しかも変動すると言うのが実状だ。
でも、実際に得る回答は『胡桃沢君でした』か『胡桃沢君以外でした』の2通り。
肝となるのは後者で、『胡桃沢君以外が誰か』という点だ。
もし、複数の人物の可能性があれば、『胡桃沢君でした』、『友人Aでした』
『友人Bでした』など、3つ以上に枝分かれする。
でも、結果として『彼女とエピソード記憶を共有する何者か』に限定され、
またそれ以上の分別も不可能となっている。
結果、電話の主は『胡桃沢君』、もしくは『彼女とエピソード記憶を共有する何者か』
までしかわからない。
表面上、1/2。
これはシュレーディンガーの猫の法則と一致する。
つまり、彼女があの電話を通して言いたかったのは、『シュレーディンガーの猫』
というキーワードだ。
で、それが誘拐事件となんの関係があるのか。
シュレーディンガーの猫は、箱の中に猫を連れ込み、『監禁』する。
そして、中の猫を死の危険に晒す。
また、彼女は自己証明として、過去の自分の言葉――――初めて俺に電話を
よこした、あの時の言葉を使った。
あの場面を俺に回想させる為でもある。
当時の胡桃沢君は、何を欲していた?
『助け』を欲していた筈。
要ヘルプ状態だ。
監禁。
死の危険。
要ヘルプ。
探偵である俺に、そのキーワードを示すという事は……つまり――――
虐待か、拉致監禁。
そして、要ヘルプという事は、そこに事件性があるという事を暗示している。
また、それを直接口に出来ない状況って事も。
だもんで、俺は最初、『彼女が監禁されている』かも、と思って緊張もした。
けど、その状況で電話は無理だ。
だから、第三者の監禁を発見し、近くに犯人がいて迂闊な事は話せない状況にある
と分析した。
これは推理じゃなく分析だ。
その分析に従い、直ぐに俺の携帯に電話をかけて、出てくれた猫カフェの店員さんに
『胡桃沢君宛てに、「場所を」というメールを打ってくれ』と依頼。
返信されたメールを電話で読んで貰い、警察に連絡し、連携を取って
犯人の確保に成功……というのが、事の顛末だ。
いや、ホントは俺一人で駆けつけて、誘拐事件を解決! といきたかったんだけど、
探偵のスタンドプレイで被害者を危険に晒すのは御法度だからね。
探偵はあくまでも推理と分析までがお仕事。
犯人の確保や人質の解放は、警察の管轄だ。
血税分はしっかり働いて貰わないとな。
……と、そういう訳で、犯人逮捕に協力した俺等は、表彰される事になった。
金一封も出るらしい。
それより何より、誘拐事件の解決ってのは大きい。
この事件で、【はざま探偵事務所】は有名になれるかもしれない。
「所長、顔がニヤついてます」
「そんな事はない。俺は何時だってクールでニヒルな探偵だ。
感謝状や金一封やその後のフィーバーに心乱されたりはしない」
「でも、口の辺りがピクピク動いてますよ?」
「これは武者震いだ。これから食べる夕食への……な」
「カッコつける場所、間違ってる気が……」
夕日を背に黄昏れる俺を、胡桃沢君は微笑ましそうに眺めていた。
「でも……よかったです。人質になった子が無事で」
「そだね。それが一番だ」
その子の親は、俺達に何度も何度も頭を下げて感謝を示してくれた。
良いことしたな、って気持ちより、『大きい事件だったんだなあ』と再確認。
そういうトコは、警察より探偵向きな性格の表れなのかもしれない。
向いてないと思ってただけに、少しビックリ。
「私達も、少しは探偵と助手らしくなれたんでしょうか」
俺のそんな考えを見透かしてか、胡桃沢君は感慨深げに問う。
それに対する俺の返事は一つだ。
「胡桃沢君。探偵にも助手にも、免許や証明なんてないんだ。
俺達はそう名乗ったその日から、探偵と助手なのさ」
「そうですね」
人差し指を立てて決めポーズを見せる俺に胡桃沢君は笑顔を返してくれた。
「でも、所長はいつ、自分が探偵だって名乗ったんですか?
やっぱり、最初の依頼の時ですか? 私はその時の事、全然知らないですよね?」
「まあ、出会ってないし」
「知りたいです。所長の、初めての依頼がどんなのだったのか」
「……初めての依頼、か」
あれは――――今思っても、不可解な案件だった。
けれど、俺に取っては忘れられない依頼。
『彼女』は今、何処にいるんだろう。
まだ『あの場所』を目指して、準備をしているんだろうか。
ふと、そんな事を思い出しながら、俺は沈む夕日の中に、その依頼の景色を描いていた。
本編へ 次話へ