にゃっほー。
みなさんボンジュール?
最近、猫カフェにハマっていて、助手から呆れ気味の視線を浴びてる狭間十色だ。
昨日も、閉店ギリギリまでいたし。
動物はいいね!
可愛いは正義だね!
日頃の業務で疲れ果てた脳をとろけさせてくれる。
とろけすぎて、思わず携帯忘れてきちゃった。
あとで取りにいかないと……
《ジリリリリリリリリリリリリリリリリ》
おおう、早速お忘れ物の連絡か?
一応、携帯に事務所も登録してるしな。
まあ、それより依頼の電話の方がありがたいんだけど。
中々大きな依頼が舞い込んでこないんで、まだ生活キツキツだしな。
できれば、大金持ちのご婦人から簡単な依頼が……ってパターンが望ましい。
『ワタクシの大事な一億円の指輪がなくなったザマス! 見つけてくれたら一割払うザマス!』
とか。
で、指輪はそのマダムの飼い犬が自分のハウスに持って行ってた、って感じのオチ。
これならコストパフォーマンスいいのになあ。
多分3分で見つけられるから、時給2億。
時給2億円ですよ!
良い響きだ。
でも、現実的にはその10万分の1が関の山。
世知辛いよのう。
《ジリリリリリリリリリリリリリリリリ》
っと、早く取らねば。
ちなみに今日は休日。
もうすぐ昼食時だけど、胡桃沢君はまだ来ていない。
自由参加みたいなモンだから、来てなくても文句を言う事はない。
飽きられたんだとしても、それは仕方ない事だ。
寂しいけど。
さて、電話……と。
「はい、【はざま探偵事務所】です。ペットお預かりからペット捜索まで、
あらゆるペット依頼をお引き受けします!」
……って、これじゃペット探偵じゃん!
なんか、ペット感覚で色々させられる探偵みたいでちょっとヤだぞ。
少女マンガとかにありそうだ。
「……」
と――――紹介の不備にアレコレ反省している最中にも、
電話の主は一切声を発してこない。
引かれたか?
うーん、折角の依頼の電話で引かれるのは辛いな。
機会損失が致命傷になりかねない職業だから……
『面白い探偵さんですね』
……あん?
電話口から聞こえて来たのは、機械的に加工された声。
これは……ボイスチェンジャーか?
しかも、聞き覚えのあるフレーズだった。
もう結構前の話になる。
ある女子が、この探偵事務所に電話をかけてきた時の事。
彼女は、人類を滅亡させたいという願望を口にした。
でも、それは実際の願望じゃなかった。
それを見抜いた俺は、彼女の本当の依頼を解決に導き、そして彼女は今、
この事務所に出入りしている――――
「……胡桃沢君?」
その子の名を呼ぶ。
ったく、なんでこんな事を……暇潰しか?
『いいえ違います。私は胡桃沢水面ではありません』
「いや、他に可能性ないし」
『探偵さんらしくない返答ですね。全ての可能性を考慮しましたか?』
ほーう……ケンカ売ってきましたよ、この子。
いいでしょう、買いますよ。
最近、所長と助手という関係に慣れて、ちょっとなあなあになってきた頃合いだ。
ここらで一丁、ガツンと探偵らしいところ、見せてあげましょうか!
「そうだな。それじゃお言葉に甘えて、君が胡桃沢水面ではない、と仮定しよう」
『はい』
「ならば、一つの疑問が湧いてくる。何だと思う?」
『わかりません』
自供に繋がる言葉は一切吐かない、か。
いいじゃないですか。
なら、遠慮なく攻撃を仕掛けさせてもらおう。
「ならば、別の質問をしよう。俺の第一声は、『ペットお預かりからペット捜索まで、
あらゆる依頼をお引き受けします!』だったね」
『はい』
「それに対する君の第一声は、少し間を置いて『面白い探偵さんですね』。これは少しおかしい。
間を置くって事は2つのケースが考えられる。驚いて引いたか、言葉を吟味したか。
前者の場合だったら、猜疑心が湧く筈だ。一応探偵事務所は名乗った。でも、本当に
健全な事務所なのか? そもそもちゃんとした探偵なのか? そんな不安や疑念が前に出る。
その場合、発するべき内容は確認だ。『探偵事務所ですよね?』とか
『すいません、やっぱりいいです』とか。黙って切るのもアリだ」
『なるほど。確かにそうかもしれません』
「でも、君は『面白い探偵さんですね』と答えた。どちらかっていうと好意的だ。
なら必然的に、後者に傾く。この変な事を言う探偵に、なんて第一声を送るか。
もしかしたら、事前にそれは用意していたかもしれない。事前に用意してた言葉を
別の言葉に代えたのかもしれない。何にしても、思案が必要だから間を置いた」
『でも、いったんは狼狽えたけど、持ち直して紳士淑女的に回答しただけかもしれませんよ?』
「そういう思考の流れを持つ人なら、ボイスチェンジャーは使わないね」
『……』
「そして、君は女性だ。紳士淑女的……まあ、表現としては珍しいよね。
紳士的、ならよく聞く言葉だ。敢えて淑女を加えるという事は、『紳士的』という
言葉に過剰な男性性を持っているからだ。男なら、そこには拘らない」
『そんなトコロにまで、気を付けないといけないんですか。探偵さんと話す時には』
「普段からこんな細かい所にまで目を向ける訳じゃないよ。仕事だからやってるんだ」
きっと、世の探偵の殆どは、細かい所が気になるタイプの人なんだろうけど、
俺の場合はそんな性格じゃない。
でも、推理が下手なんだから、洞察くらいは出来ないと話にならない。
そして哀しいかな、今日の探偵は推理なんかより洞察の方がよっぽど役立つ。
推理力を問われる依頼、来ないし……
「って訳で、もう一つ付け加えると、『面白い探偵さんですね』は胡桃沢水面が
最初にこの事務所に電話をくれた時の第一声だ。トレースしたと考えれば、
自ずと答えは出る。そもそも、ボイスチェンジャーの時点で有力だし」
誘拐犯じゃあるまいし、依頼人が声を変える必要なんてない。
あんなモノを使う人間は、かなり限られる。
最初から『私は胡桃沢です』って言ってるようなもんだ。
さて――――どう出るか。
『探偵さんって、スゴい職業なんですね』
それは、明瞭な回答だった。
『あの時』と同じ言葉。
当時の胡桃沢君が初めて発した、『自分の言葉』だ。
つまり、彼女である事の証明。
俺はそう受け取り、電話の主を確定させた。
「……で、結局何だったの? この電話は。体調悪くて来れないから、
ちょっと様子を確認するついでにからかってみました、とか?」
『いえ、違いますよ』
あれ? 違うのか?
それ以外に何があるか――――
『私は胡桃沢水面じゃありません』
ドクン。
そんな心臓の撥ねる音が、クリアに耳を脅した。
彼女は間違いなく、胡桃沢君の筈。
それを証明する言葉を、自ら紡いだんだから。
なのに、その直後に否定。
もう、嘘を吐く意味がない事もわかっているだろう。
彼女は意地っ張りな所もあるけど、賢い。
引き際は心得てる。
これ以上、茶番劇を続ける必要性はない。
その人物像が、俺の中に緊張を生み出した。
ある筈のない事。
これは――――異常事態だ。
そんな緊急警報が、頭の中でサイレンになって鳴り響く。
「……詳しく話を伺いましょう」
敢えて敬語で、俺は相手の意図を尋ねた。
『やっぱり探偵さんはスゴいです。冷静ですね』
「探偵は何時如何なる時も冷静でなくては務まりませんので」
『そうですね。では……何から話しましょう。余り時間は取れないんですけど』
「差し支えなければ、貴方の正体など」
電話越しに聞こえてくるのは、ボイスチェンジャーで加工された特定不能な声。
でも、そこに怪しい雰囲気は余りない。
電話口の『彼女』は余りにも、自然すぎる。
探偵って職業をしていると、洞察力は自然と培われてくる。
その中で特に身につくのが、『全体像を捉える能力』だ。
全体像ってのは、簡単に言えば『総合的判断』。
物事を局地的、部分的に見て判断するんじゃなく、全体的に捉えて判断する力だ。
例えば、電話対応にしてもそう。
以前の事件を例に挙げよう。
かつて、この事務所為に『ストーカー被害を訴える』電話が鳴った事がある。
その時、俺は胡桃沢君に判断を仰いだ。
胡桃沢君は、その証言の一つ一つを各個分析して、推理していた。
勿論、これは大事な事だ。
でも、それ以上に大事なのは、その人の『全体像』を見極める事にある。
電話口の彼女は、どんな様子だったか?
なんとなく、疲れてるような声だった。
不安がっているようにも思えた。
その一方で、助けを求める人特有の高揚感も見られた。
これらが、全体像だ。
そこから俺は、この電話の内容が『彼女にとっては』真実なんだと判断した。
けれど、実際に中身を一つ一つ確認してみると、どうも嘘っぽい。
という事は、『彼女は本当だと思っているけど、実際には間違い』という証言になる。
だから俺は躊躇なく『妄想』と判断した。
こういう洞察が、探偵には必要だ。
で――――この『胡桃沢君じゃないという胡桃沢君』。
全体像は、困った事に胡桃沢君っぽくない。
彼女の科白を一部引用してはいるけど、従来の彼女――――物腰柔らかで、
でも俺に対しては最近親しげな態度を示してくれるようになった彼女とは、全体像が異なる。
それは、胡桃沢君が初めて事務所に電話をかけてきた時の印象とも異なる。
この『彼女』からは、言葉の節々に客観性が強く出ている。
まるで、自分の事じゃないような、そんな話し方。
それは、胡桃沢君っぽくない。
でも――――彼女の過去の言葉を引用している以上、彼女は胡桃沢君の可能性が高い。
一体どういう事だ?
『私の正体、ですか』
「ええ。宜しければ教えて頂きたい。探偵事務所では、依頼人の顧客情報は
最初に教えて頂くものですから」
『わかりました。ではお教えしましょう』
幸いにも、了承を得た。
さて、どう応える……
『私は、胡桃沢水面です』
「……」
『どうしました? 探偵さん。私は言われた通り、自分の正体を明かしましたよ?』
沈黙する俺に、胡桃沢水面を名乗った電話口の彼女は、何処か挑発するような物言いで
こちらにリアクションを求めてくる。
……さて。
ついさっき、『私は胡桃沢水面じゃありません』と言った同一人物が、
舌の根も乾かないうちに『私は、胡桃沢水面です』、か。
いよいよもって、ミステリーだな。
この探偵事務所を開設して以来、一番ミステリーっぽい展開だ。
胡桃沢君の虚言じゃないとしたら、これは相当厄介な問題だぞ。
赤の他人ならまだしも、助手として昨日まで普通に接して、普通に生活していた
彼女の、この明らかに妙な電話は、一体何を意味するんだ?
――――まずは考えよう。
探偵の武器は頭脳だ。
寝てさえなけりゃ、戦える。
とはいえ、彼女が嘘を言っていない事を前提とすると、かなりの難題だ。
二律背反、ダブルスタンダード的な発想があるとすれば、そこに矛盾するものが
混在するという事はある。
でも、この場合は幾らなんでも直接的すぎる。
自己証明に関する矛盾。
まるで『嘘つきのパラドックス』だ。
これは、よくショートショートとかパズルなんかで出てくる問題。
例を挙げてみよう。
Q:A、B、Cの中で一人だけ本当の事を言っている人がいます。誰でしょう。
A「僕はBと愛し合っている。すまない、こっちに来ないでくれないか」
B「AはCの恋人だが昨日この俺にファックされた。言っとくが俺達はアブノーマルだ」
C「私はBと愛し合っている。\アッカリーン/」
このQの場合、誰が本当の事を言っているか。
興味のある人は、検証してみてくれ。
特に興味のない人は読み飛ばして欲しい。
……回答だ。
Aが本当ならば、『AとBは恋人。そしてホモ』。
Cの性別や性癖はわからない。
で、Bの発言が嘘なら――――
『AとCは男女の仲ではなく、Bにファックもされていない。AとBはノーマルだ』
って事になる。
Cの検証をするまでもなく、矛盾が生じてるんで、×。
Bが本当ならば――――
『AとCは恋人、しかしAはBと浮気。Bは男、ノンケなんでお相手のAは女。AもノーマルなんでCは男』
となる。
で、Aが嘘なら、『AとBは愛し合っていない。ホモじゃない』となる。
一見矛盾に見えるが、浮気なんで愛し合ってなくても成立する。
Cの場合は『BとCは愛し合っておらず、Cはノーマル』。
矛盾はなく、普通に成り立つ。
Cが本当なら、『BとCはレズ関係』だが、Bが嘘の場合『AとBはノーマルだ』と
ならなければならないので×。
よって、Bが本当の事を言っていて、あとは嘘、という結論になる。
――――と、こういうのがそうなんだけど、今回の場合はここまで複雑じゃないし、逆に難しい。
私は胡桃沢水面である。
私は胡桃沢水面ではない。
これを同時に満たす必要がある。
嘘つきのパラドックスとは違う方法で、この一見矛盾のような主張を解かないといけない。
考えられるのは――――二重人格。
正確には、解離性同一性障害。
この場合、『私は胡桃沢水面であって胡桃沢水面ではない』、というのは成り立つ。
妥当な結論だ。
……身近に、二重人格者がいなければ。
かつて【はざま探偵事務所】に寄せられた依頼の一つで、知り合いになった女の子、白鳥和音。
彼女には、『白鳥三和』というもう一つの人格がある。
典型的な解離性同一性障害だ。
この障害の有病率は、正式な数は不明だけど、一説によると病院に行っている人の中だけでも、
全人口の0.1%ってデータがある。
多分、実際には病院に行ってない人がこの倍以上いるだろうけど、病院に行っている人の中には
実際には多重人格ほど酷くはない、という人もかなりいるだろうから、仮にトントンとして0.1%。
ということは、全人口の1000人に1人。
『こんなに多いの?』とは思うけど、1000人に1人となると、俺の身近に2人もいるという事は
到底考えられない。
つまり、胡桃沢君が多重人格者である可能性はゼロに限りなく近い。
次の案。
『この世は人間の与り知らない所で、微小な時間で生まれ変わり続けている』
という説が本当だった、ってのはどうだろう。
つまり、一秒後の世界は、今のこの世界とは別のものになっている、って説だ。
トンデモ理論にしか思えないけど、実は結構根強い人気を誇る説。
有名な話に、『この世は誰かの脳が見ている幻想世界』というのがあるけど、
それに近い説だ。
胡蝶の夢とも近い。
で、何が言いたいかというと、『今の胡桃沢君と、一秒後の胡桃沢君は別の世界の住人だ』
ということを、彼女が言いたかったんじゃないか、という案。
何しろ、人類滅亡の可能性を質問してきた女。
これくらいの理論を振りかざしても不思議じゃない。
……とはいえ、これまでの彼女の言動や挙動を考えると、そんな説を信じているとは
到底思えないし、可能性としてはゼロと言えるだろう。
うーん、難しい!
これは【はざま探偵事務所】始まって依頼の難事件だ。
仕方ない、不本意だけど、ヒントを貰おう。
「胡桃沢水面さん、幾つか質問していいでしょうか?」
『はい。いいですよ』
今の返事から察するに、『今は』胡桃沢君なのか。
まあ、それは今は置いておこう。
「一応、念のために聞くけど……二重人格じゃないですよね?」
『違います』
予想通り。
「貴女は、胡桃沢君の時と、胡桃沢君じゃない時の両方を経験していますか?」
『いいえ』
……ま、そうだよな。
さて。
これらの質問は、俺のあり得ない仮説を確認する為のものだったけど、
目的はそれだけじゃない。
さっきもちょっと触れた『全体像』を確認する為だ。
厄介なコトに――――やっぱり彼女はどうも、胡桃沢君じゃないっぽい。
一つ一つの返しが、余りにも素っ気ない。
何より俺のコトを『所長』と呼ばない。
これは、ここ最近の彼女の傾向とは大きくズレている。
なのに、胡桃沢君自身の過去の言葉を引用して、自分を『胡桃沢水面』と証明している。
……考えられる事は、2つ。
彼女が、デタラメを並べ立てている。
彼女と記憶を共有する何者かが存在する。
前者の場合、それが『意図的』か、『仕方なく』か『無意識』かによって、全く異なる。
なので、4つのパターンを考えよう。
まず、『デタラメを言っていて、それが意図的』な場合。
つまり、『彼女は嘘を吐いていない』という前提を覆す事になる。
何で、こんな嘘を吐く必要があるのか。
単なる暇潰しで、俺をからかっている?
これは、あり得ない。
この時間帯は、依頼の電話が鳴る可能性が(高くはないけど)ある。
邪魔をするような胡桃沢君じゃない。
これは考えなくて良いだろう。
次は『仕方なくデタラメを言っている』場合。
何者かに言わされている、って事になる。
考えられる動機は……嫌がらせか。
とは言え、商売敵もいない、こんな場末の探偵事務所に、そんな嫌がらせする人が
いるとも思えないし、何より方法がおかしい。
よって、あり得ない。
うう、自分で自分を論破するのがこんなに虚しいとは……
一瞬、先日この探偵事務所にやってきた胡桃沢君のお騒がせクラスメート
一条有栖の名前と顔が浮かんだけど、彼女なら直接この事務所に乗り込んでくるだろう。
なので、ボツ。
3つめ……『無意識にデタラメを言っている』。
この場合、彼女の精神状態がまともじゃない、って事を意味する。
これもないだろう。
急性の精神疾患はない訳じゃないけど、こういう発病の仕方は無理がある。
そもそも、電話口の彼女は至って冷静沈着だ。
冷静すぎるほど。
なので、4つめの可能性が浮上する。
『彼女と記憶を共有する何者かが存在する』
二重人格の話じゃない。
本当に、別の人物が存在する。
例えば、彼女が自分のエピソードをよく話すような存在だ。
それなら、彼女の過去の科白を引用しても、不思議じゃない。
最初はその人が電話をしてきて、途中で入れ替わって、今は胡桃沢君本人。
俺をからかう為のトリックだ。
これなら、一応の理屈は成り立つ。
今の胡桃沢君の全体像が彼女の本来の人格と異なるのは、
俺がそうと気付かないように別人っぽく演じている――――
「いや、これじゃデタラメ言ってるのと同じじゃん!」
『はい?』
「あ、こっちの話です」
からかってやってるんなら、結局は『依頼の電話の邪魔になる』という行為になる。
それは、彼女の性格上あり得ない。
つまり、4案全てボツ、って事になる。
くっ……こりゃ本気でお手上げだ。
全て俺の考えすぎて、実はやっぱり単に俺をからかってるだけ?
それとも、胡桃沢君の身に何かが起こってる?
『探偵さん、どうしました? 沈黙が長いですよ?』
電話口からは、またも彼女らしくない、挑発的な言葉。
惑わされるな。
考えろ。
俺は探偵だ。
探偵が、助手の奇妙な行動を推理できなくてどうする。
この場合、分析は難しい。
これまでの俺の思考は、彼女の日常やパーソナリティを前提にした『分析』だった。
でも、それは限界がある。
ここからは、推理の領域だ。
推理は、前提をも排除する。
俺はそう位置づけている。
だから苦手なんだ。
前提のない思考は、いわば知らない場所を足下も見ずに歩くようなもの。
それでも、ここでは推理こそが唯一の解決方法だ。
全ての先入観を打ち消せ。
全ての条件を白紙に戻せ。
そして、この現実を直視するんだ。
今日は休日。
当然、学校は休み。
胡桃沢君は登校していないから、いつもなら朝早くこの事務所に来る。
でも、今日は来ていない。
時間帯は、もうすぐ正午。
そんな中、事務所に電話が掛かった。
ボイスチェンジャーで変換した機械的な声。
……待てよ。
まず、ここが変だ。
そうだ、この時点で変なんだ。
先入観をなくした事で、やっと気付いた。
ボイスチェンジャーを使って、探偵事務所に電話する。
俺はこの行為に関して、余りにも簡素に決めつけていた。
『以前、胡桃沢君が使った手』だという先入観のせいで、これは彼女の仕業だろうと
タカを括っていた。
そこまではいい。
『彼女が胡桃沢君じゃないかもしれない』って時点で、ここをまず再考しなけりゃいけなかった。
ついつい、彼女が一度使っていた事で、ボイスチェンジャーを使われる事は
ない事もない、という先入観が残存してしまった。
明確な理由もなく、こんなモン使うヤツはいない。
もし、電話の主が胡桃沢君じゃないとすれば、ボイスチェンジャーを使う理由は限られる。
身元を明かすつもりがない、という事。
プライバシーの侵害を防ぐ為か、脅しや中傷などに使用するのが常だ。
この電話はどうだ?
その類のものか?
可能性として挙げられるのは、俺を混乱させる為のイタズラ電話だけ。
中傷も脅しもされてないからな。
となると、『彼女とエピソード記憶を共有する何者かが、イタズラ電話をしてきている』となる。
何せ、胡桃沢君の過去の科白が二度も引用されている。
本人じゃないなら、そういう事になる。
唯一、これだけが『胡桃沢君でない場合の可能性』だ。
勿論、『エピソード記憶を共有する何者か』なんて、天涯孤独に近い胡桃沢君にいるとは
思えないけど、この可能性を完全否定できる材料もない。
同時に、『この電話は胡桃沢君からである』という可能性も。
つまり――――確率は1/2。
厳密には異なるけど、表面状はそういう事になる。
ボイスチェンジャーで隠れた声の主は、胡桃沢君かもしれないし、
エピソード記憶を共有する何者か、かもしれない。
確率は1/2。
「……1/2、か」
そうか。
わかった。
なら、『もう一つ』彼女の口から発せられるべき科白がある。
特定の科白じゃないけど、特定の場面の科白のどれかだ。
しかも、これまでとは系統が異なる科白になる筈だ。
俺の推理が正しいなら。
その確証を得る為、思案を練る。
……よし、これでいこう。
『あの……?』
「ゴメンゴメン。ちょっと考え事してたんだ。ところで、君の耳飾り、
前々から思ってたんだけど、可愛いよね。昨日も猫カフェに行って、再確認したんだけど
やっぱりネコ耳はいいよ。確か、君のその耳飾り、ネコ耳だったよね?」
そう問い掛ける俺に対し、胡桃沢君は――――
『ネコ耳です。ネコです。ネコの耳です。もふもふしてないでしょう?』
明らかに不自然な肯定をした。
けれど、これは『予想済み』の回答。
前フリで誘導した、と言ってもいい。
「ありがとう」
俺は含み笑いをしながら、次の言葉を伝える。
「探偵の業務は遂行された」
誰も見ていない所で、俺は左手人差し指をピン、と立てる。
なお、この科白とポーズは、『謎は全て解けた』とか『真実は一つ』とか、
その手のモノと同じと考えて欲しい。
……いつか流行ると良いな。
『本当ですか?』
「勿論。だから、今回の事件の真相を語るのは明日に回そう。これからやる事が多いからね。
何せこれは、【はざま探偵事務所】始まって以来の重大事件だ」
――――正直言うと。
今俺の手は、冷や汗で濡れている。
自分の推理がまとまった瞬間、鼓動が速くなっていた。
緊張状態だ。
それでも、呼吸だけは乱さないように極力務め、解決の体裁を整える。
きっと、明日にでも書く報告書を読んだ人の中で、このエピソードの真相に
素早く気付ける人は、そう多くないだろう。
それくらい、厄介で難解な一件だった。
そして同時に、俺は胡桃沢君の想像以上の『機転』と『信頼』に震えた。
……さて。
「それじゃ、また後で」
俺は急いで受話器を置いた。
※参考資料:スリーパー・エフェクティブ
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