何の前触れもなく起きる出来事なんて、この世にごまんとある。
 だから、伏線や前フリがなくても、俺達は現実に起こるいろんな問題や
 悲劇に対して、向き合っていかなくちゃならない。
 出来の悪い物語であっても、それが生まれてきた使命なのだから。
 それでも――――世の中には、どうしてもガマンできない事がある。
 それは、理不尽と呼ばれる種類の現実。
 余りに唐突すぎて、予知の余地すらない出来事。
 例えば今、目の前で毅然とした態度で自己主張している、一枚の紙に記された
 内容も、その一つじゃないかと思う。

『突然ですいません。助手を辞めさせてもらいます。許して下さい 胡桃沢水面』

 実に短い文章の中に含まれている要素は、全て自己の主張。
 こっちの許可を一切確認しない書き捨ての置き手紙。
 そんな一枚の紙切れを残し、胡桃沢君は我がはざま探偵事務所を去った。
 もちろん、こんな理不尽な辞め方を受理する気はないけど、彼女が
 ここにいない以上、俺の許可なんて関係ない。
 彼女がここへ来ない限り、在籍しているかどうかなんて意味を成さないのだから。
 正式な契約を交わしている訳でもない。
 押しかけという形で、いつの間にか定着していただけの関係。
 それを解消する手段が紙切れ一枚だとしても、そこに違法性はない。
 置き手紙がある以上、事件性も。
 ただ――――理不尽だ。
「……あの馬鹿」
 ため息混じりに、俺はその置き手紙を折りたたんで、ゴミ箱に放った。
 ここがIT企業や清掃会社だったら、新しく人を雇う準備を始めるんだろう。
 でも、ここは探偵事務所。
 しかも、とびきりの貧乏事務所。
 あらためて正規の方法と相場に応じた給料で助手を雇う余裕なんてないし、
 独り身に戻る以外に選択肢はない。
 そう。
 ここは探偵事務所。
 そして俺は探偵だ。
「下らない事件を起こしやがって」
 よって、俺の管轄内で『助手失踪事件』が勃発した以上、解決する責務がある。
 彼女の意思を問うのは、その後だ。
 見つけた後に、あらためて助手を辞めたいというのなら、受理するしかない。
 でも――――そうじゃないと、俺は信じている。
 信じたいだけかもしれないけど。
 少なくとも、書き置きだけで出ていくほどの浅い関係性じゃなかったと
 客観的な分析が可能なくらいの時間は経ていると信じたい。

 ――――さて。

 あらためまして諸君、久し振り。
 はざま探偵事務所所長、狭間十色だ。
 今回の事件は、少々気が重い。
 報酬はないし、解決した後に別れが待っているかもしれない、
 ハイリスクローリターンな案件だ。
 それでも。
 そこに嬉々として首を突っ込むのが、探偵であると――――俺はそう思っているので
 少しの間つきあって欲しい。

 


「すいませーん。ちょっといいですか?」
 というわけで、まずやって来たのは――――胡桃沢君の通う学校。
 彼女のクラスが学級崩壊しかけた時に、間接的に関わった事があるけど、
 直接乗り込むのは初めてだ……と思ってたら、一回来た事がある。
 以前、ハーレム野郎が依頼してきた時の潜入捜査で潜り込んだ学校だ。
 野郎と同じ高校だったのか、胡桃沢君。
 まあ、この辺に何個も高校があるわけじゃないからな……当然か。
 そんな事はさておき、問題はどうやって潜入するかだ。
 現在、真っ昼間なんで当然、校内は昼休み。
 潜入はし易い状況なんだけど、私服では流石にダメだ。
 制服が要る。
「仕方ない。あのハーレム野郎に頼むか」
 依頼人の電話番号は携帯に入ってる。
 アイツ……名前はもう忘れたけど(登録名もハーレム野郎)、
 今も5人の女子とよろしくやってるんだろうか。
 あんなのに協力を要請するのは心底イヤだけど、この際仕方ない。

『留守番電話サービスに接続いたします』

 ……真面目か!
 あのハーレム野郎、電源切ってやがる!
 ったく、女一人決められない野郎が律儀に学校で携帯の電源切るなんて……
 いや、貞操観念と遵法精神は必ずしも比例しないんだけどさ。
 仕方がない、作戦変更。
 あんまり気は進まないけど、胡桃沢君のクラスメートに連絡して
 彼女の様子を教えて貰おう。
 俺は履歴の中から『喪女』をセレクトし、コールした。
 先日、俺に相談してきた黒羽根さん。
 彼女は胡桃沢君と同じクラスだったから、近況は彼女に聞けば……

『おかけになった電話をお呼びしましたがお出になりません』

 ……着信拒否かよ!
 あの女、やりやがった!
 こっちは親身になって相談に乗ったってのに……なんて女だ。
 いつかバッタリ道で会ったら無言でボマイェかましてやる。
 ま……それはいいとして、知り合いに連絡がつかない以上、
 ここにいても意味がない。
 下手したら通報される。
 学校は放課後にまた来るとして、別の所を先に調査しよう。

 


 ……で、次の調査対象は――――胡桃沢君の実家。
 彼女に性的な嫌がらせをしようとしていた叔父のいる、この上なく
 胸くそ悪い家だ。
 とはいえ、ここはどうしても避けられない。
 彼女は俺の事務所に来てからもずっと、この家で寝泊まりしてるんだから。
 夜に寝に帰るだけ、なんだけど。
 だから――――
「すいませーん。市役所の者なんですけどー。土地区画整理事業についての
 御相談に参りましたー」
 ――――と、俺は声色を変えて家の中へと呼びかけている。
 何しろ、あの叔父に対して俺は一度インテリヤクザとして接している。
 そのままの声だと出てこない可能性が高いんで、公務員に扮して
 出てきて貰おうって算段だ。
 区画整理と聞けば、無視はできないだろう。
 もし、この家が道路の拡張で立ち退きになれば、余所に新品の家を
 建てる事ができるだけの補償金が交付される可能性がある。
 家に思い入れがある場合は、不本意な立ち退きを要求されるケースでもある。
 話だけでも聞いておきたい筈だ。
 また、可能性としては低いけど、ここに胡桃沢君本人がいる可能性も当然ある。
 そうなると、やっぱり俺の普段の声だと状況的にまず出てこない。
 なんで、どっちにしても別人の声色になる必要はあった。
 けど――――努力の甲斐もなく、誰も出てこない。
 留守みたいだ。
 いや……別の可能性もあるな。
「お隣の方ですか?」
 というわけで、今度は隣の住民に胡桃沢君の叔父の所在を確認した。
 引っ越した可能性もあるからだ。
 何しろ、ヤクザに目をつけられていると思い込んでるわけで、
 そうなると一刻も早く街から逃げ出したいと思う方が自然だ。
「さあ……ご近所づきあいがまったくありませんでしたから……」
「引っ越したとか、そういう話も聞いていませんか?」
「ええ。すいませんね、お力になれなくて」
 主婦と思しき中年女性の丁寧な対応に感謝し、俺は頭を下げて
 その家を出た。
 さて……いきなり面倒な事になってきたな。
 まあ、あの男の行く末はどうでもいいけど、胡桃沢君の手がかりとして
 最有力だった人物がいないとなると、厄介だ。
 他に彼女との共通の知人となると――――
 一人いた。
 ただ、彼女にはつい最近生じたばかりの問題が一つある。
 といっても、それを警戒して接触しない、なんて選択肢はない。
 というわけで、再び場所移動。
 今度は――――白鳥家だ。
「和音ですか? 部屋にいると思いますけど……」
 かつて和音を虐待していた母親に心の中で唾棄しつつ、
 二階にある彼女の部屋へと向かう。
 胡桃沢君がここにいる可能性は薄いけど、何か和音に話した可能性はある。
 和音には心を許しているように思うからだ。
 同居する親類にイヤな目に遭わされたって共通点があるからこそ、
 彼女等は直ぐに仲良くなった。
 なら、俺に話せないような何かを和音に話しているかもしれない。
 ただし……今の和音が別人格の三和なのか、若しくは最近明らかになった
『第三の人格』なのかはわからない。
 注意が必要だ。
「はざま探偵事務所の狭間十色です。和音さん、いますか?」
 俺は集中力を高め、和音の部屋をノックした。
「なーに? そのあらたまった話し方。なんか可笑しー」
 声の主は――――三和だった。
 声色が同じでも、調子と内容で直ぐにわかる。
 それくらい、和音と三和の人格はかけ離れている。
 ま……語尾で誰でも判別つくんだけどさ。
「いるんなら入るぞ」
 俺は少しイライラしながら扉を開いた。
 と――――ここで告白すると、俺にはこの時全く余裕がなかった。
 そりゃそうだろう?
 胡桃沢君が失踪したんだ。
 平常心でいろってのはムリな相談だ。
 だから、それは言い訳として成立すると思いたい。
 ただし、言い訳にはなっても免罪符にならない事は承知している。
 ――――部屋の主に許可を得ず扉を開けてしまった事への。
「……」
 俺は扉を開けた瞬間、固まってしまった。
 目の前には下着姿の白鳥和音。
 いや、今は三和か。
 いやいや、そんなのはどうでもいい。
 問題は色だ。
 緑……ってどうなのよ?
 女性の下着で緑なんて見た事ないぞ。
 いや、実物自体殆ど見た事ないけどさ。
 それ以前に……ああっ、今はそんな事考察してる場合じゃない。
「す、すまない」
 俺は思わず紳士の謝罪言葉を使い、目を伏せた。
「あはははは! なーにが『すまない』よ! どこの大根役者なのよ貴方!」
 結果、ケラケラ笑われた。
 恥じる様子が一切ない事から――――
「……わざと下着姿のままでいたんじゃないだろな」
 俺は眉間を押さえつつ、乱暴に扉を閉めた。
 勿論、部屋の外から。
「ま、どんな反応するのか見てみたい気持ちは少しあったけど、基本偶然よん。
 ちょっと買ったばっかのヤツ試着してただけ。オナニーしてた訳でもないから」
「お前……」
 三和があけすけな性格なのはわかってたけど、思った以上だ。
 聞いてるこっちが恥ずかしい。
「はーい、着替えました。どぞー」
「ったく……って、お前な」
 俺は扉を開けた瞬間、固まってしまった。
 目の前には下着姿の白鳥和音。
 いや、今は三和か。
 いやいや、繰り返してどうすんだこんな事。
「あれ。二回目はリアクション薄っ」
「それはそうだろ。いいから服を着てくれ……」
「なんか今日の探偵さん、キレがないね。もっといつもはズバッて切り込んでくんのに」
「お前は逆にハイテンション過ぎるっつーの」
 目眩がしそうになったんで、その場に座り込む。
 もう下着姿でもなんでもいい。
 やる事やって、とっとと出て行こう。
 ……って、なんか卑猥だな、言葉だけ抜き取ると。
「別にハイって訳でもないんだけどさ、最近息抜きできてなかったから
 ちょーっと閉塞感あったんだよねー。こういう刺激も偶には必要かなって」
「お前の日常にハリを提供できたんなら、お礼代わりに俺の質問に答えてくれ」
「ああ、どうせ胡桃沢さんの事でしょ?」
 しれっと、三和はそう答えた。
 予想通りって顔で。
「……知ってたのか? 彼女が失踪した事」
「え? 失踪したの?」
 ……いかん。
 俺、相当動揺してるな。
 こんなカマかけに引っかかるなんて……
「貴方があたしに何か聞きに来るなんて、あの子の事くらいだろって思っただけなんだけど」
「まあ、その通りなんだけどさ……」
「どしたの、頭抱えて」
 抱えたくもなる。
 これでも最近ちょこちょこキャリア積んできて、事件も解決して、
 探偵としての自信を自分なりにつけてきた矢先だってのに。
 まるで成長できてないじゃねーか。
 情けなさ過ぎるぞ、狭間十色。
 助手に逃げられただけで、ここまで冷静さを失うか?
 俺はもう、この道を生きるしかないってのに、その道がここまでグラグラだと
 どうしようもないぞ。
 しっかりしないと。
 目を覚まさないと――――
「……三和」
「何?」
「俺の頬をベシッて叩いてくれ」
 言い終わる直前――――火花が散った。
「痛ったーーーーーーーーーーーーーーーー!!! 何すんだよ!」
「いや、叩けって言われたし」
「ベシッ、っつっただろ! 今のはビッシィィィーーーーーーッ! って感じだ!
 しかも反応が早すぎるだろ! まるでそう言われるのを待ってたかのようにさ!」
 まだ目がチカチカするし、頬がヒリヒリするし、口の中をちょっと切ったみたいで
 鉄の味が充満している。
 目は覚めた。
 覚めたけど、三倍の怒りがこみ上げてきた。
「まー、そう怒りなさんなって。で、胡桃沢さんが貴方に愛想つかして
 失踪したんだって?」
「余計な修飾語を付け足すな。失踪しただけだ」
「でも、愛想尽かす以外に理由なんてある? あの子、実家にも帰れない
 身だし、そもそも自分から手伝うって言ったんでしょ?」
 そんな事まで話してたのか、胡桃沢君。
 どうやら三和……じゃないな、和音に心を開いていたのは本当みたいだ。
 なら、この居心地の悪い空間にしばらく居続けてでも、情報収集する
 だけの価値はありそうだ。
「心当たりはないか? 俺に愛想つかしてた、って話でもいい。
 胡桃沢君が失踪しそうな動機に、何か思い当たる記憶はないか?」
「……」
 三和は黙り込み、俺の目を凝視してきた。
 睨むってよりは、値踏みするような、観察するような目。
 今更、俺を試してるのか?
 ならいい。
 俺自身を見せるだけだ。
「ちなみに、俺はお前が九割方、何かを知ってると思ってる」
「へー。つまり、あたしが胡桃沢さん失踪事件の鍵を握ってるってワケ?」
「そういう事だ」
 俺に対する三和の視線は変わらない。
 ただし口元だけ綻ばせ、少し顎を引いた。
「参考までに聞かせて欲しいんだけど……どしてそう思うの?」
「妙に俺の気を殺ごうとしてるから。その下着姿にしてもそうだし、
 さっきの平手打ちにしても。お前は何か、俺に話したくない事がある。違うか?」
「それだけだと、なんの説得力もないんだけど」
「じゃ、一つ追加。さっきお前はこう言った。『貴方があたしに何か聞きに
 来るなんて、あの子の事くらいだろって思っただけなんだけど』。これは妙だ。
 俺は和音と胡桃沢君が親しいのは把握してるけど、お前と胡桃沢君の関係は
 よく知らない。『貴方が和音に何か聞きに来るなんて〜』と言うべきだったな」
 俺のそんな指摘に、三和は少し目を見開いた。
「そんなの、最初からそういうニュアンスで言っただけのコトじゃない。
 あたしの身体は和音なんだから、あたしイコール和音なのよ」
「いいや違うな。お前と和音は別人だ。身体は同じでもだ。寧ろ、他の誰が
 そう認識していても、お前と和音だけは自分と別人格を同一視しない。だろ?」
 この部分に関しては、カマかけだ。
 でも、勝算はかなりある。
 多重人格者は、自分の人格と別人格の区別をしっかりつけてなくてはならない。
 そうでなきゃ、自己同一性が崩れる筈がない。
 自分は自分――――そう思ってなきゃ、他の自分の存在自体がウソになる。
 実際に複数の人格として存在していてもだ。
「……ちょっとだけ、探偵さんらしくなってきたかな?」
 三和は観念したかのように、緩慢な動作で服を着始めた。
 今の状態が、俺の気を殺ぐためだと白状したに等しい。
「気が進まないのよね。お友達の秘密を話すのって」
「……お前と胡桃沢君は友達なのか?」
「ま、和音の方が気は合うみたいだけど、虐待の記憶を持ってるのはあたしだからさ」
 服を着終えた三和は、少し病的なくらいに血色の悪い外見に似合わない、
 明るい色合いのフレアレーシーブラウスを見せびらかすように胸を張った。
「そうか。後からできた人格が、イヤな記憶を受け持つのか」
 人間には、苦痛となる記憶を忘却する事でストレスを緩和し、生きていく上で
 支障がないようにするシステムが備わっている。
 忘れるってのは、とても重要な作業だ。
 だけど、インパクトのある記憶は中々忘れる事ができない。
 だから、かなり無理をしてでも、生きていく為に忘れようとする。
 その無理ってのが、例えば解離性健忘だったり、新人格の形成だったりする。
 新しい人格に押しつける形で、その記憶をまるで他人事であるかのように
 自分自身に錯覚させ、ストレスを緩和させる。
 きっと、和音はそういうシステムによって、今まで生きて来れたんだろう。
「……お前は、胡桃沢君から何かしらの相談を受けてたのか?」
「さすが探偵さん、察しがいいね」
 フフン、と小悪魔的な笑みを浮かべる三和に、俺は一瞬怯んだ。
 彼女の表情は、どこか非現実的だ。
 全てを悟りきった、人間を超越したかのような顔に見える。
 俺は極力先入観を捨てて洞察に臨むよう心掛けているけど、彼女に対しては
 中々上手くいきそうにない。
 探偵の天敵――――かもしれない。 
「でも、それを貴方に言うかどうかは話が別。とってもプライベートな問題だから。
 貴方が彼女の恩人だってのは承知の上で、黙秘権を使わせて貰おっかな」
「つまり、お前が聞いた相談と、彼女が失踪した理由は少なからずリンクする」
「ええ」
 成程。
 話は大体読めた。
 彼女が突然失踪した理由がわかった。
「え? 何? いきなりホッとした顔してるけど、あたし何かバレそうな
 コト喋ったっけ?」
「ありがとう。助かった」
 俺は重大なヒントをくれた三和にお礼を言い、部屋を出ようとしたが――――
「……わかった。あたしの負け。全部話すから待って」
 三和のギブアップ宣言を受け、もう少し留まる事にした。
 ちなみに、今回はカマかけの為のブラフじゃない。
 ちゃんと事態は把握した……つもりだ。
「まいったなー。探偵さん、やっぱスゴい。あたしのエロエロな身体にも動じないし、
 一切核心に触れなかったのに手がかり見つけちゃうんだもんねー」
「そもそも下着のチョイスがおかしいんだよ、お前は」
「えー? 緑の下着ってエロくない?」
 いえ、全く。
 この辺の感覚は男女の意識の差以前の問題だと思う。
 さて……それはさておき。
「全部話してくれるんなら、せっかくだし聞かせて貰おうかな。情報は確度が
 高いに越した事はない。ただ、その前に一つ聞きたい事があるんだけど」
「何? 下着の色はもうバレてるし……」
 三和はずっと、俺を値踏みするような目で見ている。
 これも、彼女が何かを知っていると踏んだ理由の一つ。
 そして、これから話す『聞きたい事』を確信した理由の一つ。
 そう。
 俺はこれからする質問の答えを確信している。
 それでも聞くのは、探偵だからだ。
 探偵は、推理するのが仕事じゃない。
『依頼を果たす』のが仕事だ。
 俺はその為に、三和に問いかけた。
「お前は誰だ?」
 正確には――――三和じゃない誰かに。
「……」
 彼女の目が変わった。
 そして、確信は事実へと変わった。

 彼女が『第三の人格』だという事実へ。

「誰だ……なんてひっどいょ。女の子相手にその言いかた……なんかャ!!」
 突然、口調が変わった。
 三和――――でも和音でもない、第三の人格者。
 彼女はずっと、三和を演じていたんだ。
 でも、今はもう雰囲気が変わっている。
 戻した、と言った方がいいのかもしれない。
 今の彼女はのほほんとした和音でも、サッパリした三和でもない。
 間違いなく別人だ。
「やっぱり、お前は第三の人格なのか」
「ぉ前……も、なんかャ。初対面なんだから……もっと距離感!!」
 不敵に――――というよりガサツに笑う。
 やはり彼女は三和じゃなかったらしい。
 自分で指摘しておきながらも、俺はまだ少し半信半疑だった。
 一つの身体に人格が三つ。
 実はこの現象、レアではあるけど異常な事ではないらしい。
 白鳥和音と三和に出会ってから、俺は少し二重人格について調べてみた。
 そもそも『二重人格』って認識自体が誤りらしい。
 いや、実際には二重人格って言葉もあるし、そういう人も存在するんだけど、
 解離性同一性障害における人格の区画化は、必ずしも二重、つまり二つの人格に
 別れるだけとは限らない。
 寧ろ三つ以上の人格になるケースが多い。
 二重人格も多重人格の一つである以上、『多重人格』ってのが正しい言葉であって、
 二重人格はその中の一つに過ぎない。
 だから、間違えちゃいけない。
 彼女は二重人格から三重人格になったんじゃない。
 元々、多重人格という症状があったんだ。
 これが何を意味するのかっていうと――――
「一体、いつから?」
 そう。
 いつから彼女の人格が現れたのか、わからないって事。
 俺はつい最近、和音から三和への手紙を見せて貰って、第三の人格の存在が
 あると知った。
 でも、つい最近新しい人格が出てきたとは限らないんだ。
 彼女はずっと前から存在していて、他の二つの人格に悟られず生きてきた
 かもしれない。
「そんなこと聞ぃて……どぅするの?」
「大事な話なんだ。答えてくれ」
 一体、いつから――――この疑問は、とても重要な事だ。
 多重人格が新しい人格を芽生えさせるのは、その人格に何らかの役割を担わせる為。
 その多くは、ストレスをはじめとした心の負担を分散させ、和らげる為だ。
 もし最近なら、彼女に新人格を芽生えさせるほどのストレスが生じた事になる。
「和花のこと、心配して……くれてるの?」
 のどか――――それが彼女の名前らしい。
 名前で自分を呼ぶ人間の心理は色々研究されているらしい……けど、
 そこに明確な『コレ!』って決定版はないだろう。
 特に彼女のような、派生した人格の場合は自己同一性そのものが
 理由と言えなくもないんだから。
 だから、無闇に『自分の事を名前で呼ぶヤツはカスだ!』とは言えない。
 言えない。
 言えないんだけど……
 ダメだ。
 ああ、もうダメだ。
「お前の喋り方、なんかムカつく」
「またぉ前って……言ったー!!」
 目の前の第三の人格、和花はプンスカ怒った。
 って言うか……
 これまでのシリアスな空気が台無しですよ。
 ああ、せっかく頑張って頑張って、死ぬ程頑張ってカッコつけてたのに!
 ハードボイルドな空気で胡桃沢君失踪の悲劇を演出していたのに!
 コイツのせいで台無しだ!
 ……待てよ。
 そもそもコイツの存在は、つい最近まで和音も三和も知らなかったはずだ。
「お前、さっきまで全然違う喋り方してたよな。今いきなり人格が変わったんじゃ
 ないだろうから、あれって演じてたんだよな? 三和を」
「そぅだょ。ぉ話したことないけど、こんな感じかなって……思って!!」
「手探りかよ! ってか、なんでこんな事を……」
 したんだ、と言いかけ、俺は気づいた。
 第三の人格について、俺が情報を得たというのは三和だけが知っている事。
 三和がその後、和音に知らせた可能性はある。
 彼女達の記憶はつながっていない。
 意識も共有していない。
 けれど、例えば日記か何かで情報交換する事は出来る。
 事実、二人はそうしていた。
 あの『第三の人格を示唆した手紙』も、元々は和音から三和へのメッセージだった。
 本人たる和花に知られないように。
 だから、三和を演じて俺を騙そうとしたこの和花の行動は――――
「自分の存在を、和音や三和が気づいているかどうか確認する為だったのか?」
「そぅだよ。二人ゎ探偵さんを信じてるから、探偵さんにゎ『第三の人格がいる』
 って話すと思ぅんだ。もし、和花の存在を……知ってたら!!」
 相変わらず、ふざけた話し方。
 でも油断できないぞ。
 この女……想像以上に頭が回る。
 俺の反応を探って、自分の存在が他の二人の人格に何処まで知られてるか
 チェックしやがったのか。
 まんまと乗せられちまった。
「ってか、三和はあんなにエロくないぞ。引っかかっておいて今更だけど」
「そぅなの? 夜に会う友達が多いのゎ、エロぃって……ことじゃない!?」
「全然違うわ!」
「違ぅの? じゃぁ和花、もしかして……処女!?」
「それは知らん」
 ダメだ。
 コイツと喋ってると頭がグワングワンうねる。
 乗り物酔いならぬ、会話酔い。
 相性がトコトン悪い。
「ったく……後で三和に怒られそうだ」
「探偵さんは悪くないょ。和花がかばってぁげるから……大丈夫!!」
 和花は舌をぺろっと出してウインクしながら親指を立てた。
 なんかいい奴っぽいけど、仲良くはなれそうにない。
 生理的にムリなタイプなのかもしれない……
「ま、体よく利用されたついでに聞くけど、お前どうして和音や三和に
 自分の存在を教えてなかったんだ? 隠す理由なんてないだろ」
「ぁるよ……きっと!!」
「なんで断言じゃないんだよ! お前の事だろーが!」
「和花、どこまで自分が自分かわからなぃから……ムリ!!」
 多重人格者特有の、自己同一性の曖昧さを盾にしてきた。
 やっぱりコイツ、知能は高いぞ。
 バカっぽい喋り方に騙されちゃいけない。
 気を引き締めよう。
 俺はこの女から、情報を得なくちゃならない。
 胡桃沢君の情報。
 彼女自身の情報。
 両方とも引き出す必要がある。
 さて……どうしようか。
 巧みな話術でさり気なく引き出すのが、一番可能性はありそうだ。
 一応、そういうの得意分野だし。
 でも、コイツと喋ってると頭が上手く働かないんだよな……
 天敵だ。
 まさかこんなところで天敵と遭遇するとは。
 白鳥家、奥が深い……!
「でもねぇ、話せることもあるんだょ……ちょっとだけ」
 不意にそう和花が語りかけてきた時、俺は自分の視線がいつの間にか
 下がっていた事に気づいた。
 慌てて上げると、いつの間にか和花は俺の目の前にいた。
 目を見開き、口元を緩めて。
 ちょっとしたホラーだ。
「もしぃ、和花のぉ願ぃ聞ぃてくれるならぁ……教ぇてもぃぃょ!!」
 情報交換か。
 それ自体は悪くない。
 ギブ&テイクは探偵業の基本。
 メリットとデメリットを量る天秤は、いつも持ち歩いている。
 俺の頭の中に。
 ……今の、決めゼリフとしてはイマイチだなあ。
 別の考えよう。
「わかった。そのお願いってのを話せ」
「探偵さん……マジぅける!!」
 ……これは、どういう意味なんでしょうか。
 俺が受理したこの状況を言い表した?
 交渉という名の決闘を受ける、って意味?
 単にマジうけてるだけ?
 ダメだ!
 この人苦手だ!
 胡桃沢君……君が失踪したから、俺こんなの相手にしなくちゃならなくなったぞ。
 後でお仕置きだ。
「じゃぁ、和花の人格が消ぇなぃよぅ……協力して!!」
 俺が想像の中で胡桃沢君へのお仕置きマシーン1号を開発している最中、
 和花はお願いを話した。
 その内容は、ある意味納得できるものだ。
 彼女の人格は、独立しているようでしていない。
 主人格の和音とは確かに異なるモノ。
 でも、和音の一部って事も確かなんだ。
 つまり、彼女はこの世の人間であって、そうでないとも言える。
 いつ消えてもおかしくない。
 解離性同一性障害による多重人格が治癒する場合に、
『人格の統合』なんて表現を使われる事もある。
 派生した人格を再び一つにする、って方法だ。
 後天的に生まれた人格が、一生そのまま主人格と共存するケースは少なく、
 途中で消えてしまう方が圧倒的に多いらしい。
 どこかの時点で、彼女も消えてしまうんだろう。
 それは、死と同一にみなしていいかどうか、微妙な問題だ。
 元々彼女は一人だった。
 元々一人だった人間が一人に戻る事を、死とは呼ばない。
 でも――――和花にとっては、自分が消える以上は『死』と同等なのかもしれない。
 ならば、死を回避しようとするのは人間として当然の行動だ。
「協力、ったって……俺が何をできるってんだ?」
「今日の出来事を全部黙ってて欲しぃの……他の二人に!!」
「……それだけ?」
 意外にも、シンプルな口止めだった。
 和音と三和は、彼女の存在に気づいている。
 今更、今日のやり取りを口止めした事で、どれほどの意味があるんだ……?
 いや、待て。
 彼女の目的は、消失を食い止める事だ。
 つまり、彼女の『和花』という人格が、役割を担い続ける必要がある。
 解離性同一性障害の治療はまだ確立されていないけど、解離性障害全般に言えるのは
 自然治癒もあり得る、という点だ。
 これが何を意味するのかと言うと、心の傷やストレスといった、解離性障害の
 原因と目されているものは、時間の経過によって治る可能性が十分にある、って事。
 特効薬なんてのはないけど、自然に軽快したり、治ったりするケースもある。
 つまり――――彼女にとっては、それが忌むべき経過なんだ。
 だから、逆の薬が必要。
 白鳥和音が治癒しない毒薬が必要なんだ。
 ストレスを保ち続けて、彼女の心が救われないようにする為の。
 それと、今日の事を黙っている事がつながるとすれば……
「……そうか」
 理解した。
 彼女は俺を『ストレス緩和剤』だと判断したんだ。
 この件から手を引けと、そう言ってるんだろう。
 今日の件を話さないって事は、必然的に俺から第三の人格、和花の話を
 和音や三和にできなくなる。
 何しろ、今日の件は俺と和花の出会いだ。
 そこを語らず、彼女の存在について語るのは不可能。
 少なくとも、深い話はできない。
 かといって、第三の人格の存在だけは知っている(と三和に知られている)
 以上、いつか三和から、或いは和音から俺に第三の人格に関する話を振られる。
 その時、俺はすっ恍けなければならない。
 和花という人格がいて、そいつと話したという全ての情報を偽るか、
 隠すかしなければならない。
 そうなると、和音と三和は俺をそれ以上頼る事はしないだろう。
 必然的に関わりを封じられる事になる。
 直接『手を引け』と言わないのは、断られると判断したからか。
「……」
 理解はしたけど、返答に関しては中々まとまらない。
 和花の思惑は把握できた。
 でも、俺は今日の件を和音や三和に黙っておく訳にはいかない。
 少なくとも、和花より和音や三和との付き合いの方が長いからな。
 しかも、多少なりとも信頼して貰っている以上、裏切りたくはない。
 でも、どうする……?
 ここで断れば、情報は得られない。
 胡桃沢君の居場所もわからないまま。
 闇雲に探すのは得策じゃない。
 目の前の手がかりを見逃しても次がある――――なんてのは、甘い考えだ。
 何を優先すべきか。
 誰を優先すべきか。
 答えは即決まった。
「わかった。はざま探偵事務所の名において、約束する。今日の事は
 決して和音と三和には話さない」
「ぁりがとぅ……探偵さん!!」
 和花は俺の手を取り、ブンブンと振り回して感動を露わにした。
 でも――――そんな幼い行動とは裏腹に、心の中で彼女は
 今ごろほくそ笑んでいるんだろう。
 ま……今は好きにさせておくさ。
 お前の思い通りに事は運ばないけどな。
「それじゃ、代わりに教えて欲しいんだけど……俺の助手に関して
 君は何を知っている? 胡桃沢君の行方について」
「ぇっとぉ……これ!!」
 和花は机の棚に並んだ教科書やノート類を漁り始めた。
 そして、その中の一つを取り、俺に見せてくる。
 ただの大学ノート。
 表紙にも、何も書いていない。
 でも、なんとなくピンと来た。
「和音と三和のやり取りを書いたノート……か?」
「そぅだょ。交換日記みたぃな……感じ!!」
 まあ、確かにノートにして記録していた方がわかりやすい。
 裏を見てみると、ナンバーが書いてあった。
 No.54。
 54冊ものノートを使い、二人は会話を続けていたんだろう。
 そして和花は、そんな二人に自分の存在を知らせる事なく、
 ただ傍観し続けていた……って事か。
 でも、そんなのが本当に可能なんだろうか?
 他の二人同様、彼女が別人格の記憶を共有することはないし、
 一度に二つの人格が出てくる事もないだろう。
 なら、和花の人格が出ている時というのは、二人にとって空白の時間になる。
 不自然に思わないんだろうか……?
「和花ゎね、二人のどっちかが寝た時にだけ出て……これるの!!」
 まるで俺の思考を先読みしたかのように、和花は補足した。
 成程ね……だったら納得だ。
 睡眠時なら、空白の時間になっても不自然じゃない。
 今は夜間じゃないから、昼寝中って事か。
「このノートの……ここ!!」
 和花はパラパラとノートを捲り、とあるページを開いた。
 そこに記してあったのは――――胡桃沢君の事だった。
 胡桃沢君は、どうやら三和に相談をしたみたいだ。
 俺でも和音でもなく、三和に。
 彼女じゃないとダメな理由は、ノートに克明に書いてあった。
 三和の文章だ。

『胡桃沢さんは過去の自分と向き合えない自分に失望していた』

 つまり、それは―――― 

『私と同じ』

 そういう事だ。
 二人とも、過去に辛い経験をした記憶を持つもの同士。
 胡桃沢君は、決して俺の前で自分を襲おうとした親戚の事を
 話そうとはしなかったけど……ずっと傷ついたままだったんだ。
 迂闊だった。
 彼女の心のケアを怠っていた。
 もう大丈夫、と根拠のない決めつけをしていた。
 きっと、彼女はたくさんサインを出していたはずなのに。
 自分はまだ大丈夫じゃない、と。
 まだ傷ついたままだと……
 俺はそれを見逃していたんだ。
 だから、彼女は失踪したんだろう。
 いつまでも気づかない俺に失望して。
 だとしたら。
「探偵失格だな……」 
 俺の目の前に、そんな烙印が浮いているように見えた。
 推理力のない俺が探偵としてやっていくには、洞察力を主武器に
 しなくちゃならない。
 なのに、このザマだ。
 助手の心境すら把握できていないなんて……
「……ははは」
「どぉしたの? 思ぃ出し笑ぃ……かな!?」
「いや、単なる嘲笑」
 そして次は――――自分の頬を張って叱咤。
「和花ビックリ! 探偵さんって……ドS!?」
「いや、どっちかってーとMだろ、今の行動は。Mじゃないけどさ」
「だって自分を叩くなんて……ドS!!」
 ……確かに、そういう解釈もできなくもないな。
 着目点が変われば正反対の考証も成り立つ。
 あらためて、そんな事を学んだ今日この頃。
 よし。
 俺もそれに倣って、着目点を変えるとしよう。
 いい機会だ。
 彼女が抱えていた心のモヤモヤを、今回の件で全部晴らそう。
 その為の事件だ。
 この――――助手失踪事件は。
「いい手がかりだった。そんじゃ、和花だったか。お邪魔した」
「約束……守ってね!!」
「ああ。約束はな」
 今日の出来事は話さない。
 また別の日に彼女と遭遇して、その時の事を話すとしよう。
 そんな訳で、俺は白鳥家を出て、次の行き先へと向かった。
 その場所は、今回の事件とは無関係の場所。
 でも、必要な場所。
 場所ってよりは、人だな。
 今回の事件は、犯人がわかっている。
 胡桃沢君自身だ。
 彼女の意思で失踪したんだから、そうなる。
 だから、犯人を見つけるには、彼女の心理を全て読み切らなくちゃならない。
 何処にいるのかを突き止めるには、彼女の行動をトレースする必要があるからだ。
 その為には、俺にはどうしてもわからない『女心』を理解してる人の助力がいる。
 最近、依頼人に女性が増えた事で、それなりに女の知り合いはいる。
 でも、その中で一番俺が信頼しているのは――――
「……なんだ? 珍しいじゃないの。探偵がウチに来るなんて」
「少し時間を貰えませんか? 町長」
 まだ日暮れは遠い、午後2時。
 俺はこの街の町長、小田中加奈枝さんの家を訪ねていた。
 ゆっくりしたい時間なんだろうけど……
「了解。さ、あがって」
 町長は文句一つ言わずにあげてくれた。
 やっぱりこの人を頼って正解だったか。
「で、持ってきた自治会費はどこにあるの? 前払いしてくれるんなら
 分厚い座布団と高いお茶出すケド」
 ……金を払いに来たと思ってたからすんなりあげたのか!
 世の中、金の切れ目が縁の切れ目とよく言うけど、本当だなあ……
「……どっちもナシでお願いします」
「ま、そうだろうと思ったけど。そんな切羽詰まった顔してる時点で」
「え? 俺そんな顔してます?」
「さあね」
 町長は手をヒラヒラさせて、自分が淹れた茶を濁した。
 ……やれやれだ。
 なんとも言えない心境で町長宅へとあがる。
 町長の娘、静葉ちゃんの姿はない。
 まだ学校なのか、もう放課後で友達と遊んでいるのか、部屋にいるのか――――
 まあ、別にどれでもいい。
 そんな事を考えつつ、俺は小田中の居間に足を運んだ。
 奥には仏壇が見えるが、遺影は全て年輩の方の写真。
 以前、町長の夫について少しイジった事があったんで、少し安堵した。
 未亡人だとしたら、まずその事を謝らなきゃならなかった。
「で、話があるんでしょ? 何さ」
「……せめてお冷やくらい出してくれても」
「時間の無駄。若いんだから、空気中から摂取する水分で十分でしょ。
 今梅雨時なんだから」
 なんか反論しにくいお説教を食らった。
 ま、確かに若いからいっか。
「納得されても小憎たらしいんだけど」
 10代への嫉妬は見苦しいですよ――――
 なんて、今から質問する相手に対して言う言葉じゃないな。
 危うくいつものノリで色々台無しにしちまうところだった。
「それはともかく、話があるんで聞いてもらっていいですか?」
「それはともかく、って何だコラ! 若さへの羨望を甘く見るなよ探偵!」
「どっちにしろドタバタになるんかい!」
 テーブルに足をのっけてわめく町長に、俺は通過儀礼的なツッコミで
 一応の筋を通した。
 筋って何だ、この場合……とか、細かい事は気にするな。
「という訳で、助手から逃げられました」
 その後数分ほどドタバタしたのち、暴露。
「でしょうね」
 特に驚かれる事なく、スポンジが水を吸い取るように吸収されてしまった。
「あんな器量のいい子がいつまでも自治会費すらロクに払えない
 しみったれた甲斐性ナシ探偵事務所に居続ける方が犯罪だし。
 で、逃げられた助手のケツを追っかける方法なんて、知らないよアタシゃ」
「方法は自分で考えますよ……っていうか、いちいち人の心をアイアンクローで
 キリキリ痛めつけるような発言は止めてくれませんか……」
 自覚したばかりとはいえ、割と本気で傷つく。
 俺、カバーグラスのハート持ちだし。
「ま、逃げられた以上はアンタに原因があるんだから、まずはそれを正さないと
 追っかけても無駄だと思うぞ?」
「返す言葉もない」
 まさしく町長の言う通りだ。
 そう。
 今回の助手失踪事件の犯人はもうわかってるけど、動機の面では
 まだまだ解明しきれていない謎がある。
 どうして出ていったのか。
 胡桃沢君は自分の過去の事で思い悩んでいた。
 それが動機だとしたら、『どうしてその動機で事務所を出て行く必要があるのか』
 という謎が浮上する。
 俺から離れなければならない理由があるって事だ。
「そもそも、どうして水面さんはアンタの事務所に住むようになったのよ?
 探偵の助手がやりたいんなら、他にも事務所はあるでしょうに」
「……その辺は守秘義務って事で」
「ふーん。なんか深い理由でもありそうな言い方するじゃない」
 実際、他人に話せるような内容じゃない。
 親戚に犯されそうになってた、なんて。
 ……親戚、か。
 彼女の過去と、俺との間に接点は殆どない。
 あるとすれば、俺があのロクでもない親戚を脅したという点。
 例えばあの親戚が俺に報復するつもりだとしたら?
 彼女を俺から取り返すつもりだとしたら?
 俺への報復を止めさせる為に、彼女が自分自身を差し出した――――
 あり得ない話じゃない。
 あの親戚野郎は既に家にいなかった。
 二人して何処か別の土地へ移ったかもしれない。
 和音と三和のノートに記してあった一文。

『胡桃沢さんは過去の自分と向き合えない自分に失望していた』

 これは、彼女の過去が再び彼女を苦しめ始めた事を意味してるんじゃないか?
 立ち向かえない自分に失望している……そんな意味なんじゃないか?
 だとしたら、最悪の展開を迎えているって事になる。
「町長。責任感の強さと自己犠牲は連動するものなのかな」
「……いきなり哲学的な話されてもね」
 いや、そんな仰々しい話じゃない。
「実際にはそうでもないんじゃない? 自己犠牲って『責任』より『自己陶酔』に
 近いモノって気もするしね。責任感のある人は、自分を犠牲にしてでも……
 ってよりは、困難に対して最適な解決方法を模索するものよ」
「そして大抵の事において、最適な解決方法と自己犠牲は……」
「イコールにはならない、って思うケド」
 町長の見解に、俺も賛成だ。
 自分が痛みを引っ被る事で、自分自身や他人への『免罪符』を作る。
 これだけ傷ついたんだから、もういいでしょ。
 許して。
 そんな心境だ。
 全部が全部じゃないにしても、自己犠牲の多くはこういう言い訳が
 根源にあると、俺も思う。
 胡桃沢君が果たして、そんな行動をとるだろうか?
 何より、親戚クソ野郎が俺への攻撃をチラつかせたとして、
 胡桃沢君は俺に黙って自分だけを犠牲にして、それで解決を図ろうと
 するだろうか?
「……ま、詳しい話はわかんないけどさ、その自己犠牲とやらが
 水面さんが出ていった原因とは思えないけどね。さすがに、そこまで
 バカじゃないでしょ。アンタ」
 町長はそう俺に対して告げた。
 つまり――――何らかの自己犠牲を彼女が強いられているような状況を
 俺が見過ごす筈がない、と。
 ……正直、自信がない。
 見過ごしたのかも知れない。
 もしそうなら、この上ないバカだ。
 探偵以前に人として。
 でも……俺の知る限りでは、彼女が親戚クソヘド野郎と接触したような
 形跡は一切無かったと思う。
 仮にあれば、彼女の表情や様子で何かしらの不安や焦燥を感じ取れた筈だ。
 そんな雰囲気は一切なかった。
 とはいえ、彼女が失踪するまでなんにも気付けなかった以上、
 自分自身を信用する事はできない。
「もし、そこまでバカだとしたら、俺はどうすりゃいいんでしょうね」
「決まってるじゃない」
 町長はニッ、と笑った。
「バカはバカなりに、動きゃいいのよ」
「……成程」
 捜査の基本は足。
 刑事だろうと探偵だろうと、時代がどれだけ動こうと、そこは変わらない。
 確定できないのなら、とりあえず町の中をうろついて、彼女を探すしかない……か。
 考え事なんて、歩きながらでもできる。
「迷いはふっきれたか? 探偵」
「はい」
「……じゃ、もう行きな。夕食の準備を始める時間だよ」
 食べていきなさい、と言う気はないらしい。
 つくづく、よく出来た人だ。
 俺が今どうしたいか、しっかりと把握している。
 一刻も早く、彼女を見つけたい――――そんな俺の焦燥を見抜いている。
「町長は、どうして町長になったんですか?」
 それでも、俺は出ていく前に一つ、どうしても聞いておきたくなった。
 町長なんて役職に就くには若すぎる彼女が、何故その仕事を選んだのか。
「ここに町があるからよ」
「……」
 真意がなんなのか興味は尽きないけど、今は言葉通りの解釈に留めておこう。
 俺は町長に二回頭を下げ、小田中家をあとにした。
 さて、これからどうしようか。
 そろそろ学校が終わりそうな時間だし、高校にもう一度……
「わーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
 刹那――――悲鳴。
 思わず身をすくめるほどの大声だったけど、方向はわからなかった。
 それくらいの不意打ちだった。
 反射的に左右を見渡すと――――左側の反対車線に止まっている
 黒いバンが目に留まった。
 他に怪しげなものはない。
 通行人が他にいないからだ。
 いないのが偶然じゃないとして、あの車と悲鳴を結び付けるのは――――

 誘拐。
 その可能性がある。

「すいませーーーーーーーーーん!」
 俺は大声でそう叫びながら、車の方へ全速力で走った。
 もしあの車が無関係なら、運転手に道でも聞けばいい。
 ただ、案の定というべきか、俺の声を無視して車は走り出した。
 いや……無視したんじゃない。
 俺の声で『諦めた』みたいだ。
 車で死角になっていた先の歩道が、車が走り去って行った事で露わになると、
 そこに女の子の姿が現れた。
 しかも――――見覚えのある。
「静葉ちゃん!」
 俺は彼女の姿を確認した瞬間、右方向へ走っていく車のナンバープレートを
 凝視した――――が、無意味だった。
 半透明の黒いカバーで覆っている。
 近ければ見えるんだろうけど、もう大分距離が離れてしまってるから、
 ナンバーまでは確認できない。
 そんな事を考えている間にも、黒いバンはいなくなってしまった。
「……静葉ちゃん、大丈夫?」
 車道を横断し、俺は歩道の上に立ち尽くしている町長の娘さんに声をかけた。
 状況を見る限り、明らかに誘拐未遂。
 ただ、彼女の口から真実を聞かない限りは、可能性の域は出ない。
「び、貧乏探偵……」
 静葉ちゃんは興奮したような顔で、俺を凝視した。
 ……興奮?
「み、見た? 見た!? 静葉今、誘拐されかかったよな!? 
 なんか連れ去られようとしてたよな!?」
「……なんでそんなに嬉しそうなんだよ」
「誘拐されるのは、可愛いお嬢様だけなんだぞ! 静葉はそう思われたんだ!
 やったーーーーーーーーーーーーーーーー!」
 静葉ちゃんは恐怖など微塵も見せず、歓喜の顔でバンザイをしていた。
 ……この子、将来大物になるかも知れない。
「ま、あの町長の娘さんだしな……取り敢えず、警察行こうか」
「誘拐されましたアピールだな!? 静葉一度はやってみたかった! あとチカン!」
「実際にされたら洒落にならない怖さだからな。あと、冤罪生み出すなよ」
 小田中静葉、犯罪に憧れるお年頃。
 中二病の前の段階だ。
 俺は小学生の無垢な好奇心に感心しながら、彼女を連れて一旦
 町長の家に戻った。

 


 その後――――
 町長の娘が誘拐されかかったという、割とセンセーショナルな話題は
 この共命町の一大ニュースとして広がり、ついには全国ニュースにまでなった。
 静葉ちゃんが共命町の公式ホームぺージで散々取りあげられているところが
 マスコミにとっておいしいネタになったんだろう。
 しばらく町長の家の周りにはテレビ、新聞、雑誌の記者が大勢押しかけていた。
 で、かくいう俺も警察に何度となく事情徴収ってのをされた。
 唯一の目撃者だから当然なんだけど。
 まあ、探偵って仕事柄、警察とは顔なじみなんで、一般人が受ける
 事情徴収よりは多分フレンドリーに行われたんだろうと思う。
 それでも、同じ事を何度も話すのは苦痛だったけど、仕方ない。
 あと、俺の事務所の周囲にも割と頻繁に記者がやって来た。
 10代の探偵が珍しいらしく、特集を組みたいなんて話までされる始末。
 困ったもんだ。
 そう。
 俺はとても困っていた。
 今回の件で有名になって依頼が舞い込めば、今の極貧生活を抜け出せる――――
 なんて都合のいい展開を期待したいところだけど、残念ながら
 この世の中そんな上手くはいかない。
 マスコミに過剰露出した探偵なんて、胡散臭い目で見られるのは確実。
 一時は依頼が殺到するかもしれないけど、その後はテレビに出ないだけで
 何故か『落ち目』扱いされて、更には『胡散臭い』なんて目で見られるのは
 容易に想像できる。
 俺は有名な探偵になりたいんじゃない。
 優秀な探偵になりたい訳でもない。
 安定した生活を送る、依頼人に誠実な探偵でいたいだけだ。
 勿論今を生きるのは大事だけど、未来も大事。
 目の前のご褒美に釣られて、信用を失う訳にはいかない。
 胡桃沢君に対してしてしまった失敗を繰り返す訳にはいかない。 
 即物的な見方をしちゃダメなんだ。
 ……という訳で、俺は今マスコミ関係者から逃れる為、早朝から近所の
 ファミレスで過ごしている。
 注文はトースト&ゆで卵セット。
 ドリンクバー込みで300円以内という、中々ありがたいメニューだ。
 これで夕方まで粘れればいいんだけど、何せ今日は土曜日。
 今は朝だから殆ど客はいないけど、昼前には追い出されるだろう。
 誘拐未遂事件からもう五日も経過しているってのに、
 中々日常生活に戻れないのは歯痒い。
 まあ……胡桃沢君がいない時点で非日常とも言えなくもないんだけど。
 この五日間、彼女を探す事すらままならない状態が続いている。
 何しろ、外を歩けばマスコミに捕まるし、イヤでも目立ってしまう。
 そんな中、胡桃沢君の学校で張り込むなんてのはムリだ。
 こうしている間にも、彼女は俺から遠く離れているかもしれない。
 いつもは事件に遭遇しない事を嘆いていたけど、今回ばかりは事件を恨むぞ。
 ったく、町長の娘なんて誘拐してどうすんだよ。
 そもそも誘拐事件で逃げ切った犯人なんて、銀行強盗並に少ないんじゃないか?
 金策として選ぶメリットを全く感じないぞ。
 本当にいい迷惑だ……
「禁煙席はこちらになります」
 新しい客が来たみたいだ。
 まさか、マスコミ関係者じゃないだろな。
 一応、顔を確認……
「あ」
「あ」
 知り合いだった。
 しかも胡桃沢君のクラスメート。
 黒羽根螺旋こと黒羽根留美音だ。
 今回の胡桃沢君の件で連絡した結果、俺を着信拒否してる事が判明した不届き者。
「あああああああああああ」
 その事がバレた――――と俺の表情から察したのか、入店時は
 微妙にルンルンしていた黒羽根の顔が全力で強張っていた。
「……道端じゃなくてよかったですね」
 店内でボマイェは流石にマズい。
 いや、道端でもマズいけど、着拒判明からもう大分時間経ってるんで
 怒りも半減してる。
 俺は動揺し過ぎて涙目の黒羽根(もはや『さん』付けの必要なし)に
『気にしてないから向こう行け』ってジェスチャーを手で送った。
「うあうあ……あの……すいません……怖かったのでつい……」
 そんな俺の親切心を全く察知せず、黒羽根は俺の席の隣に座った。
 異様にビクビクしながら。
「怖いって……二回も会ってる相手に抱く感情ですか?」
「そ、その敬語も……怖い」
 いや、タメ口の方が怖いだろ。
 最近の若い子はよくわからない。
 一歳違いだけど。
「じゃあ、タメ語で話すけどそれでいいか?」
 ぶっきらぼうに問うと、黒羽根はコクコク何処か嬉しそうに頷いた。
 やっぱりこの子、ドMだ。
「ま、着拒の件はいいよ。探偵に電話番号知られてるってのも、確かに
 気持ち悪いかもしれない。異性、超苦手なんだよな?」
「超苦手」
 現実でもコピペ返しされた。
 まあ、どうとは言わないけど。
「世界は喪女と腐女に残酷だから」
「そういうものなのか?」
「でも、喪女エリートのもこっちがこの流れを変えてくれるかもしれない」
「……もこっちって誰だよ」
「アニメになる人」
 キャラクターかよ……現実の人みたいに言うな、紛らわしい。
「もこっちが受け入れられるかどうかで、私たち喪女の居心地が大分変わるから。
 もこっちには期待してる」
「はあ」
「あと、最近ヤンデレが人気急上昇中。ミカサバンザイ。ホントはクーデレだけど」
「お前ヤンデレだったっけ?」
「違うけどいずれそうなる予定。ヤンデレは喪女の理想的な最終形」
 いや、違うだろ絶対。
 つーか、意外とよく喋るな、黒羽根。
 チャットの時と同じノリだ。
 一旦エンジンかかると止まらなくなるタイプなんだろな。
「そういえば、胡桃沢君ヤンデレ計画みたいなのもあったな、前に」
「あの人はそういうタイプじゃないから、本当は反対だった」
「ならその場で止めてやってくれよ……酷い有様だったんだぞ」
 しかも、あの直後に出ていったし。
 まさか、あのキャラ付け失敗が原因じゃないだろな。
 ……ってか、こんな事話してる場合じゃないな。
 偶然とはいえ、やっと胡桃沢君のクラスメートに遭遇したんだ。
 彼女の情報を得よう。
「ところで、胡桃沢君は学校でどう? 浮いたりしてない?」
「浮いたりしてない。普通にリア充」
 って事は、学校には通ってるのか。
 最悪、別の街に引っ越してる可能性もあったから、ちょっとホッとした。
「でも、少し疲れてるっぽかった」
「そうなのか。ってかお前らって学校で会話してんの?」
「会話してない。羨望の眼差しで見てるだけ。光射す場所は喪女の居場所違う」
 ……コウモリじゃないんだからさ。
「あと、憧れだけどたまにリア充死ねって思うから上手く話せない。
 そもそも誰とも上手く話せない。あ、上手くじゃなくて普通にも話せない」
「……まあ、そういう人は多いと思うから、あんま気にすんな」
「気にしない」
 相変わらず素直だった。
 素直デレだな、コイツの最終形態は。
「取り敢えず、情報ありがとう。そろそろ何か頼めば? 一品奢るし」
「……」
 あ、テンション上がった顔した。
 こういうリアクションされると、奢る甲斐もあるってもんだ。

《トゥティ トゥティ トゥティーティトゥティー》

 ……ん、この着信音は事務所からの転送。
 マスコミの可能性が大だけど、依頼人かもしれない。
 取り敢えず、取るしかないか。
「俺、一旦外に出てるから、好きなの頼んでいいぞ。一品だけな」
 そんな俺の声も、今の黒羽根には聞こえていなかった。
 どうせモーニングと朝定食しかない時間だから、
 迷うほどの数じゃないと思うんだけど……ま、いっか。
 微妙に微笑ましい彼女の悩む顔に苦笑しつつ、俺は外に出て
 通話ボタンをプッシュした。
 外だとイマイチ聞こえにくいんで、ボリュームアップも忘れずに。
 さて、マスコミか、それとも依頼人か……











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