あの人といるのは、とても楽しい時間だった。
 恩人という言葉ではとても言い表せない、本当に本当に大切な人。
 そんな人が日常に寄り添ってくれる毎日は、楽しくて仕方なかった。
 それに、職業が探偵助手というのも刺激的。
 探偵なんて、小説の中だけの存在だと思っていた。
 でも、いざその傍で働いてみると、想像していたのとは全然違っていた。
 毎日が修羅場。
 どんな依頼でも受けるし、どんなカッコ悪い事にだって手を伸ばす。
 カッコつけるのが好きなあの人は、頼りなく笑いながらいつも
 頼りがいのある探偵を全うしていた。

 私にとって、そんな彼と過ごす日々が、何よりの宝物だった。
 
 けれど――――そんな時間の中であっても、私は自分の過去を
 塗り潰す事ができなかった。
 いつも夢に出てくるのは、彼じゃなく……あの男。
 私を犯そうとした、あの男。
 もう私の前に現れる筈もないのに。
 彼がそうなるよう、仕向けてくれたのに。
 私は毎日、あの男の影に怯えていた。
 
 いえ――――

『男』に怯えていた。

 私は、あんなに優しくて、恩人で、あんなに大切なあの人に
 ずっと怯えていた。
 男、というだけで。
 ずっと、耐えてきた。
 いつか彼が、私を力ずくで……
 そんなあり得ない不安が湧いてくる自分の矮小さに。
 いつかこんな衝動は消えてなくなると信じて、耐えていた。
 表面には殆ど出していなかったと思う。
 それが、私の私なりの意地。

 けれど、一つだけ。
 表に出しているとすれば、それは……これ。
 頭の上にある、ホッキョクギツネの耳。
 私はこれを、ずっと付けている。
 学校でも、探偵事務所でも、そして風邪を引いて寝込んでいる今も。
 
 ホッキョクギツネは、絶滅寸前の動物。
 寒い地方に住んでいて、なかなか食べ物にありつけないから、
 一度に全部食べられなかった食べ物を保存する習性があるらしい。
 ふわもこなのは、雪の降る寒い大地で生き延びる為。
 普通のキツネより耳が小さいのもそう。
 色が白いのも、そう。
 その場所に順応して生きていく……そういう生き物。
 私も、そうだった。
 ずっとそうだった。
 両親が亡くなって、親戚の家で暮らしていた私は、ずっとそこに
 順応して生活していた。
 生きる為に。
 順応するという事は、自分を変える事。
 だから私は……本当の自分というものがわからなくなった。
 私は誰なんだろう。
 どうしてこんな所で、大嫌いな男の世話になって生きているんだろう。
 生きる為だ。
 生きる為に生きているんだ。
 そんな会話を自分の中で繰り返していたような気がする。

 そしてそれは――――今も変わらない。
 探偵事務所にいる時は、『事務所の紅一点の助手』として相応しい自分。
 スパ施設にいる時は、『コスプレ店員』として相応しい自分。
 そんな自分を作りつつ、順応して生きている。
 間違っているとは思わない。
 
 でも……それは私じゃない。
 作ってきた私は何人もいる。
 でも全員、私じゃない。
 本当の私は何処にいるんだろう。
 もういなくなってしまったのか。
 両親と一緒に、この世から消えてしまったのか。

 私が本当に滅亡させたかったのは――――作った自分。
 本当の自分以外の自分。

 だけど、殺せなかった。
 それどころか、私はまた順応して、新しい私を作り続けている。
 あの人に……所長に順応した自分。
 所長が笑いかけてくれるのは、私が作った私じゃない私。
 ホッキョクギツネの耳をつけた、男が怖いから男に言い寄られないように
 変な耳をつけた、そんな私。
 男と距離を置く為の――――臆病な私。
 私は恩人に対して、そんな無礼な事をずっとしてきた。
 彼が怖くて……ずっとあの耳で私を『女』だと意識しないように
 仕向けてきた。
 それが功を奏したのか、それとも無意味だったのか――――

「……いつから呼び捨てされるような仲になったの? あたし達」

 決して所長は、私を呼び捨てにはしなかった。
 余所余所しさを残した呼び方で、私を呼んでいた。
 白鳥さんは呼び捨てにしても、私には決してそうはしなかった。
 その事実を知った時、私は本来、安心するべきだった。
 
 それなのに……どうして私は、彼の傍を離れる事を決心したのか。
 あんなにショックを受けたのか。
 自分で自分がわからない。
 でも、当然かもしれない。
 私は順応した私。
 本当の私じゃないんだから。
 和音ちゃんと三和さんの関係と同じ――――作られた私なんだから。

「あの……起きてるかな」
 不意にノックの音が聞こえてきたので、私は入室OKの返事をした。
 入って来たのは、この家の息子さんの有馬湯哉さん。
 よくしてくれている人。
 それでも……私の心の中には、強張っている自分がいる。
 表には決して出さないけど。
 それにしても、さっきここに来たばかりだというのに、
 何かあったのだろう。
「実は、君の元上司というか、探偵事務所の探偵さんに伝言を頼まれてるんだ」
「……え?」
 所長が……?
 どうしてここに私がいるってわかったの……?
「それじゃ伝言、言うよ」
 有馬さんは二回咳払いして、所長の伝言を伝えてくれた。

「前から言おうと思ってたけど、その耳似合ってないと思う」

 ……!

「以上、なんだけど……わかるかな? 僕にはサッパリ意図がわからなくて」
 わかる筈がなかった。
 だってそれは……私にしかわからない事。
 この耳の意味を知っているのは、私だけだから。
 それなのに、どうして所長は――――
「……そっか」
 考えるまでもなかった。
 それしかないんだから。
 わかってたんだ。
 所長は最初から、わかってたんだ。
 あの人はずっと……本当の私を見てくれていたんだ。
 自分でも、もういないって思っていた本当の私を……見つけてくれていたんだ。
 怖くて怖くて、仕方なくて。
 心の隅っこの方で怯えて小さくなって、ずっと小さくなったままの私。
 あの日――――お父さんとお母さんを失った時から、時間が止まったままの私。
 誰にも見せずにきた、本当の……私。
「そうだったんだ……」
 私は、私を見つけた。
 所長の言葉で、私を見つけた。

 ――――ホッキョクギツネの耳が似合わない、本当の私を。

「……」
 しばらく私の様子を心配そうに見ていた有馬さんは、黙って
 部屋を出て行った。
 優しい気遣い。
 でも今は――――

「……う……うう……っ」

 今は――――あの人たちの事しか、考えられなかった。

「う……うぅ……ひうっ……」

 あの人たちを想って――――声を殺して、泣き続けた。
 

 

「お父さん……お母さん……さよなら」

 


 今の自分とは違うそんな声が聞こえた気がした。
 ゴメンね、ずっと見つけてあげられなくて。
 でも、見つけたよ。
 聞こえたよ。
 あの人のおかげで。
 私の大事な大事な、恩人のおかげ。
 悲しかったよね。
 でも、大丈夫だよ。
 ちゃんと言えたから。
 私が聞いたから。

 


「さよなら」

 


 ――――向き合えたから。











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