Привет。
別にロシアにいるわけじゃないが、狭間十色だ。
今俺は、事務所の中で読書をしている。
探偵にとって、読書とはスポーツ選手の筋トレのようなもの。
彼らの資本が身体であり筋肉なら、探偵の資本は頭脳であり知識だ。
その知識を得るための読書はすなわち、基礎訓練のようなもの。
これを欠かさずに行うことが、探偵として一生食いつないでいくための
必須事項だと俺は考える。
とはいえ――――本当なら、読書するヒマもないくらい忙しく
あって欲しいもんだ。
ただ、今日仕事の依頼がないのはある意味仕方がない。
何しろ、この事務所のある共命町は朝から台風の暴風域圏内。
しかもこの台風、自転車並のスピードときたもんだ。
時速15kmで北北東に移動、とのこと。
暴風域も広く、半径250km。
中心気圧は950hpa、最大瞬間風速65mという大型で非常に強い台風だ。
このレベルの台風が本州に上陸するのは10年に1度の頻度らしく、
きっとテレビを付ければ報道番組で盛んにそのフレーズが使われてることだろう。
けれど今、我がはざま探偵事務所のテレビは起動していない。
停電だ。
ブレーカーが落ちたわけでもないのに停電なんて、初めての経験。
やだ……ドキドキしちゃう。
困ったことに、我が通信手段は今や標準装備となったスマートフォンじゃなく
ガラケーとかいう困った愛称でおなじみの、古き善き携帯電話。
インターネット接続をできることはできるけど、見辛いし動作も鈍いしで
ほとんど活用したことがない。
それでも今回みたいな非常事態には、最小限の情報を得ることは出来る。
どうやら暴風域を抜けるまでは、まだ15時間くらいかかりそうだ。
今日は一日中、台風の中で過ごさなくちゃならない。
今まで暴風域を経験したことがない人に、現状を説明しよう。
風の音が凶器と化す、そんな経験をしたことがあるだろうか?
まさに今、その真っ直中だ。
例えば、暴走族が夜中に近所で迷惑な暴走を繰り広げている場合も
ひたすらやかましい音が襲って来るけど、アレとは音の質が違う。
比較的近いのは、飛行機が近くを飛ぶ時の音。
これも精神をやられるくらいの騒音だ。
けれど、台風の音はそれすら凌駕する。
何しろ、アンサンブルだ。
しかも一定じゃない。
基本的には、うなりをあげるような圧迫感のある風の音がメイン。
ゴオオオオオオオ、って感じだ。
そこに時折、甲高い音が混じる。
ピュウウウウウウ、って感じ。
それに加え、稀に悲鳴のような音も聞こえてくる。
ウアアアアアアア、とでもいうのかな。
しかもこれらだけじゃない。
建物の軋む音、更には頻繁に雷鳴までも聞こえてくる。
特に雷鳴がヤバい。
ゴロロロロロロロ……レベルなら問題ないんだけど、たまに
ピシャアアアアアアアアアア!とか
グラコロオッシャアアアアア!とか言いなはる。
普通に怖い。
当然、豪雨による雨の重低音も常にリズムを刻んでいる。
本当にオーケストラを聴いてる気分。
襲い来るオーケストラ。
小説のタイトルにでもなりそうだ。
で、そんな状況なんだけど、この事務所には雨戸もないんで窓が
常にガタガタ震えているんだけど、そのせいで一応薄暗くはあるものの
本を読むくらいの明るさは保てている。
パソコンもテレビも起動しないから、やれることと言えばこれくらいしかない。
ちなみに、今読んでいるのは『人形草紙あやつり左近』というマンガ。
マンガを読書の内に入れるなという大人がいるが、ソイツはなんにもわかっていない。
情報を得る上で、マンガは正確性を欠くことが少なからずあるものの、
知識を得る上では重宝する媒体だ。
排他的な考え方は損でしかない。
なので、俺は趣味の欄に『読書』と書いて実際にはマンガしか読んでいない
という人を全面的に支持するし、依頼があれば弁護もしよう。
それはともかく――――このマンガ、どうやら推理マンガらしい。
というか、今俺の前には推理マンガが山のように積まれている。
持ち込んだのは、この事務所にいる俺以外の唯一の職員。
胡桃沢君……は休養中なので、その代理だ。
黒羽根螺旋こと黒羽根留美音。
属性は喪女らしい。
そして今、彼女はというと――――
「キィイイイイイイイイイイ……」
雷鳴にいちいち気色の悪い悲鳴をあげ、頭を抱えている。
本来、学生の彼女は登校中の時間だが、今日は台風接近のため休校。
家で大人しくしてろと言いたいところだが、何でもコイツ、休校だと
知らずに決死の覚悟で登校して、死にそうになりながらここへ待避してきたらしい。
「……休校のお知らせとかなかったのか? クラスの連絡網とか、県庁のホームページとか
幾らでも知らせてくれる媒体はあるだろ」
「昨日はヘッドフォン常備でずっとアニメ見てたから、わからなかった」
黒羽根は涙目でカクカク震えながら、そう答えてきた。
徹夜だったらしく、普段からある目の下のクマが余計濃くなってる。
「また、例のもこっちを見てたのか?」
「昨日は違う。昨日は黒バス最新話から始まって1期全部見直し、進撃とマギ見直して
リトバス経由でゴールデンタイムでリア充爆発しろ締め」
何を言っているのか、全然わからない。
「ちなみにメガネは1話で切った」
「?」
「とにかく、そういうので情報を外界から遮断してた」
……せめて天気予報は見ろよ。
っていうか、親から何か言われなかったんだろうか。
この辺の事情に関しては、余り深く追及すると大怪我しかねないから
余りツッコめない。
とはいえ、学生が親と疎遠になる苦労は誰より知ってる手前、無視もできない。
どうしたもんか。
「○○の○○氏ね。○人○0○○○死ね。ある日の深夜に盗賊団に襲撃されて
目撃者になって手足を縛られて漁船に乗せられて沖に出て地上が見えなくなった頃に
海に放り出されて誰にも看取られず魚の餌になって腐れ死ね」
……なんか呪いの言葉を吐き始めたし。
台風への恐怖もあってか、精神状態がおかしくなってるのかもしれない。
仕方ない、今は触れないでおこう。
「まあ、取り敢えず怪我がなくて何より――――」
ピシャアアアアアアアアアア!
「キィイイイイイイイイイイ……!」
甲高い雷鳴とガラスを爪で引っ掻いたような悲鳴のコンボ。
顔をしかめずにはいられない。
この状態があとどれだけ続くのか……
「……雷、怖」
「もう少し上品に怖がってくれれば、慰めの言葉くらいかけてやれるんだが」
「そんなん知らないし。上品とか全然わからない」
腐り切った顔で、黒羽根はそっぽを向いた。
相変わらずのコミュニケーション不全。
幾ら一時的とはいえ、こんなのを助手に迎えて本当によかったんだろうか……
《ピロロロロロロロロロロロロロ》
「キィイイイイイイイイイイ……!」
「落ち着け。着信音だ」
携帯に電話がかかってきたらしい。
珍しいこともあるもんだと思ったけど、今は固定電話は使えないから
連絡があるとすればこっちだ。
相手は……番号のみの表示か。
市内局番だ。
どうしたもんか。
今は停電中なんで、充電もできない。
まだ半分くらいバッテリーは残ってるけど、通話なんてしたら一気に消費しそうだ。
といっても、万が一依頼だったとしたら、無視することはできない。
まあ、こんな台風の中探偵に依頼の電話かける人なんていないだろうけどさ。
果たして、鬼が出るか蛇が出るか。
「もしもし。はざま探偵事務所所長、狭間十色です」
『……』
無言。
まさかこんな台風の日にイタズラ電話?
いや、こんな日だからこそ暇を持て余しての犯行かも?
だとしたら、説教しなきゃいけないレベルの幼稚な行動だけど……
『メロが逃げちゃった』
幸いにも、幼稚なのは行動じゃなく声のほうだった。
町長の娘で小学三年生の小田中静葉ちゃんより更に幼い感じだから、
小学生低学年と思われる女の子だ。
その声が、俺に一瞬の判断を迫っていた。
もしここで少しでも威圧感を与えてしまうような声を出したり
強い声で聞き返したりしたら、怖がって切ってしまうだろう。
「メロが逃げたの?」
だから、努めて柔らかい声でオウム返し。
そう聞き返す間に、俺はこの女の子の電話がどういった意味を持っていて
俺がこれからどうすべきかを考え、答えを出した。
『うん。あのね、探してください』
「メロを探すんだね? メロは犬さん? 猫さん?」
『犬。手がね、ううん、脚がね、短いの』
「身体は長い?」
『すっごく長い!』
「耳はぺちゃんこ? ピンって立ってる?」
『ピンって立ってる!』
「色はわかるかな? 白? 黒?」
『えっとね、茶色とね、白』
「茶色と白か。お毛々は長いかな。それとも短いかな」
『んー……』
迷うくらいだから、特別長くはなさそうだ。
「あなたの指と同じくらい?」
『それくらい。頭のところはね、そんなに長くないの』
いい情報。
賢い子だ。
「おうちで飼ってる? お外で飼ってる?」
『おうち』
「口はおっきい?」
『えっとね、おっきいと思うの』
「その犬さん、おうちに来てどれくらいになるかな? ずっと前?」
「んーん。ちょっと前」
OK。
ほぼ特定した。
「それじゃ、最後。あなたのおうちの近くにある学校とかお店とか、教えて」
『んー……えっとね、近くにね、でにーず、っていうごはん食べる所あるの。
あのね、みゆね、そこでタコさんウインナー食べるの』
「うん、うん。みゆちゃん、教えてくれてありがとう。みゆちゃんは何々みゆっていうの?」
『たちばなみゆです』
「そっか、ありがと。みゆちゃん、今からメロを探しにいくからね。
探したらお電話するから、おうちで待ってて」
『はい! ありがとうございます』
「うん。それじゃ、お電話切るね。ちゃんとおうちで待っててね」
『わかりました。待ってます』
「はい」
切ったのと同時に、ふーっと息を吐く。
どうにか怖がらせずに済んだみたいだ。
「……今の何?」
黒羽根が怪訝そうに聞いてくる。
いつもそういう顔に見えなくもないけど。
「依頼の電話。これから逃げた犬を見つけに行ってくる」
そう答えると――――黒羽根はポカーンとした顔で俺を凝視していた。
無理もないけど。
「外、なんかスゴいけど? 風とか」
「見りゃわかる」
「っていうか、こんな日に犬を逃がさないし普通」
「大方、飼い主の父親が風スゴいぞーとか言って玄関の外に犬つれていって、
そこでうっかり手を放しちゃったんだろう。飼って間もないらしいから、
その時期なら外に出れたら一目散に逃げ出すだろうし」
「……犬の種類とか、聞いてなかったと思うけど、わかってる?」
「室内犬で胴長短足、耳が立ってて茶色く短めの毛、最近飼ったばかりだし
今流行っている犬の可能性が高い、となればほぼ間違いなくウェルシュ・コーギーか
それに近い犬種だ。恐らくまだ子犬だろう」
それがわかっていれば、外見で判断するのは難しくない。
「で、でも何処探すの? っていうか、住所聞いてなかったし」
「子供に住所を聞いても、正確に答えられる保証はないだろ? それに、
さっきかかってきた電話番号で電話帳で探せばすぐ見つかる。
タウンページ、ちゃんと置いてあるんだ、ここ」
当然、住所はそこに載ってるだろう。
雨戸がなくて幸いした。
懐中電灯すらないんだよ、実は。
「……うわ、トリハダ」
何故か黒羽根はドン引きしていた。
「探偵だ。探偵だった。ちゃんと探偵っぽかった」
「どういう意味だ……探偵事務所なんだから、探偵がいるのは当たり前だろ」
「だって、全然探偵らしくないし。だから探偵の出るマンガいっぱい持ってきて
探偵ってこうだって教えようとしてたのに」
マンガで教えるな、マンガで。
いや、マンガで知識を得ることは否定しないけど、現実の探偵とマンガの探偵は
同一視はできないんだっつーの。
殺人事件の解決なんて、現実の探偵はしない。
呆れつつ、俺はタウンページから『た』の行を探し、たちばな姓でさっき
携帯に表示された電話番号を探す。
……あった。
候補は『橘』と『立花』の二通りあったけど、後者か。
共命町からは結構遠いな。
電車も止まってるだろうし……タクシーを使うか?
いや、そんな経済的余裕はないな。
仕方ない、自分の足で行こう。
「本当に行く気……? 逃げたペットを探すなんて、一番ショボい仕事なのに」
「ショボくない。大事な仕事だ」
俺の剣幕に、黒羽根はビクッと身体を震わせた。
でも、怯まずに俺を睨みつける。
オウム返しせず反論してくるのも、心が強くなってる証拠だ。
「だって、大してお金にならないし……それに、住所がわかっても行ったことない場所じゃ
家を特定するの難しいんじゃ。入れて貰えないかもしれないし」
「ファミレスのデニーズが近くにある『立花』が苗字の家だ。探すのはそう難しくない。
それに、恐らく電話かけてきた女の子の両親は外でメロを探してるだろう。
一人になったから、みゆちゃんはここに電話かけてきたんだ。なんで
ここの電話番号を知ってるかはわからないけど。ホームページで見つけたのか、
ファミレスの掲示板に貼らせて貰ったビラをメモしてたのか……」
当然、探偵事務所に興味がある小学生低学年なんていない。
普通に考えれば、あり得ないことだ。
どういった経緯であの子がここにかけてきたのか、興味がないと言えば嘘になる。
でも、今はそれは視野の外に置いておく。
重要なのは、依頼を受けたというその事実のみ。
依頼を達成するという、その目標のみ。
「お前はここにいろ。もし俺が夜までに帰ってこなかったら、ここで一泊してもいい。
両親への説明は『友達の家に避難して一泊した』くらいが妥当だろ」
「友達……」
何ソレ、って顔すんなよ……
「ってか、本気でこの台風の中、犬探す? そんなのできる? 普通、やらない。
もしかしてロリコン? もしくは犬好き?」
「誰がロリコンだ。今日深夜に手足縛って漁船に乗せて沖に出て地上が見えなくなった
頃に海に放り出して誰にも看取られず魚の餌になって死ぬか?」
「……」
自分で言っていたことなのに、黒羽根はプルプル震えて拒絶した。
「じゃ、犬好き」
「それは――――」
否定できないかもしれない。
別に普段、意識してる訳でもないし、目に入れても痛くないってほど
犬が好きって訳でもないんだけど。
あれは――――8年くらい前だったか。
まだ、俺の親がニート化していない頃の話。
親同士の仲はその頃から最悪だった。
毎日が夫婦ゲンカ。
八つ当たりの対象は、安物の灰皿と俺。
ガラスが割れるのなんて日常茶飯事だった。
そんな崩壊中の俺の家に、一匹の子犬がやってきた。
父方の親戚が、引き取って欲しいと連れてきたらしい。
薄茶色の小さく丸っこい犬だった。
結婚前から何かと世話になっていて、仲人まで引き受けてくれた人で、
無碍に断わることもできなかったらしい。
家族全員が全く犬に関心などない、完全アウェーの中、その犬は来た当初から震えていた。
オスだった。
歓迎どころか、迎え入れる準備すらなく、その日はダンボール箱の中があの子の家だった。
初めて迎えた夜は、鳴いて鳴いて鳴き続けた。
寝る時間になっても、ずっと鳴き続けていた。
父が血走った目で、ダンボール目掛けて灰皿を投げつけた。
それでも、彼は鳴き続けた。
泣いていたのかもしれない。
結局、俺も含め家族誰もが一睡もできなかった。
正直いって、煩わしかった。
なんで犬なんて連れてきたんだ、なんで断わらなかったんだと
親戚や父を心の中で酷く罵った。
翌日、犬は鳴き止んでいた。
疲れて眠っているかと思ったけど、ダンボールの中で彼は目を開けていた。
お腹が空いていたのかもしれない。
でも、家族の誰一人として、彼に何かを食べさせようとはしなかった。
知識が全くなかったってのもあるけど、それにしたって冷え切っていた。
悲しげに見上げてくる犬の目に、当時の俺は確かに俺自身を見ていた。
ああ、そうだ。
お前は俺だ。
だったら、なんとかしてやらないと。
そう思った。
朝食もとらず、俺は近くのコンビニで缶に入ったドッグフードを買って
それを彼に与えようとした。
父も母も、何も言わなかった。
ただ、目で犬の様子を追っているのを俺は見逃さなかった。
犬はしばらく匂いを嗅ぎ続け、そしてドッグフードを口にした。
一斉に安堵の息が漏れた。
そして、なんとなく笑い合った。
家族が笑い合うなんて、当時は考えられないくらいの出来事だった。
その瞬間、我が家に一名、家族が増えた。
キャウと名づけた。
そういう鳴き声だったから、自然にそう呼ぶようになった。
気に入ってくれたかどうかは、今もわからない。
犬種はウェルシュ・コーギー・ペンブローク。
初心者が飼うのは、結構難しいとされている犬だ。
だから、本を買って勉強した。
キャウがすくすくと育ってくれるよう、図書館で犬の栄養摂取の仕組みを調べたりもした。
意外にも、父が一番積極的だった。
一番可愛がっていたのも父だったように思う。
率先して散歩に連れて行き、休日は遠出して広い公園で遊ばせていた。
キャウはとても気分屋だった。
機嫌が悪いと、スズメの囀りさえも気に入らないらしく
キャウじゃなくワウワウと強い声で吠えた。
それでいて、機嫌がいい日は俺の姿を見るなりパタパタ走ってきて
俺の足に頭をこすりつけてきた。
口を近づければペロペロ舐めてくる。
追いかけっこが好きで、何かを咥えては俺の方をチラチラ見て
これを取り返したければ捕まえてみろ、と言わんばかりにドタドタ走っていた。
相手をしない時はズボンの裾を噛んでウーッと唸っていた。
甘えん坊でもあったんだろう。
いつも父や母の後をトタトタとついて回っていた。
特に母が寝転がっていると、その脚に絡み付きじゃれていた。
夜寝る時にサークルに入れると、必ず不服そうに一鳴きした。
我慢できず、キャウと一緒に寝ようとサークルから出す母の顔は優しかった。
意外と、お金はかからなかった。
エサはドライフードの安いので問題なかったし、病気もせず、必要経費は
食事代、狂犬病の注射、狂犬病ワクチンの注射、フィラリアの薬、
年に一度の健康診断くらい。
あとは初期費用として、リードやゲージ、それに寝床となるサークルなどを
購入しただけで、貧乏な我が家にとってはありがたいくらいお金の掛からない子だった。
だから家に来てちょうど一年になった日、ハンドメイドのシルバー製迷子札を買ってあげた。
キャウって名前と、連絡先としてこの家の電話番号を刻んだ銀色の丸い札。
勿論、喜んだりはしないけど、迷子札を首に付けたキャウは、ちょっと誇らしげに見えた。
お手やおすわりを教えることはしなかった。
本当は、しっかり躾けて主従関係を植え付ける方がよかったんだろうけど、
なんとなくそういう育て方をしなかったのは、きっと俺への放任主義の名残。
父は、キャウの前足をクイックイッと動かす仕草が好きだった。
その仕草が命令や強制じゃなく、キャウ自らの意思でしてるものだと思いたかったんだろう。
夏には海にも行った。
本当に犬掻きする姿を見て、心の底から笑った。
トイレを上手く躾ることができず、最初の頃は色んな所で粗相した。
一階の絨毯や布団は、何度もクリーニングに出された。
猫はコタツで丸くなる、というけど、実は犬もそうらしく、
毎年コタツを出すと決まってその中に潜り込んで居心地良さそうにしていた。
コタツといえば、当時は赤外線の赤い光の物が主流で、それが犬の目に悪いと
何処かで聞いてきたのか、寒がりの父がコタツの電源を入れるのを躊躇していた。
勿論、いいことばかりでもなかった。
室内犬の多くがそうであるように、キャウはとても臆病な子で、
人が家に来たらいつも吠えていたし、敵意を見せていた。
ある日、家に来た郵便配達人を噛むという事件を起こした。
幸い、職業柄そういう出来事には慣れているらしく、治療費と見舞金代わりの
商品券(当然、こっちの誠意)だけで許して貰えたけど、一歩間違ったら
保健所行きの大惨事だ。
家族全員が胆を冷やしている最中、キャウは自分よりずっと小さな虫を見つけ、
ビクビクしながら、何度も後ろに飛び退きながら、その虫を前足で叩いていた。
お前のことでハラハラしてたんだぞ、このバカと言いながら、父はキャウを
抱きかかえ、とても愛おしそうに頬ずりしていた。
逃避癖もあった。
隙あらば、狭い家を出て広い外の世界へと出て行こうとした。
玄関から、窓から、裏口から。
夏のとある日には、網戸を突き破って出ていったこともあった。
その度に、家族全員で家の周囲を探し、どうにか発見して連れて帰った。
捕まえようとしても逃げ回り、日が暮れていよいよマズいと焦っている中、
近所の人達が総出で手伝ってくれたこともあった。
大迷惑をかけてしまった一方で、近所付き合いのなかった家とも
知り合いになれたりした。
風が強い日や雷が鳴る日は、決まって大声で鳴き続けた。
得体の知れない物音が怖くて仕方がなかったんだろう。
この頃になると、キャウは怖いだけじゃなく、家を脅かそうとする者へ向かって
吠えている事がわかった。
親戚の家に行くと、まるで借りてきた猫みたいに大人しくしていた。
自分の守るべき家じゃないからだ。
キャウは立派な家族だった。
キャウはどういうわけか、セミの抜け殻が大の苦手だった。
動きもしない抜け殻を前に、威嚇し、近づいては飛び退き、また威嚇し……
それを繰り返していた。
その様子が余りにも微笑ましくて、母は毎年夏になるとセミの抜け殻を探しに
近所の街路樹を見回りに行っていた。
とても気が強く、俺に対しても辛く当たることの多かった母だったけど、
キャウが来てからは、かなり温和になった。
父も同じ。
夫婦ゲンカは劇的にその頻度を減らしていた。
会話も増え、笑顔も多くなった。
新聞配達の人が来る度に毎日吠え、部屋の隅っこに潜ってホコリを撒き散らし、
食事中に人のゴハンを盗み食いし、突然バタバタと家中駆け回り俺の脚に向かって
体当たりしてきたり――――そんな困った所もいっぱいあったけど、
キャウは我が家にとって、天使のような存在だった。
本当に、天使だったのかもしれない。
家に来た時と同じように、いなくなるのも突然だった。
その日、上空は今にも雨を落として来そうな黒い雲に覆われていた。
秋の気配より残暑の方が大きな顔をしていた10月上旬。
台風が近づいている、というニュースが連日報じられていた。
明後日には強風域に入り、休校になるかもしれないと帰りの学級会で担任の先生が言っていた。
台風がどんなものか一度も経験したことのない俺は、少しワクワクしながら
下校し、家で待っているはずのキャウにただいまと叫んだ。
キャウはいつも、俺の声に反応してトコトコと玄関に出迎えにやってくる。
でも、その日は来なかった。
母の姿もなかった。
散歩にでも連れて行ってると思って、その時は特に深く考えず自室へ向かった。
家の固定電話が鳴ったのは、5時を回った頃だった。
かけてきたのは母だった。
キャウがいなくなった。
ちょっと目を離した隙に、開けっ放しにしていた裏口から飛び出した。
探しているけど、見つからない。
一緒に探してくれ――――そういう内容だった。
俺はまだ、危機感を抱いていなかった。
そういうこともある。
今までだって似たような事態は何度もあった。
だから大丈夫。
また、夕食の時の笑い話が一つ増える――――そう思っていた。
キャウは帰ってこなかった。
父が帰宅後、みんなで探したけど、見つけることはできなかった。
次の日も、母は一日中探していた。
俺も学校から帰って、父も会社から帰って直ぐに探したけど、結果は同じだった。
その次の日――――共命町は台風の強風に晒された。
黒みの強い灰色の空の下、俺たちは必死になってキャウを呼び続けた。
強い風が街中の街路樹や看板をザワ付かせ、まるで俺達を嘲笑っているようだった。
傲慢な人間ども。
お前らは犬を飼ってあげているつもりなのかもしれないが、
犬はそんなことは望んでいない。
彼らは自由を求めている。
狭いサークルに閉じ込められることなく、思いっきり走り回れる場所を求めている。
だから、出ていったんだ。
そう言われているような気がした。
幸い、共命町に台風が直撃することなく、暴風域には入らなかったため
学校が休校になることはなかった。
けれど俺はその日、一日中キャウを探していた。
食事もとらず、アテもなく、ただ闇雲に。
なんの手がかりも得ず、なんの考えもなく、ただただ足掻いていた。
とても臆病な子だった。
風の強い日には、怯えながらそれでも風の音が家を襲おうとしていると
思ったのか、すっと吠え続けていた。
今のキャウは、何を思っているんだろう。
家の外で吹く強い風に、キャウは立ち向かっているんだろうか。
それとも、自然現象だと悟り、身を委ねているんだろうか。
答えはわからない。
その日も、また次の日も、キャウは――――家に帰ってこなかった。
犬には帰巣本能があるという。
キャウにとって我が家は自分の家じゃなかったのかもしれない。
キャウの失踪後、家族は再びバラバラになった。
いや、キャウが来る前よりもっと酷くなっていた。
母の所為でキャウが逃げたと、父は事ある毎に母を詰った。
母も事ある毎に、実家に帰るようになった。
俺も一人で夕食を食べる日が増えた。
灯が消えたように、我が家から笑顔は消え去った。
それから半年が経ったある日、家にキャウを預かっているとの連絡が入った。
迷子札を見て、電話をしてくれたらしい。
共命町から三つ先の駅の傍で、ずっと座り込んでいたという。
何度もお礼を言って、父と車に乗って引き取りに向かった。
父は本当に嬉しそうだった。
俺も泣いて喜んだ。
キャウが戻ってくれば、また家の中は優しさで溢れる。
笑顔になれる。
楽しい日常になる。
実家に帰っている母も戻ってくる。
そう信じていたから。
だけど、現実は違っていた。
甘くはなかったんだ。
キャウは酷く衰弱していた。
当然だ。
きっとロクに食べ物を得ることもできなかったはず。
狩りの仕方なんて、覚える機会はなかった。
飼い犬が生きていくには、現代の街は過酷すぎた。
動物病院へ連れて行った俺と父を待っていたのは、非常な宣告だった。
感染症が疑われる。
怪我もしているし、体力もかなり落ちている。
低体温症も患っている。
長くはない。
神様は、残酷なのか。
それとも慈悲深いのか。
俺達は、食事もとれなくなったキャウの弱っていく様を、
毎日ずっと見つめ続けた。
それ以外、何もできなかった。
キャウが食べてくれそうな、高いエサや人間の食べ物を沢山買ってみた。
けれど、キャウは何も食べてくれなかった。
食べられなくなっていた。
連絡を受けた母は、翌日には戻ってきた。
衰弱したキャウを見て、嗚咽を漏らし泣き叫んだ。
俺は決して、母だけが悪いとは思っていない。
キャウがこうなったのは、家族全員の責任だ。
犬を飼うということへの覚悟が足りなかったんだと思う。
こういうこともあると、もっと知っておくべきだった。
俺達は、自覚のなさを埋め合わせるかのように、キャウを可愛がった。
失踪する前よりずっと親身になった。
散歩ができなくなったキャウを毎日、母が抱っこして家の周りを歩いた。
家の食費を削って、栄養剤の処方を続けた。
俺にできることは、殆ど何もなかった。
ただ、なるべくキャウの傍にいようとした。
自室にいる時間が減った。
宿題も居間でやるようになった。
自然と、家族との会話も増えた。
ある日、キャウが嘔吐した。
それ自体は健康時から何度もあったが、黄色い泡の中に血が混じっていた。
覚悟しなくちゃいけないと各々わかっていた。
病院へ連れて行った結果、出来ることは何もない、少しでも傍にいて
穏やかな時間を過ごすよう言われた。
その帰り道、公園へ寄った。
いつも父がキャウを連れてきていた公園だった。
寂れた遊具と空き缶だらけのゴミ箱、枯れた芝生。
広い以外、取り柄のない公園。
サビの匂いがするジャングルジムに手をかけた。
何故か、同じ光景を昔見た気がした。
後々、俺がもっと幼い頃、よく父がここへ連れてきてくれていた事を知った。
キャウは父の腕の中で震えながら、じっと公園の芝生を見ていた。
父は時折、空を仰いでいた。
やけに濃い灰色の絵の具で描いたような空だった。
母は毎日、キャウの傍にいた。
ほとんど身動きせずジッとしていたけど、体調がいい時間にはペロっと
母の顔を一舐めし、元気だった頃の姿を一瞬だけ見せてくれた。
キャウにとって、母は甘えやすい相手だったんだろう。
父は御主人様。
言うことを聞き、怒られれば服従の姿勢を見せる。
母には敬意を見せることはないけど、父には見せないワガママをよく見せていた。
俺は……友達。
けれど、もう頭をこすりつけてきたり、追いかけっこをせがんだりはしない。
ワガママを見せる余力すら、キャウには残っていなかった。
タンポポの綿毛がゆっくりと雲に溶け込んでいく、風の強い日。
キャウは目を閉じたまま、最後に一度だけ前足をクイッと動かし――――
永い眠りについた。
――――あの日。
台風がこの街を掠めたあの日。
もし、俺がキャウを見つけることができたなら、もしかしたら全てが今とは
違っていたのかもしれない。
俺にもう少しだけ、考える力があれば。
もっと正確に、もっと要領よく探せるだけの頭があれば。
もしかしたら、キャウは今も生きていて、気楽で穏やかな日々を満喫できたのかもしれない。
いや、そうに違いない。
たったの3年しかこの世にいなかったんだから。
あれから5年。
ウェルシュ・コーギーの平均寿命は、8年より――――長い。
「犬好きとは、違うのかもしれない」
俺は黒羽根にそう答え、小銭入れをポケットに入れ玄関へと向かう。
別に、後悔の念を晴らすためじゃない。
過去は過去。
人は人。
そして、犬は犬。
メロという依頼人の飼い犬は、キャウじゃない。
助けたからといって、あの時の無念や業が消えることはない。
でも、今の俺はあの時の俺よりも効率よく探すことはできる。
みゆちゃんを、あの時の俺にしないよう手を尽くすことができる。
探偵ってのは、殺人犯を説得したり、未解決事件を解決したりするのが仕事じゃない。
依頼人を笑顔にするのが、俺の仕事だ。
「好きな犬はいるけどな。今も、これからも、ずっと」
最後にそう付け加え、玄関の戸を開けた。
その瞬間、凄まじい暴風が襲って来る。
雨と風がここまでの凶器になるとは知らなかった。
あらためて、申し訳ない気持ちになる。
人間、何事も経験だ。
俺は一瞬でズブ濡れになった身体に苦笑しながら戸を閉め、敢えて空を見上げる。
目に入ってくる雨で、視界は直ぐに滲む。
どうしようもない両親だったけど……あの時、空を見上げた父の気持ちがよくわかった。
今の俺の目に映る空の色は、あの頃とは違って見える。
でもあの時の父は、こんな色に見えていたに違いない。
だとしたら、繋がっていても不思議じゃない。
この空と、あの日の空が。
論理性と合理性が探偵の武器。
けれども、それくらいのファンタジーは見逃して貰おう。
「さて……」
行くとするか。
メロが助けを待っている。
それが例え、俺たち人間に都合の良いだけの解釈にすぎないとしても。
きっと、待っている。
「よーし、散歩行こっか! お外に行こう!」
「キャウッ! キャウッ!」
「ははっ、お前嬉しいとキャウって鳴くよな。そうだ、お前の名前キャウにしよう! どうだ?」
「キャウッ!」
「そっか! 気に入ったか! よしよし!」
「キャウッ!」
――――きっと。
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