人間にとって最も重要なのはァ!
最も必要とされて然るべきなのはなァァ!
最も欠かしてはならないものはさあァァァ!
最も注力すべき最優先課題でなければならないのゥはァァァァ――――
適度な食事と睡眠だと実感したばかりの狭間十色だ。
例によって食費に困っているのはいつもの事なんだが、問題は睡眠不足の方。
これが例えば、寝る間もないくらい依頼が舞い込んでいて……
『あーあー参ったよ、昨日は仕事で忙しくてさー、二時間しか寝てないよ。
二時間。困ったもんだよ。二時間しか寝てないからマジ身体ダリーよ二時間って
俺芸能人じゃないんだからさー。やってらんねーよ二時間。今日これからどうすっかな
二時間。もう二時間するしかねーなー二時間。わかったよ、二次会にも顔出すよ
二時間しか寝てないけど』
……などとボヤける状況なら、どれだけ睡魔に襲われようと構いはしないんだが、
生憎今の俺と仕事との間に因果関係は存在しない。
現在、時刻は午前七時十二分。
土曜の朝だけども、会社にも勤めてなければ学校にも通っていない俺にとっては無関係。
十月末、世間では『本日絶好のハロウィン日和』だなんだと言って
はしゃいでいるらしいけど無関係。
ハロウィンで各地域の娯楽施設や観光名所が潤っているみたいだけど一切合切
俺の経済活動とは縁もゆかりもないらしい。
テレビからは、連日報道している杭の欠陥工事によってマンションが傾いてしまった
事件についての新情報を伝える声が聞こえてくる。
世間の関心を集めている問題だけど、マンションなどという高級住棟とは
一切縁のない俺には関係のない話。
まるで社会から断絶したような錯覚を抱かずにはいられない。
探偵業ってのは孤独だ。
で、この平日だろうと休日だろうと一切変化のない【はざま探偵事務所】に
おいて、どうして所長であるところの俺が寝不足なのか、たった二時間しか
眠れなかったのかというと……
「おはようございます所長! ぶっ殺しに参りました!」
……別に助手が帰ってきた事とは、何の関係もない。
今まさに【はざま探偵事務所】への出勤を果たしたのは、胡桃沢水面という女の子。
助手だ。
色々あって一時休職していたけど、先日無事復帰を果たした。
この挨拶も、別に殺意の波動に目覚めたワケではなく、単にキャラ付け挨拶だ。
説明しよう。
キャラ付け挨拶とは記号化の一種で、要するに個性を印象づけるために
奇抜な言葉を挨拶そのもの、若しくは挨拶の直後に付け加えるというものだ。
頭に獣の耳を模したヘアバンドを装着している意外はごく普通の高校生女子である彼女、
その普通過ぎて個性がないところを妙に気にしているらしく、それで朝から
物騒なキャラ付け挨拶をしているのだ!
……なんか分析すると色々可愛そうな子になってしまった。
「それはともかく胡桃沢君、その耳は一体?」
「あの、殺人予告を『それはともかく』で片付けないでください、探偵さんなのに……」
「いや、それより耳……」
彼女が獣耳を付けているのは普段通り。
だけど、今までとは明らかに形状が違う。
「私、気付いたんです。この耳付きヘアバンドって、もしかして私の個性なんじゃないかって」
「違うと思うなあ」
「そこはお約束の流れで『今!? 今気付いたの!?』でいいじゃないですか!
無理に否定しないで下さい、もう!」
怒られてしまった。
なんというか……懐かしい空気だ。
ちょっとだけほっこりした。
「エホン! とにかく、私もうホッキョクギツネの耳にこだわるの、止めたんです。
色んな耳に挑戦しようかなって。日替わり耳助手・胡桃沢水面の誕生ですよ!」
語呂も悪いし意義も見出せない。
でも本人が楽しそうだから、敢えて口は挟まない事にした。
ちなみに、今彼女が付けている耳はダックスフントみたいな垂れ耳だ。
既に個性が死んでいる気もするが……まあいい。
「フフン。所長は気付いてなかったでしょうけど、実は伏線があったんですよ?
たまにこっそりホッキョクギツネの耳をオオカミの耳に変えてたんです」
そう息巻いて胸を張る胡桃沢君だったけど……実は俺、気付いてました。
たまにオオカミの耳だった事、しっかり気付いてました、ええ。
嘘だと思うなら過去の報告書を見直してみるがいい!
決して負け惜しみや後付けじゃないから!
「で、所長。寝不足みたいですけど、お仕事してたんですか? 目の下にクマ出来てますよ」
「いや……仕事じゃない。実は昨日の夜、妙な音がしてさ」
「……え?」
そう、それが寝不足の原因だ。
「いざ事務所のソファーで寝ようと目を瞑って暫くすると、いきなり破裂音というか爆発音というか、
そんな感じの音が聞こえてきたんだ」
「ば、爆発音? 随分物騒ですね」
「まだ寝入る前で意識がハッキリしてる段階だから、寝ぼけてた訳でもないと思うんだよな、多分」
確かにハッキリ、何かが爆発する音がした。
ただ、慌てて事務所を見渡しても、別に何かが爆発した形跡はなかったし、
外に出てみても火事が起きている様子はない。
悪戯の線も考えて、暫く事務所のあるビルの中および周囲を調べてみたけど、
結局何一つ爆発の原因になりそうな物や人は見つからなかった。
で、一度気になり出すと中々寝付けず、気付けば明け方……って訳だ。
「わかりました。私もこう見えて探偵の助手です。その原因を推理してみせます!」
「お、いいね。是非意見聞かせてよ。こういうの、当事者だと冷静に判断出来ないからさ」
俺の促しに含み笑いを浮かべた胡桃沢君は、垂れ耳を時折揺らしながら思案顔を
左右に振り、何かを思い付いたらしくパアッと笑顔を咲かせた。
「わかりました。所長の耳の中に何か虫らしき生き物が侵入して、鼓膜にいたずら――――」
「笑顔で言う事かそれが!」
「あおっ」
怯える犬のような悲鳴をあげる胡桃沢君。
でも本当に悲鳴をあげたいのはこっちの方だ。
「でも、ベッドで横になってると耳に何か入る事、偶にありますよね? 私もありますし。
その度に洗わないといけないのが面倒で……」
「君の言う耳はそっちの耳だろーが!」
ビシッと差した俺の人差し指の先には、洗濯されて良い匂いのする垂れ耳があった。
「……とはいえ、可能性はゼロじゃない所が怖い。もし寝てる最中、耳の中に
《名前を言ってはいけないあのクリーチャー》が入っていたら……」
「所長! おぞましい事言わないでください! 鳥肌立っちゃったじゃないですか!」
「君が言わせたんだろーが! そっちはヘアバンドの一部に虫が付くのを想像してたんだろうから
大したダメージもないだろうけど、こっちは生身の耳が大ピンチなんだよ!
仮に俺の鼓膜があの生き物に……」
「止めてーっ! それ以上言わないでーっ!」
その後、暫く誰も得しない《名前を言ってはいけないあのクリーチャー》談義が続き――――
「……あの、言い出しっぺの私が言うのもなんですけど、他の可能性を探りましょう」
「うん……そうして。今のところ耳の中に違和感とか異物感はないし……」
ようやく本線に戻る事が出来た。
「もしかして、外で実際に爆発があったんじゃないですか? 近所で火事があったとか……」
「流石にその可能性は最初の段階で考慮してるよ。朝一で調べてみたけど、
そういう事実はないみたい」
当然、近場に爆発音が頻繁にするような施設などもない。
それに主観ではあるけど、あの音は遠くから聞こえてくるような感じじゃなかった。
「なら、やっぱり夢か寝ぼけじゃないですか?」
「うーん……」
イマイチ納得出来なかったけど、その爆発音による支障は寝不足くらいしかないのが実情。
結局、胡桃沢君の意見に無理矢理納得し、この件については一旦忘れて、
探偵としての一日を始める事にした。
……なお、この日依頼は一件も来なかった。
翌日――――
「今度は悲鳴?」
日曜の朝。
世間的にはまったりとした時間が流れているみたいだけど、俺にとっては
ブルースクリーンが空一面を覆い尽くしているかのような、精神的にしんどい朝だった。
「うん……夜中になんか、悲鳴らしき音が聞こえて。あくまで悲鳴っぽいってだけで
実際にそうとは限らないんだけど」
「爆発音の翌日に悲鳴……ですか。更に物騒ですね」
真剣な顔でそう呟く胡桃沢君の頭には、やはり獣耳ヘアバンドが付いていた。
昨日と同じく垂れ耳だけど、昨日が全折れだったのに対し、今日のは半分くらい
折れてるタイプの耳だ。
それが『やれやれ』のポーズに見えて仕方ない。
「二日連続で寝不足となると、頭が中々回らなくてさ……胡桃沢君、昨日に
引き続き推理してくれない? 助手復帰のリハビリと思ってさ」
「わかりました。頑張ってみます」
そして昨日同様、思案顔でウンウンと唸り出す。
果たして今日はどんな結論を導き出すのか――――
「……所長。もしかして最近、幽霊とか見ました?」
「あれー、オカルト方面導いちゃったか」
仮にも論理で金を生む探偵の助手が、幽霊なんて……
とはいえ、二日連続で謎の声が聞こえてしまった以上、考慮すべき点ではある。
「そうです! 所長が聞いた悲鳴は幽霊の声だったんです! これで全ての説明が付きます!」
「爆発音は?」
「幽霊同士が戦ってるんですよ、きっと。だから今日は悲鳴が聞こえたんです。
そうです、このビル、実は幽霊の住処だったんですよ! だから以前ここで事務所開いていた
探偵さんは、所長に事務所を譲ったんですよ!」
なんか妙に整合性の取れたストーリーが展開され始めた。
「きっと地縛霊と新米幽霊の領地を賭けた戦いなんですよ。地縛霊はその昔、このビルで
商売していた人が失敗した挙げ句自ら命を絶って……」
「胡桃沢君……オカルト好きだったっけ?」
「人並みには」
人並みの基準がわからん……
「そもそもこのビル、築何年なんでしょうね。結構古いと思うんですけど」
【はざま探偵事務所】は、この『坂上ビル』の最上階である二階にある。
実は一時期四階に引っ越した事もあったんだけど、今は二階だ。
嘘だと思うなら報告書を読み直してみるといい。
一部、その引っ越しの原因となった事件に関しては報告書に漏れがあるかも
しれないが、事務所の住所は決して記入ミスじゃないから、そこんとこよろしく。
……とにかくそういう訳で、【はざま探偵事務所】は二階にある。
フロアの大半を占める、非常に広い部屋だ。
俺をこの世界に引きずり込んだ中年探偵は、自分の事務所を広大にすべく
壁をぶち抜いて、この二階の全ての部屋を繋げたらしい。
その影響か、はたまた単なる老朽化か、このビルの壁や床には至る所に
ヒビが入っている。
ま、ある程度築年数が経過したコンクリート表面にヒビが入るのは普通の事で、
それだけで崩壊の危機となるワケじゃないんだけどね。
「その壁をぶち抜いた時に白骨が出てきたとか……」
「そんな事実があったら今頃ここは閉鎖か取り壊しになってるんじゃないかな」
あくまで幽霊説をゴリ押ししてくる胡桃沢君。
それなら――――
「よし、ならここは本腰を入れて、幽霊かどうか本気で検証してみよう」
「え?」
「でもその前に、実際に幽霊がいるかどうかの検証が先だ。そこで胡桃沢君。
幽霊がいる確率ってどれくらいだと思う?」
特に意地悪をするつもりもない、軽い質問のつもりだったけど――――
「ゆ、幽霊がいる確率? そんな哲学的な……えっと、今まで地球上でお亡くなりになった
人間の数は……あ、人間以外の幽霊もいるから、生物全部だと……」
胡桃沢君は頭から黒煙を出しかねないほど熟考に入った。
「あの、ギブです。勘でよければ八七%くらいかなと」
「えらい高確率だな……やっぱりオカルト好きなんだね」
胡桃沢君の新たな嗜好がまた一つ明らかになった。
それはともかく、幽霊がいる確率は果たしてどれくらいなのかというと――――
「俺の見解では、一〇〇%」
「え!? 所長、オカルトマニアだったんですか!?」
「生憎、幽霊なんて信じちゃいないよ」
「……へ? だって一〇〇%なんでしょう? 異議あり! 矛盾です!」
ビシィ〜ッと目の前に人差し指を突きつけられた俺は、穏やかな顔で
その指を払いのけた。
「それじゃ胡桃沢君に聞こう。幽霊の定義は?」
「そ、それは……お亡くなりになった人の魂的な何かが非日常的なレボリューションで
こう『シュラーーーーーッ』みたいな気合いで粒子化した存在というか」
「……キャラ模索中なのは知ってるけど、電波系に転身するのは勘弁して」
「そ、そういうんじゃないですよ! とにかく、魂とかそういう感じじゃないかと!」
最終的にはベタな所に着地した。
流石胡桃沢君、一見異常そうでも普通な子だ。
「ま、人体の構造と全く同じ物を作っても動かないとか、魂の重さは21グラムとか、
色々言われてはいるけど……俺は魂については否定派かなあ」
「むー。じゃあ所長は幽霊って何だと思ってるんですか?」
「概念」
キッパリと断言した俺に対し、胡桃沢君は露骨に半眼となった。
「いきなりそういう難しい言葉使われても……」
「いや、難しい言葉じゃないでしょ。概念って普通に使われるし」
「でも、意味がイマイチわからないですもん。概念ってどういう事ですか?」
「そうだな……簡単な例をあげてみよう。この一〇本の指を見て」
俺は両の手をパーに広げ、胡桃沢君の前に突き出した。
「これ全部、指だよね」
「指ですね」
「じゃ、質問。この右手の親指と、左手の親指は同じ物?」
「……違う物です。違う親指」
「そう。でも同じ親指だよね。それが概念。更に言えば、この一〇本が全部指である
という認識も、概念」
「あの、ますますわかりません」
「つまり、これらの指は個々で見ると別の物でしょ? だけど、共通の性質が
存在するから、指というカテゴリーで総括される。その共通性質ってのは、例えば
『ツメがある』とか『長さが同じ、違う』とか『形が同じ』とか『手の部位である』とか
色々あるけど、それらによって“指”という一つの共通名を与えることが、概念なんだ」
ここまでかみ砕いて説明してみたけど、胡桃沢君はピンと来ているのかいないのか、
微妙な顔をしていた。
「ええと……つまり、更にかみ砕いて言うと、幽霊っていうのは色んなものの総称、って事」
「総称というと、地縛霊とか死霊とかの総称って事ですか?」
「いんや。身も蓋もない言い方すれば『見間違え』とか『寝ぼけ』とか『妄想』とかの総称」
「……えー」
幽霊肯定派の胡桃沢君は不満そうだった。
「ただし、この中には『生物が死後、実体を失って彷徨う姿』も含まれる。
勿論実証はされてないから、より性格には『生物が死後、実体を失って彷徨う姿を想像した物』
なんだけどね」
「……それって屁理屈じゃないですか?」
「人間の言葉なんて殆ど屁理屈だよ。そして幽霊って概念を人間が作ってる以上は
概念もまた屁理屈だ」
寝不足極まった俺は、自分でも何を言っているのか段々わからなくなっていた。
「そういうワケなんで、幽霊ってのは概念であり、表象。ただしそこには、“観測されていない何か”
も含まれているから、君の想像する幽霊が実在する可能性もあるワケだ。そしてそれを
否定することは、誰にも出来ない。存在しないと証明する理屈がないからね」
「だから一〇〇%って事ですか?」
「そ。概念は既にあって、そこに内包される性質が減る事は考え難いから。
例えば『猫を見間違えて幽霊かと思った』という目撃証言が一つあって、それが違うと
証明する事は出来るかもしれないけど、世界中の見間違いをいちいち証明出来る筈ないし、
する人もいないでしょ?」
「やっぱり屁理屈じゃないですか……」
「でも、それも一つの心理だよ。胡桃沢君」
幽霊は存在する。
でもその幽霊が、最も一般的に認知されている幽霊と一致するとは限らない。
ただし、幽霊が存在しない理由にはならない。
故に幽霊はやはり存在する。
以上、俺個人の回答だ。
それはともかくとして……
「それじゃ、所長が聞いた音は、幽霊の可能性もあるって事ですよね?」
「そういう事にはなるね」
確かになる――――けど、解決の糸口にはなり得ない。
そして解決しないのなら、幽霊か否かの検証は無意味だ。
結局、長々と生産性のない話をしてしまった。
「全く……」
俺はいつまで経ってもシャキッとしない頭を自ら軽く小突いたりした。
特段奇行とは思わなかったけど、胡桃沢君の目にはそうは映らなかったのか、
持論を唱えつつ机の上を整理していたその手を止めて、心配そうに近付いてくる。
「……やっぱり、所長自身に問題があるんじゃないですか?」
「流石に二日連続となると、強く否定は出来ないな。耳鼻科に行こうにも今日日曜だし……」
「探せば日曜でも診てくれる所、ありますよ。私、スマホで検索してみます」
「いや。いいんだ胡桃沢君」
俺は首を大げさに横へと振り、グーグル検索を始めようとした胡桃沢君を止めた。
「割増料金を払うくらいなら、平日になるまで我慢する。それが俺の生き様さ……」
「所長。その内容でカッコよく言われても私、感動出来ません」
呆れられてしまったが、ない袖は振れない。
状況を冷静に分析するならば、俺の耳に何らかの異常がある可能性が高いのは
認めざるを得ない。
とはいえ、寝不足なのを除けば日常生活に支障はないし、一ヶ月の食費を削ってまで
医者にかかる程の事でもない。
不安はあるけど、明日まで我慢しよう。
「……あの、所長。もしかして耳が原因なんじゃなくて、コレなんじゃないですか?」
「ん?」
窓から空を見上げ風を浴び、悲壮な決意を固めていた俺に、胡桃沢君が
妙に目を爛々とさせにじり寄ってきた。
「検索中に偶々見つけたんですけど……コレです」
「頭内爆発音症候群……?」
顔の真ん前に突き出されたスマホの画面に、その名称がデカデカと映っていた。
随分と物騒な名前のシンドロームだな。
その内容は――――
入眠時に頭の中で爆発音を聞いたり、閃光のようなものを見たりする現象。
音は爆発音の他、花火や銃声、人の悲鳴やうなり声、雷鳴などに例えられる事もある。
それらの音は殆どの場合、数秒で消えてしまう。
――――というもの。
入眠時幻聴や幻覚の一種か。
説明によると、かつては稀な病態とされていたけど、最近の調査で割と多くの、
それも若い世代が経験している症候群とのこと。
「確かに、一致するといえば一致する……かな。原因は?」
「基本的には不明です。特に病気が原因って訳じゃなくて、健康な人にも起こり得る
みたいですね。一説には脳神経の誤作動が原因で、疲労やストレスに起因すると提唱する
学者さんもいるそうです」
疲労やストレス……か。
心当たりがない訳じゃない。
肉体的疲労はともかく、精神的疲労はここ最近結構バカにならないくらい積もっている
ように思う。
「……なら、違うかな。ストレスも疲労も特にないし」
とはいえ、それを彼女の前で赤裸々に語る訳にはいかない。
彼女がここに戻ってくるまでに、どれだけの葛藤や逡巡があったかを思えば、
迂闊なストレスアピールは出来ない。
また自分を責めかねないからな、この子は。
「所長……」
「ないったらないの。わかったよ、明日耳鼻科に行くから。そこでハッキリさせよう」
実際に行かなくても、行ったフリをして『やっぱり鼓膜が調子悪かったみたいだ』
とでも言っておけば、胡桃沢君も納得するだろう。
案の定、シュンとしてしまった彼女の顔を眺めながら、俺はそう決意した。
――――そして翌日の朝。
「しょ、所長……?」
俺は度重なる寝不足によっていよいよ体調が悪くなってきた自分を隠す事が出来ず、
登校前に事務所へやって来た胡桃沢君に苦笑いを浮かべた。
ただし、今日の寝不足の原因は爆発音や悲鳴じゃない。
「脅迫電話……ですか?」
「うん」
全然働かない頭で、コクリと頷く。
始まりは昨日の深夜一時過ぎ、事務所の固定電話が鳴った時点に遡る。
幾ら二四時間依頼受付中の探偵事務所とはいえ、午前零時を過ぎてから鳴る電話は
正直かなり怖い。
ネズミ捕りに引っかかったネズミを始末する時のような、おっかなびっくりな所作で
受話器を取り、呼吸を整え耳に当てると――――
「『そこを出て行け。さもないと酷い目に遭うぞ』って低い声で。しかも男か女か微妙な
ラインの中性的な声だった」
「へ、へえ……そんな電話が夜中に」
「ああ。おかげで一睡も出来ちゃいない」
胡桃沢君の方から、生唾を飲む音が聞こえる。
要は三日連続で安眠を妨害された訳だ。
前夜までの寝不足も重なり、正直かなり辛い。
そしてこの三日間、仕事も一切入っていない為、いろんな意味で精神がズタズタだ。
「ま……またまた所長。復帰直後で本調子じゃない私を驚かせようとして。ダメですよ?
私、そんな嘘っこでビクビクするほど恐がりじゃないんですからね」
そう淡々と喋りつつ、胡桃沢君はソファーの影に隠れガクガク震えていた。
「ここまで言葉と行動が乖離すると、一種の芸だよね……それもキャラ付けの為の技術?」
「そんな訳ないじゃないですか! それより脅迫の話です! 嘘っこですよね? そうですよね?
私を驚かせて楽しむなんて悪趣味ですよ所長嘘っこだって言って〜」
仕舞いには泣き出してしまったが、事実は事実。
ただし、悪趣味な悪戯の可能性もある。
電話番号を公に晒している以上、それを否定する事は出来ないだろう。
他に考えられるのは――――恨みによる犯行。
とはいえ、他人に恨まれるほど繁盛もしてなければ大きな案件を扱っている訳でもない
この俺を脅して追い出したとして、何の得があるんだ……?
「所長……さては私がいない間に女性から恨みを買いました」
文脈をムチャクチャにしてまで断言された!
半額弁当が売り切れて里芋の煮付けだけしか買えなかった日くらいショックだ。
「だって所長、私がいない間に別の女性を事務所に連れ込んでたし……」
「人聞きの悪い事言いなさんな!」
「だって事実だもん!」
んぐ……確かに助手代理は募集したけれども。
まるで俺が女性関係にだらしない人物であるかのような風評被害は不本意極まりない。
「その件はともかくとして……これで幽霊の線は消えましたね」
「ま、『電話で脅してくる声』は流石に幽霊の定義には含まれないかな」
なら、一体何者の仕業なのか。
そして動機は何なのか。
俺は仕事は勿論、プライベートでも他人に恨みを買うような
大層な事をしでかした記憶など一切ない。
あるとすれば逆恨みくらいだ。
とはいえ人間、全く自覚のない所で他人を傷付けている可能性もなくはない訳で。
ああ、ダメだ……寝不足で考えがまとまらない。
現在、時刻は七時一七分。
また掛かってくる可能性は十分あるけど、出来れば暫く控えて貰いたいのが本音だ。
いつもの俺なら脅迫電話如きに怯えはしない。
寧ろ歓迎だ。
相手の分析を速やかに行い、その人物の興味を引くような会話をして
情報を引き出すことで、真相に迫れるからだ。
でも今の俺は、鬼のように寝不足。
もし同じ電話が掛かってきても、上手く対処出来る自信はない。
かといって、今から寝てしまうと、『これから直ぐに解決して欲しい事件があるんです!』
って依頼が日中舞い込んできた場合に対応出来なくなってしまう。
胡桃沢は学校があるから、電話番も頼めない。
そもそも、朝に寝て夕方起きるなんて事を繰り返していたら、
夜型探偵になってしまいかねない。
そんな闇稼業的な探偵、嫌だ。
よし、決めた。
「胡桃沢君。申し訳ないけど、学校終わったらウチ来て。今日は泊まっていってよ」
「…………」
あ、プルプル震え出した。
顔も真っ赤だ。
「だっ、ダメですよお泊まりなんて! 私達まだそんな仲じゃ! まだおてても繋いでないのに!」
「だーっ! そんなんちゃうわ! 次に脅迫電話が掛かってきた時、君に対処して貰いたいの!」
「……………………はい?」
今度はハトが九一式徹甲弾食らったような顔で、胡桃沢君はキョトンとしていた。
「だから、脅迫電話。今夜も掛かってくるかもしれないから、君が出て対応して。勿論、
ただ出るだけじゃなく出来る限り情報を引き出すんだ。可能なら犯人の割り出しまで」
「…………………………………………」
人間の感情が徐々に死んでいく様を目撃してしまった。
拒否反応が顔に出るタイプだからな……胡桃沢君。
「リハビリには丁度良いでしょ。仕事でもないし、責任も大きくはない。打って付けだと思うよ?」
「無理! 脅迫電話なんて掛けてくる人とやり合うなんて私には無理です! だって怖いもん!」
「ええい、助手なんだからそれくらいやれ!」
「あっ、命令口調! 私それ嫌いです! でもちょっとゾクッとしました!」
何気に性癖を語られましても……まだ迷走中なのかな。
「とにかく、私は――――」
で、夜。
「な、なんでこんな事に……」
はざま探偵事務所はこの日、俺以外にも人がいるというレアな真夜中を迎えていた。
俺は彼女が涙目で一八時頃にやって来た時点で爆睡。
六時間ほど眠った後、脅迫電話に備えて起床した。
まだ全然ここ数日分の睡眠時間を取り戻していないから、頭の冴えは五〇%程度。
それでも大分マシにはなった。
「あの、そういえば所長。爆発音と悲鳴はどうなったんですか?」
「ん。今のところ一回ずつしか聞こえてないね」
結局なんだったのか――――
《ジリリリリリリリリリリリリリリリリ》
「いやあああああああああああああああああああ!?」
そんな俺の思考、そして固定電話の呼び出し音を完璧に塗り潰す絶叫。
喉が潰れそうな勢いで、胡桃沢君は悲鳴をあげ頭を抱えていた。
「さあ出て胡桃沢君。俺は信じてるよ、君がこの【はざま探偵事務所】最大の危機を
救ってくれると」
「キリッとした顔でありもしない信頼を口にされても……うあーっもう!」
混乱しながら、それでも胡桃沢君は逡巡の果てに固定電話の前へと向かう。
彼女なりに――――この事務所を長期留守にした事を気に病んでいるのは知っていた。
復帰してから暫く経つけど、まだ何処か憂いを帯びた表情を時折見かけるから。
ここで一発、そんな気負いを吹き飛ばすような実績を作って欲しい――――
俺はその一心で、今回の件を彼女に一任する事にした。
「思い出すんだ胡桃沢君。君が初めてここに電話を掛けてきた時の事を。
その時の俺の対処法を思い出すんだ。俺との会話を」
「あの時の……会話……」
困惑の眼差しで、それでも胡桃沢君は覚悟を決めたらしく、受話器を手に取った。
――――三分後。
「……」
無念の死を遂げ成仏出来てなさそうな金魚の目をした胡桃沢君が、そこにはいた。
スピーカーホン機能を使わなかった為、俺には胡桃沢君の声しか聞こえなかったが、
明らかに旗色が悪そうだった。
録音はされている筈だから、それを聞いて検証してみるとしよう。
さて……
胡『もしもし、はざま探偵事務所です』
脅『……』
胡『どのようなご用件でしょうか』
脅『……』
胡『もしもし』
脅『そこを出て行け』
胡『へ、へあっ?』
脅『さもないと酷い目に遭うぞ』
胡『あ、あの、どういう事でしょうか。貴方は』
脅『そこを出て行け』
胡『貴方は誰なんですか? 失礼ですけど、名前を教えてください』
脅『……』
胡『わ、わかりました。名前は敢えて聞きません。敢えてです』
脅『……』
胡『貴方が誰であろうと構いません。でも、貴方が脅迫目的で掛けていないのは確かです』
脅『……』
胡『そうです。貴方はですね、一見脅迫のような電話を掛けてきていますけど』
脅『……』
胡『実はこれは脅迫じゃありません。な、何故かっていうとですね』
脅『……』
胡『「出て行け」とか「酷い目に遭うぞ」とか、いかにも脅迫っぽい事言ってますけど』
脅『……』
胡『言い方やシチュエーションを無視して考えれば、内容は寧ろ助言だからです』
脅『……』
胡『だって、そうじゃないですか。貴方が酷い目に遭わせるとは言っていませんし』
脅『……』
胡『例えば、このビルが実は欠陥工事で建てられてて、いつ傾いてもおかしくないとか』
脅『……』
胡『せめて目的を教えて下さい。貴方はどうして……』
脅『そこを出て行け。さもないと酷い目に遭うぞ』
胡『あ――――』
……ここで電話は切れた。
結局、脅迫電話の主から得られた新たな言葉は何もなく、胡桃沢君は
その事実に対して落ち込んでしまっているらしい。
彼女の言葉だけが聞こえている段階では『おっ』と思わせる内容だったけど、
残念ながら脅迫電話の主は乗ってこなかったみたいだ。
「すいません……私、頑張ったんですけど」
「謝る必要なんてないよ。着眼点、俺っぽかったし」
実は脅迫じゃない――――その可能性は俺も考慮した。
胡桃沢君の言う通り、脅迫らしきワードは使っていても、実際には
出て行かなければ危ないぞという警告文の体を成している。
「そ、そうですよね。目の付け所は悪くなかったですよね?」
「でも、惜しい。もう一歩踏み込めば真実に辿り付けたかも」
本当に、着眼点は良かった。
後は――――
「どうして、こんな電話を掛けてきたのか。その目的を聞くんじゃなく、
目的をこっちが適当にでっち上げて、さも見抜いたかのように言えば
更に俺っぽかったよ」
「あ……」
それで実際に向こうが食いついてくるとは限らない。
でも、その可能性は十分あった。
俺の分析が正しければ、の話だけど。
「所長、もしかして頭冴えてきました?」
「おかげさまで」
ここ三日間の間、夜間に聞こえてきた爆発音と悲鳴。
一〇月末から一一月の始めというこの時期。
そして――――今一つ意図の見えない、脅迫紛いの電話。
これらは多分、全て繋がっている。
どうやら俺の健康面は問題なかったらしい。
……診療代払わなくて良かった。
「あの電話はね、『幽霊』の仕業だったんだ」
「へ?」
「ただし、脅迫じゃない。助言とも言えないけどね……
取り敢えずお茶にしよう。お菓子も用意しとこうか」
俺は自分自身と【はざま探偵事務所】に訪れた小さな、でも決して無視出来ない
厄介事に対し、一つの回答を示した。
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