「一週間前……ですか?」

「そ。両親同士の挨拶も済ませて、式場も決めて、二次会の予定や演出プランも決めて、招待状も送り終えて……そんな時期に全キャンセル。他に女がいるって理由で」

 今時ドラマや映画でも採用しないような、余りにもステレオタイプな悲劇。
 それだけに、却って彼女の話には信憑性があった。

「そんなの許されるんですか?」

「許すも何も、向こうは『結婚できない』の一点張りで、こっちの連絡全部拒否。会おうとしても逃げるし。結局、結婚式当日には所在さえわからなくなって、御両親に泣いて謝られたなー。アレきつかった」

 随分とんでもない経験をあっけらかんと話すものだ……と言いたいところだけど、彼女にとってそれが過去の話ではないのは明らか。
 このツアーに参加した目的も、なんとなく理解出来てしまった。

「職場にも当然報告してたし、寿退社の予定だったから、居場所なくなって自己都合退職。その後は……ご想像通り」

 自死の選択。
 死ぬ準備を始めて、その過程でこのツアーを知ったんだろう。
 自分の死、死ぬという事がどういう現象で、どんなものなのかを確認しておく為に。

「……」

 最前列で寝ている筈のツアーコンダクターが、若干肩を揺らしている。
 完全に寝たフリして聞いてるな、アレ。

「でも、不思議。あれだけ死にたいって思って来たのに、たった二日でこんなにあっさり揺らぐものなんだね。今はなんか、そうでもないんだ」

 それはきっと、早川さんが本気で死と向き合ったからだろう。

 昨日、ホスピスで見かけた患者の殆どは、自分の死を受け入れて前向きに余生を過ごしている――――そんな人達じゃなかった。
 毎日襲ってくる死の恐怖に怯え、それでも生き続けなければならない絶望に直面し、ある人は気丈に振るまい、ある人は怯え、ある人は諦め、ある人は医師に縋ろうとしていた。

 死を間近に控えても、人間は十人十色。
 そんな情景が生々しく、今も心にへばりついている。 

 早川さんは、決して軽い気持ちや逃避だけで自死を検討していた訳じゃない。
 それでも思い留まるほど、昨日の俺達は死と生暖かく繋がっていた。
 きっと、『ああはなれない』『ああはなりたくない』の両方が彼女の中で渦巻いているに違いない。

 ……案外、このツアーは自死防止の役目を担っているのかもしれない。

「人間、気持ちを切り替えるのには非日常を体験するのが一番らしいですよ。そうする事で、囚われてたり凝り固まったりしていた頭の中が一度リセットされるとか」

 空気を軽くする為、努めて軽妙に話してみる。
 そんな俺のぎこちない機転を察してか、早川さんもまた重い雰囲気を取り除き、表情を柔らかいものにした。

「傷心旅行なんて特にそうだよね」

「……なんかすいません」

「冗談冗談。こういう事が言えるくらいには回復したって事」 

 気さくなのはいいけど、初対面の相手に対して彼女は人懐っこ過ぎるきらいがあるようだ。
 相談者の植松君とは対照的だ。

 でも、それはあくまで表現・出力の差異であって、きっと中身は近い。
 そんな気がした。

「なら、死にたいとはもう思っていないんですね?」

「うーん……まだわかんないけど、そっちに傾いてるかな? これからの事とか、不安だらけだけど……」

「良かったです」

 ……これから俺は、残酷な事をしようとしている。
 それでも躊躇なんてしない。

「なんかゴメンね。ミーティング断っておいて、こんな生々しい話しちゃって。結局、誰かに聞いて貰いたかっただけなのかも。出来れば誰にも話さないでね?」

「……」

「あ、やっぱり信用出来ない? 死ぬつもりとか言っておいて、手首に傷の一つもないんじゃ」

 どうやら俺の視線に気が付いたらしい。
 確かに今、俺は彼女の手首に目を向けていた。

「いえ、逆ですよ。手首に傷がないって事は、本気で死ぬ方法を模索していたんでしょう。実行しなくて幸いでした」

 確実に自死を遂げる方法は幾らでもある。
 その中にリストカットは含まれない。
 結果的に亡くなった人はいたとしても。 

「そちらこそ、俺みたいな素性のわからない子供の言う事は信用出来ないでしょう? 顔に書いてますよ」

「え、そんな事ないって」

「そこで提案です。俺の方も、『誰にも話さないで欲しい話』を今からします。お互い、秘密を共有し合えば信用度も上がる。どうですか?」

 微妙にナンパっぽくなってしまったけど、彼女とは大分年も離れているし、大丈夫だろう。

「そういう事なら、それでいいよー。どんな話? 恋愛相談はナシね。アドバイス出来る経歴じゃないし」

 幸い、そんな自虐交じりの冗談を添えて、早川さんは了承してくれた。
 なら――――

「自死を決意してから今日に至るまでの、心の動きを教えて頂けませんか? なるべく詳細に」

 躊躇も、遠慮もしない。
 彼女は今の俺にとって最高の情報源だから。
 探偵の職務を全うするだけだ。

「それ……何? 興味本位?」

 当然だけど、早川さんはムッとした様子で声のトーンを落とす。
 今の質問で、俺の心証は最悪になった事だろう。

 彼女に嫌われたからといって、今後の俺の人生に影響が出る訳じゃない。
 でも、だからといって『嫌われようと知ったこっちゃない』と思うのは余りに失礼だ。

 情報を貰う為には、最大限の敬意をもって接するべし。
 この場合の敬意とは、嘘をつかない事に尽きる。
 こっちの事情についても包み隠さず話そう。

「さっきも話しましたけど、俺の職業は探偵です。その依頼人の中に……」

 あの『死神求む』の書き込みを見てから今日まで、"その可能性"はずっと頭にあった。
 だから彼の手首をチェックしたりもした。
 その事は直接的な決め手とはならなかったが――――このツアーに参加した事で、その疑惑はより色濃くなった。

「他人、または自分を殺そうとしているかもしれない人物がいます」

「……え?」

 俺が今、検証しようとしている事。
 それは植松君の言う"死神"の正体が、彼自身の中に存在するという可能性だ。

 

 僕には死神が必要です。
 どうすれば死神と出会えますか?
 教えてください、探偵さん。

 

 植松君が投稿したこの簡易な文章を見た時、俺は率直に『金になるかもしれない』と思った。
 グッズコレクター云々はあくまで一例。
 理由の本質は――――彼が斜に構えた人物という印象を受けたからだ。

 死神という言葉の意味は、大抵の人が知っている。
 でも日常会話の中で当たり前に使われる言葉かというと、大いに疑問がある。
 それを、見知らぬ探偵に対して、しかもこんな質素な文章の中に盛り込むのは相当不自然だ。

 そういう少し捻くれた人物の方が、探偵に正式な依頼をしてくれる事が多い。
 探偵自体が捻くれた存在だから、親近感を抱きやすいのかもしれない。

 でもその期待は一瞬で潰えた。
 彼の捻くれ具合は、俺の期待とは全く質の異なるものだった。

「早川さん。一般の方が『探偵』と聞いて、連想するのは何ですか?」

「それは……推理小説とか、ドラマとか? 実在するのは知ってるけど、あんまり現実感がないっていうか……」

「ですよね。ミステリーものに出て来る探偵のイメージが強いと思います。つまり……事件と極めて関連性の深い職業」

 実際の探偵が、事件性の高い案件を手掛ける事は極めて少ない。
 でも世間はそういう実情を知らない。
 特に『浮気調査』や『素行調査』と縁の無い学生にとって、探偵とは『難事件を解決する人』だろう。

 そんな探偵に相談するだけなら、まだいい。
 幾ら促されたからといって、学生が事務所にまで一人で出向くのは……異例だ。

「『死神と会いたい』というのが単なる悪戯や、創作物の死神に対する憧憬であるならば、探偵に依頼するメリットがありません。場合によっては依頼料をとられてしまう。学生の彼には過ぎたリスクでしょう」

「そのリスクを冒してでも探偵に依頼したのには、何か特別な理由があるって事?」

「そうです。だとしたら、決して冗談半分じゃない。彼は本気で死神を欲していたんです」

 その動機として、考えられる可能性は三つある。

「まず考えられるのは、妄想の可能性」

 それも空想と同義のものじゃなく、症状としての『妄想』だ。

 彼は何らかの病に侵されているか、脳に作用する薬物を摂取した事により、妄想を抱くようになった。
 それは幻覚と言う事も出来る。
 死神の幻覚を見て、死神の存在を確信し、会いたいと願った。

「でも、妄想に基づく願望から本当に死神と会いたがっているのなら、彼の中には確固たる死神の姿がある筈。それはなかった」

 寧ろ、死神がどんな姿をしているか俺に聞いてきたくらいだ。
 妄想の線は薄いと言えるだろう。 

「だったら真相は何……? っていうか、それと私の心の動きと何の関係があるのか全然わからないんだけど」

「さっき言ったじゃないですか。他人、または自分を殺そうとしている可能性があるって。残りの二つがそれです」

「な、なにそれ。どう繋がるの?」

「彼にとって、死神とは一般的なイメージのそれじゃなく、『人を殺す事』を示唆する符合を意味するのかもしれません。だとしたら、『死神に会いたい』とは即ち――――自分の中に殺意を持ちたいという願望です」

 殺意を得る為に、または強化する為に、植松君は探偵に接触を試みた。
 それが俺の出した結論だ。

「ちょ、ちょっと待って。よくわかんない。なんで探偵に依頼するのが殺意を持つのと繋がるの?」

「貴女がこのツアーに参加した理由と、ほぼ同じですよ」

「……ますますわかんないんだけど」

「死の香りがする非日常。貴女はそれを体験する事で、死ぬ準備をしようとした。そうでしたよね?」

「そうだけど……あ」

 早川さんも、なんとなくピンと来たようだった。

 殺人事件を扱っている。
 常に死と向き合っている。
 不本意ながら、探偵にはそんな先入観が付きまとっている。

 だから植松君は、そんな『死に近い存在』である探偵に相談するという非日常に身を投じて、自らを死の色に染めようとした。
 死をより身近なものにして、実行に移す勇気を得る為に。
 日常を生きる通常モードから、死を選択する非日常モードへと心を切り替えようとしたんだ。

 不可解に思っていた事があった。

 わざわざ事務所までやって来たのに、彼は特に何も依頼する事なく、何の収穫もないまま去って行った。
 相談のみだから依頼料こそ発生しなかったけど、交通費は自分で出さないといけないし、時間だって無限じゃない。
 何かを得たかった筈だ。

 けれど植松君は、特に不満な様子もなく、実にあっさりと引き上げた。
 俺はそれを『失望したから』だと思っていたけど……何の事はない。
 探偵事務所に足を運ぶ事そのものが、彼の目的だったんだ。

 その時点で、もう死神と――――殺意と出会う算段がついていたのだから。

「早川さんと出会って、話を聞かせて貰った事で、依頼人の目的を確信しました。問題は……その死神の標的、殺意の矛先が他人なのか、それとも自分なのか」

 誰かを殺そうとしているのか、自ら死を選ぼうとしているのか。
 それは全くわからない。
 手がかりがない以上、推理さえ出来ない。

「そっか。やっとわかった。だから私の心の動きを知りたかったんだ。自死を決断する人の」

「はい。そして、それを取り止める方法を」

 あくまでも最悪の可能性だけど――――
 仮に、植松君が自死を選ぼうとしているのなら、俺にはそれを止めるチャンスがある。
 でも何の用意もしていなければ、それは勝機の薄い試みになるだろう。

 死に傾く精神状態を知り、そこから抜け出すまでのプロセスを理解し、ようやく説得力のある説得が出来る。
 それが、早川さんに失礼な質問をした理由の全容だ。

「でも、もし自死じゃなくて殺人が目的だったらどうするつもり? 殺人犯から話聞くの?」

「まさか。他人に殺意を覚えた事のある人間なんて、何処にでもいますよ」

 俺の近くにも、ね。

「……了解。それじゃ、ここまで仕事熱心な探偵さんに出会った記念に少しだけ協力してあげますか」

「ありがとうございます。それじゃ早速、フラれた直後の精神状態について聞かせて貰えたら」

「ホント遠慮ないね君。ま、いいけど……」

「ちゃんと人を見て頼んでいますよ。貴女はもう大丈夫です」

 不意打ちとも言える俺の言葉に、早川さんは暫くキョトンとしていた。 

「貴女はきっと、まだ本当の意味では立ち直っていない。でも大丈夫」

「な、何それ。探偵の勘ってやつ?」

「違いますよ。貴女はフラれた男性について具体的な情報を何も示さなかった。そういう配慮が出来る人だからこそ、きっとまだ傷は癒えていないのでしょう。そして、そんな貴女だから、そう遠くない未来に良い出会いがありますよ」

 俺としては、思った事をそのまま口にしただけだった。
 でも、早川さんは―――― 

「ゴメン。ちょっと長くて何言ってるかわからなくなっちゃった」

 SNS文化の弊害!
 世界全体が長文アレルギーか!

 くそぉ……生き辛い世の中だ。

「でも、ありがと。頼もしいよ、探偵さんにそういって貰えると」

「もういいですよ。早くさっきの質問に答えて下さい」

 俺の言動を拗ねていると見なしたのか、早川さんが妙に年上ぶった笑顔を見せているのが少し苛立たしかった。
 ま、仕方ない。
 探偵としても、男としてもまだまだって事だな。

「えっとね。フラれた当初は『どうして?』ばっかり頭の中を巡ってたかな。次に、フッた男をどうすれば不幸に出来るか考えて……それが一番長かったかも。私が死ねば罪悪感でズタズタになるかな、とか。はは、そんな繊細な奴だったら一週間前に結婚キャンセルしないよね」

 半ば愚痴混じりではあったけど、ようやく有益な情報にありつけそうだ。

「――――死ぬ方法を散々検索して、疲れ切って、今日はもう寝ようってベッドに転がると、親の事とか浮かんでくるんだよね。私が死んだ後、どんな思いをするんだろうって。学生の頃は友達結構いたから、お葬式には沢山来てくれるかな、とか。最近はそんな下らない事ばっかり考えてた気がする」

 早川さんは当時の心の動きを、赤裸々に、そして隅々まで語ってくれた。

 どういう心理状態で、人は死を選ぼうとするのか。
 どんなきっかけで、それが薄まるのか。
 暗がりで萎れた花のような彼女の言葉は、俺に希望の種子をくれた。

「でも、どうしてそんなに熱心なの? 話聞く限り、あんまりお金にはならなさそうだけど」

「でしょうね。多分、報酬は何もありません」

「だったら……」

「もし彼が思い留まって感謝の言葉を書き込んでくれたりしたら、次の依頼人の呼び水になるかもしれない。そういう先行投資も、探偵には必要なんですよ」

 打算と言えばそうなんだろう。
 俺はそれを、悪いとは思っていない。
 悪びれずに堂々と"生きる為に必要だから"と言える。

「ふーん」

 そんな俺の真意を知ってか知らずか――――早川さんはジト目と半笑いで俺の顔をじっと眺めていた。









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