ツアーから帰還して五日後の夕方。

「いよいよですね、所長。決戦の時です!」

 決戦……は大げさだけど、胡桃沢君の意気込みの通り、はざま探偵事務所にとって今日は勝負の一日になる。
 本日の予定は――――植松君の再訪、それだけだ。

 幸いにも彼への連絡は円滑に行う事ができ、もう一度事務所を訪れて欲しいという要望にも応えてくれた。
 今回は交通費も出すという、我ながら太っ腹な申し出が奏功した……のかもしれない。

「でも、探偵って面倒ですよね。『なんで死神に会いたいの?』って聞ければ、すぐ解決したかもしれないのに」

「可能性は低いと思うけどね」

 その質問に素直に答えるような人なら、親や教師に相談するだろう。
 そして、それが出来ない人達の為に、探偵なんて職業が存在する。
 俺はそう思う。

「でも、所長のそういうところが……って、そろそろ約束の時間ですね。お茶菓子用意しておきます」

 思わせぶりなところで言葉を止め、パタパタと忙しなく準備を始める胡桃沢君の小悪魔キャラ運動を無視し、俺は神経を研ぎ澄ます作業に没頭した。
 10代、そして何らかの形で死と関わろうとしている依頼人との接触は、爆発物処理班のような心境で臨まなければならない。
 言葉を一つ間違えば、彼を奈落の底へと突き落としてしまいかねないから。

 さて――――

「……植松です」

 インターホンのない旧態依然とした事務所に、ノックの音が響き渡る。
 一週間前と同じ表情、同じ声のトーンで、植松君はやって来た。

「今日はご足労頂きありがとうございます。お時間は取らせませんので」

 そして、ソファに腰掛けたばかりの彼に対し、返事も待たずに一冊のノートを差し出す。

「……これは?」

「貴方にとって大切な人、大事なこと、必要としているもの……それら全てをこのノートに書いて貰えないでしょうか」

 続けて、シャープペンシルをノートの上に置く。
 中学生には一番なじみ深い筆記用具だろう。

「そうすれば、貴方は死神に会う事が出来ます」

 淡々と、ここを強調するという意思は極力見せず、そう告げた。 

「……"殺したい相手"。……ではなく?」

「昔そういう映画があったけど、これは違います。『自分の人生を形成する大事なもの』を思い付く限り書いて下さい。書いた内容を私に見せる必要はありません」

「……」

 困惑しているのか、俺の腹を探っているのか。
 植松君はペンシルを手に取ったものの、そこから動かずノートの表紙を凝視している。
 特別でもなんでもない、近所のコンビニで購入した普通のノートを。

「死神に会いたいんですよね?」

 その俺の言葉が背中を押したのか――――程なくして植松君の手が動いた。
 俺に見えないよう左手でノートを持ち上げ、右手でペンを走らせていく。
 時折顔をしかめ、迷っている様子も垣間見えたけど、順調に筆は進み――――

「……全てを。……書き終えました」

 これで植松君は、自身の半生を一度振り返った状態になった。
 彼が何を思い、何を欲しているのか。
 今からそれを繙いていく。

「では、その中で一番必要性の薄いものを選んで、それを消して下さい」

「……消す?」

「はい。消し方はなんでも構いません。ノックボタンの所の消しゴムを使ってもいいですし、二重線やバツを重ねたり、黒く塗り潰して貰っても結構です」

 彼が書いたのは、彼にとって大切で必要なもの。
 その中から一番必要のないものを消す――――それは決して矛盾じゃない。
 単に、大切なものに序列を付けるだけの、極めて下劣な作業だ。

「……」

 植松君はノートを持ち上げたままの体勢で止まってしまった。
 ノートで隠れている為、彼の表情はうかがい知れない。

 ……けれど。

「僕が躊躇すると、そう思ってるんですね。探偵さん」

 想像するのはそう難しくなかった。
 これまでの低く抑えたトーンから一転、微かに上ずった声で、間を置かず矢継ぎ早に語り始める。
 でもそれは、俺が引きずり出したい感情とは違っていた。

「こんな事をさせるって事は僕の意図と目論みに気付いたんですね。さすが探偵を名乗るだけはありますよ。ククク……」
 
 ノートを応接用テーブルの上に置き、不気味に笑む。
 まるで舞台稽古を見ているかのような、情緒豊かな表情と言動。
 今までの植松君とはまるっきり別人だ。

「そうだよ。僕にとっての死神は、僕自身の中にいる。今は眠っていて会えないけどね。もう一人の僕と言っても差し支えない……人を殺す事に飢えた悪魔がもうすぐ目覚めるんだ! 大切な存在さえあっさり消し去れるような悪魔がな!」

 豹変した彼の発言内容は、俺が危惧していた可能性の一つを示唆するものだった。
 即ち、死神=他者への殺意だ。

「しょしょしょ所長! やっぱりこの方、危ない人だったんですよ! 別人格が生まれる前に警察に連絡を……!」

「落ち着いて胡桃沢君。大丈夫だから」

 既にその確信は得ている。
 俺は困惑する胡桃沢君を制したのち、禍々しく口を歪め笑う植松君と目を合わせ、薄く微笑んでみせた。

「貴方がどうして探偵に相談をしたのか。私はずっと、その事を考えていました」

 そんな俺に対し、植松君は歪めた顔をそのままに――――ふと目を逸らした。

「今の貴方の述懐を尊重して、誰かを殺したいという欲求を『死神に会いたい』という暗喩を用いて探偵に相談した、と仮定します。その場合、探偵を相談相手に選ぶ動機は何か。普通は寧ろ忌避しますよね。警察同様、殺人を止める立場の職業ですから。それでも敢えて選んだ理由として考えられるのは……『人を殺す方法を聞く為』でしょうか」

 探偵は殺人事件を扱っている。
 なら、人を殺す実用的な方法にも精通している。
 例えば『死神に会ってしまったら、どうやって自分を殺そうとするだろうか』などと話を振り、実際にあった殺人の手法を聞き出そうとした――――そんな仮説が成り立つ。

 探偵を利用し、標的を抹殺する"現代の死神"。
 彼がそんな存在なら、俺の手には余る程の危険人物だっただろう。

「でも、貴方はそんな質問は一切しなかった。それどころか、死神の姿を俺に問いかけて来た。それが引っかかっていたんです」

 あんな中二病的な話し方じゃ、胡桃沢君がそうだったように『ただその手の会話がしたかっただけ』と思われて相手にされなくても不思議じゃない。
 でも植松君は、敢えてそうした。
 それは何故か?

 俺はあらためて、植松君と向き合った。
 彼と早川さんの共通点。
 彼の――――優しさと。

「貴方は誰かを殺そうとしているんじゃない。貴方は、死のうとしている。そうですね?」

 俺の出した結論は、自死の方だった。

「……」

 返答はない。
 なら遠慮なく続けよう。

「もう命を絶つしかない。でも死ぬ勇気がない。だから貴方は、探偵に相談するという『非日常』に身を投じる事で、死ぬ勇気を得ようとした。自分が死のうとしているという暗示を潜ませる事で、自分の中で死へ向かう気持ちを盛り上げようと努力していた。『死について探偵に相談した』という事実を作って、自分自身を追い込もうとしていたんです」

「で、でも所長。それだったら一層『死神』なんて言葉使わなくても、死にたいって思ってるって相談すればよくないですか?」

 胡桃沢君にしては鋭い指摘。
 そう、そこが今回の胆だ。

「彼は、誰にも迷惑をかけないで死にたいと思っていたんだよ。例え見ず知らずの探偵にも」

「え? どういう事ですか?」

「『死にたい』という相談をしてきた人物が実際に死んだら、その探偵事務所には『どうして止められなかったのか』と批難が集中する。でも、『死神に会いたい』って相談なら、そうはならない」

「あ……」

 胡桃沢君は納得したようだけど――――死神の暗喩が『他者への殺意』の可能性を完全に否定するものではなかった。
 中二病的な話し方が演技じゃなく、実際にそういう趣味の人物だとしたら、その一環として『死神』という言葉を使いたかっただけ……という解釈も出来る。
 その場合、自死と他者への殺意、どちらも考えられる。

 例えば、こういうストーリー。

 

 ――――相談者の植松君は学校で苛められていて、そのいじめっ子を殺したいくらい憎んでいる。

 若しくは家で親から虐待を受けていて、親に強い殺意を抱いている。

 でも実際に殺す訳にはいかないから、いじめや虐待を抑止する方法として『殺す気で復讐しようとしている』と思わせたかった。
 
 多くの事件を手掛ける探偵という職に就く人物に殺人予告を匂わせる相談をすれば、『植松コウという人物が殺人を犯そうとしている』と警察や学校、相談者の家に警告の連絡をするだろう。

 探偵だから、依頼人の通う学校を特定するのは簡単。

 そうやって学校や家に連絡がいけば、いじめっ子や虐待者は『彼は本気だ。本当に殺されるかもしれない』と怯えるだろう――――

 

 これなら、探偵に相談する理由も明白だし、矛盾もない。
 回りくどくとも、効果的な方法には十分なり得る。

 でも俺は、植松君は他者ではなく自分を殺そうとしているのだと解釈した。
 理由は――――

『きっと、人の形をしていると思いますよ』

 俺が死神の姿の問いにそう答えた時、彼が全く動揺しなかったからだ。

 この答え自体、考えがあってのものじゃない。
 死神が人の形をしているのは、単純なパブリックイメージだし、それだけの事だった。

 でもこの返答は、『死神=殺意』が確定した現状では、何気に核心を突いている。
 それは偶然だったけど、もしあの時植松君が殺人を考えていたのなら、絶対に動揺した筈だ。
 見抜かれている、これはマズいと。

 動揺しなかったって事は、殺人じゃなく自死。
 自死なら、例え見抜かれてもそこまで心を乱されはしない。
 犯罪心理的観点からも、矛盾はない筈だ。
 
 とはいえ、もし事前に早川さんとの交流がなければ、違う結論に至っていただろう。
 
 俺は自死を考えている人の精神状態を、雁字搦めだと思っていた。
 視野が狭まり、柔軟な対応が出来ない状態で、自分で自分を追い詰め窮屈になっている――――そういうものだと勝手に思っていた。
 他人を気遣う余裕なんて一切ないと。

 だけど早川さんは違った。
 自死を考えた直後はそんな風だったけど、その後は原因となった男への復讐から親しい人物に迷惑を掛けるかもしれないという配慮まで、様々な思案と格闘していた。

 なら植松君にも、それはきっと当てはまる。

「今日だって、わざわざ来る必要は何処にもなかった筈です。断っても良かった筈なのに、どうして来てくれたんですか?」

「……来いって言われたから」

「それだけじゃないでしょう?」

 彼は優しい。
 優し過ぎる。

 その他人に配慮する優しさは、自死を考えている人物の否定材料とはならない。
 寧ろその優しさは、他人を殺そうと考える人物像の方を否定するものだ。

「もし私が貴方を心配しているのなら、『自分にそんな価値はない』と私に思わせよう……その為に来てくれたんですよね。だから、ディアノートに乗じて不審人物を演じた。違いますか?」

「……っ」

 図星だったらしい。
 そんなアフターケアまで考えていてくれたとは、正直驚きだ。
 とても中学生とは思えないけど、だからこそ背負い込み過ぎてパンクしてしまう性格なのかもしれない。

「植松さん。貴方がどういった理由で自死を考えるに至ったのか、今も実行する気でいるのか、それは問いません」

「え? それでいいんですか?」

 声で反応したのは当の本人じゃなく、胡桃沢君。
 植松君の方は、随分と疲れた顔で不安そうに俺を見ている。

「約束通り、死神に会わせてあげます」

 そんな彼の目の前にあるノートを取り上げ、一ページ目を開く。
『見せる必要はない』とは言ったけど、『見ない』とは言ってないから問題はなし。
 彼はそこに――――両親と思しき名前と、あと一人違う苗字の人物名を書いていた。

 それが誰なのかを聞く事も、推理する事もしない。
 探偵に必要なのは、そんな無意味な詮索じゃない。

「ここに書かれた人物。彼等が貴方にとっての死神です」

 植松君の依頼に、応える事。
 俺はたった今、その務めを果たした。

「……どうして?」

 言葉少なにそう問いかけてくる植松君は、より一層怯えの度合いが強くなったように見える。
 死の線を濃くしたその姿は、気の毒なほどに痛々しい。

 大丈夫。
 君はきっと、大丈夫だ。

「疑問に思うのは当然です。死神とは死を呼び込む悪魔のような存在だと思われていますから。でも植松さん、そうとは限らないそうですよ」

 探偵もそうであるように、死神も時代と共に色々な解釈が生まれている。
 例えば……

「貴方も言っていたように、死神は死を司る存在。それは決して怖いものじゃない。例えば、魂が迷ったり悪霊になったりしないよう、正しく天国へ案内してくれる……寧ろそれが正しい死神の解釈じゃないかと、私は思います」

 俺の言葉は、果たして彼に届いているのだろうか。
 いや、迷うな。
 今ここで、彼を――――植松コウという少年の手を掴めるのは、俺だけなんだ。

「貴方が大切だと思っている人達は、貴方が自死……自分を殺すのを決して許さないでしょう。貴方が、例え字面であっても消せなかったように、彼等もまた貴方が消えるのを良しとしない」

「それ、推理ですか? それとも探偵の勘ですか? どうして断言出来るんですか?」

 彼になりに思うところがあるんだろう。
 今までにない強い口調で問い詰めてくる。

「死神の姿を目で捉える事が出来る。貴方がそう答えたからです」

「……それは……」

「"深淵"なんて持ち出すまでもない。貴方が見ているように、貴方の大切に思う人達もまた、貴方を見返していますよ」  

 きっと、そう発言した当時の彼にそんなつもりはなかったんだろう。
 けれど彼の中にある『死にたい』という気持ちと、『死にたくない』という気持ちが互いに睨み合っているのは間違いない。

「植松さん。貴方が死ぬのを完全に止める事は誰にも出来ない。自死を遂行するのは、いつだって、誰にだって出来る事なんです」

「しょ、所長? そんな事言って大丈夫なんですか……?」

「でも、誰にも迷惑をかけず、誰にも心苦しくさせずに遂行するのは極めて困難です。本人がそう望まずとも、誰かが気に掛けているから。その点、厄介ですよ。人間関係は」

 割と問題発言をしている自覚はあったけど、構いはしない。
 彼に届けば、後はなんでもいい。

「もし今後、誰も自分の死を悲しまず迷惑も被らないという自己判断をする日が来たら、その時はまたここへ来て下さい。探偵の名誉に賭けて徹底調査しますし、偽りなく調査結果を提示します。でも、今の貴方は……」

 ――――届け。

「断言します。死ねません」

「……っ。う……うっ……」

 果たして、俺は職務を真っ当出来たのか。
 彼の手を握り、こちら側へ引き戻す事が出来たのか。
 それは今の段階ではわからないけど――――植松君は声を抑え、さめざめと泣いていた。









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