徐々に音が戻り、目の前に見慣れた駅前の広場と歩行者の姿が現れる。
そこは、現実。
紛れもない現実がそこにあった。
どうやら今日はここで終わりらしい。
「……はっ」
毎回、この瞬間だけは息が漏れる。
理由は様々だが、嘲笑の意味合いが一番強いかもしれないと、雪人は考えていた。
同時に、軽い目眩と疲労感が訪れるのも、いつもの事。
それでも気にせず、帰ろうかと思ったが、ちょうどすぐ近くに寂れたベンチがある。
既に新しい腰掛けの為の施設が幾つも設置されている中、その役目をほぼ終えた場所。
しかし今の雪人にとっては、ありがたい存在だ。
(少し休んでいこう)
ついでに夕食のメニューでも考えようかと思い、ベンチに向かう。
一人暮らしを始めて2年ちょいと言う時間は、高校生活とぴったり重なる。
ちなみに、自炊を始めて2年弱。
自然と料理は得意になったが、レシピはそう多くない。
所詮は素人だし、自分の分しか作らないし、予算的にかなり限られているので、致し方ないところだ。
趣味であれば話は別なのだろうが、生憎雪人は料理にそこまで興味を抱かなかった。
カバンを置いてベンチに座る。
さて、今日は何を作ろうか――――そんな思考で頭を浸し、時間を潰す事30分。
結局、カボチャの煮物とホウレン草のおひたしで考えが固まり、ついでに明日のメニューまで
決めたところで、丁度いい時間になった。
いい時間というのは、この時間にここを発ってスーパーに寄れば、ちょうど夕方のタイムサービスに
間に合う時間の事だ。
セコイなどと言うなかれ。
食費の削減は一人暮らしの人間にとって最重要課題だ。
そう意気込んで立ち上がり、一歩踏み出した――――刹那。
「あのー……すいません……」
……と言う、今にも消え入りそうな声と共に、何かが雪人の前に立つ。
女子生徒の制服を着用している。つまり女子生徒だ。
緑葉の学生服とは違っているので、他校の生徒のようだ。
「そこに、これくらいの箱、ありませんでしたでしょうか。これくらいの……」
そこまで述べ、女子生徒は黙る。
そして。
「えっ!? 誰っ!?」
いきなり誰何してきた。
全くもって意味不明な展開に、雪人は首を傾げざるを得ない。
厄介ごとの予兆のような、据えた匂いがした。
「……緑葉学園3年2組黒木雪人」
棒読み口調のその言葉を聞くと同時に、眼前の女子生徒は俊敏なバックステップで雪人から離れる。
それにより、雪人の視界に女子生徒の全身が納まった。
ダブルポニーの髪に、やや猫っぽい大きな目に涙を溜めて―――泣いている。
「驚いた。俺の真名には初対面の女子を泣かすくらい感動的な要素があったのか」
「……普通の名前じゃない」
普通にツッコまれ、雪人は凹む。
尚、この雪人の対応は、彼の精神状態がかなり揺らいでいる事を表している。
女性の涙に弱いのは、男性共通の弱点なのだ。
「って事は……大丈夫か? そうだな、眼科、いや脳外科か。案内しよう」
「頭に問題があるみたいに言うなっ!」
「いや、理由もなく泣かれれば、そう言う器官の異常を疑わざるを得ない」
「なっ……」
前方の女子生徒は急に赤面する。
自覚のない涙だったようだ。
「な、泣いてない! 私は泣いてなんかない!」
女子生徒は、何故か狼狽しながら暴れだした。
泣き顔を見られるのが嫌なのか、泣いていると言う事実を認めたくないのか――――
「あ、あんな事で泣く訳ないもの! 私は、私はっ」
「わかったから落ち着け。深呼吸でもしとけ」
「ふーっ、ふーっ……すー、はー」
言われた通りに深呼吸してる。素直な性格なのかもしれない。
「ふう……」
どうやら落ち着いたらしい。
その間に、雪人は何となくこの事態を自分なりに分析していた。
女子生徒が言っていた『あんな事』は、恐らくは一番最初の言葉に掛かる。
となると、泣いたのではなく、泣いていたが正解だったらしい。
「あなたねー、失礼じゃない? 普通、女の子が泣いてたら、狼狽えて慰めるでしょ」
落ち着いた途端プチ切れし出した。
尚、プチ切れというのは、軽〜く切れる事だ。
「……まあ、言葉の選択を誤った事は認める」
「あら、素直なのね。うん、素直なのは良い事だと思う」
胸を張ってそう答える。ちなみに威張れるほどの胸はない。
「今、人類の半分のそのまた半分くらいを敵に回す事考えなかった?」
「気のせいだろ。つーか、何を探してるんだ?」
「別に。探してません」
急に発言を180°変えて来た。
据えた匂いが、なにやらキナ臭くなる。
「……何よ」
やや幼さの残る顔が、怒の色を発光している。
追い詰められた小動物のそれに近い。
体型も含め、年下のような印象を雪人は受けていた。
尤も、その推測に答えを求める気はなかったが。
「んじゃ、俺はこれで」
タイムサービスと言う使命に向け、雪人は踵を返す。
世の中、いろんな人がいる。
そう考える事にした。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
しかし、女子生徒はそのエスケープを許さなかった。
「何? 言っとくが、泣かせた訳でもないみたいだし、慰謝料は出さないぞ」
「人を詐欺師か当て逃げみたいに言わないでよ! 取るかそんなの!」
その線が消えた事で、雪人は取り敢えず立ち止まる事にした。
「本当に取られると思ってたのね……」
脱力しつつ、女子高生は取り敢えず真顔を作る。
「ちょっと聞きたい事があるの」
「身元確認して、後でその筋の人を送り込む気か」
「当て逃げじゃないっつってんでしょ!?」
女子高生は2本の尻尾を逆立てて憤慨していた。
「……」
かと思うと、今度は値踏みするようにジロジロと雪人を眺める。
これは、いわゆる情緒不安定と言うやつか――――と雪人は呟こうとしたが、身の危険を感じ、止めた。
「何だよ」
「……あなた、私と何処かで会った事ある?」
突拍子もない事を言い出す。
「逆ナンは時と場所を選べ」
「ナンパなんてするかっ! バッカじゃないの!?」
冗談で言ったのにもかかわらず、物凄い剣幕で怒られたが、雪人は妙な満足感を得ていた。
活きが良いツッコミは、内容に拘らず気持ちの良いものだ。
「私はそーゆーライト系の話は大っ嫌いなの。冗談でも止めてくれる?」
ライト系と言う意味は、雪人は全くわからなかったが、これ以上話を長引かせる気もなかった。
「で、どうなの?」
「ない……と思う。少なくとも俺は記憶にない」
「そう……そうよね。あんたみたいな訳のわからない人、私も知り合った記憶ないし」
二人称が『あなた』から『あんた』へと変化していた。
「……」
しかし、言葉とは裏腹にイマイチ納得できないのか、或いは記憶の糸を強引に手繰り寄せているのか、
女子高生は思案顔で黙りこくっている。
コミュニケーションをとる気がないのなら、時間的余裕を考慮しても、雪人にこれ以上長居する
理由はない。
「じゃ、そろそろ俺は帰るから」
「あ、待って」
「まだ何かあるのか……」
雪人は多少冗長さを感じつつ、振り向く。
女子高生は少しだけ顔を紅潮させ、視線を落としていた。
「……ちょっと、言い過ぎたかも」
ボソッと呟く。
どうやら、これをいつ言おうかと悩んでいたらしい。
第一印象は決して良くはない。
しかし、それもこの一言でガラッと変わる。
人の認識なんていい加減なものだ――――そんな思いで、雪人は自然と苦笑を漏らしていた。
「私、湖窓霞。もう会う事もないと思うけど、一応」
湖と窓と霞で、『ミズウミ
マドカ』。
何となく、避暑地の別荘で佇む令嬢を想起させる名前だったが、性格は正反対だった。
無論、雪人はそれを言葉に出す事はなく、小さく頷く。
「ま、学校も違うみたいだしな。確かに会う事はないか」
仮に同じ学校だったとしても、廊下で偶然すれ違う程度だろう。
その時に軽く手を上げたり笑顔を見せたり――――それくらいのもの。
接点は、一日で消える。
「それじゃ、今度こそ。もう呼び止めないでくれな。時間がない」
「急いでたの?」
「まあな」
所帯じみた所を見せる気はなく、雪人は具体的な事は言わず、再度踵を返した。
「じゃーな、湖」
「うん、黒木くん」
お互い、最初で最後と思いつつ、相手の名称を敢えて口にし、この奇妙な出逢いに
終止符を打った――――つもりでいた。
今ひとつ出来に不満の残る夕食を終えた雪人は、一日の中で最もリラックスできる時間を
優雅に過ごしていた。
ベッド上で壁に寄り掛かりながら、グラスに注いだ栄養ドリンクを舌で転がす。
ちなみに、栄養面に問題を抱えている訳ではない。
単に好物なだけだ。
心無い昔の同居人には変態扱いされたが、この味――――甘みと酸味の絶妙なバランスを
単なる栄養補強剤としか捉えられないなんて、愚の骨頂だと雪人は考える。
(誰も俺を理解してくれないのかな……)
一応マイノリティは自覚しつつも、世の無常を嘆きつつ、テレビをつける。
適当にチャンネルを変え、見たり見なかったりの中級バラエティ番組で止めた。
時代に乗り遅れて、うだつの上がらないまま中堅となった芸人が、必死に番組を盛り上げている。
お笑いの中には、遅咲きの人材も確かにいる。
一発屋と呼ばれ、実際全く笑いに造詣のなかったタレントが、地方で力をつけ、
大物の下で芸を磨き、返り咲くと言う事例もある。
お笑いとて、センスが全てではない。
だが、今テレビに映っている芸人に、努力や反骨心の一端は見えない。無論、それ以上に
センスは全く感じない。
プツン――――という音と共に、テレビが消えた。
創意工夫の欠片もないバラエティ番組の台詞ほど、聞き苦しいものはない。犯罪と断言してもいい位だ。
もしその場にいれば、5人止めに入るまで殴り続けるところだと、雪人は一人で憤慨していた。
「はーあっ」
再びテレビをつける気にもなれず、飲み干したグラスを片付け、ベッドに寝転がる。
見慣れた天井をボケーッと眺めていると、なんとなく湖とか言う女性の事を思い出した。
第一印象的は性格悪い変なヤツだったが、いいヤツっぽくもある。
気性は荒そうだが。取り敢えず、いろんな意味でインパクトはあった。
そもそも、雪人には女性の知り合いが少ない。
そっち方面に興味がない訳ではないのだが、あの件もあり、イマイチ縁に恵まれない。
自分自身を平均以下の容姿と認識してはいないが、友人が必要以上に端正な顔立ちである為、
損をしている――――などと言って、自分を慰めている。
空しい男だった。
≪メエエエエエエエエエエ≫
陰鬱な気分を食べてくれるかのように、ヤギの鳴き声が部屋中に響いた。
メールの着信音だ。
音源は、パソコンで拾って落としたものだ。
テーブルに放っておいた携帯をノロノロと緩慢な動作で拾い上げ、メールボックスを覗く。
サブジェクトは『通告』とあった。
差出人は『YGGR』とある。雪人の記憶に、この名前の心当たりはない。
「怖えーな……」
思わず声に出てしまうが、恐れてても仕方がない。
嫌がらせの類という線は消えないが、雪人は意を決し、中身を確認する事にした。
『≪おたのしみ☆大学都市体験ツアー 〜ブルーバード・オデッセイ〜≫のご案内』
新手の迷惑メール。
それが、雪人の最初に抱いた感想だった。
だが、それにしては『大学』などと言う堅い言葉使っている。
不信感を抱きつつも、好奇心には勝てず、雪人はメールの中身を確認した。
『この度、私たちは画期的かつ建設的なツアーを発案しちゃいました〜。なんと、受験前に大学に入って、
大学生の生活を満喫してみようと言うとっても有意義な内容でーす! ハイ拍手〜!
詳しい内容が知りたい方にはパンフレットを郵送しちゃいます。
下記のメアドもしくは住所にパンフレット希望のメール、ハガキを送ってく〜ださい♪』
「……」
文体はいかにも迷惑メールのそれだ。
にも拘らず。
「大学体験……か」
その言葉の魔力に、雪人の好奇心は簡単に揺り動かされていた。
受験生を狙った悪徳商法、個人情報の窃取という可能性もあるが、それはおいおい調べれば
大体判明する。
いざとなれば法的処置でどうにかする事も、雪人には出来る。
なにより、面白そうだった。
雪人は決して楽天的な性格ではないが、一度興味を抱くとそれに固執してしまう悪癖がある。
この辺りが、周藤と違い、俗物的な心象を周囲に抱かれる理由だと自己分析していた。
後日。
メールの通り、A4サイズの封筒に入ったパンフレットが雪人の家に届いた。
「……で、進路は決まったのか?」
夏休み直前、金曜日の放課後。
雪人は大河内女史の呼び出しに応じ、再び進路指導室にて二人っきりの時間を過ごしていた。
「それがですね。ちょっと夏休みの期間を利用して行ってみたい所があるんです」
「ほう。高三の身空でのんきにバカンス計画とは……随分と爛れた精神構造をしている」
大河内女史の人差し指の爪がギラリと光る。
一部で『一刺し指』と呼ばれている、この指だけ長く伸ばした爪。
その理由は、生徒の間で様々な憶測を呼んでいたが、実際に知る者はいない。
「いややや、違いますよっ!」
凶悪なプレッシャーを感じ、雪人は首を何度も横に振る。
「つーか、仮にそんな企みがあってもわざわざ教師に話しません!」
「私は、君のその素直さを買っているんだがな」
「だから違うっちゅーに……」
頭を抱えると、大河内女子はクスリと笑顔を覗かせた。
雪人は、彼女の弄言は決して嫌ってはいない。
しかし、漏電するかのように労力を浪費してしまうのが難点だった。
「話を続けてくれ」
「それじゃ、取り敢えず…………これ見てくださいな」
先日届いた書類を取り出して、机に広げる。
「……」
大河内女史は終始無言だった。
「そんなに引かなくても」
「引いてなどいない。そうか、進学の考えはある、と言う事なんだな」
「まあ一応。でもまだ半信半疑な所があるんで、こう言うのを利用するのもアリかな、と」
名称は若干フザけているが、内容に目を通すと、意外と結構ちゃんとしたツアーである事がわかった。
後は、時間とコスト。
雪人はそのどちらも、消費に値すると決断した。
「成程。要は大学を実際に体験する為の団体旅行か。ふむ……こういった試みはありそうで中々ないな」
「まだプレ的な段階で、モニターも兼ねてと言う事なんで、費用は激安なんですよ。
じゃなきゃ到底無理なんですけどね」
雪人の補足を聞いているのか、いないのか――――大河内女史は真剣にパンフレットに目を通している。
大学体験ツアー。
大河内女史の言う通り、ありそうで余り聞いた事がないそのツアーの内容は、割とバカンス的な要素を
含んでいる。
本州から数十キロ離れた離島に作られた大学都市――――大学を中心とした造りの都市に
一ヶ月以上の期間住み込み、その大学に入学して。キャンパスライフを体験して貰おう、と言ったものだ。
単に大学で何をやるかと言うディスカッションだけでなく、大学生としての生活を実際に送れる
と言うのが特徴だ。
大学も実際にちゃんとした物を建設しており、全国各地から教授や助教授を呼んでいるとの事。
そして何より、一ヶ月という長期日程なのに、料金が異常に安い。
それが最大のポイントだ。
「このツアーの主催は……ほう、あそこか。それならまあ……しかし夏休み一杯か。長いな」
大河内女史の眉間に若干皺が寄る。安全面のチェックを入念に行っているようだ。
教師としては当然なのかも知れないが、その当然が当然ではなくなっている時代。
教師の資質を持った人間が教師をしていると言うのは、生徒にとって、或いは学校にとっても
最大の幸運だと言える。
「よし」
何かに区切りをつけるかのように、女史はそう呟いた。
そして、雪人の方に鋭い視線を送る。
その理知的な瞳を独占している事に、雪人は若干の高揚感を抱いた。
「君の場合、一人暮らしは問題ないにしても、用心には越した事はない。定期的に……そうだな、
毎週水曜と日曜の夜に私に電話かメールを入れる事。その条件を呑めるなら、まあ許可しよう」
「え、これ許可とかいるんですか?」
「本来なら、保護者にご同席願って話し合いたいくらいだ。しかし、君はそうもいかないからな」
大河内女史の声から、教師の色が消える。
それには、相応の理由があるのだが――――ここで語られる事は、ない。
「で、どうする?」
「わかりました。水曜と日曜ですね」
大した手間でもないので、二つ返事。
「それじゃ、すいませんけど進路は夏休み明けに決定するって事で。失礼します」
「ゆ……黒木」
教室を出ようとしたところで、大河内女子が呼び止める。
「最近、『頑張れ』という言葉がとみに反発を受けているが、教師として生徒に使う分には問題なかろう」
「……妙な前置きですねえ」
「うるさい。とにかくだな……頑張れ」
「はい、頑張りますよー」
できるだけローテンションに聞こえるよう、雪人は気だるげに答えた。
進路指導室を出ると同時に、自覚する。
(まだまだ、子供だな。俺は……)
ただ、それはこの時期だけの特権。
数年後は嫌でも社会と言う荒波に身一つで飛び込み、否応なく呑まれて行く。
それまでに出来る事。
それはやはり、己を知る事。
雪人は、自分を知りたがっていた。
あのような、妙な病気を抱える自分。
将来、何者かになる自分。
その鍵が、もしかしたら今年の夏にあるのかもしれない――――そんな期待感が、
徐々に内側から湧き出てくる。
なにはともあれ。
「言われた通り、頑張ってみるとしようか」
言葉にした盟約は、空を飛ぶ。
人生にとって最重要と言える分岐点の一歩手前にある、小さな島へ向けて。
U A the
World!
第1章 ”BlueBird
Syndrome”