バスを降りた雪人達の眼前に飛び込んできた新住居は、安アパートという言葉から
イメージできる建築物そのものだった。
材質自体は新しい筈なのに、所々汚れていたり、くすんでいたり、クモの巣が張っていたり――――
ここまでリアリティを追求する必要があるのかと問いたくなるくらい安っぽい建築様相を呈している。
雪人は何となく現実から目を背けたい心持になり、お隣さんに目を向けた。
「……」
視線の先にいる女性は、まだ正常に戻りきらない顔色で何処か遠くを見ている。
酔いを覚ます方法としては有名とまでは言えないが、それなりに効果があるとも言われている。
乗り物酔いと言うのは、自身の努力で克服できるものではない。
慣れによるある程度の緩和が出来るのも、軽度な人だけだ。
しかし、例えば病弱とか怪我持ちの人のように、同情を買う事は難しい。
ある意味、かなり不憫な性質だ。
「それでは皆さーん、ここからは最終確認となりますんで真面目に聞いてくださいねー」
そして、それを象徴するかのように、女性の体調など関係なく、説明は始まっていく。バスガイドの声だった。
どうやらツアーガイドも兼ねているらしい。
「部屋番号は、お手元にある名簿に書いてあります。鍵はポストの中にあるので、各自それを持って
お部屋の方へレッツゴーって事でお願いしまーす。部屋の中にはエアコンが付いてますから、
電気代を気にしつつご利用ください」
一人暮らしに掛かるコストと言うのは、電気代がかなり大きなウエイトを占める。
勿論、家賃と食費がそれ以上に大きいが、これらは大体想像出来る範囲内に抑えられるもの。
家賃は最初から提示されているし、食費は自分で毎日勘定できる。
しかし、電気代はそうは行かない。
何しろ一人暮らしを始める前から、電気代を気にして生活する子供なんてまずいない。
エアコンで供給される冷却された空気と言うのは、実はかなりお金を食うのだ。
冷蔵庫と同じ感覚で、24時間つけっ放しでも良いんじゃね? とか思っていると、
来月届く明細がえらい事になってしまう。
とは言え、これも自分で生活費を稼ぐ必要のある人間のみの悩みであって、親に出して貰っている間は
さほど深刻に考える事もない。
しかしながら、後者に該当する筈の雪人は、既に電気代についての悩みを理解しており、
思わず苦笑してしまう。
一人暮らしを始めたばかりの頃を、少し思い出していた。
「あと、あらかじめカタログで見繕っても貰った品は、明日の朝にでも配達されますんで、
本日は何もない所でぐーぐーおねむください」
更に思い出が巻き戻される。
――――初めて、一人暮らしを始めたあの日。
天井には、今時殆ど見かけないような、和風ペンダントの照明が見えていた。
剥き出しの蛍光灯の中央からは、スイッチとなっている糸のように細い紐がぶら下がっている。
そしてそれ以外、その部屋にはほぼ何もなかった。
そこから始まった生活は、数年の時を経て、何不自由なく生活できるまでに豊かな物資を誇る空間へと
変貌した。
部屋代は、自分の関与しない所から自動的に引き落とされている。
それでも、それくらいは赦されるだろうと思い、雪人は静かに目を瞑っていた。
拘りはない。
だから、目を瞑れる。
そう言い聞かせながら、同じ天井を見続けていた――――
「尚、私達ガイドが今後皆さんに声をかける事は、特殊なケースを除いてありません。
テメーの目と耳と足と頭を活用して、この一ヶ月を充実したものにしてください。
それじゃ、何かご質問があればどーぞ」
かなり乱雑な物言いの声が、拡声器によって引き伸ばされ、がなり散らすような勢いで雪人の耳に届く。
お陰で印象には残ったが、感謝する気にはなれなかった。
実際、雪人の周囲もその投げやりっぽい説明に戸惑いの色を隠せない様子で、ざわ……ざわ……している。
そして数拍後、文科系おっさん顔の男がスッと挙手した。
「あの、情報が余りに不足していると思われまする。大学の場所、始まる日にち、日程、etc.
地図やスケジュール表のようなものは供給されないのでしょうか?」
言語でエトセトラを使う人間を始めて目撃した雪人は、思わず口元を覆った。
「されません。指示待ち症候群では大学生はやってられないという事を思い知れって感じです。
あとエトセトラとか真顔で言われても困りますんで、ちゃんとして下さい」
「……」
ニコニコと子供のような笑顔を振りまきながら、ガイドはきっぱり言い放った。
オッサン顔の男はプライドを刺激されて額の辺りに憤慨マークを撒き散らしていたが、
周囲は寧ろガイドを支持しているらしく、中には何度も頷くものまでいる。雪人なのだが。
「でも、そうですねー……1つだけヒントを差し上げます。パソコンの置いてある公共施設に行って
大学のホームページをご覧ください。この島にある全てのパソコンのデスクトップに、その為の
ショートカットを用意してありますので、検索ブラウザで探す必要はありません」
意外と普通な救済措置に、オッサン顔も納得したのか、満足そうに首肯している。
エトセトラ発言の件は余り気にしていなかったらしく、自分の意見を無碍にされた事に
不満を抱いていたらしい。なんとも現代っ子な感じではあるが、心が広いとも言えた。
「他にご質問はありませんよね。それではここで解散とさせていただきまーす。じゃねー♪」
面倒臭くなったのか、明らかにこれ以上の質問はシャットアウトという速さで打ち切り、
ガイドはそそくさとバスに乗り込んだ。
「……あの人、ガイドには向いてないだろ。性格的に」
雪人の小さな呟きに、ほぼ全員が頷いた。
そんなこんなあって、いよいよ自由行動開始。
ここからが『おたのしみ☆大学都市体験ツアー 〜ブルーバード・オデッセイ〜』の本番だ。
雪人にとって、高校生活最後の夏休み全てとなけなしの貯金を投じた、挑戦とも言える期間。
ガイドの言葉通り、この一ヶ月を充実したものにしないと、割には合わない。
(部屋は……407号か)
アパートはRC造の5階建。規模的にはかなり小さい部類に入る。
ドアの数を見る限り、一階当り部屋は6つ。
404と言う部屋はないようだ。
ついでにエレベーターもない。
尤も、健康的な高校男子が4階まで階段で移動する事に問題がある筈もなく、
雪人は階段の傍にあるポストエリアへと向かった。
「……」
そこで、バスで隣になった女子と遭遇。
顔色はもう正常に戻っている。その女性は、は406と書かれたポストから鍵を取り出していた。
「アパートもお隣さんみたいですね。宜しく」
「……はい」
やたら愛想の無い返事だったが、悪気はないと判断し、雪人は。無口は会釈してその女性を見送った。
髪の毛はかなり長く、前髪は目に掛かるくらい、後ろ髪は背中を覆うくらいに伸ばしている。
荷物はかなり少ない。
無口で内向的な性格なのかと推測した時点で、雪人は自身の視線に犯罪予備軍的要素を見出し、
自分のポストの方に目を向けた。
『407』と記されたプレートのポストには、確かに鍵が入ってある。
それを取り、階段をゆっくり上って、4階へ。
そして、ドアを5つ素通りし、一番奥に到着。鍵を使い、中に入る。
入室して最初に見えたのは、玄関の右側にある白い靴箱。
とは言え、一人暮らしで靴箱を使う機会があるとは思えず、心中で苦笑する。
実際、靴は玄関口にそのまま置いておき、右にあるキッチンと左にあるユニットバスを一瞥した後、
奥の部屋へと向かった。
「……代わり映えしないな」
6畳の和室を見た最初の感想が、自然と口から漏れる。
ここにベッドを入れるとなると、スペースは2/3くらいになるだろう。
昨日まで雪人が生活していた空間と、全く変わらない面積だった。
違う点は、押入れが上下だけでなく、その上部にもう一つある事。
天袋と言う名称らしい――――と、雪人は以前周藤から聞いた言葉を思い返していた。
尤も、一月の生活では収納スペースの利は余りない。天からの恩恵は質素な物だった。
部屋の奥は窓になっており、そこからベランダへ出られる。
そのベランダには物干し竿が2本設置されていた。
景観は特に良くもなく悪くもなく、と言った感じで、幹線道路と用途不明の建築物と木と海がある、
と言う程度のもの。夜景が綺麗なホテルと同等の料金を払っていれば文句の一つでも言う所だが、
贅沢など言える筈もない。
「ふーぃ、と」
取り敢えず部屋の確認はこれで終わり。雪人は中へ戻り、荷物を降ろして一息入れた。
携帯を取り出して時間を見ると、もうすぐ17時。今から何かすると言うには微妙な時間だ。
≪メエエエエエエエエエエ≫
(ん、メールか……)
離島だが、しっかり電波は届くらしい。特に不安視していた訳ではなかったが、
若干の安堵を覚えつつ、新着メールを閲覧してみる。
題名はなし。送付して来たのは当然、湖だった。
『明日一緒に行動しない? 大学行くでしょ?』
絵文字もない、シンプル極まりない問い掛け。とは言え、メール代の節約になるので、悪印象はない。
断る理由もないので、雪人はちゃっちゃと返事を送った。
『快諾に感謝。待ち合わせ場所はどうする?』
雪人も湖も、この離島に関する地理は全く知らない。
だが、既にヒントは得ている。
適当に施設を探せば、そこに置いてあるパソコンで大学の場所を調べる事が出来るだろう。
雪人はその旨を記したメールを送った。
返答は2分後。かなり早い。
『じゃ大学の入り口で良い? もしかしたら住民の人とかちゃんと配置してるかもしれないし』
そのメールの内容には、雪人も賛同した。
このツアーのテーマは、兎に角リアルな大学生活。
その為には、隔離された離島という空間とは言え、ちゃんと住民がいて、例えば『大学は何処にあります?』
と聞けば、答える事が出来る人間が住んでいなくてはならないだろう。
パソコンに頼るまでもなく、それで十分目的地へ向かう勝算はある。
という訳で、雪人は了承のメールを送った。
『はいほー。じゃまた明日』
湖の奇妙な返事で、やり取りは終わった。
最初の方は文面に緊張と言うものが見えていたが、最後のは寧ろ緩和が見える。
湖と言う人間に、雪人は若干の好印象を覚えた。
それは兎も角、これで明日の予定は埋まった事になる。
後は、本日の残された時間をどう過ごすか。
夕食は何も用意していない。一ヶ月も生活するのだから、初日の食事だけ用意する必要性はなかった。
いずれにせよ、なるべく早い内に、近所の地理くらいは把握しておきたかったので、外に出る必要はある。
雪人は携帯を仕舞い、玄関へ移動――――
≪コンコン≫
した所で、ドアがノックされる音を聞いた。
若干の不気味さを感じつつも、努めて冷静に、扉の前の相手を想像する。
本命。ツアー関係者。
対抗。管理人。
大穴。隣人の女子。
「はい、開いてます」
予想を終えた所で投げかけた言葉に対し、来訪者は沈黙を守ったまま、何のリアクションも起こさない。
警戒心を強めつつドアを開けると、そこには――――大穴の姿があった。
「えっと……何でしょうか?」
「……これを」
怪訝な顔をすまいと必死で表情を作る雪人に、ずいっと差し出されたそれは――――
「……ざるそば?」
ちゃんと蒸籠に乗っていて、ツユ入りのプラスチック製おわんと共に、大きなお盆に乗っている。
さっき反応がなかったのは、これを両手で持っていた為だったのかもしれない。
「……席を代わって貰ったお礼です」
「あ、それでわざわざ。どうもありがとうございます」
あの程度の事――――少なくとも雪人にとっては瑣末な事だったが、それに対しても
しっかりしたお礼を持ってくる。
その行動理念がどうあれ、雪人は思わず感心した。今時珍しい行為だ。
「それじゃ、ありがたく頂戴します。容器は……」
「扉の前に置いていて下さい。では、失礼します」
雪人が蕎麦を受け取ると同時に、素っ気なくそう言って、直ぐに出て行った。
「引越しそば、なのか……?」
ドアの閉まる音と共に、雪人は思わず苦笑する。
色々とアンバランスな人間のようだ。
まだ名前も聞いてなかったが、この時点でかなり印象は変わった。
それどころか、これまで殆ど女性と縁のなかった雪人にとっては、かなりの高揚材料と言える。
ツアー参加の緊張も少なからずあり、余り深くは考えていなかったが、改めて現実を振り返ると、
今日一日で1人の女子のメアドをゲットし、1人の住所を知る事となった訳だ。
(だからと言って、何か期待出来るなんて事も、ないんだろうけどな……)
そばを和室のど真ん中に置いて、隣の部屋と繋がる壁を見る。
仮に、これ以降何ら進展がなくても、今日一日のやり取りで、隣人に恵まれないと言う問題は
完全にスポイルされた。これは、実はかなり大きい。
こう言う集合住宅では、隣の部屋の住人と摩擦が生じてトラブルになるケースが多い。
良好な関係を築くまでは至らずとも、ストレスを発生する理由がないのは大きい。
雪人は心中で苦笑しつつ、蕎麦を食べようと、箸を――――
「……ない」
思わず口に出してしまう、衝撃の事実。
蒸籠まで用意された本格蕎麦に、割り箸の一つも付いていない。
単に忘れたのか、日用品として用意済みと確信してのノンオプションなのか、判断に迷う所だ。
とは言え、流石に催促する気にもなれず、素手で食うのはアレだし、結局外に出る事になった。
目的地の候補を脳内で模索しながら歩いていると、僅か徒歩10分の位置にコンビニエンス・ストアを発見。
全国にチェーン展開する大手の店舗だ。
(本当にあるんだな……元々あったのか、ツアーの為に新設したのかは知らないけど)
驚嘆や呆れを抱きながら、来店。
「……」
店に入ると、その光景は新鮮と慣用が同居すると言う、実に訳のわからないものだった。
出入り口付近はスポーツ新聞とコミック文庫、コピー機。
入って直ぐの陳列棚には、日用品の数々。奥の方にはATMも見える。
向かい合わせの窓際には、週刊誌から18歳未満お断り系まで一通り揃った雑誌の面々。
手前から二列目の陳列棚には、菓子とインスタント食品がずらっと並び、奥にはジュース、酒などの
飲料商品を入れた冷蔵庫、アイスやカキ氷を積んだクーラーボックス、そしておにぎりやお弁当、
パンにお惣菜など食品を並べたいわゆる食品コーナー。
これら全ての品揃えは、全国各地に存在する同一資本の店舗のそれと全く同じだ。
無論、大小広狭の違いはあるし、客も雪人以外にはいない。
しかし、それは場所、時間帯によってもたらされる誤差であって、合同条件を否定するものではない。
「いらっしゃいませ」
当たり前だが、店員もいた。
仮に――――この店員も店舗も、ツアーのリアルさ、再現率を上げる為に、たかが数百人の参加者相手に
用意されたものだとしたら、その費用はとてつもない額になる。
集客数を考えると、到底クロなど出る筈もない。
つまり、その分の額をツアー主催者側が埋め合わせする事で、初めて成立する企画と言う事になる。
これはこのコンビニ店だけではなく、この離島に作った施設全てに言える事だろう。
一体、どれほどの金銭が動いているのか。
雪人には想像も出来なかった。
「すいません、割り箸一本頂けませんか?」
しかし、そんな途方もない思考に浸る一方、身体の方はしっかりお茶を一本選び、
レジで割り箸を受け取っている。自分のオートマティックな行動に心の中で苦笑しつつ、釣銭を待つ。
その間、レジの奥にある何かのキャンペーンの張り紙に目が行った。
それは、つい先日立ち寄ったコンビニで見かけた物と、全く同じ。
別の地にいる筈なのに、全く同じ空間にいるという違和感と親近感の交差が、胸を擽る。
これは、恐らく他県の大学に通う事になった学生が皆、最初の数日の間に感じるものだ。
「ありがとうございました」
店員の営業スマイルを背に、雪人はコンビニを後にする。
この日抱いた様々な感情の果ては――――視界に広がる紫色の空だった。
(……面白くなって来たかも)
擽られた胸が躍る。
一人暮らしなど、とうに慣れていた筈なのに――――雪人は今、開放感と浮遊感を覚えていた。