≪ドンドン! ドンドン!≫
大学体験ツアー初日の朝は、けたたましい音と共に訪れた。
「すいませええええん! 黒木さんいらっしゃいますかああああ! お届け物でええええす!」
≪ドンドン! ドンドン!≫
まるで信じていた債務者から留守電で『もう払わんぴー』と宣言された債権者のように、
何度もドアを叩く。叩く。叩きまくる。
そんな不快な刺激を聴覚に受け続け、雪人は起床を余儀なくされた。
そもそも、このドアをドンドン叩く音は非常に心臓に宜しくない。
何故ここまで人の神経を逆なでするのか。或いは、周波数的にその謎が解明できるかもしれないが、
雪人にそれを検証する事が出来るはずもない。
よって、すべき事は1つ。
「はーい! 今開けまーす!」
爽やかに宣言し、ノックを止めさせる事に成功。しかし、次の試練は10秒後にやってくる。
「おはようございまああああす!」
ノブの鍵を回してドアを開けると、屈強な男が朝っぱらから暑苦しい笑顔で立っていた。
その筋肉を誇示するかのような薄いタンクトップは、若干その内側を透けさせて、非常に
気持ちの悪い、気持ちの悪い事になってしまっている。
加えて、額に滲む汗が暑苦しさ倍増。眉の太さでさらに倍。
雪人は出来るだけ外見で人を判断しないようにと心がけてはいるが、
それは中々達成されそうもない。
取り敢えず、バーナーがあれば燃やしたいと思った。
「黒木さああああん! 黒木さんでいらっしゃいますねええええ!?
朝早くから失礼しまああああす! お荷物お届けに参りましたああああっ!」
筋肉を震わせながら、部屋も震える勢いで絶叫する。
日本は騒音に甘い国として、世界的にも有名らしい。実際に有名かどうかは兎も角、
大声で迷惑防止条例違反となる事は滅多にないくらい、寛容だ。
言葉遣いが丁寧な事が救いだったが、朝一にキレたベジータくらいの大声を目の前で
発せられる不快感は、如何ともし難いものがあり、雪人は内心で頭を抱えた。
「ご苦労様です」
それでも、礼儀として頭を下げる。
いかにも日本人的な対応だが、ここは日本。それで何ら問題はない。
「承りましたああああ! いよっしゃああああ! オメーらああああ、
とっとと持ってこいやああああああああっ!」
しかし、幾ら眼前の雪人が冷めた対応を見せても、運輸業に携わる男性には一切の妥協が見られない。
血管を千切りそうな勢いで、薄ら笑いを浮かべながら吼える。
「おらああああ! おらああああああああ!」
「ふんぬおおおおっ! ぶほおおおおっ!」
「ひぎいいいいっ! ぶるるるるるるっ!」
暑苦しい面々が、筋繊維を膨張させて冷蔵庫やら洗濯機やらの家電製品を運び込んで来る。
ナッパみたいなのが5〜6人いると考えて頂ければ、その絵が少しはおわかりになられるだろうか。
或いは、アームストロング少佐でもハート様でも構わない。脂肪の量とかは余り関係なく、
兎に角、圧が尋常ではない状況なのだ。
もしこの部屋の平均情報量を今すぐ演算したら、余りの無秩序ぶりに空間が損壊しかねない。
更には、体育会系特有のキラリと眩しい笑顔が不快感を著しく上昇させる。
尤も、これに関しては雪人の個人的な感性に因るものであって、引越し業者の方々に非はない。
「さあああ! もっとだああああ! もっと筋肉を躍動させろおおおお!
海だああああ! 心に大海原を感じるんだああああ!」
「ひゃああああああああ!」
何か祭りと勘違いしているのか、室内のテンションは更に上がる。
雪人は付き合いきれないので、一時外に出る事にした。
そして、昨日見つけたコンビニで雑誌を立ち読みする。
本来、本土では今日発売する筈の雑誌は置いていなかった。
雪人が手に取った雑誌は『猫フォト』。その名の通り、猫の写真集だ。
素人の猫が自然なポーズで誌上を飾っている。
今、必要なのは癒しだと思っての行動だった。
そして、30分後にメモ帳とペン、そして栄養ドリンクを購入して店を出る。
本日雪人が買った栄誉ドリンクは、最もメジャーな『リポビタンD』。
スタンダードだが、それ故に味わいは深い。
酸味と甘みのバランスが良く、舌への刺激も程よい。
これをストローでゆっくり味わうのが、雪人の数少ない至福の時だった。
部屋に戻った雪人を待っていたのは、全ての家具を運び終え、肩を叩き合って
その健闘を称え合っている。特に闘った訳でもないのだが。
「……ご苦労様です」
「がははははははは! 仕事ですからああああ!」
クッキー内のシナモン並に利かせたシニカルも全く味わって貰えず、豪快な大爆笑が室内に響く。
ちなみに、何故事前に届けておらず、敢えてツアー初日に運び込んだのかと言うと、言うまでもなく
リアリティ重視の為だった。
一人暮らしを始める際、今からそれを始めると自覚する瞬間は3度ある。
1つ目は、両親と別れた時。
2つ目は、誰もいない部屋で食事を取る時。
そして3つ目は、運び込まれた家電製品を、一人で配置する時だ。
この朝一での出来事は、それを自覚させる為の手段と言う事になる。
「黒木さんサインをおおおお! ここにサインをおおおお!」
遠路遥々メジャーリーグの球場を訪れ、日本人メジャーリーガーに求めるような
熱意の篭ったサイン要求に、雪人は首肯のみで応える。
手書きでフルネームを記し、嘆息1つ。
「……これでいいですか?」
「どうもありがとうございましたああああ! よっしゃオメーら次だ次いいいい!
気合だ気合だ気合だ気合だ気合抱き合い抱き合いだガハハハハ!」
配達員のタフガイ達は、アニマルを崇拝でもしているかような大笑いを見せる男を先頭に、
充満させた表情を漲らせ、階段を下りて行った。
彼らが本物の引越し業者なのか、それともプロレス研究会にアルバイトの募集でもしたのか、
それは定かではない。
ただ、少なくともリアリティと言う観点では、若干、いやかなり崩れた感は否めなかった。
「ふぅ……」
嘆息しつつ、視線を荷物の方に向ける。
折り畳み式ベッド一台。
洗濯機一台。
冷蔵庫一台。
本棚一つ。
ブラウン管テレビ(アナログ)一台。
ちゃぶ台一つ。
――――以上。
質素と言えば質素だが、一人暮らしを始める際の準備としては標準だ。
実際、雪人が実生活でそれを始める時は、この半分程度の物しか用意されなかった。
テレビが届いたのは半年後だった。
ただ、今回はこれら一式、全てで僅か3000円。
何しろレンタルなのだ。
余程金が余っている富豪を除き、たかだか一月の間に使う家電を、わざわざ購入する人間は
いないだろう。
当然ツアーを企画した会社もそれは予想しており、売れ残りやら中古やらを安価でかき集め、
レンタル品として利用した、と言う所だと推測される。
≪メエエエエエエエエエエ≫
そんな思考を巡らせつつ、荷物一式を配置し終えた雪人は、高らかに鳴く携帯を手に取り、
メールをチェックする。当然、湖からだった。
『荷物もう届いた? こっちはもう届いて今出発するところ。そっちも早く出なさいよ』
命令口調ではあるが、同時にお節介でもある。
姉御肌と言う言葉が雪人の頭を過ぎったが、その外見とは余り上手く結びつかない。
そして、また外見で先入観を抱いている自分に少し嫌悪感を覚えつつ、携帯を仕舞う。
「……」
その最中、ふと、視界に壁が入った。
思い描くのは、その壁を隔てた先に住んでいる女性の顔。
明らかに騒音は苦手そうな、繊細そうな顔。
まだ名前も知らないその女性に対し、『さっきは煩くてすいません』と声をかけるべきか、
雪人は若干悩んだ。
玄関前に置いておくよう言われている蒸籠は、綺麗に洗って台所に置いてある。
部屋を訪ねる口実にはなるが――――そこで、雪人はその件とは別の疑問を抱いた。
隣から、先程の業者の声や荷物の搬入の音が一切聞こえなかったと言う点だ。
その時点では雪人は眠っていた。しかし、隣であれだけの音量で騒げば、
自分はまず間違いなく起きるであろうと言う自己分析は十分に成り立つ。
しかし、実際はそうはならなかった。
これまでと違う環境で、思いのほか眠りが深かったのか、或いは荷物を殆ど搬入していないのか。
雪人の人並の好奇心をくすぐる材料としては、中々に良い香りを出している。
「すいません。隣の者です」
と言う訳で、決して邪な気持ちなどないと自分に言い聞かせつつ、隣の部屋のドアを
控えめにノックしてみたが――――返事はない。
物音もなく、人がいる気配もない事から、不在が濃厚だ。
雪人は仕方なく蒸籠を玄関前に置き、メモ帳を一枚破ってお礼を添え、アパート『コーポ松添』を出た。