交通情報などと言うものは何処にでも転がっている現代社会。
だが、道を聞くという行為が廃れる事はない。実際、一番迅速に答えを得られる方法だ。
これほど携帯電話が普及しているにも拘らず、公衆電話がなくならないのと同じで、
手段と言うものはどれ程本流が大きくても一律化はできないものだ。
と言う訳で、雪人は実行に移す。
「大学が何処にあるのか、簡易かつ綿密に教えてください」
話しかけたのは、近所のタバコ屋の親父だった。
「フッ……ただで教える訳にはいかないな。坊やは世間を泳ぐ上での基礎ってヤツを知らないようだ」
タバコ屋の親父は面倒臭い類の人間だった。
恐らく、コンビニに客を取られてやさぐれてしまったのだろう。
顎を引き、やたらニヒルを気取っている。
社会に出た以上、こう言う面倒臭い人ともある程度コミュニケーションをとる必要があるので、
雪人は乗る事にした。
「ギブ&テイクですか。では、このよくわからない銘柄のタバコを一箱頂きます」
要は一番安い、140円のタバコだった。
「ほう、良い目をしている」
御眼鏡にかなってしまった。
「良いだろう、一度しか言わないからよく聞け。ここを真っ直ぐ行って、二つ目の交差点を……」
ニヒルなタバコ屋の親父は親切にも地図まで書いてくれた。
その懇切に書かれた地図を見ながら、歩く事30分。
ようやく標識に『U.
de L'oiseau
Bleu』という文字を発見した。
「……青い鳥大学?」
ユニヴェルシテ・デ・ロワゾー・ブリュ。何故かフランス語だった。
雪人は何となくガッカリしつつ、改めて周囲の景色を見渡す。
ツアーや大学の名称こそ酷い物だったが、大学周辺の都市の再現率には目を見張るものがある。
大学に近くなるにつれて、飲食店が多くなっているし、歩道橋も完備。
案内標識もちゃんとした『普段道路で見かける青い標識』だった。
しかし、雪人は感動より疑問を覚える。
これだけ完全に一つの都市を造るには、一体どれだけの金と時間があれば出来るものなのか。
一般人には到底、想像もつかない世界だ。
「あ、考えてる人はっけーん」
思考を交えながら歩行していた所に、待ち合わせをしている人物の声がする。
振り返る前に携帯を取り出し、時間を確認した。
「目標クリア、か」
まだ昼前だった事に、今度はなんとなく満足感を覚え、笑顔で振り返る。
「何その顔。今時、太陽光発電システムの訪問販売でもそんな作り笑いしないよ?」
ごく自然な笑顔だったのに、酷い事を言われた。
「と言うか、何故そんなコアな分野に限定なんだ」
「別にー。何となく」
そう言い放ち、湖は笑う。
確かに自然な笑顔だと、雪人は納得した。
尤も、自分の笑顔など見た事がなく、比較する事は出来ないのだが――――
「それじゃ、まずはお昼メシにしますか。何処で食う?」
そんな事は思慮から外し、まずは本能を満たす事を主張する。
「そーね……学食ってやってるのかな」
学食。
それは、高校生にとっては未知の世界――――だったのも今は昔。
今の高校には学食など割と普通にある。
ただ、高校の学食と大学の学食とでは、レベルが違うと言う。
大学の学食は、東京ミッドタウン内のレストラン並にオシャレと言う噂を雪人は耳にしていた。
「見学も兼ねて行ってみるか。場所知っておいて損はないし」
湖に同意しつつ、期待に旨を膨らませ、移動再開。暫し並行すると、恙無く校門に到着した。
校門は、中学や高校のそれとなんら変わらないものだった。
その門の横壁には、先程の標識と同様に『U.
de L'oiseau Bleu』と刻まれている。
「何これ? 模様?」
湖はフランス語を文字と認識しなかった。
校門を通ると、眼前には道路が伸びていて、少し先の中央部に駐車場料金所のようなボックスが見える。
そこで、校内に出入りする車のチェックを行っているらしい。
左の方に目をやると、今度は警備員詰所のようなボックスが露見していた。その右の方には
駐車場が見えた。
「学校の中に道路があるって、なんか変な感じ」
「違和感あるよなあ」
駄弁りながらその道路を歩いて行くと、左側に四階建てのRC建築物が聳え立っていた。
どうやらこれが校舎らしい。
「……違うみたいよ。ほら、第一サークル会館って書いてる」
「人の思考を盗み見るな」
雪人が戒めつつ確認すると、確かにそう書いてあった。サークル活動の拠点のようだ。
「ねねね、サークル何入るサークル。って言うかどんなサークルあるんだろね。
なんか聞いた話だと夏はテニス、冬はスキーなんてのもあるんだって。
なんかすっごい楽しそう……って、ちょっと置いてかないでよ!」
主成分が合コンのサークル団体について熱く胸をときめかせている乙女を無視して先へ進むと、
いかにも『学校』と言った感じの四角い建物が両脇に散見された。
経済学部、教育学部、法学部……その学部一つだけで雪人が通う高校の校舎分はある。
まるで、学校のビル街のようで、雪人は余り良い印象は持てなかった。
「あ! ね、あれ見て、あっち」
それをかき消すように、湖が叫ぶ。
そこには――――
「すごーい! 噴水だよ噴水。うわー」
湖は目を輝かせ、公園のようになっている区域に飛んで行く。
その一方、雪人は全く別の方向に視線を送っていた。
そこには――――遺跡があった。
と言っても、住居跡や古墳などではない。
古代文明の爪痕がくっきりと刻まていると言う意味での、遺跡だった。
雪人はそれを目撃した瞬間、郷愁にも似た感情の振動を発生させ、思わず目を潤ませる。
「……まさか……再びこの目で見る事になるとはな……」
思わず驚嘆の声を漏らしてしまう。それくらいの衝撃だった。
感動に浸りつつ、改めて雪人は遺跡をまじまじと見やった。
膨大な紫外線を故意に顔面の内部に侵入させ、メラノサイトから作り出されたメラニン色素を増大させて
皮膚内沈着させる事によって産み出された、醜い焦茶色。
山奥で一人寂しく老いさらばえた姥のような、爆発した白髪。
橙色で染められた毛髪の一部。
数日間放置された死体を連想させる、白く塗られた目元と唇。
これら総てが、古代遺産を形成する要素であり、定義であり、証明である。
そう――――それは『ヤマンバ』。
もう絶滅した種族だ。
その希少性は相当な物で、既に映像として残っている資料もそう多くないくらいだ。
このヤマンバが東京で勢力を拡大していたのは、今から約10年前。
その後、マンバと何故か『ヤ』を抜いた名称に変え、少数民族としてごく一部の地域で
生き残っていたようだが、既に殆ど見かける事はなくなっている。
特徴としては、顔面を白と黒で染め上げたそのコントラストと、原色系のファッションを好む点。
基本的には、顔の造形を殆ど塗り潰す事で個性をなくし、一つの種族に溶け込む事で
欠点、欠陥を覆い尽くすと言う意図がある。
その為、意外と精神面は脆い。
独自の言語を作りたがるのも、現代社会の形骸化した理念への抵抗と言う名目で、
要は学習に対して覚えられない、ついて行けない事を誤魔化す為の後退的創作に過ぎない。
しかしながら、彼女達の存在は現代社会の心理学に一つの指標を提唱したとして、
その存在価値は今尚高いと言われている。
「あーなんか見てるだけで涼しー……って、あんた何ボーっとしてんの?」
「あれを見ろ」
雪人は感嘆しながら、彼女らの方を指差した。
湖はその方向に目をやり――――
「……で?」
不可解な顔で問い掛けてくる。
「お前……あれを見てなんとも思わないのか? 人類史上、かなりの歴史的価値を有した文化遺産が
今、目の前に再現されてるんだぞ。もっと感動しろよ」
「人類史上って……そこまで言う程のものじゃないでしょうに。それに、ああ言うマンバの人達、
今も結構いるらしいよ?」
「ええええええええええええっ!?」
雪人は数年振りに絶叫した。
「そ、そんなに驚く事? って言うか、あんたそんな大声出せるんだ」
「そんな事はどうでも良い! 冗談じゃなくて、本当にまだ生存してるのか? って言うか、何で?」
「何でって言われても……彼女達には彼女達のポリシーがあるんでしょ。ヤマンバがマンバに変わった辺り」
雪人は脊髄の辺りに痛みを覚えた。生命として、ダメージを受けたようだ。
「嘘だろ……あ、そうか。宗教か。宗教ならあり得る。アープだったか、ああ言うの」
アープ(ARP)というのは、最近世間を騒がせている宗教団体の名称だ。
その実態は良くわかっていないが、先日行われた衆議院選挙の際に多数の立候補者を立てた事で
知名度は高い。しかし、芸能界やスポーツ界に大きな影響を持つという訳でもなく、勧誘も大人しめなので、
そこまで大きく取り上げられる事もない。新鮮さだけが売りの新興宗教だ。
「あーゆーのとは、また違う種類って気がするけど……とにかく、あんまり人の格好を
とやかく言わない方がいいよ? 感じ悪いから」
「……そうか」
個性とかそう言う次元の話ではなかったが、湖の発言にも一理あると判断し、
雪人はこれ以上の言及を避けた。
崇拝の気分で文化遺産へ別れを告げ、湖お気に入りの噴水の方へ向かう。
目測10メートル四方の池の中に、鉢のような形の噴水口が幾つかあり、
そこから水が3〜5mほど噴き上がっている。中々煌びやかな光景だった。
「池の中の小銭を見ながら物欲しそうにしないの」
「勝手に貧乏キャラに仕立て上げようとするな。リアルだな、って思っただけだ」
視点そのものの指摘を否定出来ないのは――――この際気にせず、雪人は周りを見渡す。
噴水にばかり目を奪われがちだが、その周りの環境も中々美しい。
生い茂る緑は揚々と差し込める光を存分に浴び、葉緑体の中で二酸化炭素と水分から有機化合物を
合成し、そこにあるべき自然のメカニズムを表現している。
「あ、あそこに掲示板があるよ。行ってみよ」
対照的に、歪な球体を成すオブジェが均等に並ぶ様は、人が世界を捻じ曲げて形成した規律社会の縮図が
見て取れる。
どのような意図でこの空間を設計したか、雪人には知る術などないが、趣深い仕様になっていると
感心していた。
「……で、なんで俺は引きずられてるんだ」
「人の話聞かないからでしょ。ホラ、掲示板。色々書いてるからメモしとかないと」
だらしなく伸びた襟首を気にしつつ、掲示された情報に目をやる。
高校までと大学の最大の相違点は、担任の教師と言うものがいない点だろう。
学校の行事に関しては、高校までなら担任が知らせてくれる。
しかし大学の場合、教えてくれる人はいない。自分で掲示板を見て確認しなければならない。
同時に、その行事への参加も、自由意志によって判断する事となる。
出てもいいし、出なくてもいい。
仮に出なくても、怒られる事はない。ただし、それによって不利益が発生した場合、
誰もフォローしてくれない。困るのは自分だけ、と言う事になる。
そこに、大学の自由性が現れていると言っても過言ではないだろう。
雪人の視界には、『入学式のお知らせ』と表題に記した紙が映っていた。
会場は、学外にある多目的ホール。
日程は明後日の日付だった。
その他、掲示板には様々な今後の日程が張られている。
手引きや書類等の支給場所、合同オリエンテーションの案内など、これから必要となるメニューが
無機質な文字で掲載されていた。
その中にあって、異彩を放つ紙切れが一つ。
『目指せ夜の帝王! 歓楽街オススメスポットの案内』
「……ナニコレ」
湖が半眼で呟くが、雪人は回答は控えておいた。
「目指す?」
「そんな金銭的余裕はないし、あっても目指さない」
「それもそー……うげっ」
突如、湖がカエルの潰れたような声を上げて――――またしても雪人の襟首を掴む。
しかし今度は全速力で駆けようと試みていた。
「ぐえっ! な、なにすん……だ……!」
流石に窒息しそうになり、慌てて腕を掴み返す。
「いるのっ!」
「だからなにが……うげっ」
「船でしつこくされたナンパ野郎よっ! あんなのに絡まれたらまた面倒な事に……うあー、もー!」
動かない――――と言うか窒息状態で硬直気味の――――雪人を見切り、湖は一人で逃げ出した。
取り残された雪人はチアノーゼを癒しつつ、小さくなっていく後姿を眺める。
湖にとって、船上の変態執事は鬼門らしい。尤も、雪人にとっても似たようなものだったので、
遠巻きにその姿を確認したものの、声をかける気になど到底なれなかった。
(さて、これからどうするか)
当初の予定では、湖と共に学食へ行き、その後大学周囲を散歩する予定だった。
しかし、湖はもういない。
別に湖がいなくても、食事も散歩も出来るので、特に問題はないのだが、雪人はなんとなく
宙ぶらりんな感覚を抱いていた。
楽しみにしていた事がキャンセルされた――――と言う訳ではない。
何となく行動を共にしているものの、雪人にとって湖は現時点で『若干の緊張を覚える相手』だった。
やり取り上、そう言った感情は一切出していないが、何気にまだ出会って間もない女子に対して
あがっていたりするのだ。
特段、恋愛感情の類が生まれている訳ではないのだが、余り女子と接する機会がない為、
どうしてもフワフワしてしまい、地に足が着かない。
その為、一人になって寧ろ気は楽になっていた。
だが、どこか空虚な気分でもある。これまでに感じた事のない、未知の感情だった。
こう言った感情もまた、自己形成の過程の一つ。
初心な今だからこそ体験できるとも言える。
だからと言って、女性の帯同に慣れる日と言うのも、中々に想像出来ないのだが――――
「君、ちょっといいかね?」
掲示板の前で思考に耽っていた雪人は、年輪を重ねた男性のその声が自分に向けられている事に
気が付くのに、数拍を要した。
少しの間の後に振り向くと、声の印象よりやや若々しい中年の男性が立っている。
スーツ姿の似合う、ジャパニーズビジネスマンを絵に描いたようなその男性の顔に、見覚えは――――
ない。
どうやら、知り合いではないようだ。
「はい、何でしょう?」
「ふむ……」
その中年紳士は何を問うでもなく、値踏みするような視線だけを雪人へ向けていた。
ねちっこさのないその仕草に、人生経験の深さを垣間見る事ができる。
「実は、あそこにいる種類のわからない鳥にフンを落とされてね。困った事に、ハンカチもティッシュも
持ち合わせていない。済まないが、何か拭く物を持っていたら貸してくれないかね?」
そう宣う中年紳士の右肩には、確かに鳥特有の白黒混合のフンが汚らしく付いていた。
「は、はあ」
こう言った頼まれ事もまた、初体験だった。
紳士然としている妙齢の男性がハンケチーフを持っていない事には若干の違和感を覚えたが、
それを口に出す程子供と言うわけでもない。
雪人は財布と一緒にポケットに入れてある薄いハンカチを、慌てて手渡す。
「助かったよ。これから重要な会議があってね。このままだといい笑い者だ」
「いえ……会議という事は、この大学の教授の方ですか?」
「ふむ。まあそのようなものかな」
威厳すら漂う風貌を歪めながら、安物ハンカチで鳥のフンをふき取る中年紳士。
なんともアンバランスな風景だった。
「ところで……君はここをどう思うかね?」
「え?」
「この大学を、だよ。随分細部まで拘り、本物に近付けたようだ。大学だけでなくその周辺も全て。
大したものだ」
中年紳士は視線を一つの建築物に向ける。
無論、この建物群は全て、このツアーの為に用意されたものだろう。
今後定期的にこう言ったツアーを行うにしても、余りに巨大な出資。
だからこそ、透けて見える何かに対し、雪人は嘆息を禁じえなかった。
「そのようですね。全てがリアル……けれど」
「けれど?」
中年紳士の顔に好奇心が浮かぶ。
「だからこそ、虚像である事がくっきりと視えますね」
「ほう」
何故か満足げにする中年紳士は、その理由を聞いてこなかった。
ただ静かに微笑んで、上着から財布を取り出す。
「ハンカチ代だが、これで足りるかね?」
提示されたのは、日本で最も発行枚数の多い紙幣だった。
「多いです。2ランク下の紙幣でも釣りが来ます」
「ふむ……」
若干の間を置き、紙の色が変わる。
「正直者なのだな」
「不当な利益は忌避する主義なんで」
「成程。まだ若いようだが、社会の理を知っているようだ」
身なりも完全な紳士となったは中年男性は感心感心、と笑いながら紙幣を手渡し、
もう一度礼を言って軽く頭を垂れた。
「君ならば、或いは……いや、失敬。さて、そろそろ会議の時間だ。失礼するよ」
「ええ。では」
背を向けた紳士は、歩行する様もそのイメージを崩す事が無かった。
「渋い……実に渋いですな」
「うわっ!?」
その背中を視線で追っていた雪人の背後から、突然声が湧いて来る。
振り向くまでもなく、それが先程目撃した変態執事――――無量小路五月雨だと理解した。
「あれぞまさに紳士。見習いたいものですな」
「いきなり声を出すな。いきなり近づくな。いきなり生息するな」
「最後の言動には甚だ納得しかねますが、今後は留意致します故、ご容赦を」
それだけ言い、無量小路は去る。
「何で話し掛けてきたんだ……」
再び1人取り残された雪人は、顔面の右半分を右手で覆う。
到着2日目は、異常な疲労感の連続だった。