「何で昨日メールの返事寄越さなかったのよっ! このずぼらっ!」
7月27日(月)
曇り。
雪人は必要書類の提出や研究室、サークルなどの見学などと言った目的で、卒業式の次の日にも
大学へと足を運んでいた。
既に多くの参加者は、志望の学部・学科に 申し込みを行っているようだが、雪人はどの学科を専攻するか
まだ決めかねている。
そもそも、大学に行くかどうかすら確定していないので、専攻と言われても全くピンと来ない
と言うのが本音だった。
尤も、このツアーには明確に大学を目指している者もいれば、雪人のように進学するかどうかの判断材料を
このツアーに求めている者もいる。
その為、こうして学食でカレーを頬張りつつ苦悩している姿も、周囲から浮いてはいない。
ちなみに、その雪人の前の席でギャーギャー喚いている女子高生は明らかに浮いていた。
「ちょっと、聞いてんの!?」
「聞いてる。確かにカレーはスパイスが決め手だが、一食200円台のメニューにそこまでのこだわりを
求めるのは酷だ」
「キーッ! てないじゃない!」
湖は癇癪による歯軋りを台詞の一部に融合させると言う荒業で怒りを露にしていた。
「良い? 人の話を聞くってゆーのはね、社会人になる上で一番大切な……」
何やら語り始めたが、雪人は出会って間もない同級生に説教を受けるつもりもなく、再び聴覚を遮断。
取り敢えず必要書類をまとめる事にした。
この大学『U.
de L'oiseau
Bleu』には学部が8つある。
そのラインアップは、『教養』・『文』・『法』・『農』・『経済』・『理』・『医』・『工』。
見事にスタンダードな構成単位となっていた。
そして、更にこの中から専攻領域が絞られ、より細分化された学科が幾つも存在している。
その総数は、実に50以上。
ツアー参加者たる新入生は、その中からたった一つを選び、専攻する――――
かと言うと、実はそう言う訳ではない。
手引きの文面に、以下のような記述がある。
『本ツアーにおいて、参加者の皆様にはより多くの体験をして貰う為、専攻学部というスタイルは
設けておりません。学部学科の枠を超えて、時間割の中から興味のある講義を自分で探し、
その講義がある時間にその場所へ足を運んで講義を聞いてください』
つまり、学部学科に縛られず、自由に講義に参加して良いと言う訳だ。
高校までの授業と言うのは、基本自分達のクラスが存在し、そのクラス単位で時間割が決まっており、
クラス全員で同じ授業を同じ時間に受ける。
だが、大学にはそのようなクラス、組と言った枠が存在しないので、時間割は自分で決める必要がある。
ただし、必須科目と言うものも沢山存在していて、それらは受けないと進級出来ない。
中には班分けをして団体で取り組む実習等の講義もあるので、これらの必須科目は高校時代までの
授業と同じような感覚で受ける事になる。
一方、それ以外の時間は、基本自分で自由にセレクトする事になる。
進級、および卒業の為の単位が決まっているのは高校も大学も同じだが、大学の場合は
所謂『選択教科』の幅が非常に広い。
例えば、一年時に出来るだけ講義を沢山受けて、単位をゲットしておけば、三年時の後期には
殆ど大学に来なくて良いと言う状況も作れる。
最初の内に沢山講義を入れるのも自由。
最初は最低限に留めておくのも自由。
重要なのは、最終的に卒業に必要な単位数をしっかり取得する事。
その自己管理が、大学では問われる事になる。
このツアーにおけるフリーダムな処置は、この部分に慣れさせる為のものと言えるだろう。
ただし、教室や講師のキャパシティ等で問題が発生しないよう、事前にアンケートを取り、
人気のある学部学科、人気のある講義を予め調査しているのだ。
そのアンケートが必要書類の一つとなっており、本日中に申請・提出しなければならない。
雪人が現在頭を悩ませているのは、そのアンケートだった。
学部、学科の紹介や講義の内容、講師の詳細などは、昨日受け取った書類の一番分厚い本に書いてある。
その中から、自分が専攻したい学部学科を一つ、自分が聴きたい講義を五つ決め、それを書類に
記載しなくてはならない。
しかし、雪人は著名な講師と紹介されている講師の名前にすら全く覚えがない有様。
必然的に学部、学科、講義のタイトルのみの印象で決める事になる。
その為、昨日全てのタイトルに目を通してみたのだが、正直ピンと来ていないのが実状だった。
そもそも、本当にこれが大学の講義なのかと疑わしいタイトルも少なくない。
例えば、『マインドコントロール科学』、『職務質問の法則』、『合コン心理学』、『恋愛解析学』、
『クスリの歴史』、『秋葉原分析論』などは、バラエティの冴えないコーナーに使われそうな
しょーもないタイトルだったり、時節的に自重すべきタイトルだったりする。
逆に、『閉鎖空間におけるパーソナリティの移動』や『戦争と賭博』等と言う、中々興味をそそる
タイトルも散見されたが、せいぜい2、3程度。
残りが中々決められない。
「……のよ。わかった?」
「あい」
超適当な雪人の返事に、湖は満足そうに微笑んでいた。
「ところでさ、講義のアンケート決まった?」
「今まさに考え中」
「私もまだなんだよねー……学部とか学科とかまだピンと来ないし」
湖はタマゴのサンドイッチをはむ、と加えながら、眉尻を下げる。
ちなみに、学食のメニューにサンドイッチは無い。生協と言う施設で購入した物だ。
尚、雪人が巨大な期待をしていた学食だが、流石にその期待に満点で応えるほどオシャレでは
なかったが、価格はファミレスがぼったくりと思えるほどに安かった。
現在食しているカレーは、しっかり量があって250円。弁当の某全国チェーン店よりも断然安い。
「取り敢えず、タイトル見て面白そうなのにしようかなー、なんて思ってるんだけど……ダメかな?」
「人気投票みたいなものだし、それで良いんじゃないか」
雪人は敢えて自分もそうしているとは言わなかった。
「あはっ、そーよね。それじゃそうしよーっと」
満面の笑顔であっさり可決。
すいすいすい〜と言う擬音と共に、湖のペンが滑らかに進む。
こう言う素直な性格は彼女の長所なのだろうと、雪人は密かに好感度を加点させていた。
ちなみに、総合ポイントは本人にも良くわかっていない。
「俺も倣うか」
結局、キワモノのタイトルを適当にチョイスし、そそくさと封筒に入れる。
後は、これを事務局に持って行くだけ。
正式な時間割は三日後に配布され、その翌日から講義が始まるとの事だ。
その間は、施設、研究室、サークル、或いはこの島全体の見学に時間を費やす事になる。
「ね、ね、黒木くんはサークル入るの?」
デザート用に頼んだらしいプチパフェ(200円)を頬張りながらの湖の問いに対し、雪人は思案顔を作る。
効率を考えるなら、アルバイトが断然良い。
仮に進学する場合も、バイトする可能性が極めて高いのだから、練習に割り当てるならそっちだ。
増して、生活費の補填にもなる。
しかし、だからこそ、このツアーではサークルを体験しておきたいと言う気持ちもある。
「実は、バイトと悩んでる最中」
「バイト。あー、そっちもあるよねー。でもさ、掛け持ちでも良いし、取り敢えずどこか入んない?
私、いくつか見繕ってみたのよ」
湖は苺味のプチパフェをささっと平らげ、ブランド品とは程遠いトートバッグから紙の束を取り出した。
全部で40枚くらいある。
「これ、昨日貰ったサークルのビラなんだけど」
「多っ!」
雪人が受け取った倍以上の量だ。
それを全て貰い受けた湖も相当なものだが、何よりそこまで自主サークル希望が多い事に
雪人はただただ驚愕していた。
しかし、そんな事は一切意識の外と言った勢いで、湖は口角を上げたままビラを素早く選別していく。
「目ぼしいのにはチェック入れてんのよ。コレと、コレと……あとコレも」
「……オールラウンドばっかりだな」
オールラウンドサークル。
それは要するに、何でもやろうというサークルの事――――と言うのは名目上の定義で、
実際はその殆どの活動を『飲み』と『合コン』と『思い出作りと称した愚行』に費やすサークルの事だ。
潔く『飲みサー』を名乗っている方が、余程犯罪率は低い。
「だって、色々な事をやるんでしょ? 面白そうなんだもん。ね、海外旅行とか行くのかなあ?
スイスとか行ったりして! にゃはは」
湖嬢は夢見がちなお年頃だった。
爛々と輝く瞳が物悲しく映る。
「まだ決め手はいないけど、アルバイトの方が良さそうな気がしてきた」
「えーっ、それって何か色々損してるよ。お金にならなくても得られるものが一杯あるかもしれないのに」
「湖、今良い事言った」
雪人はカレーを平らげたスプーンで、尻尾を二つ垂らした頭を差す。
「え? そう? うはは、照れるねー」
「でも入らない」
「……」
コロコロ表情が変わる。
面白い奴だと認識し、再び雪人は加点した。
「さて、そろそろ出よう。これ事務局に届けたらバイト探さなきゃ」
「うっわ、出た一匹狼気取り! ふーんだ、勝手に探せば? せっかく人が誘ってるのに」
悪い方の女子高生が良く使うイントネーションで暴言を吐いて、湖はスタスタ行ってしまった。
尤も、フレーズの方はちっとも女子高生らしくなかったが。
「……気取ってるつもりはないんだけど」
雪人としては、生活費の確保は割と切実な問題だ。
とは言え、数少ない知り合いを怒らせたままと言うのも得策ではないので、
フォローのメールはしっかり送っておく事にした。
充電したばかりの携帯電話を弄り、華麗なる送信。
奮発して絵文字まで入れておいた。
(さて……)
トレイを片付け、雪人は改めて今後の方針について思案を始めた。
希望としては、ゼミと研究室の違いについてもよくわからないような現状の知識を、せめて平均的な
受験生レベルにまでは持って行きたいと言う目標がある。
それくらいの収穫が無ければ、参加した意義がない。
その為には、サークルなり研究室なりに所属すべきだろう。
と言う訳で、取り敢えず見学だけでもしておくべき、と言う結論に至った。
「それでよろしいでしょうか?」
「はい、結構ですよ」
滞りなく書類を提出し、疎らな人の流れに逆らって事務局を出る。
やる事が決まった後の外の風景は、若干だがクリアに見えた。
単に太陽光を遮る雲が風で流されただけかもしれないが、雪人にはそう思えた。
「ねねね、サークル見に行くっしょサークル! うは、マジ超楽しみ!」
「やっべ、オケサーとかマジやべーし。お前さー、マジでそこ入るん? マジかよ〜」
しかし、現代における標準的なカップルの仲睦まじい会話が聞こえて来た刹那、
再び世界が影に包まれた。
何しろマジマジ煩い。
ちなみに、現代の若年層全般が使うマジは『本気』と書くのではなく『蠱』と書く。覚えておこう。
そんな事を無理やり思慮の外に追いやり、雪人は今後の行動を再び模索した。
サークルに関しては再びモチベーションが大幅にダウンした事もあり、優先すべきは研究室だ。
そうなると、必然的に研究室、若しくはゼミの見学という事になる。
と言う訳で、雪人は早速先日入手した書類の中にある『研究室一覧表』を眺めてみた、
しかし、やはり今一つ要領を得ない。
研究テーマは難解な言葉の羅列で、高校生にとっては意味こそわかっても意義が理解出来ない。
解説も、懇切丁寧なのだろうが、噛み砕いていないので冗長なだけになっている。
それなりに優秀な成績こそ収めている雪人だが、学問に対する好奇心は然程高くなく、
これらの説明をインターネット等で調べてはっきり理解する気にはなれずにいた。
思わず考え込む。
「う〜ん」
その唸り声は、雪人のものではなかった。
直ぐ近くにある自販機の前で、中年と呼ぶには少々若い男が腕を組んで悩んでいる。
尤も、『悩んでいる』と言うのは、雪人がその声と体勢からそう推測しただけで、
外見上は悩んでいるようには見えない。
「ねえ、君」
ついジロジロ見ていた雪人の視線に気付いたのか、話し掛けてきた。
「あ、すいません」
「え、何で謝るんだい?」
視線の事を咎められた訳ではないらしく、雪人は気恥ずかしさから思わず口角を緩める。
それに対し、雪人の眼前の男性は最初から破顔していた。
人の良さそうで一癖ありそうでもあるその顔は、造形的な特徴こそ希薄だが、受ける印象は強い。
「それより、この飲み物を飲んだ事あるかい?」
「……へ?」
突如、質問。
男の指した飲み物は、自販機の最も右にある『スペクタクル』という栄養ドリンクだった。
栄養ドリンクフェチの雪人は、国内の栄養ドリンクの殆どを網羅しているのだが、
その雪人をして見覚えのない名前。
それに強い違和感と関心を覚え、雪人は思わず自販機に近付く。
「……ないですね。見た事もないです」
「だよねえ。僕もそうだからつい買いたくなっちゃったけど、妙に高いんだよ。どうしようかなあ」
「俺が買います」
断言。
そして、360円と言う高値の栄養ドリンクを躊躇なく買う。
一見、経済観念のない行動に見えるかもしれないが、これは雪人にとって極めて有意義なお金の使い方だった。
未知の栄養ドリンクとの遭遇に、胸が躍る。
「……」
そして、自販機からゴトリと言う擬音と共に吐き出されたドリンクを取り出し、そのビンを眺めた。
栄養ドリンクのビンはその成分上、遮光気密容器で保存しなくてはならない。
その為、大抵のメーカーは濃い茶色のビンを使用している。
しかしこの栄養ドリンクのビンは紫色だった。
ラベルには『心身に染みる増強剤! 肉体と精神の栄養補給』と記されている。
非常に怪しい。
「……精神に言及した栄養剤だと?」
「胡散臭い匂いがプンプンするねえ」
ニコニコとニヤニヤの中間くらいの笑顔を覗かせながら、中年手前の男性は他人事のように笑う。
しかし、雪人は不思議とその笑い声に不快感を覚える事はなかった。
自身の事を『割と短気』と分析していた雪人にとって、その感覚は意外なものであり、
自己の解釈を改める必要性を感じながら、首を傾げる。
「市販されてる物だから、大丈夫だとは思うんですけどね」
現代の社会においては、その論理は危機管理を著しく放棄した無謀な思想と言える。
常識的な思考を持つ人間なら、それを飲もうとはしないだろう。
実際、ラベルに記されている成分は、いずれも雪人の見た事がないものばかりだった。
「どうする? 飲むのかい?」
男性はまるで試すような物言いで、雪人に問う。
試す――――そう、まさにこの場面、雪人は試されていた。
審判は自分。
この行動は、自分自身の分析材料としては非常に大きなものとなる。
それは、無謀と堅実と言う大きな枠組みの分岐点ではない。
或いは、その分析も含め『試されている』。
「……止めておきます」
暫くの逡巡の後、雪人はそう決断した。
理由は無数にある。
しかし、それは全て後付けだった。
恐怖心すらも。
結局のところ、そう言う事なのだと、雪人は苦虫を噛み潰したように笑った。
「そうだね。それが良いよ。正直僕も、飲まれたらちょっと困ってたかもしれない」
まるで何ら抑揚のない声で、男性は話す。
そこから、感情は読み取れない。
言葉は比較的読みやすいものなのだが――――
「ところで君、ツアー参加者だよね。研究室の見学は済んだ?」
唐突にそう聞かれたので、一度組み立てた思案は分解し、雪人は新しいコミュニティを開いた。
まず、ツアー参加者であると言う読みは至極単純。
雪人くらいの年齢がこの場にいれば、誰でもそう思う。
何より、手にしている手引きが何よりの証だ。
次に、何故そんな事を聞いて来たのかを考える。
可能性の幅はそう多くない。
このツアーの関係者か、或いは大学の関係者か。
「いえ、まだです。イマイチ取っ掛かりがないと言うか、難しくて」
どちらであってもスムーズに会話が進むような言葉を選び、雪人はそれを発した。
男性の方は、その言葉に一つ頷き、苦笑する。
それも、どちらでも有り得そうな反応だった。
「もしよかったら、話でもどう? 少しくらいは力になれると思うよ」
「はあ」
生返事を見せた雪人に、苦笑の色を濃くしたその男性は『失礼』と小声で唱え、雪人の持っていた
研究室の案内を貸すよう要求する。
断る理由もなく、雪人がそれを渡すと、男性は目次に目を通し、そして一気にある一箇所を開いた。
この研究室案内には、研究室の名前と解説、そして――――教授の顔写真が掲載されている。
そして、男性が開いたページに印刷された写真と――――
「こう言う者なんで、ね」
雪人の眼前の顔が、綺麗に重なった。