『大友ゼミ』
ラブリーな丸字とカラフルな色彩で描かれたその表札は、大学と言う威厳に満ちた空間の雰囲気を
ものの見事に粉砕している。
「さ、どうぞ。入って入って」
「はあ」
一抹の不安を抱きつつ、雪人は開かれたドアを潜った。
「……」
初めて目の当たりにする研究室は――――狭かった。
実際には8〜10畳くらいの広さなのだろうが、入り口を除く壁際は全て机と本棚とソファーに
占拠されており、イスも妙に多い。
中央にあるテーブルには、溢れんばかりの本の山と、こちらも妙に多い灰皿。
床に散乱するゴミこそないが、エントロピーの高さはかなりのものと推測される。
机にはデスクトップ型パソコンが各一台設置されていて、本棚には分厚い本がズラリ。
何と言うか、全体的にいかにも大学の研究室と言った部屋だ。
「ま、座って。今コーヒーを入れるから」
大友教授は咥えタバコのままそう言って、隣の部屋へ移動した。
どうやらそっちが教授の部屋で、ここは研究生の部屋のようだ。
雪人は向こうも覗きたい衝動に駆られたが、流石にそれはに自粛しておく。
その代わりに、ソファーの座り心地を確かめてみた。
所々傷んではいるが、悪くはない。
「はいどうぞ。あとお茶菓子もあるから、遠慮なくつついてね」
「あ、どうもありがとうございます」
恐縮しつつ、テーブル上のマグカップを取り口に――――持って行こうとした寸前、止めた。
明らかに汚れている。
しかも、黒ずんでいるとか茶色だとかではなく、少し緑がかっていた。
「さて、まずは何から話そうかな……何か聞きたい事はあるかい?」
そんなマグカップの謎の付着物に恐怖する雪人に、いきなり投やりな質問が飛ぶ。
「えーと……そうですね、大学の研究室ってどう言う事をするところなのかな、と」
かなり膨らんだ不安はこの際置いておき、雪人は取り敢えず聞きたかった事を
素直に聞いてみる事にした。
それに対し、大友教授の反応は――――
「うーん、そうだねえ。一言で言うと、卒業研究だね」
そのまんまだった。
「え、それだけですか?」
「はっはっは。ただし、卒業研究と言っても実際には殆ど教授の使いっぱしりみたいな事ばかり
やらされるんだけどね」
「……何か、聞くんじゃなかったって脳神経がチクチク訴えるんですが」
「でも、実際そう言うものなんだよね。基本的には研究生=無料で雇える助手だから。そのパシリ日記を
体よくまとめたものが、卒論だと思えば良い」
雪人は、大学と言う機関に対して雨雲にも似た印象を抱き始めた。
真っ黒な不安。
進学するかどうかの判断材料としては、十分ありがたいものなのだが。
「と言っても、専門色の強い分野で将来そっちに進むとなれば、それだけで十分財産になるからね。
技術屋は特に企業と提携して研究を進めるから、就職活動的にも有利と言えなくもない。
色々な側面が見えるし、上手くすればそこで雇って貰えるかもしれない」
「成程……意義あるパシリですか」
「そう言う事だね。その中で何を学ぶかは、学生諸君の吸収力に委ねると。なにせ教授ってのは、一度に
幾つも仕事を抱えるもんだから、そうそう学生に構ってるような余裕はないんだよ」
無責任なようでいて、筋の通った話ではある。
自主性を養う事で、社会に通じる人間性を育むと言う事のようだ。
雪人の中に生まれた雨雲は、割とすんなり風に運ばれ消えていった。
「まあ、研究室と一括りで言っても、学校や教授の方針、分野によって活動や形態は全く異なるんだけどね。
毎日ゼミ――――発表や討論をやる所もあれば全くやらない所もあるし、9時出勤17時退社の所もあれば、
いつ来ていつ帰ってもOKって所もある。中には、一年中殆ど海の上で過ごすという所もあるよ」
「マグロ漁船状態ですか」
「そうそう。まかり間違って船酔いの酷い人がそこに配属されたに日には、刑務所以上の地獄を見るよ。
そう言う情報は事前に調べておかなくちゃいけない。と言っても、研究室紹介と言うのを何処の大学でも
ちゃんとやるから、その辺は問題ないかな」
「あの」
疑問に感じる点があったので、雪人はおずおずと手を上げる。一対一なので意味はないが。
「何だい?」
「研究室と言うのは、自分の希望する所に必ずしも配属される訳じゃないんですか?」
それは、かなり重要な問題だった。
仮に、もし希望以外の研究室に配属されようものなら、自分が目指したい、学びたい分野とは異なる
研究を強いられる事になるからだ。
しかし、現実は雪人が思っていた以上にシビアだった。
「人数制限があるからね。教授側としても、一度に何十人も研究生を抱える訳にはいかないから。
大体、研究室の配属は学生同士の話し合いで決めるんだけど、これがまた凄いんだよ。
人気のある研究室にはそれだけ人が集まるんだけど、中々譲らない学生が多くてね。
話し合いと言うより根競べになるんだ。それこそ、夜中まで決められない場合がある。
なにしろ、そこまで行ってリタイアすると、必然的に人気のない余った研究室に配属されるもんだから、
皆意地でも動かない。最終的には動機の粗探しに始まって、個人攻撃でどんどん追い込んで行って、
徐々に人数を減らしていくんだ」
雪人は、その脅しのような大友教授の言に、思わず眉間に皺を寄せた。
「それ、想像したくもないですね」
「タチ悪いよ〜。あれは是非体験して貰いたいね」
経験者は笑顔で斯く語りき。
「ま、ある意味それも社会勉強だよ。組織に属しようとするならは、いずれ似たような経験をするからね。
それじゃ、他に質問は?」
雪人は脳内に軽く検索をかけ、次の質問を捜した。
結果――――
「この大学の研究室でも、今の説明のような事をするんですか?」
相当印象に残っていたのか、割と前の話を引きずった質問になってしまった。
それでも、大友教授は特に表情を変えず、淡々と答える。
「流石にそのままって訳にはいかないねえ。期間が期間だから。配属に関しては、研究室に属さない人もいる分
余裕はあるし、さっき言ったような修羅場にはならないと思うよ。確か明日の午後から受け付けて、
明々後日にはもう決まってるんだったかな」
意外と早く決定するようだ。
無論、実際の大学もそうであるとは限らないが。
「ところで、先生は何を専攻してるんですか?」
或いは失礼かもと思ったが、雪人は教授本人の事を聞いてみた。実際に興味が湧いたからだ。
「僕は……そうだねえ。一言で言うと難しいけど、敢えて言うなら『自然科学』と『考古学』の狭間、かな?」
「狭間……?」
「どっちつかずなんだよ。色々つまみ食いしてる内に境界がぼやけてきてね……。一応『自然考古学』って
名前を付けてみたんだ。何となくカッコよくない?」
まんまだったので、雪人は返答に迷った。
「それらしくはありますが」
「だよね〜。でも中々浸透しないんだ、コレが。って言うか僕自身忘れちゃうしね。ははは」
渇いた笑い声に、思わず雪人はジト目を作る。
眼前の男性、ノリ軽し。
本当に教授なのかと言う疑問すら浮かんでくる。
「あ、ちなみに詳しい事は研究室紹介の手引に載ってるから、それを読んでくれれば
少し感じが掴めると思うよ」
「そうします」
雪人の返事に大友教授はウンウン、と頷き、再びコーヒーをすすった。
そんな所作も含め、実に教授らしくない。
尤も、雪人の勝手に抱いていた教授イメージとかけ離れているというだけで、実際には大学の教授と言う
職業に就いている者は、このような田舎在住のオッサン的な人物が多いのかもしれない。
研究内容にも拠るだろうが、堅物である必要は基本的にはない筈なのだ。
「ところで君、名前は何だっけ? 聞いてないよね」
「ええ。黒木雪人と申します」
誰何されたので、雪人は極単純に自己紹介した。
「……」
――――間。
「あの、何か?」
「いや、何でもない何でもない。黒木くん、か。どう? 少し僕に付き合わないかい?」
少し引っかかりを覚えたが、流れ的に断る事も出来ず、頷く。
「それじゃ、付いておいで。すぐだから」
そう言うや否や、大友教授はスッと立ち上がり、研究室を出た。
白衣を着ている訳でもなく、偉そうな感じも見えない、その背中。
色々と腑に落ちない点や不可解な部分もあるものの、わざわざ自分を招いてくれて、
親切に解説までしてくれた教授に対し、雪人は好意的な印象を抱いていた。
そして、付いて行く事3分。
校舎の外に出た教授が向かったのは――――その校舎の外壁についた鉄梯子の前だった。
どうやら目的地は屋上のようだ。
「それじゃ僕が先に登るから、僕が登り切ってから登っておいで」
雪人の返答も聞かず、猿のようにスルスルと登って行く。
あっという間に姿が見えなくなった。
「……野生児だ」
そう呟きつつも、待たせるのも悪いと思い、雪人は鉄梯子に手をかけた。
その次に足をかけ、一段、二段と上っていく。
現代っ子は、このような動作は余り日頃行わないので、尻込みしてもおかしくない。
しかし、雪人は特につっかえる事も無く、スルスルと屋上まで上り切った。
「……ふぅ」
屋上に足を乗せる瞬間だけ、少し緊張が走る。
それでも、上りきった瞬間には、それなりの達成感が待っていた。
「こっちこっちー」
しかし、雪人にはそれに浸る暇も与えられない。
大友教授は北側の縁に立って、手招きしていた。
「どうだい? いい景色だろう」
「……」
教授に近付こうと雪人が歩を進めると、その眼前には必然的に屋上から見下ろす風景が広がって行く。
そこには――――大学があった。
確かにそれは『大』学だった。大小様々な規模の学び舎が幾つも並んでいるかと思えば、
巨大な圃場やテニスコート、塔。更には武道館のような外観の建物まである。
窓から覘く室内は、それぞれ面白いほど違っていて、年齢も髪の色も服装も異なる人々が
それぞれ散見される。
所々に植えられている木々には、この島の原住民であろう鳥たちが留まっていて、
日常のメロディを風に乗せている。
その情景は、まるで一つの都市を見ているようだ。
「120〜160cm程度の視線の高さだけでは中々実感できないものも、こうして俯瞰で見ると
はっきりその全景がわかる。高等学校とはまるで違うだろう?」
「はい……全然、想像していたものとも違います」
無論、認識として『どの程度の規模の建築物がどこそこに設置されている』というのは、雪人の
頭の中にも入ってはいた。
しかし、こうして全てを一度に視界に納めてみると、それはまるで別次元の世界のようにすら思える。
大学と言うのは、こう言う所だったのか――――と、初めて雪人は朧げに理解した。
「君達がここの住人になるかどうか、この一月で全てが決まる訳じゃあない。でも、判断材料の一つとしては
十分過ぎるほどの役目を果たす筈だよ」
「……ですね」
雪人は頷きつつ、教授の隣に立つ。
その横顔は、やはりその辺に住んでいるただの中年男性のような、何の変哲もない顔である事には変わりない。
――――が、どこか大悟徹底した禅師のようにも見えた。
「あの、それを教える為に俺をこの場所に……?」
「いや、本命はあっち」
教授が指差した先は――――学校から大きく離れた、あらぬ方向だった。
「あの辺一帯が歓楽街。判断材料の一つとしては十分過ぎるほどの役目を果たす筈だよ」
「……」
『何の判断材料だよ』
『本当に歓楽街まで作ってたのかよ』
『ナゼそれが本命……?』
様々な言葉の石が、雪人の頭にガインガインと落ちてくる。
実際、ハンマーで殴られたかのように、雪人は頭を抱えた。
さっきの感動を返せと叫びたくもなった。
「もう一つ」
「……まだあるんですか」
心に弛緩剤を打ち込まれてフラフラな雪人を尻目に、教授は再び真面目な顔を作る。
「この大学の名前、知ってるかい?」
「ええ。青い鳥大学でしたよね」
なんともバカバカしい名前だったので、自然と雪人の記憶に残っていた。
「そう。メーテルリンクの『青い鳥』。チルチルとミチルと言う兄妹が、幸せを呼び込む青い鳥を探しに
世界中を旅して回り、結局見つけられずに家に帰ると、飼っていたハトが青い鳥になっていた、
と言うお話から、この大学生活を経て、それぞれの日常に還った時に、その中にある目的や夢を
見つけられるように……そう言う意図で名付けられたと言うのが、表向きの理由」
「……裏があるんですか?」
雪人は思いがけず、自分の表情が変わっていくのを感じた。
「このお話は、元々童話ではなく戯曲なんだ。そして、話はここでは終わらない」
そのままの顔で、続きを待つ。
「結局、その家にいた青い鳥も、何処かへ行ってしまうんだ。青い鳥は兄妹の元には
留まらなかった。これは、どう解釈するべきだと思うかい?」
「幸せは、ずっとそこにはない、って言う事でしょうか」
雪人の声は、風の音に負けるくらい、小さいものだった。
自信がないと言うよりは、違っている事を自覚しての発言だったのだ。
「そう言う解釈も十分成り立つよ。或いは、人間の強欲な部分を象徴しているとも取れる。
だけど、こう言う事も言えるんじゃないかな」
大友教授は、語調を全く変えず、少し間を置き、唱えた。
「その青い鳥は、追いかけて貰う為に彼等の元を去った。青い鳥と言うのは、幸せの流動性を
示唆した物語じゃないか、ってね」
「幸せは、逃げるもの――――それを追いかけるのが人間」
雪人の呟きに、大友教授は満足げに頷いた。
「青い鳥症候群、なんて言葉がある。理想を求める余り、職場を点々とする人の事を揶揄する言葉だ。
だけどもっと言えば、幸せを、夢を、希望を、目的を求めて流浪する人間は皆、その
青い鳥症候群なんだよね。つまり、学生は皆、青い鳥を探しているんだ」
大友教授の言葉に、雪人は沈黙を守った。
更に吸収したい、もっとこの人の言葉を聞きたいと言う欲が出て来たからだ。
「この大学体験ツアー『University・Anothercity』は、そんな青い鳥症候群の子供達の
為のツアー。そして、この『U. de L'oiseau
Bleu』と言う大学は、彼等を収容する
監獄のような物なんだよ」
「……物騒な話ですね」
「ま、これはただの例え話だから、鵜呑みにする事はない。君は君の答えを、このツアー中に
見つければ、それで良いんだよ」
風のように飄々と、大友教授は持論を締め括った。
このツアーは、青い鳥症候群の人間を集めるもの。
そして、この大学は、その人間を収容する監獄。
或いは――――鳥篭?
「さて、そろそろ下りようか。ここは高校と違って屋上進入禁止って事はないから、好きな時に上っていいよ」
教授は話を打ち切った。
まるで突き放すように。
「……はい、そうします」
雪人は、それ以上の事は聞けなかった。
それ以上の事を知る権利を、まだ持っていなかった。
『お金にならなくても得られるものが一杯あるかもしれないのに』
湖の言葉を思い出す。
確かにその通りだ――――そう雪人は心中で頷き、とある事を決心した。