7月29日(水)
 曇り。

 雪人の視界には、2日前と同じ扉があった。
 既に一度来ていた事もあり、躊躇せずにノックをし、扉を開ける。
「やあ、よく来たね」
 大友教授は、当たり前のように雪人を迎え入れた。
 明らかに、こうなる事を予測していた顔。
 自分が誘導されている事を自覚しながら、それに乗っかると言う感覚は、
 雪人にとって余り気持ちのいいものではない。
 それでも敢えてそうしたのは、その価値があると判断したからだ。
「短い間ですが、お世話になります」
「ははは、そう堅っ苦しくしないでも良いよ。こちらこそお世話になるかもしれないしね」
 結局――――雪人の下した結論は、研究室への所属だった。
 幸いにも、先日大友教授に脅されたような出来事はなく、すんなりとこの研究室への配属が決定。
 その後に行われたらしい『地獄の4時間21分』に関わる事はなかった。
 尚、幸いにも血こそ流れなかったが、高校生3人が号泣、2人が絶叫、1人が机をガンガン蹴りまくるような
 話し合いだったらしい。
 後にそれを聞いた雪人は、自身の幸運に安堵してた。
「いやあ、1人も来ないんじゃないかと思ってたんだけど、まさか4人も来るとはねえ。ありがたい事だよ」
「4人ですか。他の……」
「もうすぐ来るんじゃないかな。ま、取り敢えず座って待っててよ。全員来たら今後の事について色々話そう」
「はい」
 簡潔に返事して、一昨日座ったばかりのソファーに再び腰掛ける。
 研究生が来るからと言って特に補修された形跡はない。それは部屋全体にも言える事だった。
 せめてカップくらい新しい物にして欲しかった――――などと思いつつ、待つ事15分。
 控えめなノックの音が、室内にこだました。
「はーい。開いてますよー」
 大友教授が朗らかな声をあげる中、雪人は新たな同士の登場に少なからず緊張を覚えていた。
 何しろ、これから約一ヶ月、顔を合わせ続ける相手。
 ドアノブが回る中、思わず髪を整えようとしたが、間に合いそうにないので慌てて手を下げるその滑稽な姿を
 攻められる男はいまい。
 そして、その姿が現れる。
「失礼します」
 女性だった。
 かなり小顔だが、身長は160cm程度。
 少しフワッとしたミディアムの長さの髪は、美容師が着合い入れて作ったように洗礼されている。
 眉もしっかり整っており、唇にはピンク系の口紅にベージュのグロスを合わせている。
 化粧でかなり彩った顔だったが――――雪人はその造形に見覚えがあった。
「……え?」
 思わず、雪人の口から間の抜けた声が漏れる。
 その女性は、雪人の一つ下の従妹だった。
「結衣ちゃん?」
「!」
 思わず、昔の呼び方でその名を呼ぶ。 
 刹那――――景色が突如、色褪せた。
 周囲の声や鳥の囀りも消え失せ――――代わりに、見た事のある景色が朧げに描写されていく。


 ――――突発性フラッシュバック症候群


(まさか……)
 その症状が現れた刹那、雪人は結衣と以前接していた頃の記憶が蘇るのかと推測した。
 或いは、期待した。
 この突発性フラッシュバック症候群に対し、現在雪人は規則性を見出せていない。
 もし今回、結衣との思い出をフラッシュバックすれば、そこにかなり有力な仮定が生まれる。
 現在の生活の中で着想した事、若しくはそれに関連する過去を回想すると言うかなりわかり易い傾向がある、
 と言う仮定だ。
 勿論、そんな簡単な規則性があれば、とっくに気付いていただろう。
 ただ、これまでは自覚なき着想がどこかにあったのかもしれない。
 道端を歩いていて、偶々視界に入った弁当屋から、昔家出をして弁当屋の主人に弁当を恵んで貰った事を
 思い出した、なんて事があったのかもしれない。
 普通に生活していて、偶々視界に弁当屋が入っていた事など気にも留めないもの。
 そう言う、引っ掛かりのない事象が鍵になっていた可能性もある。
 そして今回、偶々それが引っ掛かりのあるものだったのでは――――
(……あ)
 しかし、その期待は直ぐに消えた。
 回想された風景は、中学校の屋上だった。
 ここに結衣はいない。
 あるのは、空。
 そしてコンクリートの塊。
 それだけだ。
(何だ、これは) 
 全く物語性のない回想は今に始まった事ではないが、今回は特に酷い。
 いつの事かも思い出せない、実になんて事のない、日常の事。
 雪人は昼休み、毎日ここにいた。
 屋上は通常、立ち入り禁止となっている。
 しかし、雪人は特別に当時の校長から許しを得ていた。
 ただし、条件が2つ。
 飛び降りない事。
 そして、他に進入してきた生徒がいれば、直ぐに追い返す事。
 要するに、門番のようなものだった。
 通常、一人生徒がいれば、その空間は自分達も使用して良いものと言う認識を持つものなのだが、
 雪人がいる所に、生徒は集まらなかった。
 それを利用する、ある意味人権無視の提案。
 雪人は満面の笑みを内心で浮かべ、乗った。
 そのような効率の良い思考が大好きだったからだ。
 雲は流れない。
 まるで時間が凍っているように、そこにあり続ける。
 コンクリートの冷たさは、今の雪人にはわからないが、当時の感覚を思い出し、苦笑する。
 雪人。
 その名前の通り、冷たい場所が似合う人間だと思っていた、この頃。
 それは今も変わらないのだが――――


「……ゆき」
 従妹のそんな声が聞こえた瞬間、雪人は回想が終わった事を自覚した。
 徐々に視界が薄れ、代わりに先程までいた世界、つまり大友研究室へと再構築されていく。
 慣れたものではあるが、人前でこの症状が出る事は殆どない為、内心かなり狼狽していた。
「あ、ああ。うん。久し振り」
 それもあり、思わずドモる。
 しかし眼前の結衣は、明らかにそれ以上に混乱と驚愕を覚えていた。
 幸い、そこに嫌悪はなかったが。
「あれ? 知り合いかい?」
「従妹です。一つ下の」
 雪人の紹介と同時に、結衣は若干泳いでいた目を大友教授に向ける。
「は、はい。えっと、鳴海結衣です。これからお世話になります」
 そして、丁寧にお辞儀した。
 外見は、生活指導の教師にタメ口聞きそうな、如何にも現代の女子高生。
 しかし、物腰はかなりしっかりしていた。
 それは雪人の記憶の中の少女とも、しっかり重なる。
 先日見かけた化石のような黒い生き物とは大違いだ。
「さっきの様子だと、ここで偶然かち合った感じだったけど」
「はい。ゆき……彼と会うのは、4年振りです」
 彼と言い直した結衣の顔は、社会人のように大人びている。
 鳴海結衣は、色々な顔を持っていた。
「へえ。凄い偶然だね。この研究室がそんな再開の場になるってのも、一寸変な話だけど」
「本当に」
 雪人は思わず苦笑した。
 実際、顔を見なくなってかなりの時間が経っている。
 特に気まずい別れ方をしていないにも拘らず、中々打ち解けられないほどに。
「じゃ、取り敢えず掛けてて。後2人来たら、今後の事話すから」
「わかりました」
 結衣は頷き、小さめのトートバッグをテーブルの下において、
 雪人と対角の位置に腰掛ける。
 その顔は、まだ不安げだった。
 無論、こう言う時には年上の人間が気を使うべきだ。
「あー、吃驚した」
「……へへ」
 少しおどけてみせる雪人に、結衣が破願する。ここに来て初めて見せる笑顔だ。
「元気してた? 本当、4年振りになるんだ」
「うん。ゆきも元気だった?」
「ん。もう自炊も一人暮らしも慣れた」
 雪人の答えに、結衣ははにかみながら微笑む。
 その表情は、先程とは打って変わって、実年齢より低く見える。
「ゆき――――」
 結衣がそのままの顔で言葉を紡いだ刹那、再びドアをノックする音が聞こえる。
「入ります」
 久々の再開を果たした従兄妹の歓談を間断させたその音に続き、男声がした。
 ドア越しなので、そこから年齢は予測できない。
 大友教授の許可が出ると、扉は迅速に開かれた。
 そこにいたのは――――雪人の知らない男子だった。
 イケメンだった。
 すっきり系の爽やかな顔立ちだった。
「白石悠真です。お世話になります」
「うん。こちらこそ宜しく」
 礼儀正しくお辞儀し、白石と名乗った男子は雪人と結衣のいるソファーに視線を移す。
「あ、はじめまして。お二人ともここに所属ですか?」
 ハキハキした声で、淀みなく聞く。
 言葉を全く濁さず、語尾までしっかり発音する辺り、まさに爽やか。
 月曜の21時あたりに放送するドラマで主役を張っていそうな勢いだ。
「ええ。黒木雪人です。高三です。後、こっちは高二で、鳴海結衣って名前です」
 結衣が何も言わないので、雪人は2人分の紹介をする事になった。
「それじゃ、黒木君と同級生だね。1ヶ月宜しく」
「こちらこそ」
 雪人は特に人見知りする性格ではないので、気さくに答える。
 一方、結衣は明らかに身体を縮めて存在感を消していた。
 外見とのギャップがかなり激しい。
(……変わらないな)
 雪人は眼前で俯く少女の過去の姿を思い返し、心中で苦笑していた。
 そんな中――――最後のノック音が聞こえて来た。
 これまでで一番控えめな音。
 寧ろ、生気のなさすら感じる弱さだった。
 そして、大友教授が入室を許可した5秒後、扉がゆっくりと開く。
「失礼します」
 凛とした中に、隠し味程度の艶とイノセンスを混ぜたような声。
 その声に雪人は聞き覚えがあった。
 そして、現れたその姿を見て確信した。
 今度ははっきり見覚えのある顔と姿だった。
「ツアーガイドの宇佐美さんですよね。どうしたんですか?」
「……あ」
 宇佐美嬢は雪人の存在を確認すると、バツの悪そうな顔で軽く会釈した。
 まだ業務上過失とやらを気にしているようだ。
 しかし、それより何より、ツアーガイドがこんな所に何の用なのか。
「宇佐美さんも到着、と。これで全員揃ったね」
「……は?」
 雪人は思わずポカン顔になった。要するに驚愕の表情だ。
「えっと……どう言う事、なんですか?」
 その顔のまま、尋ねる。
 宇佐美譲は、この世の終わりのような顔で笑った。
 凄く怖い顔だった。
「……クビです」
「え?」
 ポカン顔がギョ顔になる。要するに疑問系の表情だ。
「ガイド、クビになってしまって……一から勉強し直して来いと言われ、ここに……」
「……本当に?」
「はい……ううう」
 ハンカチで目を覆う宇佐美嬢。
 雪人は改めてその顔を見ると、秘書系美女だった筈の彼女からその面影が消えている事に気付いた。
 掛け直しているメガネは、ちょっとつり上がり気味の高そうなのから地味〜な一昔前のデザインの物に
 変わってるし、髪型も服装もその辺のOLの休日スタイル。
 化粧も限りなく薄い。それでも美人に変わりないが。
「私、これからどうなるのでしょう……?」 
「いや、俺に聞かれても」
 困惑しつつ周りを見る。
「……」
 結衣はやっぱり俯いていた。
「えっと、黒木君の知り合いかな?」
 同じバスではなかったようで、白石は困惑しながらいきなり泣き出した女性と雪人を交互に見ている。
「さ、それじゃ早速今後の事を話そうか」
 そして、大友教授は大人の女性が泣いているというのに、まるで気にしない様子で
 話を進行し始めた。
「……取り敢えず、説明を聞いて考えましょう」
「はい。そうします」
 宇佐美嬢は涙目のまま従順に従った。
 それを確認し、大友教授は咳払いを一つ、小さくする。
「さて、何から話そうか……そうだね。取り敢えず大事な事を最初に言っておこうか」
 扉は開いた。
 待っていたのは、雑然とした部屋。
 見通しの良い窓。
 一昔前のパソコン。
 痛んだソファ。
 人見知りの激しい化粧の濃い従妹。
 主役級の若手俳優のような美形の同級生。
 天然ボケのリストラ女史。
 そして、何事にも動じず掴み所のない、入道雲のような教授。


 それが――――黒木雪人の、この島で過ごした最初のメンバーとなった。


「ようこそ。この性懲りもなく青々とした、君達の世界に」








                                       1st chapter  "bluebird syndrome "
                                         END


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