薄っすらと。
 見慣れた天井が視界に浮き上がってくる。
 そこが自分の家である事は直ぐに認識出来た。
 そして、自分が今、本来そこにはいないと言う矛盾に気が付くまで、数秒を要した。
 そこは――――ツアーで借りているアパートではなかった。
 2年と数ヶ月、生活の拠点としている本当の雪人の拠点。
 六畳一間の安アパート。
 名義も自分のものではない。
 だが、そこには望む全てがある。
 こう言った状況に置かれた場合、人はまず混乱する。
 次に、夢である事を疑う。
 それすら違う場合は――――自己の誤認を疑う。
 この場合であれば、視界に入った天井が自分の部屋の物だと言う認識が誤りである、
 今住んでいる孤島のアパートの一室のそれである、と言う確認を行う。
 そして、殆どのケースにおいては、それが真実だ。
 この世の中、そうそうパラドックスを含んではいない。
 しかし、人の頭の中の世界には、それは多分に含まれている。
 整合性など、その世界を構成する上では必要ないからだ。
 理に叶わない事があれば それは自身の認識不足、若しくは誤認。
 或いは――――そうであって欲しいと言う願望の投影。
 この場合、ホームシックと言う非常にわかり易い症状が疑われる。
 つまり、自分の部屋が恋しくなったから、その部屋の天井の幻を見たのだ。
 人間は、そうであって欲しいと言う希望を時に現実へと映し出す。
 それは、脳の防衛本能に拠るもの、とも言われている。
 脳が精神的なストレス等で負荷を受け続けていると、セロトニンや
 ノルアドレナリンなどの物質が過剰分泌して、身体に悪影響を及ぼす。
 それを和らげる為に、楽しい事、嬉しい事、楽な事をイメージするのだ。
 ただ、もし雪人が『ごく普通の何ら他と変わらない人間』であれば、この状況は
 己の願望のイメージ化ではなく、夢と認識していただろう。
 ホームシックの自覚は欠片もなかったからだ。
 寧ろ、これから面白事が待っているかもしれないと言う期待感の方が強かった。
 だが――――生憎、夢ではなかった。
 夢ではないのなら、脳の防衛本能?
 いや、それも違う。
 雪人にはもう一つ、その手前でもう一つ、疑うべき『病気』があった。

 記憶の強制回想――――フラッシュバック症候群だ。

 やたら現実感のある過去の風景が、自分の意思とは無関係に動いていく。
 それに抗う術はない。
 徐々に、見慣れたその光景である事を、雪人は感覚的に自覚していた。
 そして同時に、安堵の溜息を吐く。
 本来は、このような異常な症状を安堵すべきではないのだが、少なくともこの病気に関しては
 既に自覚している。
 自覚していれば、問題はない。
 苦痛や羞恥を伴う映像でもないのだから、精神的な負荷もない。
 今まで通り、ただやり過ごすだけ。
 楽なものだ。
 その過去の自分を、雪人は映画の日常シーンでも見るかのように、ただ静かに眺めていた。
 顔を洗い、歯を磨く。
 朝食は取らず、紅茶を淹れてそれを一杯飲む。
 紅茶はダージリン。日本人が一番馴染み易いとされている葉だ。
 ダージリンには日本の水道水、すなわち軟水が合うとされているが、雪人には細かい風味までは
 余りわからなかった。
 尤も、この回想中に、味覚が刺激される事もないのだが。
 紅茶を飲み終えると、着替えを行う。
 制服は高校生の冬服だった。
 そして、玄関で靴を履き、家を出る。
 普段の登校の風景だ。
 つまり、週末ではないと言う事。
 ただ流れるだけの景色に視線を泳がせる一方、徐々にこれが何時の回想かはある程度絞られた。
 尤も、候補はまだ400日以上はある。
 それを絞りきれないまま、駅に到着した。
 そして――――そこでようやく理解する。
 駅前広場の一角に人集りが出来ていた。
 そのような出来事には滅多に遭遇しない。
 そして、その光景に雪人は強い印象を残していた。
 これは――――高校生になって初めての登校。
 つまり、入学式当日の映像だ。
 過去の雪人は、好奇心の充足を求め、誘蛾灯に誘われる虫ケラの如く、フラフラと
 広場へ向かって行った。
「救急車っ! 救急車はまだなの!?」
「おい! しっかりしろって! おいってば!」
 人込みの隙間から見えたそこは――――修羅場だった。
 うつ伏せ倒れたままピクリともせず、首筋から赤い液体を流す男。
 目と口を開けたまま、空を仰いでいる女。
 彼女を必死で揺らしている男と、その横で明らかにパニクってる女。
 そして、木にもたれ掛かってボーっとしている男。
 そのオラオラ系ファッションを見る限り、ケンカかトラブルかと言う想像が安直に出来てしまう。
 時間帯が時間帯なだけに、かなりの異色な光景ではあるものの、そこまでの特殊性はない。
 しかし、それでも雪人の好奇心は煽られた。
 思わず身を乗り、情報を得ようとする。
 その刹那――――何かを踏みつけた感触が、革靴と靴下を通して伝わった。
 尤も、現在の雪人にはその感覚は発生しない。
 足が覚えていたのだ。
 当時の映像を回想すると同時に、その感触が現在の雪人を襲った。
 尤も、襲うと言うほどの強さは全くない。
 右足を上げると、その下には――――木の葉が一枚あるのみ。
 何か特徴がある訳でもない、誰もが葉っぱと聞いて想像するような、広葉樹の葉。
 気に留めるような物ではない。
 そして――――過去の雪人はと言うと、その木の葉を凝視したまま、動けずにいた。
 理由はわからない。
 今もわからない。
 ただ、確実に思念は混沌としていた。
(これは……何だ?)
 騒然としている筈の周囲から、段々と声が消えていく。
 景色が構成を変えていく。
 そして――――
『嫌だああああっ!!』
 急速に視界が晴れた。
 いや、戻ったと表現した方が正しいのかもしれない。
 数秒前まで、雪人の眼前を彩っていた風景だ。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! 僕は……僕はそんなの嫌だよおっ!」
 先程まで見ていた場所をもう一度目視してみると、木に寄り掛かっていた男が――――
 まるで子供のように大声で泣いていた。
 十字架のシルバーネックレスにピアス、黒いキャップにロンゲ。
 上下ともラフな黒いスウェットに身を包み、顎に髭を蓄えた、厳つい感じの外見をした男だ。
 その場にいる全員が、呆然としながらその光景を眺めている。
 雪人も多分に漏れず、異質極まりない絵図に意識を奪われていた。
 酔っている風には見えない。
 寧ろ、演劇の舞台で幼児逆行をした登場人物を見ているような感じだ。
「何だよお……みんな、なんで見てるんだよお! 僕を見るなあ!」
 突如、その男は野次馬に睨みを利かせてきた。
 コワモテの顔に加えて半白眼で凄んでいる割に、言動は幼い子供の口調。
 そのアンバランスさが恐怖を倍増させている。
「あああああっ!!」
 そして、事もあろうに。
 その男は――――雪人のいる方向へ一直線に突っ込んで来た。
「わ、こっち来る! きゃあああっ!」
 目の前にいる女子が悲鳴を上げる。
 制服を着ているので、学生と言う事は瞬時にでも判断できたが、
 その制服がどこの学校のものかはわからない。
 そもそも、どうでもいい事だ。
 現状で――――当時の現状で優先すべきなのは、とにかく避ける事。
「きゃああわわわっ!?」
 眼前の襟首を無理矢理引っ張って、左方向に放り投げる。
 その反作用力で、自分は右に飛ぶ。
 地面はタイルなので受身を取っても少し痛い。
 当時の雪人がとっさに行った、乱暴だが会心の選択だった。
「痛あっ!」
 女子の方は、受身も取れず転がった模様。
 怪我させたかもしれないと言う申し訳なさと、最良の回避手段と言う
 自負とが葛藤を生んだが、それも一瞬でかき消されていた。
「うわああああ! うわああああああん!」
 闘牛の如く突進して雪人達に回避された男は、地面に頭から飛び込み、
 そのまま蹲って号泣し始めた。
 それを遠巻きに眺める野次馬。
 倒れ込んでいる雪人や女子に声をかける者もいない。
 それを出来る空気でもない。
 ――――異様。
 この空間は、全てが異質だった。
「……」
 そんな中。
 野次馬の中にいた一人が、興醒めしたかのような表情で、むせび泣く
 男から視線を外した。
 雪人は、偶々視界に入ったその一人に、酷く驚いた。
 これほど特異な状況に対し、目を離す事が出来る人間がいるとは
 到底思えなかったからだ。
 その人間は男だった。
 雪人と同じブレザーを着ていた。
 同じ学校の生徒である可能性は、100%。
 くっきりとした二重、筋の通った鼻、形の整った唇。
 そしてそれらのパーツが全く違和感なく収まる全体像。
 要するに、美形だ。
 加えて、レンズの小さなメガネをしている辺り、インテリ感を漂わせている。
 自分とは違う世界の人間だと、雪人は一瞬で判断した。
 しかし。
「立てるか?」
 その刹那、何の面識もないその男は、誰もが動けない空気を切り裂くようにして
 雪人に手を差し出して来た。
 狼狽は取り敢えず置いておき、その手を掴んで立ち上がる。
 同時に、全身の痛覚を確認するが、それは許容範囲に余裕で収まる程度の
 痛みだった。つまり、骨折や重度の捻挫と言った怪我ではないと言う事だ。
「救急車の必要はないみたいだな」
 それを見透かすかのように――――眼鏡の男子が唱える。
「それならもう登校した方がいいだろう。遅刻したくなければ、だが」
 まるで天上から見下すようなその物言いに、雪人は一瞬惚けてしまう。
 だが、その次に込み上げて来たのは、怒りでも、呆れでもない。
 純粋な苦笑だった。
「……何故笑う?」
 何となく――――そうとしか説明しようがなかった。
「奇特な感性の持ち主だな」
 それが初対面の人間に言う事か、と口にした雪人の顔は、やっぱり笑っていた。
 確かに、それは結構頻繁に向けられる表現だった。
 勿論、ニュアンスは相手によってかなり異なるが。
 その一方で、雪人は眼前の男に対し、初対面の相手に対しての
 言葉遣いの悪さをを指摘する。
「確かに、良く指摘される。お前は口の利き方がなっていない、とな。
 だが直す気はない」
 そんな宣言をされても、雪人にはどう答えるべきか全くわからない。
 そもそも、それ以前に――――何故手を差し出して来たがも理解不能。
 かなり不気味だった。
「……」
 その旨を尋ねると、その男は暫し熟考し、満足のいく回答を思いついたのか、
 口の端を釣り上げる。
「何となくだ」
 そのシニカルな返答に対し、雪人はやはり笑った。
 男も声こそ上げないが、表情で笑った。
 そして、どちらともなく並んで歩き出した。
「僕は周藤鷹輔。新入生だ。そっちは?」
 この直前まで、高校生活のスタートに対して、余り実感の持てない自分がいた。
 しかし、この1人の男との出逢いがそれを変えた。
 1分前まで決して交わる事のないタイプの人間だと思っていた男は、
 高校生活で一番気の合う友人になる――――そういう予感めいたものを感じていた。
 そして。
 決してこれまでの人生の中には生まれなかったその予感は、
 安直なほどに現実のものとなった。
 もう何度も見た、何を考えているのかまるで理解できない、思考を読ませない横顔。
 とは言え、この時は新鮮に感じていた。
 その顔が、景色が――――全ての色が褪せて行く。
 ようやく終焉。
 始まりの終わり。
 そこで、雪人は何となく理解する。
 始まりは、確かにここだった。
 決して変える事の出来ない始まりが、ここにあった。
 だから、何となく――――この日初めて、少しだけ法則のようなものが
 見えた気がして、雪人は消える景色を少しだけ惜しんだ。




                                                  U A the World!

                                         第2章 ”Dissociative Disorder”





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