日曜の昼下がり。
「フーン。結局研究室に入ったんだ。フーン。フーン。フーーーン」
ただ姦しいだけの昼下がりが、そこにはあった。
通常、高校までの学校は、休みの日には稼動していない。
部活に汗を流す面々、頭を動かす面々が、それぞれの領地で過ごす程度。
他の生徒は基本的には校舎にはいない。
しかしながら、大学は日曜だろうが祝日だろうが、普通に動いている。
沢山の生徒が出入りし、教授、准教授が頭を掻き、来賓者が買い物をする。
流石に学食や生協は休みだが、例えば棟の開いている講義室は勝手に入っていても
特に何も言われないし、オープンテラスも自由に使用できる。
と言う訳で、雪人はメールで誘われるがまま、湖と共にそのオープンテラスで
午後の紅茶を啜っていた。
「私の誘いを断って研究室なんかに入るなんて。何と言う身の程知らずなのでしょう。このブタ!」
「……何でそんな局地的お嬢キャラなんだよ」
「おだまりっ。どうせその秘書系美女とかに鼻の下デレ〜ッと伸ばして付いて行ったんでしょ?
その程度の男よ、あんたは」
湖窓霞嬢は何故かご立腹だった。
こう言う時は、下手な反論はせず話題転換に限る――――
「それより、そっちはどうなんだよ。良いサークルは見つかったのか?」
「ふっふーん。よくぞ聞いてくれました! これこれ、これ見てごらんあそばせ」
案の定、湖はコロッと表情を変え、機嫌よく一枚のビラを取り出した。
こう言う単純さは人としてプラスだと思いつつ、雪人は受け取った紙切れに目を通す。
『こんにちわ! みんなをハッピーにするサークル【ミラクル★クルミラ】です。飲み会、バーベキュー、
海水浴、キャンプ、小旅行など、いろいろなイベントを企画して、沢山活動しています。
女性一人参加も大歓迎! 一気飲み推奨! 気軽に友達を増やして、みんなでブッ飛ぼう!!』
あからさまにヤバげなサークルだった。
まず名前が酷い。
紹介文もこれまた酷い。
最後の一行など、このご時勢においては絶対明記してはいけない事だ。
新聞も読んでいない、ニュースも読んでいない、そもそも常識がない。
そんな人物像の集団が浮かび上がるくらい、それはもう悲惨な文章だった。
「ね、良いでしょ? 小旅行ってどこ行くんだろ。さすがに海外はないだろうけど……箱根かな?
それとも別府?」
「何処でも良いけど、取り敢えずこのサークルだけは止めとけ。来週辺り、まとめて強制送還食らうだろ」
こう言う単純さは人としてマイナスだと思いつつ、雪人は警鐘を鳴らした。
「ちぇーっ、引っかからなかったか」
「おい」
どうやら、湖も既に入る気はなかったらしい。
仮に雪人が食いついてきたら、「あんたバカァ?」とでも言うつもりだったらしく、残念そうに
わざとらしい間延びした舌打ちをしていた。
「なんかねー、サークルってもっと健全なのを予想してたんだけど、どこもこんな感じで
ちょっと失望気味なのよ。もー軽いったら」
「逆に、作ってる方は不健全なのが当たり前と思ってるのかもな」
だから、そんな能天気な紹介文が生まれてしまうのだろう。
湖の嘆息に、雪人は思わず苦笑した。
「ま、何にしても、俺はサークルはパス。研究室との二足の草鞋は難しいだろうし」
「えーっ……」
湖はあからさまに落胆していた。
実際、無理もない話ではある。
女子が一人で未知の大地に赴いているだけでもかなり心細いと思われる中、一人でサークルに
入るとなると、抵抗があって然るべきだ。
そこで何も警戒しないとなると、それは相当楽観的と言わざるを得ないだろう。
「それに、結構金掛かりそうな気が」
「うっ、お金かー……そうよね、これだけイベントあれば結構取られそうだもんねー」
湖は自身のではなく雪人のジーンズのポケット辺りをチラ見し、はぁーっと溜息を吐いていた。
「お前、それは失礼だろ」
「だってねえ……10円玉2枚の余裕もないんでしょ? 残念っ! って感じ?」
頬杖を付きつつ、嫌らしい笑みを浮かべる。
未だに根に持っている事の方が残念な気もしたが、雪人は特に反論はせず、そのまま席を立った。
「……じゃ、俺そろそろ行くぞ」
「あ……怒った?」
湖は不安そうな声を寄せる。
全く怒気を含んだ覚えのない雪人は、思わず目を丸くした。
意外と打たれ弱いようだ。
「あの……ごめん」
しかも謝って来た。
流石にバツが悪くなり、雪人は苦笑しながら首を横に振る。
「怒ってないない。これから研究室でミーティングがあるんだ」
「そ、そっか。じゃ、私は街に行こっかな」
今度は微妙な安堵の声。
それでも目線が下の方に行っている辺り、動揺は残っているようだった。
俯いたまま駆け足で出て行く。
「おい」
それを追おうと、席を立った刹那。
「……?」
不意に、雪人の視界が薄れる。
周囲の雑音も次第に萎んでいく。
これは――――突発性フラッシュバック症候群。
つい朝にあったばかりのそれが、再び襲ってくる。
雪人は、それに抵抗する術を持っていない。
どのような時でも、ただ飲み込まれていくのみ――――
「それにしても……まさかこんな子供とはね。意外と言うより想像だにしていなかった」
溜息を吐きつつ、そう告げる彼女の顔は――――笑っていた。
だから、それを向けられた雪人も愛想笑いで返すべきだったが、その思いに反し、
顔は引きつったまま。
そして、直ぐに思い出す。
この頃は、そう言った形式的な礼儀を身に付けていなかった。
「私が君の年齢の時など、毎日勉強と部活に手が一杯で、他に何もできなかったものだ」
どうでも良い情報――――その際に自分が思い起こした感情が、なぞるように再生する。
経験を積んでも、瞬間的な想起は余り変化がないようだ。
「さて、と。取り敢えず上がってくれ。そのケガをまずどうにかしよう」
彼女の目線とその言葉でようやく、雪人は自分が――――当時の自分がケガをしている事実に
気付いた。
とは言え、掠り傷程度。
右手の甲に付いている赤みを帯びた黒の線は、痛みを携えてはいない。
今も、昔も。
「……」
そして、その傷を眺めながら、雪人はこの映像の時期を特定した。
中学時代。
雪人にとって、暗黒期と呼べるような時期だ。
心も、行動も、取り巻く環境も、全てが暗澹に覆われていた。
それ故に、全くもって思い出したくない時代。
にも拘らず、その意思とは関係なく回想してしまう辺り、この病気は始末が悪い。
「早く入ってくれ。こんな所を見られたら妙な噂が流れてしまう」
冗談交じりに促されて入ったアパートの一室は、お世辞にも片付いているとは言えない状態のままに、
日常の匂いを強く醸し出していた。
具体的に言うと、麻雀の牌やトランプのカードが部屋の隅に無造作に積まれていて、カラーボックスに
並んでいた筈の本達は将棋倒し状態になっており、中央のテーブル上にはビールの空き缶が
5つほど転がっている。
更に続けると、色褪せたコートや皺だらけの短パンがクローザーの中ではなく前に放置されており、
その横には扇風機と思しき物体と電気ストーブと推測される物質が本来とは違う立ち方で
仲良く並んでいる。
もう一つ踏み込めるが、雪人はそこで思考を消した。
他人の部屋の散らかり具合にそれ以上の興味を示せなかったからだ。
そこが、今の自分とは違うところだと、その映像を見ていた雪人は自覚した。
季節感がイマイチ伝わってこないその部屋に、今の思考回路ならば、何らかのコンセプトを見出そうと
いていたかもしれない。
「最近忙しくてな。その内片付ける事になると思うが、今はまだ生活の方で精一杯なのだよ」
中学生の雪人の視線に感付いたらしく、『彼女』は薬箱を開けながら疲労感の欠片もなくそう呟いた。
そう言う性格なのか、とその時にはなんとなく理解していた記憶があった。
「……参ったな。消毒液がない。そもそも買った記憶もない」
余りに無責任なこの言動も、今となっては理解出来る。
全て道化じみているからこそ、意味がある。
「まあ男なんだから、それくらいの傷で消毒など必要あるまい。バンソーコーでも張っておけば良いだろう」
ちなみに、雪人が治療を懇願した事実はない。
それでも反論一つしなかった当時の心境を、雪人はぼんやりと思い返していた。
しかし、上手くまとまらない。
或いは、今でも。
「これでよし、と」
バンソーコーを貼られた手をじっと眺める。
実は、こんな物を身体に付着すると言うのは、この時が初めての経験だった。
その所為か、違和感ばかりがウズウズと感覚を擽り、非常に鬱陶しい。
そんな心境の雪人を眺めながら、『彼女』は顔の下の部分だけで笑っていた。
そして、真っ直ぐに眼前の少年見据え、カウンセリングのような、或いは――――
――――学校の教師のような雰囲気で口を開いた。
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