「では、何から聞こうか――――」

「……はい?」 
 思わず間の抜けた声で聞き返した雪人に、周囲は訝しげな視線を送って来た。
 そこは、ここ数日何度か訪れた『大友研究室』だ。
 勿論、自動的に移動していた訳ではない。
 フラッシュバック症候群の収まった後、既に湖は視界からいなくなっていたので、
 そのまま研究室へ直行してきたのだ。
 しかしまだ本調子に戻らず、頭の整理が付いていない。
 雪人にとって――――中学時代のフラッシュバックは、それくらい負のエネルギーを
 有するものだった。
 思い返すだけで吐き気がする。
 実際、現在かなり胃が重くなっていた。
 そんな雪人に、大友教授は皮肉抜きの苦笑いを浮かべる。
「ははは、そんなに堅くならなくてもいいよ。尋問じゃないんだから、プライベートの事を
 根掘り葉掘り聞いたりはしない。ちょっとしたアンケートだよ」
「は、はあ」
 生返事しつつ、会話の前後を再確認する。
 前日挨拶を済ませた面々は、日を改めて研究室を訪れていた。
 そして、そこで大友教授は『幾つか質問をする』と、全員に投げかけた。
 その時点までを回想し、一つ息を吐く。
「それじゃ、まず得意な事を聞こう。じゃ……レディーファーストで鳴海君から」
「は、はい。え!? 私!?」
 驚愕すら若干の間を要するくらいに、結衣はトップバッターである事実に動揺していた。
 この程度の事ではあるが、何事でも最初は辛いもの。
 突然の質問となれば、尚更だ。
 結局――――
「あ、ありません」
 一番答えてはいけない消極的な回答で場を凌いだ。
「うーん。そんなに謙遜しなくても良いんだけど……それじゃ次は宇佐美君」
「ありません」
 今度は即答で究極のネガティブ発言が飛ぶ。
「私なんて、取り得もなければ誇れる事も何一つありません。私、子供の頃から一度も
 表彰状とか貰った事なくて。卒業式の日も、毎回犬に噛まれたり泥棒さんに轢かれたり
 金縛りにあったりして、一度も登校出来ていないんです」
 そして、発言と共にどんどん沈んでいった。物理的にも。
「じゃ、これから頑張ろうね。次は黒木君」
 そんな宇佐美嬢に割とあっさりなフォローをした後、教授は雪人を指名。
 多少考える時間があったので、出す言葉は既に決まっていた。
「利きドリンクです」
「……それは何だい?」
「ラベルを剥がした栄養ドリンクのメーカーと名称を空で言えます」
 雪人はめいいっぱい断言した。
 無論、周囲はドン引きだ。
「へえ。中々面白そうだねえ。一度やって貰おうかな」
 しかし教授は割と食いついて来た。
 かなりの変わり者らしい。
「それじゃ、最後に白石君」
「はい」
 涼しい顔で、白石が席を立つ。
 ちなみにここまで誰も立った事はない。
「僕は、フィールドワークを少々嗜んでいます」
 そして、余り一般的でない特技を言い出した。
 フィールドワーク。
 それは、日本語に直すと『現地調査』。
 特定の研究に対し、その研究を進めていく上で必要な情報を調査する為、
 対象を直接観察する行動の全般を指す。
 例えば、市場調査等もその中の一つに含まれる。
 一つ例を挙げると、『この国で一番人気のある食べ物は?』と言う研究をする場合、
 それを知る為には全国の人たちに『好きな食べ物は?』と言うアンケートをとる必要がある。
 ただし、全員にそのアンケートを答えてもらう事など不可能なので、統計学の許容範囲内の
 人数と分布でアンケートをとっていく事になるのだが、このアンケートをとると言う行為が
『現地調査』に当たる。
「ははは。やっと研究室らしくなって来たかな?」
 雪人はそんな大友教授の言葉に、数日前の言葉を思い出す。
『敢えて言うなら『自然科学』と『考古学』の狭間、かな?』
 知識として、それらの分野がどのような事を学ぶのかと言うものはないのだが、考古学と言うと
 何となくエジプト辺りでヘルメット被って遺跡を発掘している調査員の姿が目に浮かんだ。
 つまり――――白石と言う青年は、大友教授の専攻を知っていて、この研究室に入った可能性が高い。
「ま、座って」
 その興奮を抑えるよう、大友教授はそう促した。
「さて。取り敢えず質問は以上。ありがとう」
 そして、事前の『幾つも』と言う断りを翻し、そこで質問を止める。
 4人中3人が実質的に無意味な回答をした為――――と言う訳ではないらしく、
 何処か満足げに笑っていた。
「それじゃ、これから君達にはスパイをやって貰おう」
「……はい?」
 その笑顔のまま、大友教授はいきなり訳のわからない事を言い出した。
 唯一声を上げた雪人以外の3人は、それぞれ表情すら作れずにいる。
「スパイだよ、スパイ。知らないかな? 昔『スパイ大作戦』って言うドラマがあってね」
「古!」
 40年前の例を出された所で、10代中心の面子にわかる筈もなかったが、雪人は何故か知っていた。
「いや、それより普通に007とかの方がわかり易いかな? あ、昔『スパイvsスパイ』って言う
 ゲームがあってね」
「それも古いです。って言うか、普通にスパイくらいは知ってると思います」
 25年前のゲームソフトの例など更に意味を成さなかったが、雪人はやっぱり知っていた。
「そっか。じゃ話は早い。君達にこれから1週間、スパイになって貰おうかなと」
「あ、あの……それはどう言う」
 宇佐美嬢の不安げな瞳が揺れる。
 実際、いきなり『スパイになれ』と言われて、何の質問も逡巡も無く了承する人間は
 軍人にもいないだろう。
「簡単に言えば、他の研究室について調査して欲しいって事だね」
「この大学の研究室を全部、ですか?」
「そう言う事。話が早くて助かるよ」
 あっさりと断言した教授に、宇佐美嬢は絶句したまま動かなくなった。
 結衣に到っては機能を停止しているのか、瞳孔すら動いていない。
 無理もない。
 このツアーの目的は、大学生活の体験。
 思い描くのは、私服で優雅にキャンパスを歩き、研究室で何となく小難しそうな会議をした後に
 良くわからない実験をして、その後に学食で歓談――――そんな日常だった筈。
 雪人も、大体そんな感じの想像をしていた。
 それが、蓋を開けてみるといきなりの諜報活動命令。
 普通は思考停止くらい仕方のない事態と言えるのだが――――
「法律は遵守しなくてはいけませんよね?」
 白石だけは、平然とそんな事を質問していた。
「当然。違法行為は強制送還だから注意してね」
「それ以外のルールは」
「期限は1週間。1週間後に報告書をまとめて、提出してくれれば良い。報告書は1冊の冊子に
 まとめて作ってね。後は特にこっちからは何も無い。好きなようにやってみて」
 ニッコリと。
 中年教授は白石に、そして他の面子に向けてそう告げた。
「じゃ、後は宜しく。ここのパソコンや資料は自由に使って良いよ」
 そして、そう言い残し、研究室を去る。
 穏やかな嵐のような人物だった。
「……マジか」
 一方、訳のわからない事態になってしまい、雪人は困惑したままソファーの背もたれに
 寄り掛かり、嘆息する。
 女性2名も大体同じリアクション。
 ただ1人、白石は明らかに目を輝かせていた。
「よし! それじゃ早速色々話し合お――――」
 無論、何がそんなに楽しいのか雪人にわかる筈も無く、目をじっとりさせて
 その様子を眺める。
「――――あ、えっと……そうだよね。普通はそっちだよね」
 その視線に気付いたのか、白石はバツの悪そうな表情で若干俯き、
 眉尻を下げた。
 要するに、普通なら雪人達のようなリアクションをするところだ、と言う事だ。
「僕、大友教授に憧れてるって言うか、目標にしてて。だから、あの大友教授に
 課題を出された事が嬉しくて、つい。空気読めなくてゴメン」
「いや、それだったら全然自然だと思うよ」
 取り敢えず、白石が常識人であった事に安堵し、雪人はフォローする。
 実際、自分の慕う人間の下に配属されたのだから、歓喜するのは当然の事。
 それとは異なる3人との温度差も当然の事だった。
 そんな雪人の言葉に白石もホッとしたように頷き、女性陣に目を移す。
「スパイって言葉は、確かにちょっと大げさって言うか、誇張表現だと思うけど、
 実際にはこの課題、そんなに突拍子も無い事じゃないと思うんだ。他の研究室を
 調査するって言っても、その成果が目的なんじゃなくて、調査行為そのものと言うか、
 僕達のセンスやスキルを試す為の試験だと思う」
「試験……ですか。久し振りに聞きました」
 宇佐美嬢がしみじみ語る中、白石は苦笑しつつ続ける。
「これは僕の予想だけど。大友教授は、きっとこの島に何かを調査しに来たんだと
 思うんだ。だから、その調査に僕達が使える人材かどうかを試すつもりなんじゃないかな」
 白石のそんな推測は、それなりに筋が通っていた。
 と言うのも――――7月〜8月にかけて1ヶ月、何の目的もなしにこのようなツアーに
 協力するほど暇な大学教授は、まずいない。
 小中高の教諭と違い、大学教授は常に研究を抱えている。
 国、企業、或いは他の大学の教授等と連携し、時にお金に繋がる、時に自分の知的好奇心を
 満たす調査や発明を行っているのだ。
 当然、1ヶ月なんて穴は開けられない。
 教授と言う地位にいてアルバイト感覚でやって来る者もいないだろう。
 よって、この島に別の目的があって来た可能性は高い。
「だから、僕はこの試験に合格して、大友教授に協力したいと思ってる。
 協力してくれないかな」
 爽やかに、でも真顔で白石は告げた。
 どこか脅迫めいた迫力すらある。
 その真剣さは、雪人にとって羨望の対象だった。
「俺は特に他にやる事もないから、構わない。結衣ちゃんは?」
「……良くわからないけど、大丈夫」
 結衣も承諾。
 後は――――
「私は、どこまでお手伝いできるかわかりませんし、そもそも力になれると確信できる
 能力もありませんが、ここに居られる限りはご協力致します」
 宇佐美嬢のネガティブながらも前向きな回答を得て、白石は満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます! って僕が言うのも変かな。兎に角、折角こうやって
 集まった事だし、協力してやって行こう」
 リーダー的な物言いで白石が締め、この日の会合は終了となった。
 先に女子勢が部屋を出る中、雪人もそれに続こうとする。
 しかしそれを遮るように、白石が割って入ってくる。
「黒木君、さっきはありがとう。君が目で諌めてくれなかったら、僕は浮いた存在に
 なっていたかもしれない」
 そして、律儀にもそんな事を言って頭を下げてきた。
 無論、雪人に感謝などされる覚えは無かったが、ここで謙遜しても余り双方に
 メリットは無い。
「どうせ、調査の段階では俺等素人が助けて貰うんだから、前貸しみたいなもんだよ」
 こう言って気さくに笑うのが一番だと、自分の中の自分が囁くままに行動した。
「ありがとう。良かった、君みたいな人と一緒ならやって行けそうだ」
 それは実際正解で、白石は心底嬉しそうに部屋を出て行った。
 研究室に1人、雪人が残る。
 雪人は、コミュニケーション能力に関しては割と高い。
 初対面に相手にも物怖じしないし、年上でも年下でも無難に接する事が出来る。
 友達が少ないのは、性格によるところが大きい。
 実際、今日も4年振りに再会した従妹を相手に、無難な対応をしてみせた。
 無難。
 それは、良くネガティブな表現として用いられる事もあるが、実際には
 非常に貴重な対処法だ。
 何しろ、難が無いと書く。
 無論、山も谷もないだけの人生では、ちょっとした自然災害で一気に飲み込まれる
 平地に住む人々と同じように、簡単な事で躓いてしまうかもしれないが、
 雪人にとってはそれでも重要な事だった――――
「ゆき」
 暫く室内でボーっとしていた雪人に、その4年振りの少女が声を掛ける。
 声は、4年前と若干変わっていた。
 或いは――――全く同じなのかもしれないが。
「ゆきは何処に住んでるの?」
「こっちの事か?」
「そう」
 現在の住処を聞かれ、雪人は若干戸惑ったが、直ぐにその大体の場所を示唆する。
 住所やアパートの名称を行ってわかると言う訳でもないので、説明するのは
 方角と大体の距離。
「結構近いかも」
 との事だった。
「そっか。それなら、何かあったら訪ねて来てよ。相談とか、まあそれくらいしか
 出来る事ないけどさ」
「わかった。ゆき、変わっていないね」
 仄かに笑い、仄かに目を細める。
 年頃の女性なので当然化粧はしているが、それが少し邪魔をしているのではと
 雪人が思うくらい、その笑顔は可愛かった。
「えっと、電話番号、聞いて良い?」
「ああ、勿論。iPhoneとかじゃないよな? 赤外線で行ける?」
「せきがいせん」
 突如、結衣が止まる。
 止まって、止まって――――動かなくなった。
「いや、無理しなくて良い。わからないなら、わからないって言え」
「……御免なさい」
 結衣の携帯を借り受け、機種確認。
 特に支障は無く、その後は雪人の操作によって、情報は交換された。
「電話、するね」
「ああ。こっちも何かあったら」
 積もる話は山ほどあるかと言うと、そう言う訳でもなく。
 雪人は従妹と別れ、ふーっと息を吐いた。
 昔は、それなりに懐かれていた記憶がある。
 しかし、4年と言う空白は、話題以前にまずフィーリングがわからない。
 それはお互い様だったようで、フィルター越しの方が話し易いという判断が
 結衣の中にもあったようだ。
 尤も、それなりに積極的にコミュニケーションをとろうとしてくれている事には
 素直に感謝の念を抱く。
 雪人の記憶にある少女は、そう言う事を器用に出来るタイプではなかったから。
(さて。家に帰って、定期連絡でもするかね)
 1人でいる研究室に少々居心地の良さを覚え始めた所で、雪人は部屋を出た。





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