翌日。
 研究室の事も気になりつつ、雪人は初めての講義となる月曜の朝を若干の緊張と共に迎えていた。
 実際、それは雪人だけではない。
 ついに迎えた講義初日に各々のテンションが暴発気味らしく、大講義室は喧騒のデシベル値が
 かなり大きい。
 その要因としてもう一つ挙げるとすれば――――この大講義室そのものにあるだろう。
 収容人数が軽く200を超えるこの空間は、雪人達高校生が知る『教室』とはかなりかけ離れている。
 広さや高さは勿論、長机、階段式の椅子、床材、ホワイトボード、空調……どれをとっても、
 小中高の学校とは全く違う。
 よくドラマで見かける『大学の講義室と言うとコレ!』と言うような、段々畑を思い起こさせる
 あの講義室が、今まさに目の前にある。
 映画館に構造は近いが、やはり長机やホワイトボードの威力は大きい。
 その臨場感は、大きな高揚を生むには十分だ。
 ただ、大学の全ての教室がこうと言う訳ではなく、こう言った講義室はむしろかなり少ない。
 それ以外の教室は、実は高校のそれと同等、若しくはもっと狭い。
 これは、大学によりけりと言うより、全般的にそう言うものだったりする。
 全ての講義が大講義室で行われる訳ではなく、受講者の少ない講義は基本、余り広くない教室で
 ごく普通に行われる。
 勉強になるのは良いが、夢が一つ壊れたような気になり、雪人は小さく息を吐いた。
 しかし、そんな事で落胆していても仕方がない。
 まだ講師の登場までは幾ばくかの時間があるので、講義について昨日読んだ本のおさらいを
 する事にした。
 通常、大学には外国語や情報処理、スポーツなどと言った『基礎科目』、その学科のメインと言える
『専門科目』、専門とは異なる様々な分野の『教養科目』などと言ったカテゴリーに区分けされている。
 これらは、それぞれに卒業、もしくは進級に必要な単位数が設定されていて、そのノルマを達成する事が
 大学の進級、卒業の為の必須行動となる。
 尤も、これ自体は高校と変わらない。
 ただ、高校生の場合は『単位を取得する』と言う意識がかなり希薄だ。
 選択教科もあるにはあるが、基本は必須科目が大半を占めるし、単位取得の基準となるテストにしても、
 単位を取ると言うよりは、受験する大学を決める為の目安であったり、偏差値や学年順位を気にしたり
 或いは赤点を取らない為のものと言う認識が根強い。
 実際、高校では赤点をとってもよほどの事が無ければ追試を受けて、追試の為の補講などもしてくれる。
 どうにか進級、卒業させようとしてくれる環境を教師が作ってくれるのだ。
 しかし、大学にはそれがない。
 中には、追試も一切しない教授もいる。
 また、大学院等のシステムこそあるものの、基本的には大学より上の学校はない。
 その為、基本的な概念として、大学のテストは単位取得の為の物、と言う共通認識が既に定着している。
 大学と高校までの大きな違いは、これと言っても過言ではない。
 ただ、ここはあくまで『モデル大学』。
 故に、学部学科を定めおらず、専門科目と教養科目の境界がない。
 当然、必修科目もない。
 よって、好きな時間に、その時間帯に開かれている講義の中から受けたい講義を自由にセレクト出来る。
 大まかな人数制限はあるが、基本は自由だ。
 ごった煮の感はあるが、実際の大学でも専門分野の講義ばかりではないので、その辺は特に
 差異を感じる必要はないとの事。
 通常の大学より自由度が高い。
 逆に言えば、より高い自由度をここで経験しておくことで、いざ大学に進学した時に戸惑わずに済むだろう。
 そう言う意味では、適切な設定と言える。
 そして、そんな中で雪人が本日受けようとしているのは、『心の病』と言うタイトルの講義。
 割とベーシックな 精神疾患に関する講義のようだ。
 近年、精神病と言う言葉はメディアから完全に消され、このような表現を用いるようになって来ている。
 名前が変われば、中身は変わらなくても周囲の見方は大きく変化するからだ。
 実に原始的な手法が、この21世紀になっても積極的に施行されている事実に、誰も異を唱えない訳では
 ないだろうが、そう言う流れは一向に止まる気配がない。
 さて、それはさておき。
 今日雪人が受ける講義は、これだけではない。
 この後、『熱帯魚待望論』、『近代ヨーロッパの歴史』、『二十二世紀発ネコ型ロボット解析学』と続いていく。
 タイトルからわかるように、真面目系→オモシロ系と言う並びで選ぶ事を心がけた結果、こうなった。
 まとまりのないラインナップではあるが、敢えて分野に偏りを見せるよりは、大学の体験と言う主題には
 則している並びと言えるだろう。
(……お、来た)
 そんな、誰に対しての言い訳なのかわからない思考をグルグル張り巡らしている雪人の視界に入っていた
 出入り口の扉が開く。
 ようやく講師のお目見えだ。
 雪人の座る席は、後ろから数えた方が早いような位置で、教壇から離れるに連れ席が高くなる
 構造の傾向から、かなり講師が小さく見える。
 ちなみに雪人の視力は2.0。
 しっかりその顔は確認出来るが、特に特徴的な顔立ちの人でもなく、余り意味は無かった。
「えー。栄えある皆様の初めての講義を担当する事になりました。数回しか行えませんので
 深い内容をレクチャーする事はできませんが、心の病についてここにいる皆が少しでも関心を抱き、
 大学に入った時に似たような講義があったら『お、受けてみようか』と思ってくれるような講義に
 したいと思います。では初めに――――」
 そんなお堅い前説から始まった講義は、心理学の種類、その中でも特に精神医学についての説明が
 なされた。
「――――ここ数年社会問題となっている事もあり、皆さんの耳に届く機会もあろうかと思われますが、
 精神疾患の中でも最もメジャーなものの一つとして挙げられる『人格障害』について述べましょうか。
 ます、人格とはどういったものだと思いますか?」
 人格。
 パーソナリティー。
 個人の統一的・持続的な特性の事を指す。
 パーソナリティはペルソナ(仮面)を語源としており、外界に対する適応状況についても
 人格の内の一つだと言える。
 性格とほぼ同義とされているが、先天的な気質に後天的に備わった性格を加えたものが人格である、
 と言っていいだろう。
 案の定、同じような説明がなされた。
「――――では、人格障害とは何かというと、実はその答えは多種多様にあります。概念を明確に
 統一化できないのです。と言うのも、時代が進み、文化や教育の変化、或いは文明の発達、退化……
 それらの流れによってストレスがより多角的になり、一昔前にはなかった疾患が生まれてしまうからです」
 ストレスの多角化。
 それは、雪人のような受験を控えた高校三年生にとっては、かなり生々しい問題だ。
「そこの所を踏まえつつ、人格障害の分類について挙げていきます。人格障害は大きく三つに分類され、
 それぞれクラスターA、B、Cと言う分け方をされています。奇妙な言動や極度の妄想癖、対人関係からの
 引きこもりなどのA郡、感情的、奔放的な特徴を持ち、ナルシスト性や反社会性が強いB郡、不安や心配を
 過度に持つ事で行動に障害を来たすC郡となっています」
 講師の説明は続く。
 余りユーモアを交える気はないらしく、淡々とホワイトボードに文字や図を連ねていく姿は、
 どこかサラリーマンのプレゼンを髣髴させる。
 余り人気のない講師なんだろうな、と雪人はボンヤリ考えつつも、傾聴を続けた。
 同時に、自分なりの解釈を頭の中で組み立てる。
 そこで雪人が構築した一つの構造。
 それは、人格障害と言うのは要するに、極端な人格の人間なのではないか、と言う仮説だ。
 或いは、そう言った人格によって自制が利かない人間、と言った方が正しいのかもしれない。
 とは言え、そんな人間は何人でもいるだろう。
 極論を言えば、不良と呼ばれる人間全てが人格障害と言う事になる。
 そう考えると、不毛な講義とも思えるが、それでも雪人は聞き続けた。
「こう言った分類によって――――」
 こうして、お堅くも中々に興味深い講義は一時間半の間延々と続いた。
 高校の授業との違いは、テストで答えを解く事を前提としないと言う事だ。
 知識として頭に残す為の講義。
 そこから関心を抱かせる為のレクチャー。
 これが専門科目だったらまた違うのかもしれないが、淡々と進める講義であっても
 やらされてる感は全くなく、キャッチーさこそないものの、雪人は好感触を抱いていた。
 その一方で、興味を持てそうにない連中は講義の途中でもソロソロと席を立っている。
 しかし、講師がそれを咎める事はない。
 自己責任を課した教育のあり方を初めて目の当たりにして、雪人は不思議な感覚を抱いていた。
「では、この辺で終わりましょうか。是非来週の講義にも足を運んでください」
 その言葉を合図に講義は終了。
 授業の終わりを告げるチャイムはない。
 この辺も、高校までとは違う所だ。
 そして、次は教室移動。
 なにしろ同時間帯に幾つもの講義が行われてるので、稼働中の教室も様々。
 次の『熱帯魚待望論』の教室は結構遠い場所にあったものの、講義と講義の間は20分間の
 休憩時間がある。
 と言う訳で、余裕の到着。
(……狭っ)
 今度は先程とは打って変わって、こじんまりとした教室だった。
 とは言え、このツアーの為に作られた大学だけあり、古くはないのでそれなりに映えてはいる。
 雪人は中央付近の席に腰掛け、鞄を机の下に仕舞いつつ、小さい息を吐いた。
 ちなみに、熱帯魚には然程興味はない。
 単純に『待望論』と言うタイトルに妙に面白くて選んだ講義だった。
 実際、詰まらなければ早々に退室出来るので、気楽ではある。
(……にしても)
 それより何より、人の少なさが目に付く。
 あと2分で始まるのに、10人程度しかいない。
 こうなって来ると、幾ら自由度が高いとは言え、途中離脱がし難い。
「……」
 雪人はそれまで座っていた席を立って、後ろの出入り口付近に移動した。
 ここならば、問題なく出て行ける。
 そんな姑息な算段をしつつ、座ろうとした刹那――――ちょうど入室して来た人と目が合った。
「……ん?」
「……ぁ」
 まさかの知った顔――――お隣さん。
 まだ名前すら知らないその女子に、雪人は運命的な物を感じるより、危機感の方を抱いていた。
 ここまで来ると、流石にストーカー扱いされる可能性が高い。
 偶然ですね、の域を超えたエンカウント率に、かなり不気味な印象を持っている事は間違いないだろう。
 雪人は再び席を立ち、先程の――――
「はいそれじゃ講義始めまーす。あ、後ろの人前に詰めてねー。人少ないから」
 席に座る前に、軽いノリで講師が来室。
 完全に、隣に着席する流れが出来上がってしまった。
「……」
 運命にヤラセ臭を感じつつ、横目で様子を探る。
 と――――また目が合った。
 何か睨まれてるような気がして、雪人はかなり滅入ってしまった。
 アパート暮らしは、隣人との関係が悪化すると一気にストレスが溜まる。
 人格形成に悪影響を与えかねない。
 それこそ障害を抱える事に繋がる。
 決断の時が訪れた。
 注目を集める覚悟で、思い切って離脱をするか。
 それとも――――
「あの……」
「えあっ?」
 突如、お隣さんが能動的に口を開いて来た。
 予想だにもしてなかったその行動に、雪人の言動は乱れた。
 数秒先の発言『付きまとわないでくれます?』に覚え、反射的に頭を抱える。
「熱帯魚……お好きなんですか?」
「はぅわ?」
 しかし、言葉もまた予想外だった為、雪人の言動は更に乱れる。
「あー……熱帯魚。まあ、嫌いじゃないからここにいるのかな」
 混乱する頭で、一応の返答を試みる。
 お隣さんは無表情――――ではなく、何処か寂しげにしていた。
「そう……ですか」
「そっちは、好きなの?」
 言い慣れない二人称になんとなく抵抗を感じつつ聞いてみる。
 お隣さんはすぐに首肯した。
「そっか。それじゃ家で飼ってたりする?」
「はい。エンゼルフィッシュのダイヤモンドマーブルとハーフブラックを二匹とディスカスの
 スーパーブルーダイヤモンドとレッドロイヤルブルーを一匹ずつ、グッピーを三〇匹、テトラを……」
「ごめん。何言ってるかわからない」
「あ……すいません……」
 いきなりブースターでも装着したかのような、スラスラと出てくる言葉の群集に、雪人は雪崩にでも
 巻き込まれたかの酔うな心持ちになり、思わずストップをかけた。
 世の中には、無口な人間程、自身の趣味の話になると饒舌になると言うお約束が存在する。
 しかし、雪人はそんな人間を始めて目の当たりにした。
 お約束は実在する! 
 ある意味、これがこの日最大の収穫だった。
 ――――ともあれ。
 お隣さんは熱帯魚が好きと言う事と、ストーカー扱いされていないと言う事も、同時に収穫となった。
「……」
 あと、恥らう顔が可愛いと言う点も。
「えっと……講義始めて良い?」
「どうぞ。心の赴くままに」
 雪人に平然と促され、講師は若干冷や汗を頬に付けつつ、教卓に掌を付いた。
 人数の少なさにもテンションを下げる事無く、おおらかな笑顔を浮かべ、口を開く。
「熱帯魚。字の通り熱帯に住む魚の事を指す訳だけど、実際には、観賞用に飼育される美しい形態と
 色彩の魚達をそう呼ぶんだ」
 自分で言った手前もあって、雪人は講義に耳を傾ける。
 お隣さんは既に臨戦態勢のようなオーラを放ち、聞き入っていた。
「それじゃ、ここで一つ質問しよう。熱帯魚はどうして人気があると思う? はい、そこの君」
 指名制を採用している講義らしく、最も右側に座るメガネっ娘に質疑が飛ぶ。
 雪人は、この形式の授業は好みではなかった。
 ふと何かを思い付いた時、その沈思黙考を邪魔されるのが不愉快だからだ。
「あ……ええと、見た目が綺麗だから?」
 指名されたメガネっ娘は、半疑問系で妥当な回答を提示した。
 どうでもいい情報だが、この講義を受けている人間は地味な外見の者が多い。
 ちなみに、雪人も微妙にその範疇だった。
「そう。勿論それもある。それじゃ他には……君はどう?」
 次に指名されたのは、雪人の隣の女の子――――つまりお隣さんだ。
「……」
 自分が当てられた事に気付いているのかいないのか、全くの無表情のまま、沈黙の時間が5秒、
 10秒と過ぎて行く。
 まるで、一切の回答を拒否しているかのように。
「う〜ん、何でもいいんだけどな。それじゃ隣の君は?」
 小中高の先生と違い、切り替えが早い。
 この辺は好感が持てる。
 中には何か答えるまで晒し者にする教師もいるが、はっきり言ってそれは何ら意味がない。
 それでその生徒が何かを得るかと言えば、晒し者にされた羞恥心しかない。
 恥を教えるならば、別の方法が遥かに好ましい。
「どう?」
 雪人の沈黙に、流石に不安を覚えたのか、講師の表情が曇る。
 2人連続の無言回答は気の毒なので、雪人は思った事を口にする事にした。
「そうですね……晒し者だからじゃないですか」
 その回答に、場の空気が少し変わる。
 特に、お隣さんはそれまで見せた事のないような、感情の灯った顔で雪人に視線を送っていた。
「ほう……面白いね。どう言う事かな?」
「人がペットに求めるものは、愛敬や支配欲の充足などですが、鑑賞性というのも多分にあると
 思われます。その点、熱帯魚は広く人々の目に触れる事を目的として、様々な品種が人工的に
 大量生産されています。綺麗だからという理由で人気があるというより、人気を得る為に
 綺麗にされた晒し者――――そんな感じです」
「……」
 空気を重くする必要は全くない。
 雪人が敢えてイメージの悪い言葉を選んだのは、単に直前の思考をなぞったから――――ではなかった。
「なるほど、確かにそういう一面もあるね。ただ――――」
 この後、講師は熱帯魚の様々な長所や人間が熱帯魚に求める点をずらずらと並べ、その背景としての
 現代社会の問題点や改善点の提起へ発展させると言う『予想通りの』展開を作った。
 その間も、講師と受講生の質疑応答が繰り返されたが――――雪人が指名される事はなかった。
「それじゃ、ここで今日の講義は終わり。ただ、その前に一つ。次週からの参考にしたいので、
 アンケートに協力してね」
 事前に用意していたらしく、パソコンで作ったと思しき10枚程度のアンケート用紙が
 一番端の受講者に渡され、回されて行く。
「……?」
 その流れが雪人の手前――――お隣さんの所で止まった。
 お隣さんは暫し熟考すると、何を思ったか突然シャーペンを走らせる。
「あ、あの、アンケート」
「……はい」
 雪人が催促すると、何の臆面もなく手渡した。
 一体何をしていたのか疑問を抱きつつ、一番上の用紙を一枚取って、残りを隣に渡す。
 アンケートは『この講義は面白かったですか?』『話すスピードはどうでしたか?』等の
 ありきたりな質問に五段階評価で答える形式のものだった。
 内容にも講師にも然程目を引く点はなかったので、全部『3・普通』にチェックを入れる。
 最も嫌われる回答だろうが、これが評価なので仕方ない。
「……ん?」
 全て答え終えた雪人の視界に、違和感が映る。
 一番下の空白の部分に手書きで追加の質問が記されていた。
『あなたのお名前を教えてください』
 書体の整った、綺麗な字だった。
 ちょっとしたサプライズに、困惑とくすぐったさを覚えつつ――――雪人は
 その質問に苦笑混じりで答えた。
「黒木雪人。そっちは?」
「……吉原月海です」
 離島へのツアー、その初日に出会った者同士、ここでようやくお互いの名前を知る。
 隣人同士は少しだけ縮んだ距離に、ほぼ同時に微笑みを浮かべた。







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