色々ありつつ、本日の講義終了。
幾つかの戦利品を心の中に置き、雪人は大友研究室へと向かう。
ちなみに、研究室の事をゼミと表現する事も多いが、これは理系と文系の違いと言われたり、大学毎に
違っていると言われたり、イマイチ統一感がない。
実際のところ、ゼミ(ゼミナール)と言うのは通常、研究やそれに伴い行われる討論や発表などを指し、
部屋自体を指す言葉ではない。
だが、便宜上そう言った事を行う場所をゼミと呼ぶ風習は根強く、その為に研究室に『〇〇ゼミ』と
言う札を入り口に下げている大学は非常に多い。
そして、この大学体験ツアーの箱として作られた仮想大学『U.
de L'oiseau
Bleu』の場合は
どうなっているのかと言うと――――実は、両方ある。
研究室と銘打っている所もあれば、ゼミと称している所もあるようだ。
各研究室の調査をするように、と言われた事もあり、雪人はそう言う所を講義と講義の間にチラッと
チェックしていた。
――――研究室の調査。
そんな不可思議なミッションに、雪人は1割の不安と3割の好奇心、そして6割の懐疑を抱いている。
先日の白石の説明はそれなりに筋の通ったものだったが、何処か腑に落ちない点もあった。
何しろ、今回のツアーは大学入学体験。
本格的な調査をさせる為の準備期間など最低限で良い筈。
勿論、教授によって考えは異なるだろうし。そのプロセスにこそ意義があると考えるならば、準備期間に
時間を割く事はそこまで不自然ではない。
不自然なのは――――何故他の研究室を対象としたか、だ。
例えば、自身の研究室の事を調査させ、レポートを取らせても良い筈。
逆に、もっと対象を広くして、大学の敷地全体でも良い。
それなのに何故――――
「……あら?」
そんな疑念を頭の中でぐるぐる回していた雪人が大友研究室の扉を開けると、そこには先客がいた。
雪人の姿に声を挙げたその人物は、女性だった。
優雅にコーヒーを飲みつつ、堂々と脚を組んでソファーを占拠している。
宇佐美嬢でも、結衣でもない。
しかし、何処か見覚えのある顔だった。
「あ、失礼してま〜す。ここ配属の人?」
やたら軽い感じの口調。
それで思い出した。
「はい。あの、バスとかツアーとかのガイドの人、ですよね?」
初日の事を思い出し、雪人は確信を持って問う。
その予想通り、女性はグッと親指を立てて正解を教示した。
「でも、正確にはもう違うけどねー。今はここの事務やってんの」
「あー……、そうですか」
「何その『クビになったんだろうなと推測して一瞬対応に困った』みたいな間は」
見事な的中に、雪人は思わず苦笑いで視線を逸らす。
しかし、元ガイドは不敵な程に余裕の笑みを浮かべていた。
名前を思い出そうと、雪人はこっそり思考回路に蹴りを入れる。
すると、谷口と言う苗字がポロリと落ちて来た。
「言っとくけど、クビじゃないからね。元々兼業なの。人員不足なの。わかる? 一人で何役も
こなさなきゃならない、この面倒。それもこれも、あのバカがクビになったりするから……」
「……もしかして、それここの研究生の女性ですか?」
「まーね」
元ガイド現事務の谷口嬢は、やさぐれた表情で嘆息していた。
つまり、宇佐美嬢の失態の皺寄せがこの人に来たらしい。
「ま、元々上司との折り合いが悪くて毎日ぼやいてたから……って、そんな事はどうでも良いのよ。
ね、ここの教授知んない? いないから勝手にコレ使って待ってるんだけど」
「……」
彼女が言った『コレ』というのは、マグカップの事だった。
雪人が最初にここに来た時に出された、一部緑のそれだ。
「知りません。何も俺は存じません。いや、だから存じません」
「知らない方が貴女の為です的なその言い方、すごく引っかかるんだけど……」
「気の毒です。ああ違う、気の所為です」
「?」
少し動転している自分を諫めつつ、一つ咳払い。
雪人は目の前の年上と思しき女性に、何となくやり難さを感じていた。
明らかに苦手なタイプ。
出来れば余り接しない方向で、と思いつつも、事務と言う職業が引っかかっていた。
もしその職業が、毎日この付近に待機しているものであれば、嫌でも顔を合わせる機会が多くなる。
実質的な初対面のこの状況で、印象を悪くするのは得策ではない。
「パソコンの電源切ってないし、戸締りもしてないから、帰ってるって訳ではないと思います。
どれくらい待ってるんですか?」
様々な打算の結果、懇切丁寧な対応を心掛ける事にした。
「えーっと……15分? あ、16分かも。ん? 17分?」
「いや、その辺は曖昧でいいですけど……それじゃトイレって訳でもなさそうですね。って言うか、
俺もあの人の行動は全く把握してないんで、良くわからないです」
「ま、そうよね。それじゃ来るまで待っとこうかな。このソファー、凄く馴染むし」
雪人に続き谷口嬢も、このソファーがお気に召したようだ。
外見からは余り想像できないが、カッシーナあたりの高級ソファーなのかもしれない。
「ね、ね、ね、ね。今日初めての講義だったんでしょ? どうだった?」
そんな雪人の思案顔を無視し、谷口嬢は刺激を求める専業主婦のような好奇心旺盛さを
見せ付けて来た。
事務の仕事はどうした、と言う指摘をしたい衝動に駆られつつ、雪人は質問に答える方を優先させる為、
先刻の経験を脳内にリフレインさせる。
「そうですね……高校の授業とは色々違いがありすぎて、別物って感じです。個人的にはこっちの方が
楽でしたね。何か空気が軽いというか」
「あーわかる。すっごいわかる。そんな感じよねー」
谷口嬢はコーヒーをグイっと飲み干し、何度も頷いていた。
「谷口さんは大卒なんですね」
「短大だけどね。これでも結構良いとこ出てんのよ。あ、悪いんだけど私、自分の苗字あんまり
好きくないのよ。別の呼び方の方が良いな」
苗字に好きも嫌いもないと思いつつも、本人の希望なら断る理由もなく。
「じゃ、事務の人で」
「おいっ! そんな呼ばれ方で喜ぶ女がいるか!」
本意気で怒られ、雪人は思わず後退った。
「そ、それなら……事務方の女?」
「君。私を嘗めてるね? そーなのね?」
そんなつもりは全くないのだが、下の名前を思い出せないので、こう言うアプローチにならざるを
得ないと言う事情があった。
「自己紹介はした筈だけど」
雪人の苦悩を手に取るように、谷口嬢はギロリと睨みを利かす。
最も、迫力はない。
単に遊んでいると言う雰囲気だった。
「アレです。ガイドさんが余りに綺麗だったんで、見蕩れてて良く聞いてなかったんです」
状況の打破の為、雪人は放言を吐いた。
「あらそう? そんな、やだよこの子ったら。私は年下も全然OKだけど世間の目は結構厳しいよ〜?」
「社交辞令を真に受けられても」
「うわ、社交辞令って本人に面と向かっていって来やがった! 初めて見たよそんなヤツ!」
谷口嬢は本気で驚いたらしく、ソファーから少しずり落ちた。
「変わり者なのね……ま、良いや。下の名前は香莉だから、香ちゃんって呼んで。コーちゃん」
「香莉さん、宇佐美さんと仲がいいんですか?」
「無視かよ……まあ、親友だけど。それがどうかした?」
ベクトルこそ違うが、その勇み足っぷりはよく似ている。
類友と言う言葉が雪人の脳を駆け巡った。
「いえ……」
返答に少々困っていると、ドアの方から控えめなノックの音がする。
それが宇佐美嬢のものだと、雪人は何となく理解していた。
ノックソムリエと言う資格があるのなら、割と素質がありそうだと自覚しつつ、振り向く。
「失礼します……あら、香莉。何でここに?」
やはり正解だった。
「へろ〜。教授待ち。あんた居場所知んない?」
「さあ……」
宇佐美嬢が現れた事で、年上の女性が二人に。
なんとなく居心地の悪さを感じ、雪人は頭を振りながら奥の椅子に腰掛ける。
「そ。ところでどう? 二度目の大学ライフは」
「そう言う事を聞かないで」
「あっはっは」
いきなり爆弾を落とすという親友同士らしい会話を早々に切り上げ、香莉は爛々とした瞳を雪人に
向けてきた。
「ねーねー聞いてよ……あれ、名前聞いてないや」
「黒木です」
「下は?」
苗字で満足できなかったらしく、香莉は何故か声のトーンを低くして質問を重ねる。
「雪人ですけど……」
「聞いてよゆっきー。この子」
「ちょっちょっちょっ!」
聞き捨てならない呼称に思わず噛み噛みになりつつ、会話を強制停止させる。
「ゆっきーって何ですか」
「雪人だからゆっきーに決まってんじゃない。で、この子さ」
「ちょちょちょちょちょ! ゆっきーはないです! いや本当に! マジで!」
雪人の人生の中で、そのような呼ばれ方をした記憶はない。
せいぜい、結衣の呼ぶ『ゆき』程度。
割と有り触れているとは言え、渾名で呼ばれる事には大きな抵抗があった。
「えーっ、雪人ならゆっきーでしょ〜。ね、結維もそう思うっしょ?」
「わ、私からは何とも……あ、でもでも、呼ばれる方の気持ちも尊重すべきかなー、なんて」
途中で雪人の眼力が届いたらしく、宇佐美嬢は意見の軌道修正を迅速に行っていた。
多少強引だったものの、香莉は不自然さを感じなかったらしく、健闘に値すると判断したらしき顔を作る。
「……それもそうか。私もそうさせて貰ってるんだし。んじゃ、ゆっきーはどう呼んで欲しいのよ?」
「黒木、で」
「ツマンネー」
機械的言語で却下された。
「あんたには自尊心ってものがないの? いい、呼び名って言うのは相手にどう思われているかをビシッ!
っと表してるんだから。そんな一山いくらの呼ばれ方じゃ嘗められてるも当然よ?」
加えて全くいわれのない説教を受けてしまった。
「ちょっと香莉、そんな不条理な……」
「クビ女はだまらっしゃい!」
「……クビ女」
しかも雪人をフォローしようとした宇佐美嬢に屈辱的な異名が!
「……わかりました。俺が悪かったです。どうぞお好きなようにお呼びください」
被害の拡大を防ぐ為、雪人甘んじて敗北を受け入れた。
「あらそう? それじゃよろしくね、ゆきっちゃん」
敗北の味は想像より遥かに苦々しかった。
「でさ、やっと本題なんだけど、聞いてよゆきっちゃん! この子ったらストーカーに狙われてるんだって!」
「……ストーカー?」
いやに物騒な話が研究室内を軽やかに駆け回る。
こんなに明るく他人に話して良いトピックなのか疑問に感じつつ、雪人は宇佐美嬢に視線を移す。
「……」
明らかな沈痛の表情と言う訳ではないものの、困惑と困憊を少々滲ませていた。
自分のプライバシーをよく知りもしない男に話される嫌悪感より、ワラにもすがる心境の方が
勝っているような表情。
「それは、ここに来てからですか?」
そう判断した以上は、食い付くしかなかった。
「……はい。初日の夕方に近所の確認がてら散歩してたんですけど、後ろにずっと人の気配がして……」
「それ以来ずっと誰かに付きまとわれてるのよね? どうせ同じマンションに配属された変態の仕業よ」
宇佐美嬢はマンション住まい――――そんな情報が雪人の頭に刷り込まれる。
当然と言えば当然なのだが。
「顔は見たんですか?」
「チラッと……帽子を被ってて、サングラスかけてて、マスクを付けていました。
後、ダブついたコートを着てました」
「典型的にも程があるな」
「でしょ? 私ならそんな格好で後ろを歩かれた時点でアウト、逆半身片手取りなんだけど、
この子臆病だから」
臆病じゃなくても、いきなり片手なんぞ取る女性など婦警か格闘技経験者くらいしかいない――――
などと言う発言は敢えて口にせず、雪人は再び宇佐美嬢に視線を向けた。
「でも、それだけ怪しい格好の奴から付きまとわれてるなら、ツアーの責任者にでも話して
とっ捕まえて貰えば良いんじゃないんですか?」
「フッフッフ、甘いねゆっきー」
呼称がゆっきーに戻っていた。
やはり当人もゆきっちゃんはどうかと思ったらしい。
そもそも言い難い。
「普通のツアー参加者なら、それで良いでしょう。でもこの子はスタッフをクビになった女なのよ。
そんなクビ女が今更クビにされた相手に対して『私の腰のクビれにクビったけのストーカーがいるんです!
そいつのクビねっこを押さえて下さい!』なんて言える?」
力説しているが、力入ってるのは寧ろイジメの方向だった。
「うう……ひ〜〜〜〜ん」
結果、マジ泣き。
「うわ、ゴメン。冗談だってば」
謝るくらいなら最初っから――――と言いたくなる場面なのだが、これが彼女達なりの
コミュニケーションなのかもしれないと言う可能性もある為、雪人は入り組んだ時限式爆弾を
目の前にした爆弾処理班の心持ちで様子を探る事しか出来ずにいた。
何しろ最近、かなり歪んだ愛情表現が流行気味だ。
痴漢を捕まえたらそう言うプレイだった。良く聞く話だ。
「と、とにかく! ゆっきー! ここは一つ男冥利に尽きる役割を引き受けてみる気はない?」
「いや、仕事があるんで」
「うわー……ストーカー被害に悩む同僚を仕事なんて理由で見放すの? それって引くよねー……」
そんな香莉の脅迫にも似たジト目に、雪人は口を半開きにして冷や汗を流す。
確かに、人道的に断れそうにはなかった。
「じゃ、今日の課題が終了した時点で、全員で話し合いましょう。それで良いですよね?」
「あ、あ、ありがと〜」
宇佐美嬢は感激の余り、だーっと涙を流していた。
何気に、相当不安だったらしい。
早々に厄介事に巻き込まれる事になった雪人は、大きな溜息を吐きつつ、他の面子が現れるのを
疲労感タップリの身体で待った。