「失礼します」
控えめなノックの音の後、結衣が研究室に入る。
これで全員集合。
部屋の主である大友教授以外は揃った格好だ。
「おー、可愛い子だねー。小動物系? こりゃ要チェックだ」
そして、何故か事務の香莉も残ったままで、何故か一番テンションが高い。
雪人は事務の仕事とは暇なものなのかと疑問に思ったものの、敢えて聞く事はせずに
白石に視線を送る。
今後行われる話し合いは、間違いなく彼が中心となるからだ。
「それじゃ、始めようか」
案の定、自覚していたらしく、場の仕切りを買って出た。
まだ集まって数日の中でリーダーシップを発揮する10代は中々いない。
そう言う意味では、雪人にとってはありがたい存在だった。
「一応、僕はフィールドワークについて多少の知識がある。でも、それは実践的な
経験に基づくものじゃない。僕自身、そう言った経験をしたくてこのツアーに参加した
ところも大きくて。だから、皆と協力しながら計画を立てて行こうと思ってるんだけど」
「ま、当然よね。誰かが主導権取るくらいなら良いけど、依存するようじゃな〜んにも
意味ないからねー」
小悪魔な笑みで香莉がフォローを入れる。
白石はそれに対し――――特に何を言うでもなく、研究室の面々を眺める。
「私も異存はありません」
「私も……」
女性2名も賛同したところで、雪人も小さく首肯。
「うん。それじゃ、早速具体案を練ろう」
こうして、他の研究室を調査するという、奇妙なミッションは開始された。
まず、調査とは何を持って調査とするのか。
通常、フィールドワークと言うのはまず主題があり、その主題に対してのアプローチから
確認していく必要がある。
しかし今回、調査自体が主題となるので、いきなり王道を外れている事になる。
「でも、逆に言えばこっちで決められる、って事でもあるのか」
雪人の言葉に、白石は一つ頷いて見せた。
それを踏まえ、全員で考える。
研究室の調査対象となるもの。
教授の専攻。
何を研究しているのか。
人員構成。
部屋の広さ。
備品。
主に出て来た意見はこれくらいだ。
「何か、10分あれば調べられそうな事ばっかね」
事務を司る香莉にとっては、些事とも言えるものばかりなのだろう。
欠伸をかみ殺しながら話し合いを聞いている。
「フィールドワークでは、こう言った基礎的な事は確実に抑える必要がある。
これらは全て立派な調査対象だね」
そんな言葉を押しのけるような白石の弁に、一瞬ムッとした顔をした香莉だったが、
直ぐに苦笑じみた表情に塗り替えていた。
「ま、でも実際これだけじゃダメだろなって気がする。もっと踏み込んだ方が良いだろうな」
雪人は書き連ねたリストを手に取り、それをじっと眺めた。
実際、これらの調査は素人でも楽に出来る。
それより、重要なのは――――
「この調査の目的を明確にした方が良いんじゃないか?」
雪人の問いに、白石は若干眉間に皺を寄せ、小さく自分の太ももを指で押す。
「それは当然、大友教授の試験だと判断すべきじゃないかな。だからその試験が目的で良いんじゃ?」
「それならそれでも良いよ。試験なら、一般的なフィールドワークに則った主題を用意しよう。
でも、もしかしたらこれは主題を自分達で設定するところも評価対象かもしれない」
「つまり、実際にそう言った調査を行う場合、どんな事を目的にするのか、って言う事まで
想定する事も必要、って事ですか?」
少しペースを落としながらの雪人の言葉に、宇佐美嬢が反応を示す。
「なーるほど。敢えて『これを調査しろ』って言わなかったのは、それも自分等で考えなって意図が
あるって事ね。今時の指示待ち人間にゃ勤まらねーぞ、っていう意味もあるのかもね」
何処か嬉しげに、不適に笑いながら香莉が補足する。
実際問題――――そうでなければ、ここまで自由性の高い『試験』に意味はない。
雪人は白石に向けて視線を送った。
「……そうだね。うん。確かにそうだ。黒木君は賢いよ。僕はそこまで考えなかったな。
うん、凄い」
白石はニッコリ笑いながら、物腰柔らかに雪人を褒め称える。
微かに発生した緊張感はそこで霧散した。
「でも、だとしたら何を調査すんの? 言いだしっぺのゆっきーちゃん」
「ゆっきーちゃんは止めて下さい。っつーか止めろ。で、俺としては……」
「ちょっ、今年上女性にタメ口使ったでしょ!?」
「この際、本気で大友教授が俺たちに調査を依頼した、って言う設定で考えてみたらどうかなと」
姦しい年上女性を無視し、雪人は一つの仮定を示した。
本当に大友教授が、他の研究室の何かを調べたくて、自分のところに集まったツアー参加者に
調査を求めた可能性は、ゼロと言っても良いだろう。
成果が得られる筈もないのだから。
だが、どうせこちらで目的を作るのならば、そのリアリティは無視できる。
それならば、依頼人の意図を汲むというのが、調査する上で一番重要な事――――と、雪人は考えた。
そして、この中にそれを一つ一つ説明しなくてはならない人間は、いない。
伊達に大学を目指している高校生ばかりではないらしく、直ぐに全員把握したように顔を上げていた。
「そうなると、何で大学教授が素人に調査依頼したか、って事を考える必要がありますね。
あくまでも、もしそうならと言う仮定の下で、ですけど」
宇佐美嬢は更に天井まで視線を上げ、顎に指を当てて思案顔を作っている。
「素人が調査するって、意外とドラマとか小説であるしねー。何でか殺人事件に足突っ込んで。
バカじゃないのって感じだけど」
香莉は決して言ってはいけない類の言葉を言っていた。
「そもそも、大学の教授が何で他の研究室の調査なんてするの? アレ、論文盗作とかベタなネタ?」
「いや、それはないでしょ。フラッシュメモリかっぱらって来い、って言われたんなら兎も角」
そもそも、大学の教員であれば、お互いの研究論文なんて見放題。
普通に資料としても活用されている。
データに関しても、頼めば普通は見せて貰える。
雪人はその事は知らないが、それくらいは推測できた。
「……新入生」
ポツリと。
それまで終始無言だった結衣が呟く。
それだけに注目度は必然的に高くなり、全員がその方に視線を送った。
「あ……えっと、すいません」
「いや、良いから続けて」
雪人の言葉に、結衣はコクリと頷いた。
「教授が今知らない事は、他の研究室に最近入った、私達と同じ立場の人の事だと、思います」
「なーるほど! 確かにそうね。それなら、素人が調査するってのも逆にバレ難い理由になるし」
つまり、今回のツアーに参加した者達の事を調べると言う事だ。
勿論、誰が何処に配属されたと言う情報であれば、大学側にリストを見せて貰うだけで
直ぐに調べられる。
重要なのは、それ以上。
例えば動機や人間関係。
満足度でも良い。
もしかしたら、大学側に懇願され、そう言った事を調査して欲しいと頼まれているかもしれない。
勿論、本当に頼まれていたならば、それを話してアンケート用紙などを作って貰う為、
実際の目的と言うわけではない。
だが、架空の目的としては中々説得力を有したものだ。
「……凄いね。皆、自分の考えをしっかり持ってる。やっぱりここに来て良かった」
一方――――白石は何故か内容以外の事に感心していた。
その物言いに引っかかるところはあったが、特に触れる事なく、雪人はリストに『各研究室の
研究生の動機、人間関係、感想等』と追加した。
「まだ色々追加するかもしれないけど、まずはこれで行こうか」
「結構面白そうねー。案外、教授とデキてる女子とか見つかるかもしれないし」
ゴシップ好きなのか、香莉は一番興奮していた。
研究生でもないのに。
「それじゃ、どの研究室から調べていくか……そうだな、まずは順番だけ決めて、今日は
各研究室に挨拶と許可を求めに行こうか。いきなりアポなしで調査、だと失礼だし、
その日に研究生が全員いるとも限らない」
そんな白石の言葉に、全員が感心する。
「白石君、しっかりしてるな。それは全然考えてなかった」
「そうかな? はは、ありがとう」
爽やかに返事。
今は最初にこの研究室を訪れた時と同じ顔をしている。
そこで――――雪人は小さな疑問を感じた。
(今は……?)
自分の感想に、自分で首を傾げる。
つまり、さっきまではそうじゃなかった、と言う事になる。
自覚なきまま、それを感じていたのだ。
とは言え、言いがかりかもしれないし、仮にそうだとしても、それが何だというのか。
感情の動きや周囲の意見などで、人は幾らでも顔を変えるのだから。
それでも、その違和感を敢えて放置しなかった自分に、雪人は不思議な感覚を抱いていた。
「まず同じ棟の研究室から挨拶に行こうか。それぞれの都合を聞いて、良い日時に
スケジュールを当て嵌めて行こう。そうすれば、無駄のない調査が出来る。
良し、これで行こう」
その白石は、一人話を進め、席を立つ。
そして、一足先に研究室を出て行った。
宇佐美嬢と結衣もそれに続く。
雪人も腰を上げ、部屋を出ようとした刹那――――
「あの子、結構ヤバいかもね」
そんな小声が、香莉の方から聞こえてくる。
小声とは言え、雪人に向けた言葉。
思わず振り向くと、香莉は年相応と思しき、それまでより明らかに大人びた顔で微笑を携えていた。
「ヤバい? 白石君がですか?」
「あ、しっかり特定する当たり、君もそう思ったのかな?」
「いえ。ただ、軽く突き放されてたから、何か思うところがあるのかなって」
雪人の言葉に、香莉は口で『おーっ』と言う形を作る。
発声しないのは、彼女なりの配慮なのか。
「洞察力あるね、君は。良い調査員になれるよ」
「茶化さないで、早く言いたい事を言って下さい。外、待ってると思うし」
雪人はそう言いつつも――――香莉の言葉を少しだけ、楽しみに待った。
そう言う自分がいる事は既に知っているので、驚きはしないが。
「多分、自分の思い通りにならないと、途端に豹変するタイプ。
若しくは、使い分けてるのかもしれないけど。どっちにしても、相当ギャップのある
二面性を持ってると見たけど、どう思う?」
その香莉の白石像に、雪人は何かがカチッと嵌る音を聞いた気がした。
先程の違和感は、それを垣間見た所為なのかもしれない、と。
「仮にそうだとしても、それくらいは大抵の人が該当する事じゃないですか?」
「いやー。アレは相当なものだよ。気をつけてた方が良いね。あ、根拠はないよ。
女の勘。ま、君の言う通り誰にでもある面ではあるけど……ね」
香莉は一方的にそう話し、雪人の肩にポンと手を置いて、先に部屋を出る。
それを追うと、研究生の集まる部屋の前を過ぎ、廊下の右側へ向かっていった。
一緒に挨拶しに行く気はないらしい。
「それじゃ、行こう」
白石の言葉に、雪人は頷く。
その白石の二面性云々より、香莉が何故その事を自分に伝えたのかを考えながら。