「失礼します」
 若干大きめのノックの音の後、白石が隣の研究室のノブを握る。
 大友研究室は、この大学の南部に位置する『南棟A』の2F、
 ほぼ中央に位置しており、両隣に別の研究室がある。
 雪人達がいるのは、その東隣。
 研究室を出て右側へ数歩歩いた先にある、お隣さんだ。
 お隣さん――――その言葉に、雪人はある女性を思い出す。
 つい先程、初めて名前を聞いたばかりの女の子。
 吉原月海。
 月の海と書いて、『ツクミ』と読むらしい。
 奇抜ではないが、珍しい名前だ。
 その女性は、これまでのツアー生活の中で、常にお隣さんで
 在り続けた。
「……まさか、ね」
「?」
 一人苦笑する雪人の隣で、結衣は不思議そうにその顔を見つめていた。
 そんな様子を尻目に、白石は粛々と扉を開き、一礼する。
 その姿は優等生そのもの。
 雪人は先程の香莉の言葉を回想し、思わず首を捻った。
「隣の大友研究室に配属された白石と申します。すいませんが、
 大河内教授はおられるでしょうか」
 しかし、その首が直ぐに元の角度に戻る。
 大河内――――白石は確かにそう言った。
 慌てて扉を確認すると、確かにプレートには『大河内研究室』と
 記されている。
 その苗字は、決して珍しくはない。
 ただ、雪人にとって、その苗字と自分の知り合いを繋げる材料は
 十分な程にあった。
 大河内静――――緑葉学園3年2組担任。
 そして、雪人にとっては中学時代からの付き合いのある女性。
 昔、雪人はとある事情で彼女の元で暮らす事になった。
 中学を卒業すると同時に一人暮らしを始めたものの、それまでの
 一年半、彼女の元で生活を共にしていた。
 その際に、耳にした彼女の父親の職業。
 それは、大学教授だった。
「私が大河内だ」
 そう宣言し、隣の部屋から現れたのは、品の良い50前後の男性だった。
 雪人の中にある『大河内女史』の姿とは、似ても似つかない。
「はじめまして。白石と申します。実は、折り入ってお願いがあって……」
 白石が独断で話を進めていく中、雪人の肩をちょんちょんと
 指で突かれる感触が伝う。
「どうかされました?」
 宇佐美女史は眼鏡を曇らせ、問い掛けてきた。
 何故曇っているのかは定かではない。
「いや、何でも」
「そうですか。まるで唐突にお知り合いの方と偶然出くわしたかのような
 顔をしてらしたので。すいません、余計な事を聞いてしまって」
「いえ、かなり鋭いです」
 実際には『知り合い』では無かったのだが、八割は正解。
 雪人は後で何か賞品でもあげようと思いつつ、視線を大河内教授へと移した。
 やはり、静と似ている部分はない。
 どちらかと言うと無骨で、男性ホルモンが多分に幅を利かせているような顔。
 かなり厳しそうな顔つきで、年齢以上に威圧感を感じる。
 スラッとしたタイプの静と、外見上から血の繋がりを模索するのは
 困難を極めた。
「……話はわかった。学生が揃うのは明日の16時だから……そうだな、
 16時40分に来るといい。丁度ゼミが終わる頃だ」
「ありがとうございます。助かります」
 その間にも、白石はあっさり交渉を成立させていた。
 そして一礼し、出て行く。
 それに倣って結衣と宇佐美女史も一礼し、退室。
 学生の姿は研究室には無く、残されたのは雪人と大河内教授のみ。
「ん? まだ何かあるのかね?」
「……あ、はい。不躾な質問で恐縮ですが、大河内静さん、と言う娘さんは
 おられるでしょうか」
 聞くかどうか一瞬悩んだが、聞かない理由も特に見当たらないので、
 単刀直入に確認してみる事にした。
「ああ。娘と知り合いかね?」
 ビンゴ。
 雪人はその確認を終えた途端――――微かに身を強張らせた。
「あ、はい。生徒をやらせて貰っています」
 自分でも何を言っているのかわからないその言葉に、思わず
 心中で顔をしかめる。
 一方、一瞬目を丸くした大河内教授は、思わず噴出しそうになったのか、
 目を逸らして口元を押さえた。
「ははは! 生徒を『やらせて貰っている』か。そこまで畏まらずとも
 良いだろうに」
「……すいません」
 柄にもなく――――緊張していた。
「そうか、もしかして君は、黒木君ではないかね?」
 そして、今度は驚く。
 まさかの特定。
 嫌な予感がして、後悔と同時に逃げ出したい心境になった。
「やはりそうか! 君が黒木君か! いやあ、会いたかったよ。
 娘から話は聞いている。それはもう、耳タコな程にだ。そうか、君が!」
 大河内教授の周囲から、先程までの重圧感が完全に消え失せる。
 フランクな言葉遣いと同時に、雪人は背中を二度三度叩かれた。
「娘が無事教員になれたのは、君のお陰と聞いてるよ。一度会って
 礼を言いたかったんだ。娘を良い方向に導いてくれて、ありがとう」
 そして、深々と頭を下げる。
 それが今日一番、雪人にとって驚愕を覚える出来事だった。
「いや、とんでもないです! 逆です! 俺、じゃなくて僕の方こそ
 助けて貰ったと言うか、まっとうな道に引き戻して貰ったと言うか、
 兎に角お礼を言うのは僕の方です!」
 叫びながら、更に低い位置まで頭を下げる。
「そうか。なら、相互扶助の関係にあったと言う事だな。
 喜ばしい事だ。あの不良娘がなあ……」
 回想に浸る大河内教授の顔は、先程とは打って変わって
 限界まで目尻が下がっている。
 子煩悩な父の典型らしい。
「それにしても、君が来るのならあいつも連絡ぐらい寄越せば
 良いものを。もしかして、私と話をしたくないのだろうか」
「いえ。多分、この瞬間を作る為の演出です」
「成程! おお、素晴らしいな黒木君。娘の性格を良く知っているではないか」
 やたらニコニコとエビス顔を披露する大河内教授とは対照的に、
 雪人は頭を抱えたい心境で、眼前の男性の娘の顔を思い浮かべていた。


 大河内静。
 その女性と雪人が出会ったのは、中学二年生の時だった。
 縁を繋いだのは、彼女の叔父。
 大河内陸と言う、第一強行犯捜査所属の刑事だ。
 そんな彼と雪人の関係は――――決して他人には言えないもの。
 勿論、『そう言う関係』と言う表現をされる方の関係ではないので
 誤解の無いようにお願いしたい。
 雪人は、親と離れて暮らしていた。
 親戚の家に預けられていたが、その親戚の家に居場所は無く、学校が
 終わっても直ぐには戻らず、街を転々としていた。
 帰るのは、親戚の家族が皆寝静まる、25時。
 そのような生活を、まだ義務教育の段階の子供がしていれば、
 当然警察と縁は出来る。
 そこまでは、ごく普通――――ではないものの、ありふれた話。
 問題は、この後だった。
『お前、アルバイトしてみる気はねぇか?』
 刑事にいきなりそんな話を持ちかけられる事など、雪人の
 頭にはこれっぽっちも無かった。
 そのバイトとは、おとり捜査の囮役。
 明らかに危険な香りのするその仕事を、雪人は二つ返事で承った。
 ちなみに、おとり捜査は現在の日本においては原則禁止で、
 例外も麻薬や覚せい剤、或いは買春の捜査のみ――――と言う事など、当時の
 雪人は知る由もなかった。
 要するに、大河内静の叔父は刑事としてかなり常軌を逸した存在
 と言う事になる。
 実際、ドラマでも『そりゃリアリティないだろ』と言われるような、
 型破りな刑事だった。
 雪人は主に、密売に関する囮をやらされた。
 当時まだ中学1年だった雪人が行う役と言うのは、クスリの買い手や
 詐欺グループの仲間になりたい不良。
 近年、薬物使用は小学生にまで及んでいるくらいに低年齢化が
 進んでおり、そう言ったターゲットに絞っている腐った人間もいる。
 詐欺についても同様で、中には高校生の癖に結婚詐欺グループや
 出会い系サイトの元締めになっている人間もいたりする。
 それに憧れると言う形で懐に入るには、中学生と言う年齢は
 かなり都合が良い。
 雪人は、そう言った役割を1年半の間で腐るほどの回数担って来た。
 結果――――多くの犯罪者の逮捕に貢献した。
 潤沢な生活資金も得た。
 そして、余り動じない精神力も身につけた。
 非常識なアルバイトではあったが、得る物はそれなりにあった。
 ただ、まっとうな生活に戻る事は、諦めざるを得ないと言う諦観もあった。
 そんなある日。
 大河内陸のそんなやり方に異を唱える女性が現れた。
 彼の姪だ。
 当初こそ電話口で冷静な話し合いが持たれていたものの、徐々に
 ヒートアップしていき、数m離れた場所から声が聞こえるくらい、
 携帯電話から漏れ聞こえる音量は大きなものになって。
『私が引き取る! 今から行くから待っていろ!』
 そんな声が、雪人の耳にまるで痕のように残った。
 何故、親戚と喧嘩をしてまで自分を引き取るなどと言うのか。
 そもそも、当事者の意思は確認しなくて良いのか。
 そんな思いが、雪人の脳裏を駆け巡った。
 つまらない正義感なら、迷惑極まりない。
 当時の雪人にとって、そのアルバイトはある意味生きている実感を
 貰える、生活の基盤そのものになっていた。
 闇に染まるなら、それでも良い。
 どうせ真っ当な人生など送れないのなら、犯罪者の摘発に陰ながら
 協力すると言う仕事は、考え得る中でも最高峰のものではないか。
 逆に犯罪に手を染める人間も多い環境下において、ある意味立派に
 社会貢献しているのだから。
 当時は、本気でそう思っていた。
 人生の恥部だった。
 ただ、中学一年生に、正しい事は何か、などと言う判断を正常に
 行う力などない。
 自分の主張を精一杯表現するのみ。
 しかし、静は聞く耳など一切持たなかった。
『君が大人になってそう結論を出すのなら良い。だが、今の君は
 知らない事が余りにも多過ぎる!』
 強引だった。
 そして、そのまま雪人は彼女の――――大河内静の元で暮らす事になった。


「……どうしたのかね?」
 突然沈黙した雪人の瞳に、大河内教授の怪訝な顔が映る。
 フラッシュバック症候群――――ではなく、ただの回想だった。
「あ、いえ。何でもないです」
 思考を吹き飛ばしたい心境に駆られつつ、雪人は首を微かに横に振る。
 自分の過去を能動的に見つめ直す事は、殆どない。
 余り良い気分になれないからだ。
 今回にしても、少なからず滅入る箇所はあった。
 それでも幾分マシだったのは、自分が主役ではなかったからだ。
「それでは、失礼します。隣の大友研究室に所属しているので、
 何かあったら声を掛けて下さい」
「ふむ、もう行くのか。どうせなら私の研究室に来てくれれば
 良かったものを」
「知っていれば、そうしたかもしれません」
 最後は大人の返答を述べ、雪人は大河内研究室を後にした。
 結局、この研究室配属となった生徒とは会う事は出来なかったが、
 まさかの事態に今も胸がつっているような感覚に囚われている。
 ――――雪人が、大河内静の父親に対して緊張感を有していたのには、
 それなりに理由があった。
 昔のアルバイトの件ではなく、別の明確な理由だ。
 ただ、それはもう過去のもの――――の筈だった。
 しかし、どうやらそうではないらしい。
(未練、だな)
 苦笑したくなったが、笑みは出ず。
 雪人はしかめ面のまま、別の研究室から出て来た白石達と合流した。


 



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