雪人におっては大きなサプライズもあったが、取り敢えずは順調に挨拶回りも終了。
 大友研究室のある『南棟A』の研究室名及び部屋割りは、初日の段階で全て判明した。
 こう言った調査と言うのは、往々にして取っ掛かりが重要で、そこで一定の成果が
 挙がるくらいの進展を見せれば、モチベーションはぐぐーっと上がる。
「部屋割りに関しては、僕がこれから見取り図を作っておくよ。今日はここで解散しよう」
 と言う、白石の言により、本日の大友研究チームによるブリーフィングとフィールドワークは
 無事終了となった。
 
 が――――雪人にはこれから、別の調査が待っていた。

「すいません……大学でも調査したばっかりだと言うのに」
「いえいえ」
 宇佐美女史の心底申し訳なさそうな言葉に爽やかな笑みを返すくらいの余裕はありつつも、
 雪人は香莉と合流しての『ストーカー捜し』に、若干の疲労を引きずったまま臨む事となった。
 とは言うものの、いい加減な心持ちで参加するくらいなら、寧ろ邪魔になりかねない。
 それを懸念し、心中で両頬を張り、思考回路にスイッチを入れる。
 まずは、整理。
 ストーカーについて考える。
 特定の個人に対して異常な関心を持ち、その人の意思を無視して跡を追い続ける者達が。
 それがストーカーだ。
 2000年代に入り社会問題として様々なメディアから取り上げられるようになった事で
 一般人にも浸透した彼らの行動は、現在法律によって規制されている。
 所謂、『ストーカー規制法』と言う法律だ。
 しかし、今も尚こういった犯罪行為は後を絶たず、依然として明確な線引きが難しい事もあり、
 被害件数の抑制は余り上手く行っていないのが現状。
 最近は年齢層の幅も大きく広がり、10歳以下の子供や70歳を越えた老人にも被害が及ぶ始末。
「社会全体が病んでる証拠よねー。おほほ」
 香莉の辛口コメントは正論だったが、最後のお嬢笑いは意味不明だった。
 ともあれ、ストーカーと言う存在は今や珍しくは無い。
 しかも、一言でストーカーと言っても、タイプ別に幾つかの種類に区分けされる。
 そして、細分化されたストーカー共はそれぞれ異なる行動理念、性質を持っており、
 必然的に対策もそれぞれに設ける必要がある。
 具体的には、以下のような分類が成り立つ。
 

●性質
 ・過敏型(思い通りにならないストレスを過剰に抱え込み、爆発させるタイプ)
 ・障害型(感情の制御が出来ず、精神的疾患により善悪の判断が付かないタイプ)
 ・依存型(責任や感情を他人に擦り付け、自我を防衛するタイプ)
 ・妄想型(思い込みが激しく、妄想と現実の区別を付けられないタイプ)

●対象
 ・恋愛対象(恋愛感情を持っている相手、その恋人や配偶者に対して)
 ・復讐対象(恨みを持っている相手、その親しい関係者に対して)
 ・性的対象(性的興奮を覚える相手に対して)
 ・妄想対象(脳内で作り上げた仮想恋愛、被害妄想の相手に対して)

 
 それぞれ異なる特色があり、二つ以上の性質を複合しているケースも少なくない。
 近年はインターネットの出会いサイト等によるトラブル、集団ストーカー等の問題も浮上しており、
 問題は複雑化の一途を辿っている。
 対策としては、第三者による説得が基本ではあるのだが、被害者本人に問題のある場合は
 本人がその件に対する謝罪を行う事で解決するケースもあれば、交渉を一切受け付けないどころか
 第三者に対しても牙を剥くケースもある。
 こうして区分けしてはいても、結局は個々の対応を迫られるというのが実状で、
 専門家であっても対応に困るケースもままあるようだ。
 法的手段に訴える事が最も安全とも言い切れない。
 非常に厄介で、由々しき問題だ――――
「……」
 周藤が昼食のバランス栄養食品(ゼリータイプ)をすすりながら話していた内容を思い出し、
 雪人は自分が被害者でないにも拘らず、嘆息を禁じえなかった。
 世の中にはどうして何故、このような意味不明な人間を生み出すのか。
「ゼリーやらブロックやらは食すくせして栄養ドリンクの良さがわからんなんて、論外だ」
「……何の話?」
「独り言のようなもんです」
 訝しげに睨みを利かす香莉を適当にあしらいつつ、歩行は続く。
 まずは犯行現場へと赴く事になった。
 宇佐美嬢が被害にあったのは、彼女の住むマンションの近辺。
 当然、そのマンションを中心に調査する事になる。
「ってか、良いんですか……? 俺に住んでる所を教えて」
「大丈夫です。部屋までは教えませんので」
 サラッと非道な事を言われた雪人は、精神的に15くらいのダメージを受けた。
 それはともかく。
 予想通りの高級っぽいマンションに到達したところで、雪人と香莉はまず入り口の
 セキュリティシステムをチェックした。
 当然、エントランス前には認証システム付のセキュリティドアがある。
「これ、何で認証するんですか?」
「声帯です」
 かなり最新鋭のシステムのようだ。
 とは言え、生体系の認証は100%の防犯には繋がらないらしく、暗証番号との組み合わせを
 行っている所もあるだけに、完璧とまでは言えない。
 最も、1ヶ月限定の使用と言う事を考えれば、声帯認証自体破格のセキュリティシステムと
 言っても良いだろう。
「後は、駐輪場を調べておきましょう。結構そこで身を潜めて帰りを待つタイプが
 多いみたいです」
「周囲の車も注意ね。ナンバープレート全部チェックしておこっか」
「……心強い」
 宇佐美嬢が心底感心している中、2人はテキパキとチェックを行う。
 駐輪場の死角にはしっかり防犯カメラが設置されており、周囲に怪しげな車も見当たらない。
 現時点では、ストーカーらしき存在は確認出来なかった。
「待ち伏せタイプはいないみたいね。となると、尾行タイプに絞って良いみたい」
「二重尾行でもしますか。その方が手っ取り早く捕まえられそうですし」
「そーね。それじゃ、明日早速実行って事で」
 本日はそれでお開きとなった。
「……って言うか、何で二人ともそこまでストーカーに詳しいのでしょう」
 宇佐美嬢が無理も無い疑問を唱え、首を捻る。
 雪人は、中学の『おとり』時代にストーカー調査を何度か行った事がある。
 その時の知識に加え、高校に入ってから周藤に補足を受けていたりもした。
 無論、前者については他人に話す事ではないので、後者のみを説明する。
 一方、香莉はと言うと。
「ストーカーって言うのはね……全世界の女性の共通の宿敵なのよ……」
 ギリシャやエジプト辺りを見ているのかと言うくらい、遠い目で語った。
 かなりしんどい過去を持っているらしい。
「知ってる? あいつら、セキュリティを破る事に快感を覚えるんだって。
 そして、縁もゆかりもない他人の女を、脳内で『俺の嫁』とか言って
 既に結婚したものとして処理してるの。だから、本人がそれを否定したら
『嫁が妙な事を言い出した。これはそう言う遊びか、別れ話の予兆か』って言う
 二択で悩むんだって。意味不明過ぎない?」
「確かに病んだ思考回路ですけど、それ以上に今の貴女の顔が怖いです」
 まるでこの世に恨みを持って自殺した女性の霊の恨み説のようだった。
 宇佐美嬢などガタガタ震えている。
「でもね……普通に帰宅した部屋に、知らない男が平然と待ってて、あまつさえ
『あ、お帰り』とか言い出す現場に出くわしたら、誰でもこうなるものなのよ……」
 やはりとんでもない過去を持っていたらしい。
「美人も楽じゃない、って事よ」
「自分で言っちゃいましたか」
「実際、あんたたち男が考えてる程楽じゃないのよ? 美人でプロポーション抜群の
 女の生活ってのは。一月に数日は嫌でもイライラするし、その上身の危険を
 心配しなくちゃなんないし。肩も凝るし。せめて左うちわで生活できるくらい
 貢いで貰わにゃ割に合わないってのに、全然そんな男いないし。不景気って
 ホント、最悪よね」
 かなりやさぐれた事を言い始めた香莉に、普通に恋人を作って普通の幸せを
 実感すればいいのでは、と言う助言をしようとした雪人は、その言葉を投げる
 直前、何らかの負のオーラを感じて言うのを止めた。
 浮かんだのは、キングヒドラの中に飛び込むウサギの絵。
 藪蛇どころではないらしい。
「何? その『美人なら恋人と普通の幸せな生活を送ればいいじゃん』って目。
 やる気? 私護身術一通り習ってるから強いよ?」
 飛び込まなかったのに凄い勢いで威嚇された。
 つまり、恋人はいないらしい。
 実際、美人だし体型も自慢するだけのものがあるのに、妙に納得してしまう。
「恋人なんて都市伝説よ」
 一度もいた事がないらしい。
「……香莉、学生時代から女の子にばっかりモテてて。女子高、女子大コースだったから」
「不憫ですね」
「同情するなら金の延棒ちょうだい」
 強欲だった。
「ま、ここで私の過去をちょこちょこ暴露してても仕方ないし。今日はここまでにして、
 結維の部屋で今後の作戦でも練りましょっか」
「え!? いや、それは……だって、ねえ」
 勢いに任せた香莉の提案を、宇佐美女史は戸惑いながら、雪人に遠慮を求めてくる。
 しかし雪人は別の事に関心を持った。
「って言うか、宇佐美さんも『ゆい』って名前なんですか」
「も……? あ、鳴海さんでしたっけ、彼女もそうでしたね」
 話が逸れた事に露骨に喜び、宇佐美嬢は両手を合わせて何度も頷く。
 とは言うものの、あまり広がりそうにない話題だが。
「結構見かける名前よね。最近流行ってるっぽい」
「いや、創作物の流行とは無関係でしょうに」
「そうでもないってば。そもそも、その創作物を考えた人って結構
 私達より上の世代でしょ? 丁度コレとか結衣ちゃんの母親と
 同世代か、ちょっと下くらいじゃん。きっと今の30〜40歳の間では、
『ユイ』って名前に何かしら共通のインスピレーションがあんのよ。
 どう? この推理」
「確かに……アイドルとかドラマの影響でしょうか」
 雪人は2〜30年位前のアイドルの名前に数人ほど心当たりを見つけ、
 思わず感心した。
 と言うか、意外な事に結構広がった。
「ま、名前って結構大事よね。それで親御さんの性格とか、何気にわかるしね。
 ユイってありふれた名前だと、まあ無事平穏に生きて欲しいって言う
 素朴な人柄が見て取れるってなもんよ」
「あ、結構当たってるかも」
 宇佐美嬢は感心した素振りで香莉の言葉を肯定した。
 では、当人はどうなのか。
 少し興味を持った雪人は、その字の意味を考えてみる事にした。
『香』は言うまでもなく『良い匂い』を想起させる。
 また、『華やか』、『若々しい』と言う意味もあるらしい。
 一方、『莉』には『愛らしい』と言う意味や『可憐』と言う意味合いが含まれる。
 香莉と言う名前は割と珍しいが、何気に悪くない組み合わせだ。
 そこまで分析し、雪人は口を開いた。
「なら、香莉さんは若々しく可憐な女性に……痛っ」
「今何で舌噛んだ? おい、今何で舌を噛んだんですか?」
 眉尻を上げてニッコリ微笑む香莉に、雪人は冷や汗混じりにジリジリ後退する。
 そんな修羅場(?)の最中――――
「あれ? 黒木くん?」
 知った声が雪人の耳に届く。
 この状況においては、何となく余り聞きたくない声だった。
「……」
 案の定、その女――――湖窓霞は、女性2人に囲まれている雪人に対し、
 訝しげな目を向けていた。
 実際、アパートの前で年上っぽい女性達に囲まれ、尚且つその内の1人に
 詰め寄られている姿を見た場合、どう思われるかと言うのは想像に難くない。
「最低……」
 そんな言葉が、雪人の胸に突き刺さる。
 良くて二股疑惑。
 最悪、古の言葉で言うところの『ジゴロ』と言う称号が、湖の中に
 インプットされた事の表れだ。
「待って下さい湖さん。これはですね」
「ま、私には関係ないけど? 知り合って間もない男子の交友関係なんて。
 でもこんな日のある内にお外で修羅場だなんて、随分とお粗末です事。
 それじゃ私はこれで。未来永劫グッバイ」
 局地的お嬢キャラから更に妙な方向にシフトチェンジした湖は、
 ついっと視線を逸らし、早足で歩き抜けていった。
 妙な表現だが、これが一番しっくり来る。決して駆けてはいないが、
 競歩並のスピードだったのだから。
「あれ……今の彼女?」
「な訳ないでしょ。知り合っても間もないって言ってたでしょう」
 とは言うものの、知り合いの女性に『女にだらしない』と言う誤認を
 されてしまうのは当然ながら本意ではなく、雪人は力なく項垂れた。
 その様子に宇佐美嬢は狼狽を隠せず、オタオタしつつ慰めの言葉を
 探しているようだったが――――
「あ、あの……何と申して良いものか。すいません、すいません〜」
 結局見つからなかった模様。
「いえ、貴女がたが悪い訳でもないので」
「まあ、原因ではあるからねー……今度見かけたらフォローしとくから、
 あんまり気を落とさないで。ね?」
「落ち込んでる訳じゃないんですが」
 実際、特に大きな損失がある訳でもないのだが――――珍しく殊勝な物言いをする
 香莉の言葉が、逆に事の重大性を不条理に飛躍させてしまっていた。
 取り敢えず、情報交換相手が一人消えたと言う事になりそうだ。
「一応後でメールでもしておきます」
「ゴメンね。片思いの子に誤解させちゃって」
「違うっつってんだろ。つーかもう帰ります。調査はまた明日と言う事で」 
 嘆息しつつ、雪人は踵を返した。
 後ろからタメ口に対する非難の声が上がっていたようだったが、無視して出発。
 まだ全然見慣れない街の中を練り歩く。
 結果、迷った。
(……最悪だ)
 途方に暮れる。
 ただ、不思議と余り不安と言うものはなく、疲労の方が前に来ていた。
 実際、疲れていた。
 今日一日で色んな事があり過ぎた。
 初めて受ける講義や研究室でのブリーフィングなどが、殆ど記憶に
 残っていないくらい。
「……」
 そんな一日を回想した結果、雪人は携帯を取り出し、発信履歴から
 1人の電話番号を選択した。
 数秒ほど呼び出し音が流れた後、出たのは――――
『思い出したのだが、君には確か面談時に申告した趣味以外にも関心を寄せる
 ものがあった筈だが』
「いや、せめて『もしもし』くらい言ってから話してくれよ」
 大河内静。
 規定通り水曜、日曜の夜に連絡は入れているが、それ以外の時間に電話を入れるのは
 このツアーに参加して初めての事だった。
「ってか、何の事かわからないし」
『面談の時の話だ。君は趣味が鑑賞ばかりだと言ったが、栄養ドリンクの
 解説にやたら熱心だった事を思い出してな。どうだ、栄養士への道を目指す気は』
「ない。それより、あんた隠してたろ。父親がここにいるって」
『そうか……悪くない将来の選択肢だと思うのだがな。父の件は言ったところで
 大して意味はないと思っただけだ。他意はない』
「いや、あんまり興味ないし、栄養ドリンクに関しては味の方が重要なんで。
 親父さん、顔は堅いのに滅茶苦茶子煩悩じゃんか。無駄に吃驚させやがって」
 2つの話題を同時進行させる。
 一見、奇妙な会話に見えるが――――2人の間では割とありふれた事だった。
『うむ、実は先程父からも連絡が入った。喜んでいたぞ、『噂の黒木君』と
 対面できた、と』
 程なく、1つの話題が先に消える。
 基本、重要性が上の話題が残るので、進路のススメに関しては
 余り本気ではなかったようだ。
「あんまり妙な事を吹き込まないでくれよ。で、一寸頼まれて欲しい事が……」
 呆れ気味に携帯へ呟いていた雪人は、そこで言葉を止め、視覚の方に
 エネルギーを注ぐ。
『どうした? 何を頼まれれば良い?』
「いや、やっぱり良い。キャンセルで。それじゃまた」
『相変わらず、妙だな。君は。定期連絡は怠るなよ』
 返事をし、切る。
 雪人にとって、この電話はそれなりに大事な時間だった。
 ただ――――現状で優先すべきは、前方にある背中。
 先程、妙な誤解をしていたツインテールの知り合いに声をかける事だった。
(メール代、浮いたな)
 歩を進めつつ、苦笑する。
 僅か数円の節約より、その偶然に。

 



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