翌日。
 この日、雪人は3つの講義を入れていた。
 午前中に1つ、午後に2つ。
 ちなみにタイトルは順に『移動電話の展望』、『ロゼワインの作り方』、
『劇場版と地上波放送版との相違点とその解析』となっている。
 それぞれに一応の興味を持って決めた講義だったが、全体を通して為になったのは、
 最初の講義くらいだった。
 移動電話――――かなり古い表現のように思われるが、実際には携帯電話や昔懐かしPHSの総称。
 自動車電話もこれに含まれる。
 尤も、運転しながらの電話使用は禁止されている今の日本にあって、携帯電話の普及と共に
 その存在意義は完全に消失しており、既にサービス事業としては事実上の消滅状態にあるので、
 現在の移動電話とは、すなわち携帯電話の事を指す。
 ただ、この講義で語られたのは、携帯電話の未来――――ではなく、移動電話の未来。
 要するに、携帯電話に変わる新たな物が生まれる、と言う前提での展望だった。
 無論、ここまで普及した物が今後いきなり廃れる事はない。
 レコードがCDになり、DVDや配信へと派生していったように、或いはファミリーコンピュータが
 スーパーファミコン、NINTENDO64、ゲームキューブ、そしてWiiに進化したように、いわゆる
 モデルチェンジを繰り返す事はあるだろうが、『携帯電話』と言う形式そのものが
 取って代わる事はないだろうと、誰もが思っているだろう。
 しかしそこに異を唱えたのが、この講義を担当した講師。
「良いかよく聞け。携帯電話は20年後には完全に消失すう。完全にだ。携帯電話は確かに普及した。
 利用価値の高さで言えば、これまでの如何なう文明機器をも凌駕すう。だがしかし。しかしだ。
 いいか良く聞け。20年後、20年後だ。20年後には、もう人類は声でのコミュニケーションを破棄すう。
 この意味がわかうか。コミュニケーションの深化だ。人は皆、他人との接触を拒み始めう。
 声を聞く事を拒否し、活字でのやり取りへ完全移行すう。その際、電話機能に意味はなくなう。
 つまり、電話ではなくなうのだ。携帯電話はいずれ、不要な機能を削ぎ落とし、携帯PCとなうだろう」
 ブツブツと聞き取り辛いこの主張を、参加した人間の半数以上はドン引きな目で聞いていた。
 実際、極論だし、何より話し方が気持ち悪い。
 だが言っている事はそれなりに面白いと、雪人は感じ取っていた。
 コミュニケーションの深化。
 それは何を意味するのか。
 文字だけでのやり取りは、既に主流となっているが、それが深化かと言われると、微妙な所ではある。
 そもそもコミュニケーションというのは、お互いの意思の疎通であり、共有だ。
 声で話す事より、文字でそれを行う事が何故『深化』なのか。
 その講師は、こう言っていた。
『活字によう伝達は、余計な情報を恣意的にそぎ落とす事が出来う。人と人との繋がりがより
 簡易化されうと言う意味では、深化とは対極にあうように思うだろう。しかし、しかしだ。
 簡易化されう事で、わかり合おうと言う意思が希薄化するかと言うと、実はそうではない。
「この人は何を考えてこの文を書いたのか」と言う、表情や語調で把握できない分を補う洞察力が
 鍛えられう。お互いがお互いを理解しようとすれば、より高度な技術が要求されうのだ。
 これこそが深化。これこそが斯くあうべき形式と言えうだろう』
 長い長い説明を一言で言うと、ツールの簡易化で、使い手に要求される事が増えると言う事だ。
 ちなみに、この講師は何故か『る』が発音出来ないらしく、妙に萌えっ子な話し方に
 なってしまっている。
 話し方とは裏腹に、この男講師の顔は妙に幼く、その為一部女性陣が胸をキュンキュンさせて
 いたようだ。
 それはさておき。
 人と人のコミュニケーションの形式が変化していると言うのは、誰しもが感じている事だが、
 その方向性と言うのは、中々にわかり辛い。
 どれが進化で、どれが深化で、どれが退化で、どれが対価なのか。
 結局のところ、一番わかりやすいのが一番良い、と言うのが雪人の出した結論だった。
 要は面と向かって話す。
 これに限る。
 それを再認識しただけでも、この講義には大きな意味があった。
 そして――――程なく講義は終わり、研究室へと向かう。
「や、待ってたよ」
 そこには既に、白石の姿があった。
 パソコンの前でキーボードを叩きながら、何処か嬉しげな顔を向けている。
 他には誰も来ていない。
「さっきまで大友先生と話していたんだ。実に楽しかった。フィールドワークについても、
 少しだけ助言を貰ったよ」
「そうか。それは良かった」
 特段興味のない雪人はソファに腰を下ろし、大きく息を吐く。
 その様子を苦笑しながら見ていた白石は、パソコンのモニターに視線を移し、何らかの操作を行った。
 それが何かは直ぐにわかる事となる。
 プリンターが稼動し始めたからだ。
「見取り図、出来たんだな」
 雪人がそう呟くと、白石は少し驚いた顔を見せ、そして次に笑顔を覗かせた。
「君は洞察力があるんだね。そうだよ、つい今しがた出来たばかり。一応、この棟の研究室には
 僕が回っておいたから、後はスケジュール調整だけだよ」
「そっか。仕事、速いな」
 かなりのスタンドプレーだが、雪人は特に何も言わなかった。
 この研究室内で飛び抜けたモチベーションを持つ白石ならではの行動として納得出来るし、
 何より面倒なあいさつ回りを省略できたのだから、寧ろ感謝の気持ちすらあった。
 一方で、若干の嫌な予感も芽生えつつあったが――――
「はい、これ。チェックしておいてくれると助かるよ」
 妙に人懐っこい笑顔を向けられ、その予感は一瞬で霧散した。
 二面性。
 そう香莉は言っていた。
 相手の出方次第で態度を急変させる、そんな危うさは――――確かに、ある。
 とは言え、そんな爆弾に気を使う必要もない。
 爆発したら、その時に処理すれば良いだけの話だった。
「本当、仕事速いな。助かるよ」
 雪人は受け取った紙を見ながら、本気で感心する。
 そこには、全ての部屋の名称と、研究室に所属している人間の名前が記載されていた。
 その仕事を褒められた白石は、嬉しそうに顔を綻ばせている。
 典型的な『褒められて伸びる委員長タイプ』らしい。
「……ん?」
 そんな白石のニコニコ顔とは対照的に、雪人の顔が急に険しくなる。
 その理由は、隣の研究室にあった。
 昨日顔を出した『大河内研究室』。
 そこに所属している生徒の名前だ。
 吉原月海。
 その名がそこにあった。
 戦慄。
「嘘だろ……」
「ん? どうかした?」
 思わず頭を抱える雪人に、白石が不思議そうに尋ねる――――が、それに返答はない。
 それどころではなかった。
 お隣さん。
 またしても、お隣さん。
 これで何度目のお隣さんなのか。
 ここまで来ると、余りに滑稽だ。
「いや、大河内研究室に知り合いがいた、ってだけ」
 かなりのタイムラグを経て、雪人は努めて冷静にそう答える。
 しかし、その脳はかなり熱を帯びていた。
「あ、そうなんだ。だったらまずそこを調べさせて貰う? 隣だし」
「そうだね……」
 力なくそう告げ、雪人はその後思考に耽った。
「あろー。あれ? まだ2人だけ?」
 そんな中、お気楽な香莉の声が研究室内に響く。
 白石MAPによると、香莉が普段仕事をしている事務室はこの2Fの東側にある。
 応接室と向かい合っているので、基本的にはこの棟を訪れるお偉いさんに
 コーヒーを出すのが仕事らしい。
「すいません、遅くなりました」
「……失礼します」
 その直ぐ後、宇佐美嬢と結衣が同時に到着。
「おろ。ゆいゆいコンビ、もう仲良し?」
「そこでバッタリ会ったの。って言うか、その呼び名、変」
 宇佐美嬢が真剣に『ない』と主張する中、結衣は少し驚いた顔をしていた。
「……ゆいゆい」
 その言葉の響きに何か革新的なものでも感じたのかもしれない。
 再会後に雪人が初めて見る、何処か楽しげな笑顔を浮かべ、結衣はその言葉を復唱していた。
「揃ったね。それじゃ、ブリーフィングを始めよう」
 白石の号令を受け、大友研究室の面々はこぞって隣の部屋へ移動する。
 ここは本来、教授の部屋。
 その隣である、ソファのある部屋が生徒の部屋と言う割り当てになっている。
 ただ、ブリーフィングを行う場合は、この教授室を利用している。
 長机と複数のパイプ椅子があり、会議室の様相を呈しているからだ。
 ちなみに教授の机はその奥にある。
「それじゃ、まずはこれに目を通して」
 白石は早速、見取り図を他の研究生の座る席に配っていく。
「私のは?」
「……谷口さんは、研究生じゃないので」
「ちぇーっ。ま、後で結維のコピーして貰えばいっか」
 それ以前に、事務なら普通にこの棟の部屋割りくらい頭に入っていないとまずいだろう、
 と言う指摘をするべきか否かで迷っていた雪人の視界に、何となく困った顔の結衣が映る。
「いや、お前の事じゃないから」
 先にこちらを指摘すべきと判断し、告げた。
「あ……」
 とても恥ずかしそうに俯く。
 こう言うところも、昔のままだった。
「そっか。ゆいゆいコンビだから紛らわしかったね。それじゃ、これから結維の事は
 宇佐美、結衣ちゃんの事はゆいゆいって呼ぼっか」
「え、退化? 今までの付き合いは何だったの〜……」
 苗字で呼ばれる事になった宇佐美嬢はだーっと涙を流していたが、結衣はまんざらでも
 なさそうだった。
「えっと、それで。今日は皆のスケジュールを聞いておきたいんだけど。
 時間が合う時にフィールドワークをしたいし」
「でしたら、1週間のスケジュール表を作っておきましょう。私、作りますね」
 言うが早いか、宇佐美嬢は隣室へ赴き、パソコンと向かい合う。
「出来ました。ここに書き込んで下さい」
 なんと2分で出来た。
「……」
 ムッとした顔を一瞬みせたのは、白石。
 この程度の事で、自分のリーダー格に傷が付いたとでも思言わんばかりに。
「はー、怖い怖い」
 こっそりと耳打ちしてきた香莉も、それに気付いていたようだ。
 厄介な事になりかねない一幕に、雪人は心中でこっそり嘆息した。


 その後、それぞれの研究室に調査可能時間を伺いに行き、時間帯の調整を行う。
 この南棟Aは3階建てで、研究室があるのはこの2Fと3F。
 それぞれ廊下を挟み、北側と南側に部屋が連なっている。
 2Fには、北側には西側から順に『矢口研究室』、『大山研究室』、『三船研究室』。
 南側には『ブラックウェル研究室』、『八十八研究室』、『石橋研究室』、
 『大友研究室』、『大河内研究室』がある。
 まずはこの階から調査していく事になった為、それぞれ手分けしてお伺いを行う事となった。
 厳選なるくじ引きの結果、雪人は人見知りの激しい結衣と共に、大河内研究室を尋ねる。
「あ……」
 扉を開けると、直ぐに月海の姿が目に飛び込んで来た。
 明らかに、驚愕の表情。
 それは雪人にとって、意外な反応だった。
(偶然……? んな馬鹿な)
 しかし、演技には見えず、混乱が頭を揺らす。
 とは言え、出会って間もない女子相手に『お前、俺の事を付回してるだろ』など
 と言う妄言と取られかねない言葉を吐く訳にもいかず、その事は一旦置いておく事にした。
「あの、フィールドワークの事で、スケジュールのお伺いに参りました」
 しかし、そんな雪人より先に結衣が言葉を発する。
 若干の間延びこそあれ、言葉遣いは寧ろ大人びていた。
「……伺っています。表に纏めてありますので、これをお持ちください」
 一方、月海の方は至極平素な語調で、テーブルの上にあった紙を取り、
 雪人に手渡す。
「ありがとう。無理を言って申し訳ない」
「……いえ」
 最低限の返事の後、自席へと戻って行く。
 名前を聞いた件で多少打ち解けた感があったのだが――――
(振り出し、か)
 何となく嘆息し、大河内研究室を出る。
 そして、扉を閉めた直後。
「ゆき」
 腹の辺りの服が引っ張られる感触がした。
 その後ろを付いて来る結衣の仕業だった。
「……知り合い?」
「あ、うん。アパートの部屋、隣なんだ」
「そうなんだ」
 結衣は何を考えているのかまるで掴めない、複雑か簡素かすら
 区別し難い表情を浮かべ、その答えを聞いていた。
 月海と結衣。
 割と無口と言う点では、共通項のある2人。
 しかし、雪人の持っている印象は、結衣が従妹であると言う点を
 除いても、大分異なる。
「恋人、って思った」
「……は?」
 実際。
 結衣と言う人間は、昔から結構突拍子もない事を言う子だった。
 4年振りの再会と言う事で、その事実を忘れていた雪人だったが、
 その一言であっと言う間に記憶が蘇る。
「今のやり取りに、それを想起させる箇所があったとは思えないんだが……」
「目と目で会話、してた」
「いや、してないから」
 バブルヘッド並の速度で首を振るが、結衣は余り信用していないようだ。
 全く身に覚えのない指摘に、雪人は思わず嘆息する。
 そもそも、恋人だったらどうだと言うのか。
「……」
 背後から付いてくる結衣にそれを聞く事は、なかった。






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