スケジュール調整は恙無く終わり――――放課後。
『こちら黒木。異常なしです』
 雪人は現在、宇佐美嬢を絶賛尾行中だ。
 と言っても、当然ストーカーの仲間入りを果たした訳ではない。
 前日の予定に従い、大学から宇佐美嬢の住むマンションまでの道のりを二重尾行していた。
『了解。なんか気付いた事があったら些細な事でも言ってよ? こう言うのは本当に
 ちっちゃな事から打開策が見つかるものなんだから』
『それなら、一つ言いたい事が』
『オーライ。で、何?』
「……何故にトランシーバーなんでしょうか? 携帯の普及率90%のこの時代に」
 しかも、角形乾電池二個を動力とした、昔ながらのトランシーバーだった。
 その為にサイズ・重量いずれもやたら大きく、ゴツゴツしている。
 鈍器としての役割すら十分に果たせそうだ。
『尾行と言えばトランシーバーでしょ?』
「その脈絡は10代の俺は勿論、20代の世の人々にもわからんと思われます」
『……』
 無線から圧力を受け、雪人は押し黙った。
 そして、その後――――穴の開いた新聞紙を広げて電柱から電柱へと移動しつつ、追跡する事45分。
「着いちゃいましたが」
『着いちゃったねー』
 該当しそうな人物と遭遇する事もないまま、宇佐美嬢のマンションへ到着。
『チッ、私らの気配を事前に察してストーク行為中止しやがったか? チキン野郎め』
「そんな達人芸を会得してるストーカーがいたら、国際レベルでヤバイ気が。そもそも
 チキンじゃないストーカーもいないでしょうし、この距離で無線交信する意味もありません」
 取り敢えず全否定。
 すぐ隣にいる香莉はそれでも何故か笑顔だった。
 生まれて初めて探偵ごっこをやる機会に恵まれ大満足したかのように。
「くふふ。一回やってみたかったのよねー、探偵の真似」
 言葉にすると言う暴挙に出た。
「ま、出ない時はどんなに頑張っても出ないもんよ。さっさと切り替えて
 宇佐美の部屋でくつろごーっと」
 そして、まるでお通じ関連のような表現で場を締め、さっさとマンションに入って行く。
 律儀に苗字で親友を呼んでいる辺り、結衣にも本気で『ゆいゆい』と呼びかける気らしい。
 雪人はこの日何度目かの嘆息をし、帰宅の途に――――
「あんたも来んの」
「いや、それはいくらなんで」
 つく暇もなく、強制連行された。


「結局、怪しい人影はこれっぽっちもなし。ツマンネーの」
 友情より好奇心旺盛なお年頃でもない筈なのだが、宇佐美嬢の部屋に入った香莉の
 第一声は道徳的にかなり歪んでいた。
 その一方で、それを聞く宇佐美嬢は朗らかに微笑んですらいる。
 友人関係だからこそのコミュニケーションだ。
「でも、良いんですか? 俺お邪魔しても」
「勿論。今冷たい物出しますから、寛いでて下さいねー」
 眼鏡をキランと光らせ、キッチンへと消えていく部屋の主。
 若干頼りない部分も含め、男性からの支持が厚そうな女性だった。
 そんな女性の部屋を訪問する事になった雪人は、狼狽を隠せない。
 そして、そんな男心とは正反対に、ついつい部屋を見回してしまう自分に辟易。
 しっかりと掃除が行き届いた清潔な部屋だった。
 その人となりが伺える。
「なーにー? 入るなり品定め?」
「まあ、気にはなりますよ。女の人の部屋なんて、滅多に入る機会ないですし」
「んふふ、素直でよろしい」
 年上のお姉さんは満足気に頷いた。
「ところで、一つ聞いておきたかったんですが……もしストーカーを発見したら
 どうするつもりだったんですか?」
「そりゃ当然。成敗いたすってなもんよ」
 香莉は断言し、徒手空拳を始めた。
「そう言えば、護身術を習ってるんでしたね」
「ま、ね。そもそもストーカーなんて、軟弱で脆弱で劣弱な人類の恥垢だし、ケンカも
 果てしなく弱いって相場が決まってるけど、そう言う社会的制裁が必要な相手をボッコボコに
 してあげるのって、気持ち良いのよね。うふ」
 最後に謎のアピール笑いを見せ、指を鳴らす。
 しかしながら、香莉のそんな先入観は危険だと、雪人は考えていた。
 何故なら、多くのストーカーはタチの悪い逆ギレを標準装備してる。
 下手に刺激すると、取り返しのつかない大惨事を招く事になりかねない。
 ナイフを隠し持つ事も多いし、下手したら硫酸とかスタンガンなんて物まで
 用意しているかもしれない。
「それに、もしも時の為に男手も用意してるし」
 その危険は主に雪人に向けられていたらしい。
「数日前に初めて会話した人間を人身御供にしないで貰いたい」
「ま、良いじゃない。今時ナイトの役割なんて人生の見せ場、そうそう与えられなくてよ?」
 大げさに笑う香莉に、雪人は思わずジト目を向けた。
 話しやすくはあるが、苦手な相手でもある。
 とても厄介なお姉さんだった。
「お茶入りましたー」
 対照的に、律儀な宇佐美嬢はストローまで用意してくれていた。
 この辺の根本的な違いが、ある意味親友同士たる所以なのかもしれない。
 共有と相違――――いずれも人間関係にとって不可欠な要素だ。
「ま、ストーカーに関しては暫く様子見しましょ。そ・れ・よ・り♪」
 香莉が気味の悪い声色でタメを作る。
 まるで誰を豚に変えるか迷っている魔女のような所作で。
「研究で歓迎会とか親睦会とか、そう言うのしないの? 何か、済し崩し的に
 活動始まってるみたいだけど」
「新入生オンリーで歓迎もクソもないと思うんですが」
「ふっふーん。そうね、普通は院生が音頭取ってやるものだからね。そこで私の出番です」
 胸に手を当て、妙にハイなテンションで香莉が立ち上がる。
 元々ハイな性格なので、大差はないが。
「大友研究室の歓迎会、この私が仕切ってあげる!」
 そして、ビシッと指差す。
 方向は天井。
 ただのポージングだった。
「いや、良いです。時間使わせても悪いですし」
「……なんか、卒業した後も顔を出して偉そうにあーだこーだ指示出す嫌な部活のOGを
 必死で諌めるような物言いに聞こえたんだけど」
 まさにその通りだったので、雪人は思わず拍手した。
「この非道!」
 ゲンコツが飛んで来た。
 出会って数日で暴力を振るわれ、雪人は思わず頭を抑える。
 コブになりそうな激痛だった。
「な、なんて事を! 黒木さん、しっかり!」
 宇佐美嬢の泣きそうな声も、何処か遠くに聞こえる。
「アルコール類は私が主に担当します。日程は追って知らせるから、その日は、
 えっとなんだっけ、ヒールインザダーク? それ休みにしときなさいね」
「フィールドワークよー。しっかりして下さい黒木さん、今湿布を持ってきます」
「いや、頭に湿布は張らないと思います」
 ムクッと起き上がる。
 コブ以上に、頭から湿布臭がする事だけは避けたかった。
「そうね、ベタだけど闇鍋とかしちゃおっか。お、何か私ワクワクしてきちゃった♪」
「あんた、何入れる気だ……」
 もう丁寧語を遣う気にもなれず、雪人は頭を抑えながら、絶望的な問いかけを行う。
 それに帰ってきたのは、まるで無垢な子供のような笑顔だった。
「安心して。タガメとか、タツノオトシゴとか、鹿の睾丸とか、そんなリアクションの取りやすい
 お決まりのコースはしっかり外すから。こう言うお約束、私嫌い。大体、他の国で
 普通に食べられてる物じゃ盛り上がらないでしょ?」
「いや、俺にはもう、どう言うルートでそんな物を仕入れるのかすらわからないし」
「あうう……ザザ虫なんて口に入れちゃったらどうしよう」
 宇佐美嬢は宇佐美嬢で、妙な事を口走り恐怖に震えていた。
 

 そして、そんな日の夜――――帰宅して10分と経たない内に、扉を叩く控えめな音がした。
「はーい。開いてます」
 相手に何となく想像が付いたので、雪人は大声で入室を許可する。
 恐らく、隣に気を使う必要はないとタカを括って。
「……失礼します」
 その予想通り、扉を開けたのは吉原月海だった。
 大学で目にした服装とは異なり、明らかにルームウェアと思しきパーカーとホットパンツ姿。
 清楚なドレスが似合う容姿にはかなりミスマッチだったが、同時に親近感が沸く格好でもあった。
 そして、両の手には何かの容れ物を抱えている。
「あ、さっきはありがとね。綺麗に纏めてあって見やすかった」
「いえ」
 やはり最小言語。
 しかし、服装の所為なのか、研究室での印象よりは幾分柔らかく感じた。
「あの、これを」
 そんな空気を纏い、月海はおずおずと抱えていた物を差し出してくる。
 それは、水槽だった。
 尤も、高い物と言う感じではなく、1,000円で十分お釣りの来そうなコンパクトサイズ。
 そこに――――1匹の魚と水草が入っていた。
 明らかに熱帯魚とわかるそれは、とても尻尾が長く、色合いも赤や青などが混じっていて
 とてもカラフル。
 泳ぎ方も優雅で、とても美しい魚だった。
「あ、もしかして見せに来てくれた? って言うか、ここでも飼ってたのか」
「ベタと言う魚です。とても強くて、飼い易い熱帯魚なんです」
 そこから、月海はそのベタと言う魚についての説明を始めた。
 この魚、エラの上皮が発達していて、エラ呼吸だけでなく直接空気を吸う事が
 出来るので、広い水槽が必要ないとの事。
 弱点は温度変化で、急激に温度が変わると弱ってしまう。
 その為、25℃前後で安定している場所が好ましい。
 とは言え、10℃くらいの極端な変化がなければ問題ないらしく、
 日陰で飼えば大丈夫、と言う事だ。
 飛び出す事があるので、蓋は絶対にしておく必要がある。
 また、水は全部替えるのではなく、カルキ中和剤を入れた水を3分の1くらい
 入れるのが好ましい。
 月に1〜2度ほど変えれば問題ない。
 ――――そんな説明ばかりで10分が費やされた。
「後、同種には攻撃的な魚なので、一つの水槽に一匹が鉄則なんです」
「え? だったらどうやって繁殖するの?」
「オス同士でなければ大丈夫です。大丈夫じゃない時もありますけど」
 見かけの優雅さとは裏腹に、中々闘争本能溢れる魚のようだ。
 ただ、熱帯魚の中では最も素人でも飼い易い魚としても有名、との事だ。
「成程。確かにこれは目の保養になるね。綺麗だし、このゆったりした
 動きも良いね」
「良かったです。では、末永く可愛がってあげて下さい」
「……?」
 そう一礼し、月海は水槽を雪人の手から取り上げる事なく、背を向ける。
「え? どう言う事?」
「何かわからない事があったら、お教えしますね」
「え?」
「縷々の事、宜しくお願いします」
 何事か理解できずにハテナマークを頭に積み上げていく雪人を尻目に、
 月海はマイペースな足取りで部屋を出て行った。
 ドアの閉まる音と共に、思わずしゃがみ込む。
 要するに――――熱帯魚の譲渡。
 そう言う事らしい。
「……あげます、って事?」
 隣の扉が閉まる音を確認し、雪人が少し大きめの声で尋ねると、控えめな
 声で「はい」と言う返事が返ってきた。
 全く予想だにしない、熱帯魚ゲット。
 無論、望んだ訳ではない。
「サンキュ。大事に育ててみる」
 それでも、自然と――――そう言っていた。
 それに対する返答はなかったが、それでも何となく雪人は笑顔を作っていた。





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