翌日。
いよいよ本格的にフィールドワークが始まった。
とは言え、洞窟や海底を調査するようなロマン溢れるアドベンチャーと言う
訳ではなく、あくまで地味で地味な地味作業が主な活動内容となる。
まず、部屋にある書籍と資材、家具や機器と言った物を全て書き起こす。
大学の研究室と言うのは、高校までの教室、或いは特別教室や職員室などとは
全く異なり、妙に生活臭のする空間だ。
と言うのも、教授がそこに住み込んでいるケースが多いからだ。
殆ど教授の部屋と言っても良い。
また、会社の社長室などのような整然とした様子も全くない。
例えば、テレビや雑誌などが普通に置かれている。
流石に、同じ本棚に週刊誌と専門書が置かれているなどと言う事はないが、
基本的には『部室』の感覚に近い。
教授だけでなく、大学生である研究生が主に使用する部屋なので、
自ずと娯楽が溢れてくるのだ。
当然、パソコンもある。
中には家庭用ゲーム機や漫画がある所も全く珍しくない。
そう言う空間なので、教授だけでなく研究生もこの研究室にずっといる
ケースが多く、卒論の時期になると、家が遠い研究生は泊り込む事も多い為、
毛布も置かれている。
そして、大抵は臭い。
「……」
雪人は思わず、その毛布の臭いに顔をしかめた。
ちなみに、この『U.
de L'oiseau
Bleu』は出来たばかりの大学なので、
通常毛布も新品の筈なのだが、かなり使い古されている物ばかりが
ソファーの上に何枚も積まれている。
リアリティ追求キャンペーンの一環のようだ。
「この研究室にある物は、これで全部です」
大河内研究室所属、吉原月海のその言葉に、雪人は思わず安堵の息を吐いた。
一人一研究室と言う事で始まった、本日の調査。
講義が終わり、16時から始まったその作業が終了となったのは、
実に5時間後。
現在、21時を回っている。
尚、他の研究生は簡単なアンケートを取った後、さっさと帰宅していた。
「本当に……ごめんなさい。まさかこんなに掛かるとは」
雪人は疲労感溢れる顔で、思い切り頭を下げた。
事前に申し入れているとは言え、部外者だけを研究室に入れておく訳には
いかず、また教授である大河内も本日は用事で外に出ている為、
付き添いとして月海が付き合っていたのだが、予想を遥かに上回る作業時間と
なってしまい、かなり拘束期間が長引いてしまったのだ。
「いえ、大丈夫です」
しかし、月海は嫌な顔一つせず、作業の手伝いまで知てくれていた。
度重なるお隣さん騒動もあったが、熱帯魚の件やこの事もあり、
猜疑心は完全に消し去っていた。
尤も、初対面時からずっと、表情に変化がないので向こうの感情は
知る由もないのだが――――
「でも、熱帯魚の世話とか大丈夫?」
「はい。あの子達は水槽に生える苔を食べるので、酸素さえしっかり含ませていれば
一日や二日餌を与えなくても問題ないんです」
熱帯魚の話になると饒舌になるのも相変わらずだった。
「ベタもかなり強い子なので、大丈夫です」
「そっか。一応昼に戻ってやって来たけど、それなら大丈夫か」
流石に、貰って直ぐ死なせてしまうのは忍びない。
まして、この熱帯魚好きの女の子にその報告をするとなると、
罪悪感が相当に膨らみそうだった。
ちなみに、餌は人工飼料。
ベタは肉食なので、小さい虫なら結構何でも食べる。
ただ、食べ残しが出ると、それで水が痛み、病気の元になる。
調査作業中も、月海は殆どそう言った熱帯魚の話を雪人にしていた。
共通の話題があると、まだ知り合って少しの相手でも話は弾むもの。
雪人の中では、月海は『大人しいお隣さん』から『結構話が出来る相手』に
変化していた。
「大変……ですね。調査」
或いは、月海もその空気を共有していたのか。
熱帯魚以外の事で彼女から話しかけて来たのは、初めてだった。
「んー……正直、ここまで大変だとは思わなかったなあ。この研究室では
こう言う、なんて言うか、専門的な感じの活動とかしてる?」
雪人の問いに、月海はゆっくり首を左右に振る。
大河内研究室では、水理学を研究しているらしい。
環境流体力学と言う、環境中の陸水域に関する流れの動きや
作用、現象と言った物を研究していくと言う分野で、
これを生かして、これまでにないような流れるプールを作ったり、
陸水域の生態を救ったりする事が出来るとの事。
「でも、専門書を読むだけでも為になります」
そう月海は断言する。
水の流れ。
それは熱帯魚にとって、とても大事なものだと言う。
熱帯魚の生命線は、食料以上に水中の酸素、そして流れ。
もしかしたら、眼前の女の子は熱帯魚がより長く生きられる
水槽やポンプを作りたいのかもしれない――――雪人はそう推測していた。
そこには、確かな目的がある。
だから、先程の言葉も本心だと素直に受け止められる。
その事を、雪人はとても羨ましく思った。
「よし、まとめ終了。今日は本当、ありがとう」
書類をまとめ、雪人は月海に微笑んでみせる。
表情による対応こそなかったが、小さく頷き、意思を覗かせていた。
そして、徐に立ち上がる。
「電気を消します。忘れ物はありませんか」
「ああ、大丈夫」
雪人の返事から1秒後、研究室の電気が消える。
真っ暗――――と言う訳ではない。
カーテンのない窓から、月明かりが差し込んでいる。
雪人は充実感を吐息で漏らし、扉のノブに手を――――
「……?」
かけようとした刹那、物音に気付く。
音は、コツン、コツンと言うリノリウムの床を叩くもの。
何者かの足音だ。
「……」
別に悪い事をしている訳ではないのだが、何となく気が引け、雪人は
扉を開くのを躊躇った。
足音が消えてから開ければ良い。
それだけの事だった。
しかし――――その音に、ノイズが混じる。
『順調ですね。ここまでは』
『ああ。まさかここまで見事に再現しているとは思わなかったよ。
大したものだね、お金と言うのは』
階段を上がっていると思しき足音と共に、二人の人間の声が聞こえて来る。
雪人は不思議そうにしている月海の視線を感じつつも、その声に
耳を傾けた。
『でも、幾ら箱が完全でも、問題は中身ですよね』
『殆どは失敗作だ。実際、殆どの連中は本当にツアーを楽しんでいるようだしな。
中々良好なリフレクションを見せる奴はいない』
『残り一ヶ月弱で、見つかりますかね?』
『祈るしかないだろう』
声はそのまま、遠くなって行った。
「……」
何となく、研究に関するものなのだと推測出来る内容。
ツアー参加者の研究生が余り役に立っていない、と言う愚痴のようだった。
幸い、この研究室の大河内教授でもなければ、大友教授でもなかったが、
何となく妙な気分にさせられるものだった。
「行こう」
「はい」
雪人は扉を開け、他所の研究室を出る。
既に夜ではあるが、廊下は暗くなってはいない。
この時間はまだ頭上の照明が点灯している。
「あら? ゆっきー」
その明るさが災いしたのか――――事務の人に見つかり、雪人は
思わず顔を手で覆った。
無論、谷口香莉と言う名前の。
「あら〜? あらあら〜?」
予想通り、香莉は雪人の後ろにいる月海にガッツリと食い付いて来た。
にゅらにゅらとした動きで近付いてくると、まるで蜂蜜を見つけた
熊のプーさんのように、最高の笑顔で雪人の耳に顔を近付ける。
「とっても意外。ゆっきーってプレイボーイだったんだねー」
「ほぼ全部状況を正確に理解した上で言ってるんですよね。そうですよね」
「勿論。だってこんな時間に他所の研究室で可愛い女の子と2人きり……
そう言うシチュで想像される事なんて一つしかないしー」
「あんた、今日もウチの研究室のブリーフィングに来てたでしょう!」
香莉は冷やかしが大好物らしく、ユラユラと体を揺り動かし、悶えるように
首を左右に振る。
「このスキャンダルを宇佐美とかゆいゆいに聞かせてあげたら、面白い
リアクションが返ってきそうねー。ゆっきーの研究室内での発言力が
低下するかも」
「……この女」
明らかに面白がっている香莉の妙な脅しに、雪人は思わず顔を引きつらせる。
実際、本気な訳がないと言うのはこれまで接して来た時間が雄弁に語っており、
言葉遊び以外の何物でもない。
「あの……」
だが、月海にとってはそうではなかった。
「私と黒木さんは、研究室の調査をしていました。それ以外の事は
何もしていません」
表情は動かない。
だが、雪人がそれまでに聞いた事のない、熱帯魚の事を話す時より更に
力強い口調で、そう告げる。
それは、香莉を動揺させるほどに強い言葉だった。
「あ、あー……ゴメン。冗談」
苦笑しつつ、香莉は頭を下げた。
「悪質な冗談は止めて貰えると助かるんですが……」
「だって〜。ゆっきーからかうの楽しいんだもん〜。ホント、ゴメンね」
口調とは裏腹に、香莉の顔から笑みが消えている。
それを見た雪人は安堵を、月海は戸惑いをそれぞれに覚えていた。
「あ、はい。わかりました。こちらこそすいません」
そして、今度は月海が謝罪。
日本人ならではの、余り世界的には良しとされない癖だった。
しかし、それでも尚――――月海の所作は美しく、洗練されていた。
「……ゆっきー」
その一連の礼を眺めた香莉は、呆けたような顔で雪人を呼ぶ。
「この子誰。良いとこのお嬢様?」
「大河内研究所の生徒。それ以外は知りません」
「……か、可愛いぜ。惚れちまった。これが一目惚れってヤツか」
「あんたレズだったのか」
「男が男に惚れるように、女が女に惚れる事もあんのよ」
ニュアンスは何となく伝わっていたが、言葉だけで捉えると結局は同性愛を
示唆しているに過ぎず、月海は表情を変えずに一歩、二歩と後退さっていた。
顔以外の感情表現は割と豊富らしい。
「よし、決定。えっと、名前は?」
ドン引きされている事など意にも介さず、誰何。
当人はまるで麻痺しているように動かないので、雪人が代わりに答えた。
「月海……月の海と書いてつくみ。なんてこったい。名前まで綺麗じゃん。
よし、つくみん。貴女の大友研究室新歓パーティーへの招待がこの度
決定しました! やったネ!」
「おい、色々唐突過ぎて訳わかんなくなってるぞ。取り敢えず、つくみんはない」
「そう? 今の時代、綺麗より可愛いでしょ」
「だから、そう言う事じゃなくてな」
「兎に角そう言う事だから。日程はおって連絡するから、出席宜しくね。
あ、ゆっきーも適当に知り合い誘っといでよ。じゃ、そゆ事で」
自身の言いたい事を言い尽くした香莉はぴゅーと去って行った。
夜の大学の廊下で、性質の悪い幽霊にでも遭遇したような、そんな空気が漂う。
「……帰るか」
「……はい」
5時間にも及ぶ調査の数倍疲れたものの数分のやり取りを背に、2人は
帰宅の途についた。
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