擬似大学生活が始まって既に2週間が経過した事実を、雪人は早朝の
コンビニエンスストアにて実感した。
この生活が始まって、三度目のサンマガの立ち読み。
嫌でも日の流れと言うものを感じる瞬間だ。
尚、本日は8月6日、木曜日。
離島なので、一日遅れでの到着と言う事らしい。
大学体験ツアーと言えば聞こえは良いが、流石に2週間となるとある程度は
新鮮味も薄れ、慣れも出てくる。
そうなると、離島特有の娯楽の少なさもあって、漫画雑誌の売れ行きは
上々らしく、まだ9時前だと言うのに、週刊少年マガジンは残り2冊となっていた。
(頑張れ、サンデー)
心の中でグッと拳を握りつつ、雪人はコンビニを出て、大学へと向かう。
まずは、駐車場を右手に覗く校門。
そこを真っ直ぐ進むと、文系の棟が左手に見えてくる。
更に進むと、噴水のある広場。
そこから左に折れて直進すると、大講義室がある。
本日、雪人が一時限目に受ける講義は、その大講義室で行われる予定だ。
『記憶連鎖論』
それが、本日受ける最初の講義の名前だった。
この講義は、一時限目と二時限目の2コマを埋めており、10分の休憩を挟んで
3時間の講義と言う事になる。
大学では、こう言った長時間の講義も珍しくはない。
実習に至っては、昼から深夜にかけて延々と続くケースもある。
尤も、周囲と色々話をしながら自立的に進めていく実習と違い、
講義は延々と教授の話を聞くと言う内容の為、中々集中力が持続しない。
人間の集中力は、幾つかの段階に分けられている。
レベル4が最も高く、レベル1が最も低い状態、即ち集中力皆無の状態とすると、
レベル4を保てるのは3分程度で、レベル3を保てるのは30分〜50分、レベル2を
保てるのは90分〜120分と言われている。
実は、学校の授業時間というのはこう言った集中力の持続性を考慮して
定められている。
大学の講義が90分なのも然り。
最低限の興味と集中力を持続させる上で、90分と言う時間は非常に合理的なのだ。
だから、2コマ連続で続く講義の場合は、必ず休憩時間を挟む。
とは言うものの、3時間は流石に長い。
何故この講義を受ける気になったのか――――そんな過去の自分に若干の違和感を
覚えつつ、雪人は噴水のある広場を抜け、大講義室の見える場所まで歩を進めた。
(……あれ?)
そこで、視界に刺激が走る。
知り合いの姿を認めた際の、偶然に対しての快楽。
そして、その刺激は直ぐに劇物へと変化した。
目に飛び込んできたのは、2人の男。
共に名前は覚えていなかったが、この離島へ赴く際に乗った船や入学式の会場で
見かけた、紳士然とした話し方が特徴のナンパ師。
そして、もう1人はやはり入学式会場で声をかけられた、胡散臭さ全開の勧誘男。
なんと、その2人が大講義室の入り口付近で談笑していた。
個々でも面倒な人間が、知り合いとなって現れた日には、食卓にゴルゴンゾーラと
リヴァロが同時に並んだかのような強烈な臭いを発する事だろう。
雪人は思わず顔をしかめ、慌てて別の入り口へと向かった。
大講義室は2層の構造となっており、1階、2階にそれぞれ2つずつ入り口がある。
裏側に回れば問題なく入館可能だ。
尤も、同じ講義を受ける可能性は極めて高く、絡まれない為には自分が黒木雪人
である事を悟られないようにしなくてはならない。
講義を受けないと言う選択肢もある。
あくまでこれは体験ツアーなのだから、無理に出席する必要はない。
単位がかかっている訳でもないのだから。
しかし、雪人が脳内に浮かべる選択肢の中に、欠席と言う欄はなかった。
そもそも、あの連中の為に自分の行動がブレると言うのは、屈辱的行為に
他ならない。
(……仕方ない)
残る手段を施行するしかないと決心し、雪人は踵を返した。
――――10分後。
「あれ? 黒木君。何サングラスなんて掛けてんの?」
再び大講義室の前へと戻ってきた雪人に、自分を認証した湖の声が届く。
生協で購入した350円の黒いメガネは、ものの3分でその意義をなくした。
「な、何故だっ。どうして俺ってわかった」
「何故だ、って言われても……髪型も輪郭も一緒だし」
人間の顔は、目が最も印象付けると言われているが、実際には髪型と輪郭が
かなり大きなウエイトを占めているらしい。
ちなみに、日本のコンビニで一番最初に売れた商品は、サングラスとの事。
「くっ……なんて無駄遣いを。昼飯抜きの覚悟で購入したのに」
「って言うか、何で変装? あ、二股バレてどっちかと縁切ったけど、
追い回されてるとか?」
「そのガセ情報いつまで引っ張るんだよ! もう誤解なら解いただろ!」
サングラスを着けたまま叫ぶ雪人の狼狽を、湖は小さく舌を出して楽しんでいた。
「にしても、意外。こんな堅そうな講義で重なるなんて」
「ま、な。ちなみにお前が船でナンパされてたあの変人もいる」
「うえっ! 何処! 何処!? あ……いた」
あからさまに身を縮めつつ、湖はトラウマの元を探し出し、
雪人の背後に隠れた。
「うう……ヤだなあ」
「そんなに嫌ならサボれば良いんじゃないか?」
「やーよ。あんなヤツの為に自分の生活を乱されたくないもん」
全くの同意見の為、否定できない。
ちなみに、例の2人の男は10分前と全く変わらない場所で
先ほど以上に盛り上がっていた。
変態同士、気が合うらしい。
「取り敢えず、裏側から入ろう。連中が席に着いたら、その一番遠くに座る」
「オーライ。それで行きましょ」
と言う訳で、移動。
気配の消し方など知る由もない2人は、大講義室の周囲をぐるりと迂回し、
反対側の入り口から入館した。
すると――――
「わっ、何でこんなに盛況なのよ」
200人以上を収容可能なこの大講義室の席が、既に殆ど埋まっていた。
地味な講義名とは裏腹に、雪人がこれまで見た中で一番の人気講義となっている。
その主な要因は、直ぐに現れた。
正面の入り口から入室した、本講義の教授――――長峰学長。
その姿を目視した生徒達は、それまでの喧騒を直ぐに消し、壇上に注目し出した。
「あ、成程。有名人の講義だったんだ」
湖もその事実を知らなかったらしい。
「お、あいつら一番前に座ってる。上に行こう」
「了解」
その返事と同時に、始業を知らせるチャイムが鳴った。
これまでの講義は、殆どの生徒が後ろの座席にばかり集中していたのに対し、
この講義は率先して前に座る生徒の数がかなり多い。
よって、幸いにも残り僅かな空席は全て後方に集中していた。
「では、講義を始めよう」
雪人達が腰掛けると同時に、まるで図ったようなタイミングで、長峰学長が
マイクを通してそう通達する。
その声が、更にこの場の緊張感を高めた。
「まず、私がこの講義を開いた意義から話そうか」
名門『陸橋大学』の学長でもある彼の専攻分野は、心理や社会。
記憶連鎖論という言葉は一見、脳科学の方に通じる分野のように思えるので、
専門外なのではと言う見方も出来る。
それが、逆に生徒達の気を引く要因となっていた。
「ただ、その前に一つ。記憶と言う物に関して、君達がどう思っているかを
知っておきたい。誰か、その定義を話して貰えるかな?」
長峰教授は、参加型の講義を展開した。
しかし、挙手する生徒はいない。
主体性のなさというより、単純に質問に対して戸惑っていると言う生徒が
大半のようだった。
雪人と湖は顔を見合わせ、共に首を捻る。
記憶。
それは決して、難しいものではない。
小学生の時に習う言葉だ。
辞書的な意味は『過去に体験した事項、覚えた事項に関して、心に留めておく行為。
もしくはその内容』となっている。
誰もがそう思うだろう。
或いは――――『記憶装置』と言われる機械があるように、コンピュータがデータとして
情報を蓄える作業、もしくはその情報内容という意味合いもあるが、それも意味としては
同じようなものだと、誰もが思っていた。
「では、君」
ようやく一人挙手したらしく、長峰学長の指名の後に立ち上がる。
「我輩は、記憶とは過ぎ去った過去の中で覚えているものの事を指すと認識している
次第であります」
何処かで聞いた声だったので、雪人は思わず眉間に皺を寄せた。
「……あいつも、あのナンパ師と同類なの?」
「同類じゃないけど、同属」
疲労感漂う声で答える。
まだ朝の9時だというのに。
「ありがとう。確かに、その定義が最も一般的だ。だが、私の講義で扱う『記憶』は、
それらとは少々異なる。所謂、心理学上の『記憶』だ」
心理学には、様々な専門用語がある。
そしてその中には、日常で使用する単語であるにも拘らず、その専門用語の中に
名前を連ねている単語もある。
その場合、日常で使用する方の意味とは全く異なる、或いは輪郭だけ残して
実際には大きく異なる意味を持つケースが多い。
その説明の後、長峰学長はその単語の解説を始めた。
「心理学における『記憶』それは、生物体が現在の段階で有している、過去からの影響だ。
その中には、過去の経験の保存も含まれているし、その再生も含まれている。
要するに、人間が一つの出来事を覚えていて、それを思い出す作業もこのカテゴリーに属す。
だが、それは『記憶』と言う言葉の、ほんの一面に過ぎない」
心理学で言うところの記憶とは即ち、過去の影響全般を指すと言う。
例えば、傷。
例えば、言葉。
それもまた、記憶だと。
昨日負傷した箇所が傷となって残っている場合、それは昨日の記憶として身体に
インプットされているのだ。
また、昨日までの学習の積み重ねで覚えた言葉も然り。
その全ては、記憶であると言う。
「我々生命体は、頭の天辺から足の爪先まで、全てが過去の出来事に影響を受け、
また起因となり、形成されている。つまり、我々は記憶そのものでもあると言う事だ」
長峰学長の説明は続く。
「すー」
そして、湖は寝ていた。
しかも本寝だった。
寝息が小さい事が救いだったが。
もし、いびきでもかこうものなら、集中して講義を聴いている他の生徒から
国賊でも見るような目で睨まれていた事だろう。
主に雪人が。
「……さて。それを踏まえた上で、一つ質問をしたい」
それに安堵していた雪人に――――視線が向けられる。
その視線の先にいる人物を、雪人は直ぐに特定出来た。
何故なら――――その人物は、壇上にいるからだ。
「黒木雪人君」
フルネームでの名指し。
日本でも指折りの有名な教授が、一介の高校生の名前を呼んだ事に、
周囲のツアー参加者は一様に驚愕した。
当然、名指しされた当人も。
「もし、この世界が青に覆われていなかったとしたら、人間の在り様は
変わっていたと思うかね」
そして、返事も起立も待たず、問いかけて来る。
抽象的なその問いは、答え自体は決して難しくはなかった。
先程までの、長峰学長の話を聞いていれば、当然『YES』と答えるところだ。
人間は、全てが過去の影響を受けた『記憶』そのもの。
ならば、全ての人間の視界に広がる空の青、海の青にも、多分に影響を受けている。
「変わっていなかったと思います」
しかし。
雪人はそう答えた。
周囲から、呆れとも嘲りともとれる空気が漂う。
ここにいる人間の殆どは、大学進学を考えている高校生。
当然、話の流れは殆どの者が読み切っている。
「何故、そう思うのかね?」
そんな空気を一瞬で切り裂くように、マイク越しの長峰教授の低音が
雪人まで一直線に届いてきた。
悪い癖――――それを自覚し、雪人は心中で舌打ちする。
ついつい、逆らいたくなる。
そして、そこから生まれるノイズに隠れた発見を堪能したくなる。
かなりの悪癖だと自覚していた。
「人間には、連続して微調整する習性があるからです」
そして、その成果物を見せる。
それが例え一笑に付されたとしても、それはそれで構わない。
そこで芽生える感情に、自分自身が隠されている気がしていた。
まるで、自分を何度も何度もテストするように――――そうやって、
雪人は生きて来た。
「……人間が視覚刺激から得る反応は、実は聴覚刺激に及ばないと言う発表が
なされている。その研究結果は知っていたかね?」
「いえ」
「宜しい。ありがとう」
長峰学長は、あからさまに笑みを零し、踵を返した。
そして、ホワイトボードに『視覚刺激のフィードバック』と言う言葉を
書き、その後に多数の文章を連ねる。
生徒達はそれを必死にノート上で追い始めた。
一方、優雅に眠り続ける湖の隣で、雪人は静かにそのホワイトボードを見つめていた。
「幼少期、人間は視覚以外の情報を自分自身へフィードバックする。
視覚刺激も当然ある程度は影響を与えるが、その他にも多数刺激物が存在する。
そして……その中で、微調整を行っていく」
その説明と同時に、生徒の目は雪人の方向に集中した。
いたたまれない。
そんな言葉が心の中に沸いてくる。
実際、解答は全くの適当、偶然の発見物だった。
「一般的に使用する記憶と言う言葉、それには主に3つの階層がある。
ものの数秒で消える記憶『ワーキングメモリ』、数分間で消える『短期記憶』、
そして最大で一生、脳に障害が現れるまで残り続ける『長期記憶』。一方、
心理学上の記憶にも、そう言った段階はある。そして、その段階は全て
無意識下の中で区分けされ、身体、精神へとフィードバックされていく。
つまりは、微調整だ」
説明は続いて行く。
その後、長峰教授は一度も生徒に挙手させる事なく、自身の講義を自身の口で
構成して行った。
そして、その間――――
「くー」
湖は一度も起きる事無く、3時間のスリーピングマラソンを完走した。
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