「ふわ〜。ふわ〜」
「あれだけ寝て、良くそんなに欠伸連発出来るな……」
3時間に渡る講義が終わり、大講義室を後にして行く生徒の列が出来る中、
雪人の隣で湖はくたーっとしていた。
「むみむみ」
寝起きには意識がしっかりしていないらしく、意味のわからない言語を
猫のような口元をして呟いている。
と言うより、鳴いている。
「むーむー」
「あんた、寝起きは別の生き物になる習性でも持ってるのか?」
「むいむい」
机に突っ伏しつつ、頭をグリグリ動かしている。
「くー」
そして、また寝た。
奇妙な生態だった。
そんな湖から視線を外し、雪人は改めて教卓の方に視線を向ける。
そこには、大勢の生徒が長峰学長を囲んでいる図が見えた。
3時間と言う長期間の講義を受けた後でも、まだ何か個別に聞きたい事があるらしい。
その学習意欲には、驚きを禁じえない。
それが大学に入る為のものなのか、有名人と接する事で得られる優越感や
高揚感の為なのか、或いは純粋に学問に興味がある為なのか――――は、定かではない。
ただ、例えそのどれであっても、このツアーに参加した意義と言うものが、
そこには溢れていた。
その光景を眺めつつ、雪人は自分自身にそれを問い掛けてみる。
返事は――――どうも返って来ないようだ。
とは言え、まだまだ後一月近く残されている。
それを見つける為にも、より密度の濃い生活を送らなくては――――
「む、そこにおわすは黒木様。実に久方振りの再会にこの無量小路、思わず
胸が高まりましたぞ」
「むうっ、黒木だとっ!? そうか、ついに我輩のサークルに加入する決意を胸に
そのドアを開いたと言うのだなっ」
と決意した一寸先、じっとりとした闇が待っていた。
具体的に言うと、このツアーに参加して以降、決して二度と会いたくないと
心に誓った筈のツートップが背後から接近していた。
「くっ……ぬかった! 3時間の講義が集中力を奪ってたか!」
雪人は思わず膝を折る。
入室の際にはあれだけケアしていた筈のモンスター達の接近を許してしまった事に
無念さと絶望感を抱き、背中に重い漬物石を二つ乗せられた心持ちになった為だ。
ちなみに、まだ半寝状態の湖には気付いていない様子。
「黒木様。実は私、こちらの古田様がお作りになられたサークルに所属する事に
なりまして」
「知らん。どうでも良い。俺に話しかけるな」
「くふふ、無量小路殿、これが噂のツンデレ実写版なのだ。我輩にはわかる。
この黒木殿、我輩達に構って貰いたくて仕方ない、そう言う顔をしている」
会話が成立しない。
既にわかっていた事だが、改めて雪人は夥しい量の精神汚染に襲われた。
昔、とある漫画でタッグマッチは足し算じゃねえ、何倍にも膨れ上がるんだ的な
表現がなされていた。
それは、正解だった。
だが、それでも雪人は抵抗する。
全ては保身の為に。
「良いか、最終通告だ。俺に構うな。俺に話しかけるな。俺に視線を向けるな。
そして俺の住んでいる地球に存在するな。わかったか」
「ふむん。つまり次元を超えてお付き合いしたいと、そう言う訳なのだな」
「感無量ですぞ」
しかし、効果などある筈もなかった。
「と言う訳で、改めて我輩の恋愛サークル『コイ☆バナ』へようこそなのだ!」
「名前100%変えてるのな……」
長時間の講義による精神的疲労を、この数分間は大きく越えていた。
雪人は嘆息する。
それはもう深く。
溜息と言うのは、言ってみれば深呼吸のようなもの。
ストレスを無意識の内に外部へ出す作業だ。
空気の入れ替え。
今の雪人にはそれが何より必要だった。
「よし、わかった」
「おおっ! ついに!」
そんな雪人の発言を受け、古田は無造作に入部届けを掲げる。
何処から出したのかはわからないし、どうでもいい事だ。
「長らくこの時を待っていたぞ、黒木雪人殿。我輩の目に狂いはない。貴様は間違いなく
恋愛戦略のエキスパートになれる存在だ。この『コイ☆バナ』は部長であり
キャプテンでありエースである我輩が全権を持つサークルだが、貴様には
その補助となる副官を担当して貰おう!」
「わかった」
「むむ……何と言うデレ。この無量小路、2000年代を駆け抜けた一大ブームの
集大成を垣間見ましたぞ」
感涙する無量小路に、雪人は特に何を言うでもなく、静かに佇んでいた。
「では早速サインを」
「わかった」
古田が差し出す入部届けが、微かにヒラヒラと動いている。
「サインを」
「わかった」
既に教卓を囲んでいた生徒達もいない。
長峰教授が大講義室を出て行ったらしく、それに続いて彼等も退室したようだ。
「サインを」
「わかった」
時刻は丁度正午。
既に大講義室は閑散としており、真上から降り注ぐ陽光に包まれつつ、
ひっそりとそびえている。
「さ、サインを」
「わかった」
今頃、学食では多くのツアー参加者がそれぞれの財布の中身と相談しつつ、
午前中の講義を肴に胃を満たしている事だろう。
「……これはまさか、噂の『無我の境地』」
無量小路が思わず呟いたその言葉に、古田は戦慄を覚えたのか、
下唇を噛みながら震えていた。
意識を空気に溶け込ませた人間ほど、周囲にとって厄介な存在はない。
何をしても、何を聞いても、一律のリアクションしかしないのだから。
「これは相手が悪かったですな、古田様」
「お、おのれぇ! 黒木殿、これで勝ったと思うなよ!
次は必ず、必ずこの書類にサインをさせてみせるのだからなっ!」
「わかった」
古田は泣きながら、上階の扉を抜け退室した。
「ぎゃーっ!!」
そして、字面では良くあるが実際に口に出した人間の数は歴史上両手の指でも
余るくらいしかいないであろうステレオタイプな悲鳴が、外から聞こえてくる。
階段から転げ落ちたのだろう。
「終わった……」
長い戦いを経て、雪人は意識を元に戻した。
充実感は、当然ない。
「では、私もこれにて失礼致しますぞ。黒木様、次回会う時には是非この私めと
肩甲骨を最も美しく見せるファッションについて語り合いましょう」
「う。微妙に興味があるな……でも嫌だ」
「はっはっは」
高笑いを残し、無量小路は去る。
「……行った?」
それを確認し、湖は突っ伏したまま低いトーンで聞いてきた。
「お前、起きてたのか……卑怯な」
「あんな連中と対面なんてしたくないしねー。あー、良く寝た」
開放感やら安堵感やらもあり、湖の肌は艶々していた。
「にしても、恋愛サークルねえ……そんなのあるんだ」
「あの変態が作ったサークルに興味あるのか?」
「そのものにはないけど、そう言うサークルが他にあるのなら、様子くらい
見てみたいなー。だって恋愛サークルだよ? 女の子なら誰でも興味持つでしょ!」
話しながらテンションが上がったらしく、湖は拳を握って力説している。
先程の連中程ではないが、この女子もやや妙な性格をしていた。
尤も、不快感はない。
少なくとも雪人はそう感じていた。
「でも、サークル入ると歓迎会の時に一芸しなくちゃなんないのがなー」
「そんな強制はないと思うけど……あ」
湖の嘆息交じりの呟きの中に、雪人は重要なキーワードを見つけた。
歓迎会。
研究室の歓迎会が、本日夜に行われるのだ。
朝の5時に香莉からメールが届き、判明した。
どんな迷惑メールより迷惑だったので、呪いのメールを返しておいたが、それでも
寝不足感は否めず、講義やモンスターデュオとの遭遇による精神磨耗もあり、
欠伸が出てくる。
「ふぁ……あ、湖さん。ウチの研究室の歓迎会来ない? 今日やるんだけど」
「はい?」
何となく気恥ずかしかったので、その欠伸を利用してすっ呆けた感じで聞いてみる。
人見知りはしないが、女子との会話はそれなりに気を使う雪人にとって、
催しに誘うと言うのは結構高レベルな行動だったりするのだ。
「え? それって研究室勧誘? 私入らないよ?」
「んにゃ。主催者が騒がしい方が良いから人集めて来いって煩くて」
「あー……そう。ん、行く」
余り逡巡もなく、湖は快諾した。
暇なのだろう。
「……何、その『わー、一発OK出ちゃった。暇なんだなー。可愛いのに、可愛そうに』って顔」
「字が同じだからってドサクサに紛れて妙な事を言うなよ。当たってるのは前半だけだ」
「暇で悪かったなあああっ!」
相手の発言を肯定した結果、雪人はこっ酷く怒られた。
「で、歓迎会って何すんのよ」
「さあ。企画してる人の性格上、突然バトルロワイヤルとか始めそうでもあるし、
闇鍋みたいなのをしそうでもある。さっきの話じゃないけど、一発芸大会も
視野に入れておいた方が良いかもしれない」
「うわ……考え直そうかな」
湖は若干引いていた。
そして思案顔になり、熟考を始める。
「……あやとりって、一発芸として成立するかな」
考えていたのは参加の是非ではなく一発芸の内容だった。
「日本一眼鏡の似合う小学生くらいの腕前なら」
「じゃあ無理かー……金魚でも飲もうかな」
「それは止めておいた方が良い」
熱帯魚好きの月海が狼狽する様を思い浮かべ、雪人は首を横に振る。
「ま、色々考えとく。何時から?」
「18時。午後6時な。場所はウチの研究室だけど、知ってる……訳ないか」
「フフン、馬鹿にしないでよジャカジャン。それくらい手引きでチェック済み」
鼻高々に唱え、湖は胸を張っていた。
何故自分に関係のない棟の研究室までチェックしていたのかは不明だが、
特にそれを聞く必要性を感じなかったので、雪人は小さく頷くだけにしておいた。
「じゃ、夜に。俺はこれから用事あるからもう行くな」
「うん。またね」
ニコニコと微笑む湖に背を向け、雪人は大講義室を出た。
救急車のサイレンが聞こえる中、キャンパス内を歩き、自身の所属する『大友研究室』のある
南棟Aへと向かう。
今日もフィールドワーク、すなわち研究室調査を行う必要がある為だ。
それも、18時までには終了しておかないといけない。
少し早足で移動する一方、雪人の視線はキャンパス内を散開していた。
昼間とあって、人の行き来はかなり多い。
集団で和気藹々と笑顔を浮かべながら歩く連中もいれば、一人黙々と何か専門書のような物を
読みながら歩く、今時あり得ないサイズの巨大眼鏡をかけた男もいる。
雪人は以前、大河内女史に大学へ進学する事の意義に関して一言を述べた事があった。
そして、実際にこうしてその意義の集合体とも言えるこの場所に数日ほど通った結果――――
前言を撤回したい心持ちになっていた。
実際に遊び感覚で来ている人間も多い。
だが、まるで念仏でも唱えるかのように英単語をブツブツ呟きながら歩く者や、
先程のような光景を見ると、真面目に勉強したくて大学に入る者、学歴社会に正面から挑む者の
存在を感じずにはいられない。
色々な人間がいて、様々な生き方がある。
当たり前の事だが、実際にそれをその身で感じる機会は、この世の中とても少ない。
インターネットを始めとして、繋がりが薄く広がり過ぎた所為かもしれない。
それだけに、すれ違う人々の表情や所作に思わず目が行くこの数日の自分に、雪人は
ちょっとした新鮮さを感じていた。
「あはは! 何ソレ、マジ受ける!」
だから、ついつい大声で笑っている女子にも目が行ってしまう。
普段は比較的苦手な部類の、濃い茶髪にアゲ嬢ファッションの女の子達。
やたら目が大きいのは、気合の入ったアイプチ効果か、切開でもしたのか。
取り敢えず、不自然だった。
あり得ないほど不自然だった。
そんな女子達と笑顔で会話している――――従妹は。
(……嘘だろ?)
思わず目を擦る。
そんな漫画でしかないリアクションをしてしまう程、あり得ない事だった。
少なくとも、雪人の中では、鳴海結衣と言う女の子は今その周囲にいる
アゲアゲな女子達とは真逆の存在と言う認識があった。
人見知りで、大人しくて、小動物のような女子。
しかし、今雪人がやや遠目ながら視界に納めているのは、自然にそんな連中と会話し、
楽しそうにしている不自然極まりない姿だった。
流石に口調は他の女子とは違い、『マジねーから』とか『お前ソレ臭くね?』とか
そんな言葉は使っていないが、浮く事なく輪の中に加わっている。
「……」
まるでヒロインが死ぬ映画でも見た後のような気分になり、雪人は暫し
眉間を抓りながら瞑目した。
一瞬、本気で夢かと錯覚し、首を傾ける。
しかし、これは現実。
そもそも、結衣とは先日再会するまで4年間、ずっと音沙汰なしだったのだ。
その4年で周囲の色に染まるのは、別に不自然な事でもない。
ただ、その再会後も当時と変わらない感じだったので、先入観はかなり色濃くなっていた。
それだけに、カウンターの威力は大きかった。
(何だろう、自分の故郷に風俗店が出来たと知った時みたいなこの感じ)
そんな事を考えていた雪人の視線が、不意に結衣と繋がる。
「!」
結衣は驚愕と狼狽を同居させた顔を見せ、直ぐに背を向けた。
その対応に、少しだけ安堵。
ただ、ここで声を掛けに行くのは明らかにマナー違反だった。
(ま、仕方ないよな。多感な時期だし)
揺らぎ。
それは誰にでも起こる剥離。
それは時に、二面性とも多面性とも言われる人格を持つに到る。
尤も、大抵はそうなる前に良い具合に統合し、それを人は大人と呼ぶ。
人格の形成だ。
結衣の年齢であれば、その真っ只中で色々な方向に揺れ動くのは
当然の事だし、そもそもああ言った言葉遣いの乱雑な女子が存在悪と
言うのも古い価値観だし、そう言った連中と仲良くする事が正しくないと言う
判定もまた、今の時代の中ではかなりズレているのかもしれない。
何より――――雪人自身、他人の事は言えない存在だ。
ショックを受ける事自体、失礼な事。
(だな)
そう結論付け、雪人は当初の目的地の方向へ視線を移し、歩を進めた。
若干引きずりつつ。
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