で、夕方。
「ヘイお待ち!」
本日の作業を全て終えて寛いでいた大友研究室に、ハイテンションな香莉の声が響く。
その顔は、今まで雪人が見た事がない程に、キラキラした生命の躍動に満ちていた。
そして、手には大量のポリ袋が持たれていた。
「早速トモ研の歓迎会始めましょっか。あ、確か他の研究室にも声かけたんだっけ?」
「ええ、始まったらメールで報せる手筈に。って言うかトモ研って何ですか」
「んじゃ、まずは食い物の用意からね。ガスコンロ、カモン!」
雪人の疑問を完全無視し、香莉は宇佐美嬢と共に鍋の準備を始めた。
どうやら、鍋をつつきながらの歓迎会らしい。
夏なのに、と野暮な事は言わなかったものの、そのテンションについていけず、
雪人は何となく視線を泳がせる。
(……あ)
結衣と合ってしまった。
「……」
反射的に逸らしたのは――――結衣の方だった。
やはり気まずいらしい。
そんな従妹の所作に対し、雪人は暫し沈黙した後、小さく息を吐いて足を踏み出す。
「結衣ちゃん」
そして、真顔で近寄った。
「な、に……?」
「アゲ嬢メイクやった事ある?」
「……」
真顔のままの質問に、結衣はかなり困った様子で沈黙していたが、やがて首を横にブンブン振った。
「そうなんだ。一回見てみたい気もするけど」
「私、似合わないから」
「って言うか、日本人全体に似合わない気が……」
思わず出た雪人の本音に、結衣は暫し驚いた顔をしていた。
そして――――小さく笑う。
特に内容のある会話ではなかったが、気まずさは消えた。
内心、安堵。
たかが意外な友人関係を覗いただけで、久々に再会した従妹と疎遠になると言う
妙な展開は回避出来たようだ。
「……」
ただ、結衣はこの流れに乗って、友人の事を話す――――と言う事は一切しなかった。
そこまで期待していたかと言うと、割としていた雪人にとっては少々残念だったが、
それは高望みと言うものだ。
「谷口さん。鍋料理は煮え難い順番に入れないと」
一方、白石はしきりに鍋班に対して指示を出している。
仕切りたがりの気は元々あったが、フィールドワークを任されて以降は
更にそれが顕著になってきており、早くも鍋奉行のオーラが漂っていた。
「失礼しまーす☆」
そんな中、研究室に4人の女性が押し寄せてくる。
大山研究室の面々だ。
先陣を切って伊佐美が入室し、香莉とハイタッチをしている。
「本日はお招き頂きありがとうございます。あの、大友教授は……」
「もう直ぐ来ると思いますよー」
ソフト部キャプテンのポニっ娘こと米山は、宇佐美嬢と談笑を始めた。
残り2人は隣の教授室に向かい、2人で会話を始めている。
既に9人が入室しており、人口密度はかなり高い状態。
ここに、更に大友教授と三越研究室、ブラックウェル研究室、更には月海と湖まで
加わるとなると、相当狭い状態になってしまいそうだ。
「僕の部屋の、外に出そうか」
そんな雪人の思考を読んだかの如く、入室と同時に大友教授が朗らかに提唱。
教授室には余り机がないので、中央のテーブルを出せば結構なスペースが生まれる。
的確な判断だ。
「んじゃ、オレらやっちゃいます」
その教授の後ろから現れた三越イケメン軍団が、ゾロゾロと入室。
「力仕事なら任せナ」
更にはブラックウェル外国人部隊も参戦。
男7人によって、あっさりテーブルは廊下へと引っ張り出されて行った。
「へーイ!」
「Year!」
そして、ハイタッチ。
このノリは、雪人にとっては未元物質だ。
「……わー」
そんなテンションの砂嵐を全身で受けつつ、湖もやって来た。
その顔は、明らかにドン引き。
そして、クルリと踵を返した。
「おい、それはないだろ」
「だって! 私の苦手なタイプがこんなにわんさか……うううう」
泣きそうな顔でガクガク震える湖に、雪人は思わず頭を抱えた。
勿論、呆れている訳ではない。
自責の念。
湖の男性観を推測する材料はそれなりにあったにも拘らず、この環境の
大半を作り出した自分自身に対して、叱責したい気分だった。
どうすべきか――――
「あー! 窓霞!」
「へ? あ、ヨネっち! 来てたの!?」
そんな雪人の苦悩を他所に、湖は友人との思わぬ再会でぐぐっとモチベーションを浮上させていた。
釈然としない短期の解決編だったが、結果オーライ。
後は残り1人――――
「……遅れてしまいました。すいません」
その1人は、足音もなく雪人の隣にいた。
尤も、周りが騒がしいので聞こえる筈もないのだが。
「ゴメンね。なんか騒がしくて」
「いえ」
余り喧騒の似合わない月海は、それでも不満そうな顔は見せず、雪人の隣で
静かに佇んでいた。
「よっしゃ! 今度こそ全員集合ね! それじゃ早速鍋パーティー開始よっ!」
その月海の姿を確認したのか、香莉が叫ぶ。
そして、ガスコンロを鍋ごと教授室へ移し、中央に置いた。
その鍋を、大友教授を除く18人が囲む。
1人の肩幅+隣人とのスペースが平均80cm弱として、円周にすると大体15m。
直径5m弱の円だ。
つまり、各自中央の鍋から2mちょい離れている。
「……離れ過ぎな気がするんだけど」
「これくらいで良いのよ。臭いでバレると困るから」
邪悪な笑みを浮かべ、香莉はのっぴきならない言葉を口にした。
「バレる……?」
「フフフ。その言葉から推測されるキーワードは、ズバリ闇! これは闇鍋ですね?」
いち早くそう告げたのは――――不明。
18人が密集しているので、雪人には男声としかわからなかった。
「大当たり! 私の故郷では歓迎会にはいつもヤミ鍋なのよねー。ケケケ」
悪魔笑いをする香莉に、雪人だけでなくほぼ全員が冷や汗を流す。
「ヤミ鍋って何?」
そんな中、キョトンとしている女子が2名。
雪人の両隣にいる、月海と湖だ。
言葉にして質問したのは湖だったが、雪人は2人に向けて説明を始めた。
闇鍋――――それは、鍋の中身をダークマターにすると言う、非常に危険な戯れ。
具体的に言うと、鍋の中にそれぞれが持ち込んだ物を放り込み、灯りを消した状態で
食べると言うものだ。
持ち込む物は自由。
鍋に合う食材である必要はないし、食材である必要もない。
灯りを消すのは臨場感を産む為ではなく、鍋の中身の視覚的な特定を防ぐ為。
よって、口の中に入れるまで何を食べようとしているのか自分でもわからない状態で
食事をする事になる。
それがこの闇鍋の醍醐味だ。
「え? そ、それってトリカブトとか入れても合法的に人を殺める事が……」
「出来るか! 勝手に法律を越えた存在にするな!」
湖の純粋無垢なボケに、雪人は律儀にツッコんだ。
とは言え、闇鍋はそれくらい突拍子もない物を入れないと、中々盛り上がらないのも事実。
実際、新歓で良くイベントとして利用されるこの闇鍋、中途半端な空気で終わる事が多い。
大量のからしやコショウを投入して盛り上がろうとする安易な方法を試みる輩もいるが、
それらは鍋全体に一定の刺激を与え、他の投入物の個性を消してしまう。
最初は盛り上がるが、そこで終わり。
一方、ケーキ等の甘い物、納豆、牛乳などは、大して盛り上がらない上に気分を悪くする
者が出てくるので、最悪の投入物と言える。
これらの物はローカルルールにおいて禁止とされるケースも多い。
ただ、そうなると参加者が尻込みしてしまい、結局無難な中身になってしまう事も少なくない。
設定自体はかなり期待感を持たせるイベントなのだが、打っても余り響かない催しとしても
知られている。
「じゃ、今から各自テキトーに入れる物用意して来て。1時間後に再集合ね」
ニッコリ微笑みつつ、香莉はそう宣言して一時解散を促した。
ハイテンションのまま研究室を出て行く者もいれば、頭を捻りつつ苦心している者もいる。
そんな中、雪人はどうすべきか迷っていた。
参加者の数を考えると、自分一人が良心的な物を入れてもまず意味はない。
かと言って、自分も食べるかもしれない鍋に劇薬や刺激物を入れる気にもなれない。
そもそも、何故今発表したのか。
予め闇鍋をすると伝えておけば、二度手間にならずに――――
「どったの?」
湖の問いかけに、雪人は顔をしかめつつ小声で推論を述べた。
「……試されてる気がする」
「え? 何を?」
「色々。傾向とか、行動力とか」
闇鍋と言う余興への意欲――――もあるが、何より『言われて直ぐ』『どんな物を』
用意してくるか、と言う瞬発力や独創性を試されているような、そんな気がして
雪人は思わず香莉の方に視線を送った。
「行かないの?」
香莉は不敵に微笑んでいる。
つい忘れがちだが、彼女はあくまでこのツアーの従業員。
何かを試す場合、試す側に立つのは当然だ。
「行きますよ。その辺のコンビニに売ってる物で済ませます」
雪人も、思わず笑った。
そして――――1時間後。
全員欠ける事なく再集合した面々は、他の人に見られないよう一人ずつ鍋の中に
持ち込んだ物を投入した。
尚、中身を確認出来ないよう、既に電気は消してある。
「オッケー! それじゃ新人の皆さん、食べちゃって下さいな!」
「Year!」
「Come
on!」
「Wow!」
「おっしゃー!」
香莉がクラッカーを鳴らして合図すると同時に、ノリの良いホスト風イケメンや外国人部隊が
揃って鍋に橋を突っ込んだ。
灯りを落としているとは言え、暗幕までは落としていないので基本的には薄闇。
鍋の中身はわからないが、箸を入れる分には問題ない。
後は、その箸が捕らえた物を口の中に――――
「ピキーーーーーーッ!」
「ケシャーーーーーッ!?」
「オウマイガッ!」
「バボボバッ! ゲシェ!」
入れた4人が同時に沈んだ。
「……まあ、そうなるよな」
「ふんふん。ルート、デニス、アラン、遊馬の4名が初動で撃沈……と」
嘆息する雪人の背後で、香莉は何かメモを取っていた。
暗闇なのに器用なものだ。
「って、やっぱりテストだったんですか」
「まあねー。明日ちょっとでっかいイベントがあるから、その資料集めをするよう言われてんの。
いや、ゆっきーが沢山誘ってくれたから助かったわー」
あっさりとネタ晴らししつつ、香莉は部屋の明かりを付ける。
「じゃ、闇鍋パーティーは終了。後は普通に作ったこっちのヘルシー鍋でパーティー始めましょ。
ジュースとスイーツもあるぜよ」
「わーい☆」
そして、あっさりごく普通の歓迎会に移行した。
「……何か、全然ついてけないんだけど」
「データは取れたんだろ。何のデータかは知らないけど」
色々と不満や疑問はあるが、普通の新歓の方が健全に決まっているので、雪人は特に
文句を言う事なく、用意されていたコップを手に取る。
中にはオレンジ色の液体が入っていた。
「……」
徐々に打ち解け出した周囲の空気を感じつつ、雪人はその液体を口に含む。
イケメン軍団は積極的に大山研究室の面々に話しかけていた。
まるで合コンの2次会のような光景。
堅い性格と思われた白石も、その中に混じって楽しそうに話をしている。
「うー……」
そんな雪人の隣で、湖は唸っていた。
この空気が苦手らしい。
「嫌ならそっと出て行って良いぞ? 別に強制参加でもないし、そもそもお前部外者だし」
「でも、慣れないとっ」
まるで修行僧のような物言いと表情で、湖はそう断言した。
そして、その一言で雪人は色んな事に納得した。
これまでの彼女の行動や言動。
明らかに軽薄そうなサークルへの積極的な注視もまた、そう言う事だったのだ。
賑やかな空気に慣れる為の荒治療。
「……それが、ここに来た理由なんだから」
決意を新たにするかのように、湖は告げた。
「変かな」
そして、今度はまるで逆の――――不安そうに瞳を揺らし、そう尋ねてくる。
初対面時から、明るい性格と言う印象が強く残っていただけに、その事実は意外だったが、
どこか納得出来る面もあった。
「妙な啓発セミナーに引っかかるよりは良いんじゃない?」
だから、そう答える。
湖は――――安堵したように、小さく微笑んだ。
その顔は、何処か赤みを帯びている。
恥ずかしかったのかもしれない。
「あ、窓霞ー! あれ? 彼氏出来たの?」
そんな妙な雰囲気の中、突然近付いてきたのは――――ポニっ娘の米山。
フラフラした足取りで湖に横から抱き付く。
「な、何ゆってんのよ! 彼氏なんかじゃないってば!」
「にははー。照れてるじゃーん。やー、男っ気なかったお前がなー」
友人同士だからなのか、ポニっ娘は大山研究室で見た時よりかなり砕けた口調になっていた。
「もうイヤーーーーっ! 何でツアー従業員の私が参加者みたいな事!」
「ああっ、スイマセン。全部僕が悪いんですっ」
そして、奥の方では宇佐美嬢とパーマのイケメンが何か叫んでいる。
何かがおかしい。
雪人は、そう感付くのにかなりの時間を要した。
大友研究室の面々を含め、まだ付き合いは浅い連中ばかりだが――――明らかに
それぞれの持つイメージとは異なる言動が目立つ。
フラフラと足取りが覚束ない者も多い。
何より、漂うアルコールの香りが決定的。
「……ジュースか!」
「甘いねー。ケーキやスイーツ、料理全部がアルコール含有♪」
不覚を嘆く雪人の後ろから、香莉が抱きついて来る。
見事に酒臭かった。
「あんたなあ! ここにいるメンツ殆ど未成年だぞ!」
「ふふふ。未成年者飲酒禁止法には罰則なんてないんだぞー」
「違う! 本人はそうだけど、保護者や制止を怠った監督者は50万円以下の罰金だ!」
普段は滅多に出さない、大声でのツッコミ。
雪人も確実に酔っていた。
オレンジジュースと思っていた液体には、かなりのアルコールが入っていたらしい。
一口でそうと気付かなかったのは、酒自体を飲んだ事が殆どなかったからだ。
「あれー? そだっけ? ま、良いって良いって。皆、盛り上がってるかーい!?」
「いえーい!」
お気楽な香莉の呼びかけに陽気に応えたのは――――結衣だった。
「うげ……結衣ちゃんまで」
「あははー! 何かふわふわしてて気持ち良いー!」
それまで雪人が彼女に抱いていたイメージは、この数秒であっさり崩れた。
例の友人達を見た時の、数倍の衝撃。
とは言え、もしこっちが本質なら、ある意味あの友人達とは上手く行っているかもしれない。
雪人はそれより、あの連中に結衣がパシリのような扱いを受けているかもしれないと言う
心配の方が大きかった。
それだけに、若干の安心感も入り混じって、かなり複雑な心境になる。
酔っている所為もあって、気分が悪くなってきた。
「ったく、どいつもこいつも浮かれやがって……これだからガキ共は」
そして、今度は聞き覚えのある声でのあからさまな悪態。
白石だった。
爽やかな顔を全力で歪ませ、研究室内で唾棄している。
ある意味ホラーに近い光景だった。
「アルコールって怖い……」
「そうですね」
入り口の付近で蒼褪めていた雪人の耳に、久し振りに聞く落ち着いた声が届く。
月海だった。
彼女だけは、この混沌の中で、唯一正気を保っているらしい。
「アルコール系の水温計が壊れていて水温が一定に保たれていなかった時の恐怖……
今も鮮明に覚えています」
もとい。
彼女もしっかり酔っていた。
普段より目が据わっており、虚空のある一点をじっと見つめている。
「ま、悪い酔い方じゃない分マシか……」
雪人は嘆息しつつ、酒臭い研究室を出た。
「やあ。大分参ってるね」
すると、廊下の壁に寄りかかった大友教授が楽しげに笑っていた。
酒を入れた様子はなく、寧ろ距離を取っているようにも見えるが、今はそんな検証を
している場合ではない。
「教授! 未成年の飲酒は保護者や制止を怠った監督者に50万円以下の罰金ですよ!」
「バレなきゃ大丈夫。それに、17、8歳の子供と20歳の子供にアルコール耐性の差なんてないよ」
「それが教育者の言う事ですか……」
頭を抱えつつ、雪人も壁に寄りかかる。
正気を保つほどの量を飲んでいないが、頭が正常に働くほどのジャミングでもない。
どうやら、自分とアルコールの相性は最悪だ――――雪人はそう自覚した。
「それを学ぶ事も大事なんだよ。大学の新歓で初めてお酒を飲まされて、急性アルコール中毒で
亡くなった例もある」
「それはそうですけど、法律は守っとかないと」
「道徳上は、ね」
まるでどちらが教育者かわからなくなる会話に、雪人は思わずズリズリと腰の位置を下げた。
「複数の大人がいて、近くに医療機関があって……そう言う環境で適量のアルコールを
摂取させる事が、お酒とお付き合いを始める上では一番良い環境だと思わないかい?」
「20歳まで待っててもそれが中々出来ない、ですか」
「一人暮らしを始めるのは、大抵18歳から。そうなれば、誰だって飲もうと思えば飲める。
規制が厳しくなっても、入手方法は幾らでもあるしね」
「……この騒動、教授の差し金なんですか?」
まるで実験、とでも言いたげな大友教授の言に、雪人は思わずそう聞いていた。
大友教授は首肯こそしなかったが、無言で肯定を示唆した。
そして、一瞬だけ笑顔を消し――――
「明日。大々的なイベントがこの大学で行われる」
いきなりそう告げた。
先程、香莉も同じ趣旨の発言をしていたが――――
「どんなイベントなんですか?」
「それは明日のお楽しみ」
内容は告げず、教授は壁から背を離した。
研究室に入るようだ。
「ここ数日の調査、どうだった?」
その途中、すれ違い様に聞いて来る。
「楽しかったですよ。結構」
「そっか。なら、続けて欲しいな」
そう言い残し、大友教授は雪人の前から姿を消した。
無論、視界から消えただけで、直ぐ近くにいるのだが――――まるで別れの瞬間のような
奇妙な空気が、廊下には残り香のように漂っていた。
「……」
雪人は一人、そこで呼吸する。
この棟の研究室は手分けして全て回ったが、まだ調査項目は沢山残っている。
調査の継続は当然の事の筈だったが、教授の言葉は何故か希望だった。
その事に、違和感を覚えていた。
そして。
その違和感は、翌日あっさりと消える事になる――――