新規。
それはどんなジャンルにおいても、とても大きな波紋を生む。
例えば、新入生。
時期にも拠るが、既にある程度仲良しグループが固まってきている中で
新たなクラスメイトがやってきた場合、その動向と言うのは少なからず
注目されるもの。
場合によっては、その新入生によってクラス内の力関係が変わる事もある。
大抵はその転校生自体が浮いてしまったり孤立してしまったりするのだが、
それまで拮抗していた、あるいは緊迫していた状況がその波紋によって
変貌する事もある。
勿論、例はこれだけに留まらない。
長らく低迷していたメーカーが一つの新製品によって息を吹き返すと言う事もあるし、
一つの成分によって格段にシェアをアップさせる栄養ドリンクだってある。
「ある?」
「あるの!」
話の腰を折られた雪人の絶叫が響く中、大友研究室では二日酔いによる苦痛と
会場設営と撤収による疲労、そして先程の学長による宣言で生まれた緊迫感が
混在する、かなりカオスな空気が蔓延していた。
クラス間移籍――――それはつまり、学校における各クラスの生徒を入れ替え可能に
すると言う、ある意味禁忌とも言える案件だった。
通常、学校では4月の最初の登校日に決定したクラスを一年間ずっと維持する。
クラス替えは一年に一度。
仮に担任が気に食わなくても、友達が一人もいない状態になっても、やり直しは利かない。
新たな環境で新たな人間関係を構築しなくてはならない。
それもまた社会勉強の一つ――――と言うのが、そのシステムにおける理念だ
長峰学長の提案は、それを根本から覆す、ある意味現代教育への挑戦とも言えるもの。
しかし――――
「何でそれを大学体験ツアーで試す必要があるんだろう」
雪人は今ひとつ解せずにいた。
今回のこのツアーが、一種のモデルケースになっている事は周知の事実。
テストを行うには最適の環境である事は間違いない。
ただ、今回の提案はあくまでも小中高がメイン。
大学には、特別に『クラス』と言う概念は存在しない。
学部、学科によって分かれているだけだし、それによって毎日同じ面子が
同じ場所に集うという訳でもない。
当然、ホームルームもない。
なのに、何故――――?
「そりゃ、こう言う環境だからじゃないの? 離島なら何やっても情報規制しやすいし」
「人体実験とかヤバイ薬の開発ならまだしも、これくらいの試験、隠す必要もないような……」
香莉の指摘に、雪人はやはり首を傾げる。
どうにも不自然な提案あった。
「一応研究室に入ってはみたけど、別の所に興味が移った……と言う人の為の配慮
なのではないでしょうか?」
宇佐美嬢の指摘は、確かに一理あるものだった。
しかしそれならそう説明すれば良い。
わざわざ試験などとせずに。
「……下らない」
思案顔で嘆息する雪人の耳に、小さな声が届く。
まるで呪文のようなその声は――――この研究室に入る為にツアーに参加した
白石悠真と言う人物だった。
当初は爽やか青年だったその面影は消え、まるでインターネットを取り上げられた
引き篭もりの少年のような危うさを醸し出している。
「何だ? この下らない試験は……移籍だって? つまり、場合によっちゃたった数日で
自分の研究室を去る必要がある、って事なんだろ? 何だよそれ……何だよ……」
と言うか、もう完全に不気味だった。
「と、ところでお二方は知ってたの? この事」
色々と目に毒な白石から視線を切り、雪人は年配の女性2名に話を振った。
ツアーの参加者ではなくスタッフである以上、何か聞かされている可能性は高い――――
「んにゃ。全然」
「私も特に……」
訳ではなかったようだ。
「ま、事務の私にはカンケーないけどさ。一応その、システム? って言うか、
どんな感じで移籍が決まるのか早めに確認しといた方が良いんじゃない?」
珍しく建設的な意見を述べた香莉の言葉に従い、雪人は集会の最後に配られた
資料を取り出し、目を通す。
「……」
その後ろから結衣も覗き込んで来た。
言葉は発していないが、それなりに気になっているらしい。
「クラス間移籍……ここでは仮に『パイロット・トレード』と呼ぶ、か」
パイロット・トレード――――試験移籍。
つまり、パイロット版。
実際にこの制度を文部省に通し、採用してもらう為の必要サンプル。
その為、今回のシステムは全て叩き台であり、今後実際に採用されるとは限らないもの、
と言う説明が1ページに渡り書き連ねられていた。
そして、問題の内容。
基本的に、移籍は希望制となっている。
つまり、自分が別のクラス(今回のケースでは研究室)に行きたいと思った場合、
その制度が実施されている期間中に申請を行えば、移籍は可能となると言う事らしい。
と、ここまでなら当然大問題だ。
誰もが、雰囲気のいいクラス、人気の担任がいるクラス、友達のいるクラスへ
行きたがるに決まっている。
そうなれば、クラス毎に人数格差が生まれる。
それは、教室の面積をはじめとした物理的な意味合いからも合理的じゃない。
まして、教師の人気投票的な面が露骨に現れてしまうのは大きな問題だ。
その為、配慮として幾つかの制限が設けられている。
1.移籍を希望する者は、期間内に氏名、現所属クラス、希望クラス、動機等を記した申請書を提出する
2.申請書は教師とPTAの一部によって発足した委員会によって審査される。
3.審査の結果、正当な移籍と認められれば、待機状態となる。
4.移籍期間内に待機状態となった生徒は、期間終了後にその希望先に空きが出来た場合にのみ
移籍可能とする。
5.もし待機状態となっても、希望先に空きがなければ、移籍は不成立となる。
6.希望クラスは第2希望まで書けるものとする。
7.移籍出来るのは、一クラス3人までとする。
つまり、移籍希望者を審査し、問題がなければ、その希望者の所属クラスは一時『委員会預かり』となる。
そして、全ての移籍希望者の審査が終わった後、その移籍希望者の現所属、希望先、人数を
加味し、クラスの人数に変動がない範囲で移籍を行うと言うことだ。
例えば、A、B、Cの3つのクラスがあったとする。
生徒の人数はそれぞれ30名。
その中で、AのクラスからBへの移籍を希望する生徒が2名、Cを希望する生徒が1名いるとする。
『A
→ B:2名』、『A → C:1名』だ。
更に、『B → A:3名』、『B → C:1名』、『C → A:2名』、『C →
B:2名』と言う
申請状況になったとしよう。
まず『A』と『B』の移籍希望状況に注目すると、AからBに行きたがっている人数は2名なのに対し、
BからAに行きたがっている人数は3名。
この場合、移籍が成立するのは2名までだ。
つまり、この移籍は1対1、2対2と言った等価トレードが基本と言うことになる。
よって、この場合に実際移籍する人数は、A⇔B間で2名、A⇔C間で1名、B⇔C間で1名
と言う事になる。
よって、移籍を希望して却下される事はあっても、希望しない移籍を強制的に
行う必要はない、と言う訳だ。
だが、それなら白石がおかしくなる理由はない。
この『パイロット・トレード』にはもう一つ、恐ろしい権利が設けられている。
8.担任は、生徒を『自クラスへの移籍希望者』と最大一名までトレードできる。
9.この申請も審査が行われる。尚、担任の申請によるトレードである事は公表されない。
「……これってさー、道徳的にどうなの?」
香莉ですら半眼でそう呟くほど、教育の場で行われる事としてそぐわない制度だ。
要するに、担任は一人だけだが「お前はもう要らない」と、クラスの中の一人を
別のクラスに放り出す事が出来る、と言う事になるのだ。
勿論、審査がある以上はそんな理由ではダメだろうし、教師が申請した移籍であると
他の生徒に知られる事がないように情報管理を徹底する、とは書いてある。
だが――――教育の観点から、これが果たして許される事なのかと言うと、
到底許される事ではない。
とは言え、特別教室へ編入する場合には、これと同じような条件で事実上の『移籍』が行われる
ケースはある。
担任がそれが適切だと判断すれば、保護者との相談の元、現在のクラスから特別教室へ
籍を移す事になるからだ。
尤も、これ自体も相当な問題を抱えている制度ではあるのだが――――
「道理で、このツアーで試す訳だ」
雪人は先程の疑念にようやく納得がいった。
この非道徳的な試験は、通常ではまず行えない。
民間企業の協力のこと、情報規制をしっかりとした上で行われるのだろう。
勿論、参加者には緘口令が敷かれると推測される。
それで完全に規制出来る可能性は低いが、仮に数名の口から漏れても、それで大事になる程の
事ではない。
非道徳的ではあるものの、それだけの事なのだから。
長峰学長程の発言力があれば、どうとでも出来る。
重要なのは、文部省が一切関わっていない事を証明できる環境。
当事者でなければ、政治家は基本動かない。
或いは、既に話はついているのかもしれない。
「妙な事になって来たねー。で、ゆっきーはここ出るの?」
「んー……今のところは特にその気はないけど」
この研究室に在籍したのは、半ばなし崩しの内だった。
しかし、実際にこの研究室の長である大友教授の言に惹かれたのも事実。
まだ何も成していないのに、出て行く理由はなかった。
「じゃ、ゆいゆいは?」
香莉の視線が雪人の背後にいる結衣に移る。
「私は……出ない、です」
結衣がこの研究室にいる意味を雪人は全くわからなかった。
そして、固持する理由も。
ただ、何となく――――以前見た合いそうにない友人達と一緒にいた時の景色が
頭の中を過ぎった。
「私も今の所留まる予定です。折角皆さんと仲良くなれましたし……」
宇佐美嬢も残留希望。
残り一人は――――まるで縋る様にソファに突っ伏していた。
当然、残る事を切望していると思われる。
つまり、移籍希望者は現時点ではゼロ。
ただし、大友教授がこの中から一人、追い出す可能性がある。
白石はそれを畏れているようだ。
「……言っておく」
その白石が、不意に立ち上がり、全員を見渡す。
「僕がこの中で一番、この研究室に残りたいと言う気持ちが強い。それは間違いない。
純然たる事実だ。僕は必ずここに残る。何があっても」
掠れた声でゆっくりそう宣言し、白石は研究室を出て行った。
まだ大友教授の出した課題は終わっていないのだが、それを今日実施する気には
なれないらしい。
「何であそこまで執着するのか……」
「性格じゃない? 最初から、ああ言う奴って見抜いてたけどね、私は」
少し得意げに告げる香莉とは対照的に、隣の宇佐美嬢の顔は冴えない。
「何となく、嫌な予感がします」
「嫌な予感?」
「はい。この制度、実はとっても恐ろしいものなんじゃないか、と思って……」
実際――――恐ろしいものだと雪人は既に気付いていた。
厄介なのは、自分の移籍を実現させる為には、必ず移籍先に空きが出来る必要がある点。
つまり、何が何でも移籍したい場合、その移籍先に所属している人間の中の誰かを
強制的に『移籍希望』と言う意見に変えさせる必要がある。
それは、生徒に対して心変わりさせる方法もあれば、教師に追い出させる方法もある。
要するに、裏工作が蔓延する環境が出来上がると言う事だ。
この大学体験ツアーには皆、結構な額の金銭を払って参加している。
その中には、白石のように特定の教授のゼミに入る事を目的としている者も多いだろう。
よって、ドロドロとした政治工作が行われる可能性は決して低くはない。
「こりゃ荒れるね、間違いなく。死人出ないといいけど」
「無責任に煽り立てないでくれ」
一人蚊帳の外で楽しそうにしている香莉にも嫌な予感を覚えつつ、雪人は頭を抱えたい
心境で嘆息した。
そしてその懸念は、当然のように現実のものとなるのだった――――