本日の講義終了――――
「黒木! 助けて!」
と同時に、雪人の元に血相を変えた湖が転がり込むような勢いで接近してくる。
その必死の形相に、思わず雪人は椅子から転げ落ちてしまった。
「な、何なんだよ」
「私、私……殺されるかもしれない!」
「……は?」
突然の物騒過ぎる告白に、脳が停止する。
実際、創作物の中では良く聞く言葉だが、現実として周囲の人間が真面目にそんな言葉を
口にすると言う事は、一生の中でもそうはない。
「まさか……宇佐美さんみたいにストーカー被害にでもあったとか?」
「そんな生易しいモノじゃないのよ! ちょっとこっち来て!」
ツインテールを振り乱す勢いで、湖は雪人の襟首を鷲掴みし、教室を出た。
そしてそのまま無人の別の教室に移動させる。
「なんちゅう力だ……」
「そんな事より、これ、ホラ見て!」
雪人をポイ捨てするように放逐した湖は、泣きそうな顔で携帯を取り出し、
そのモニターをグイっと顔面に近づけた。
そこには――――
『我々のサークルに加入しろ。さもなくばその身に危険が迫るだろう
恋愛サークル「コイ♪バナ」部長 無量小路五月雨』
「勧誘メール……?」
奇妙な名称の人間からの脅迫まがいの文章が、派手な絵文字と共に映し出されていた。
差出人は匿名となっている。
「あいつよ! ホラ、何か変な話し方する!」
「……記憶にないなあ」
雪人は一生懸命該当しそうな人物を頭に思い描いたが、出てこなかった。
「それは少々薄情ですぞ」
「うわっ!」
そして、仰け反る。
背後霊のように唐突に、無量小路が現れた。
「きゃあああああああっ!?」
その姿を目撃した湖が恐怖のあまり雪人に抱きつく――――と言うより巻き付く。
「痛い痛い痛いイタイ!」
そのパワーはさながらアナコンダのようだった。
「なっ、何なのよあんたはーっ! もう止めてよー!」
そして、雪人の悲鳴を無視して涙ながらに訴える。
実際、怖がるなと言う方が無理な状況ではあるが――――
「誤解されているようですが、この無量小路、決して貴女の敵ではありませんぞ」
「いや、確実に敵意を篭めた脅迫メールと思うけどコレ……つーかいい加減離せ……頚動脈がヤバイ……」
顔色がみるみる蒼褪めていく雪人をバリケードにして距離をとる湖に対し、無量小路は
その幼い顔立ちを若干陰らせ、首を横に何度も振った。
「それは、この無量小路五月雨の送信したメールではありませぬ」
「え?」
「……ゴホッ! ゴホッゴホッぷはあっ!」
ようやく開放された雪人が咳き込む中、事態は妙な方向に動いていた。
「だ、だってハッキリ明記してるじゃない。確かアンタ等が立ち上げたサークルも
確かこんな名前だったでしょ?」
「いえ。我々のサークルは『コイ☆バナ』であって、決して『コイ♪バナ』ではありません。
このニュアンスの違いは非常に大きいかと」
良くわからない拘りだったが、それだけに真実味はあった。
「それに、不肖この無量小路五月雨、女性に対してこのような命令形の文章を
送信するなど、万が一にもあり得ませぬ。女性は尊ぶべき存在。言わば女王。
女王に対して不遜な言葉遣いをする事は、美学に反します」
「確かに……」
湖の携帯を取り、雪人は一人納得した。
対面しての会話とメールで口調が違う人などごまんといる。
しかし、人間『こう言う行動はしない』と言う一線は中々越えないものだ。
雪人は目の前の人間を名前も思い出せないほど自分の中で希薄な存在と認識しているが、
その特徴はある程度把握していた。
そこに、このメールの文章と一致する人物像はない。
「そもそも、この無量小路、貴女のメールアドレスを承知しておりませぬ」
「あ、そう言えば……」
近年、個人の情報と言うのは徹底して守られるようになっている。
このツアーでも、個人のメールアドレスに関しては公表しない限りは
基本的に他の参加者が知る事は出来ない。
よって、無量小路が教えられていないメールアドレスにメールを送信するのは
事実上不可能となる。
「でも、だったら何でこんなメールが?」
「実は、その件に関しまして、黒木様にご相談があり、卑しくも参上した次第です」
首を捻る雪人に、無量小路は執事のような丁寧さで頭を下げる。
妙に出来すぎのタイミングで登場したのは、偶然ではなかったようだ。
「このような怪奇なメールが出回っておりまして、恋愛サークル『コイ☆バナ』には
現在非常に多くの苦情が寄せられております。そこで、この無量小路の無実を
第三者に証明して頂きたく」
毒でも塗っていそうな白羽の矢に、雪人は眩暈を覚えた。
「……何で俺が」
「他に懇願出来る方がおりませぬ。窓霞様は既に被害者ですし」
「名前で呼ぶなっ!」
鳥肌を立てて怒る湖を宥めつつ、雪人は思案顔で天上を見上げた。
そして、一つ思い立ち、視線を下げる。
「ギブ&テイクでなら。こっちも少し困った案件抱えてるから、それに協力しろ」
「勿論です。前向きな御回答に神話級感謝を」
良くわからない感謝をされたものの、雪人は差し出された手をガシッと握った。
「ちょっ、ちょっと! どう言う事なのよ!」
それに不満を唱える湖に対し、雪人は顔を近付ける。
「毒は毒で制す、って言うしな。宇佐美さんのストーカー問題解決に協力して貰おうと思って」
「ストーカー問題?」
色々説明。
「それじゃ仕方ないか。って言うか私も協力する。ストーカーなんて女の敵、野放しには
出来ないもんね」
右拳で左掌を叩き、湖はやる気を見せていた。
「お前、良い奴だな」
「あんたもね。下心抜きだったらの話だけど」
「美しい話です。この無量小路、僭越ながら感動致しましたぞ」
なし崩しの内に話は綺麗にまとまった。
そしてその結果、今から雪人がサークルの部室へ赴いて潔白を証明し、明日に
雪人の抱えている問題への協力をして貰う事となった。
「じゃ、用意する物があるから一端自宅に戻るな。1時間後、全員ここで落ち合うって事で」
「って言うか……私も? こっちには協力する気ないんだけど」
「そっちの問題は解決したし、どうせ暇だろ。付き合ってくれよ」
雪人にとって、苦情を寄せる連中への対処は特に問題ではなかったが、
変態が部長を務めるサークルに一人で参上するのは忍びなかった。
ブツブツ言いつつも了承する湖に心中で感謝を述べつつ、一度離散。
そして、1時間後――――
「では、お二方ともこちらへ。そう遠くはありませんので」
紳士然とした無量小路の案内で、二人は『コイ☆バナ』の部室へと向かう。
10分ほど北へ向かって歩いたところで到達したその場所は――――
「ここ……生協じゃないの」
湖が呟いた通り、そこは生協だった。
学食と一体化しているそこは、ホールにもなっており、教科書の
販売や運転免許証の教習所の斡旋なども行われている。
実際には、このツアーの参加者は高校生が殆どなので免許証の取得は出来ないが、
リアリティ追求の為にと、数年後の予約の受付等を行っているようだ。
そんな巨大な建築物の中に、無量小路はズカズカと入って行き、2階へと上がる。
「あそこですぞ」
そして、ラーメン屋やイタリアンレストランが並ぶ2階の最も奥にある小さな部屋――――
正確には、その前で屯している連中を指して肩を竦めた。
ノーマルな格好の学生はいない。
明らかに殺気の似合う人々だ。
具体的に言うと、何故この大学体験ツアーに参加したのか不思議なくらい、
高等学習には縁のなさそうなロック系やゴシック系、或いはダラーっと着こなした
ローライズな人々が集まっている。
「……何かヤだなあ」
雪人は苦手な人種を前に頭を抱えたい心境で、一度帰宅した際に持ってきたモノを
取り出した。
「それ何?」
「ただのスーツ」
湖の白い視線をサラッと流しつつ、雪人は早々に着替えを完了させ、
彼等の前にズカズカと歩を進めた。
基本的に――――雪人は物怖じをする性格ではない。
その為、被害者の一人が鋭い目付きで近付いて来ても、然程動揺はせず、
静かに手を上げて接近を制した。
こう言う場合、冷静な対応をされるといきり立つ者が多い一方、取り敢えず第一声を
待とうと言う空気が生まれる。
「ツアー主催社の依頼で調査に参りました。お手数ですが、状況を教えて頂けないでしょうか」
そして、その空気の中、雪人は思いっきり嘘を吐いた。
とは言え、スーツを着用している以上、バレる事はまずない。
「調査ぁ? 何大げさな事にしてんの? コイツラが脅迫メール送ってきたって
だけだろうがよ」
そんな雪人に対する第一声は、明らかに敵意を込めたものだったが、
やはり懐疑的な意見は含まれていなかった。
「オレらもいちいち。さっさと処分しろや」
ドクロのシルバーアクセをジャラジャラ言わせながら、その隣の4色の頭の男も
疑う様子はない。
それを確認し、雪人は言葉を編んだ。
「お怒りはごもっともです。高いお金を払って参加したツアーで不快な思いをさせて
しまった事、深くお詫び申し上げます。しかし、脅迫メールは恐らくこのサークルの
送信したものではありません」
「ハァ!? 何言ってんのお前」
「差出人を匿名にして、本文で名前を打つというのは、典型的な『なりすまし』の
手口です。もし本当に脅しのメールなら、こう言う手段を取る意味がありません」
理路整然とした雪人の説明に、凄んでいた2人は――――特に表情を変えなかった。
「知らねえよ! そんな事ぁ! こいつの名前で送ってんだから、こいつが
送ったに決まってんだろ!」
そして、全く脳ミソを使った形跡が見られない反論で怒鳴る。
考えて物を言う意思がないらしい。
或いは、単に暴れたいだけかもしれない。
雪人は嘆息しそうなのを堪え、もっと単純でもっとわかり易い証拠を
提示する事にした。
「では、皆さんの元に送られたアドレスを教えてください。私がそのアドレスに
空メールを送ってみます。もしこのサークルが送信したのであれば、彼等の携帯か
この部室にあるパソコン、どちらかに送信されるでしょう」
雪人の言葉に、被害者集団は――――いずれも顔を見合わせ、納得したように
表情を変えていた。
実際には、こんな方法で無実を証明する事は出来ない。
普通、嫌がらせのメールを送る際には捨てアドを使用する。
フリーメールなどを利用すれば簡単に入手可能だからだ。
しかし、単純な彼等はそれにすら気付く気配がなく、雪人にあっさりと
脅迫メールの送信先を教えた。
そしてその後は流れ作業。
脅迫メールの送信先のアドレスに空メールを送り、無量小路をはじめとしたサークルの
面々の携帯電話及び中のパソコン(1台)をチェックする。
結果、当然のように雪人の送信したメールは何処にも届いていなかった。
ちなみに、雪人もフリーメールで送信しているので、フィッシング詐欺等の
実害を受ける可能性は殆どない。
「これで、彼等の無実は証明されました。今回の件はもっと念入りに調査しますので、
もしまたメールが届くようなら、ツアー主催社に直接お知らせして頂くと助かります。
状況に応じて対応しますので。もしかしたらお勉強させて頂く事も……」
「マジかよ。仕方ねぇな。帰っか」
お勉強、と言う言葉に満足したのか、被害者の会はゾロゾロと引き上げて行った。
無論、全て嘘。
ただし、これで連中が『コイ☆バナ』に苦情を言いに来る事はなくなるだろう。
「い、良いの? もし嘘ってバレたら、あんたが詰め寄られるんじゃ……」
「私服来てれば気付かないよ。あいつ等の頭の中に、俺が学生だって言う認識はない」
実際、人間が何かを覚える際、先入観がかなり大きな影響を与える。
一度しか会った事のない人間であれば、尚更それが物を言う。
雪人はその心理傾向を計算し、堂々と対面していたのだ。
「……いや、感服です。やはりこの無量小路の目に狂いはありませんでした」
さめざめと感動する無量小路に嘆息しつつ、雪人は改めてサークルの部室に
視線を向けた。
かなり部屋は狭く、広さは6畳程度。
そこに無量小路を含め、3人の部員がいる。
実は、その全員に雪人は見覚えがあった。
「あの……先日はご招待ありがとうございました」
その中の一人――――水野と言う女性が、深々と頭を下げる。
女子ばかりの大山研究室の中の一人で、保育士のお嬢様タイプの女性だった。
「いえ、こちらこそ調査に協力して頂いて」
和やかなやり取り。
そんな中、湖のやたらジットリした視線が雪人に向けられている。
「な、何だよ」
「別に」
しかし、視線は変わらない。
「あー、あいつ等マジウザかった。何で僕等が携帯チェックされなきゃなんだよ、ったく」
そしてもう一人、童顔イケメンの布部と言う男子は悪態を吐きながら
携帯を仕舞っていた。
ちなみに、彼は被害者の会が中に入ってから終始ビビッていた。
言葉遣いは不遜だが、基本的にメンタルは弱いらしい。
「わっ!」
「ひいいいいっ!?」
雪人の突然の大声にも奇声を上げて怯える。
「なななな何すんだよテメェ! 殺すぞ!」
「悪い悪い。何か首筋に虫が留まって、驚いたんだ。わっ!」
「ひゃああああっ!?」
とても愉快だった。
「では、条約通り明日はこの無量小路が協力に馳せ参じますぞ。
何なりとお申し付け下され」
「ああ。宜しく頼むな。で、いつまでそんな目で見るんだよ」
「別に」
湖の感じ悪い発言に嘆息しつつ、雪人は恋愛サークル『コイ☆バナ』の部室を
出ようと――――したものの、鍵が閉まっていて叶わなかった。
「しかし、折角の機会ですから黒木様、是非今日は我々の活動について
話を聞いて行って下さいませ。古田様が離脱した今、副部長のポストも空いている事ですし」
「お前な……結局やってる事半脅迫じゃねーか!」
「って言うか、私もなし崩しの内に監禁されてる!?」
その結果――――2人が帰宅したのは日が沈んだ後だった。
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