8月10日(月)。
 新たな陽光が大学都市『U・A』に週の訪れを伝える。
 雪人はそれを、カーテン越しに知り、一人瞼を擦っていた。
 既にツアー参加から20日近くが経過しており、日程も約半分が消費されている。
 当然、この部屋で目覚める朝もそれだけの回数をこなしている為、徐々にでは
 あるものの、慣れが生じてきていた。
 そして、部屋の中にいる雪人以外の唯一の生命、熱帯魚ベタの『縷々』が
 この部屋に来てから6日目。
 確かに、月海の言っていた通り、飼育は非常に楽だった。
 餌をあげるだけ。
 余り生き物を飼っている実感は湧かないし、触れる事も出来ないが、
 それでも部屋の中に生命が存在している事は、少なからず空間内に活気を
 与えていた。
 何となく、話しかけてみたくなる。
「……お、おはよう、縷々」
 雪人のそんな言葉に対し、当然ながら縷々は返事はしない。
 ただ、じっと見つめる雪人の視線に対し、その方向へ身体を寄せてきた。
 何らかの習性なのだろうが、その反応だけで十分楽しくはあった。
「今日もそのヒラヒラ、綺麗だぞ。病気にならないように元気に泳げよ」
 思わず言葉にも熱が篭る。
 そして、小さい水槽を撫でるように触れ、登校の準備を行う。
 本日から『パイロット・トレード』期間。
 雪人は特に移籍希望は無いので、余り関係ないと踏んでいる。
 そして、気楽な気分のままにアパートの一室を出て――――
「……」
 その隣の扉の前に、月海がいる事に気付く。
 佇まいは相変わらず、何処か儚げだ。
「あ、おはよう。今から大学?」
「はい」
 最小限の返事と共に、どちらとも無く歩を進める。
 特に言及無く、連なって階段を下り、そのまま並行。
 雪人は何処となくこそばゆい気分で、隣人の空気を感じていた。
「あの」
 そんな中、突然月海が口を開く。
 能動的に話し掛けて来るのは珍しい事だった。
「ん、何?」
「縷々を可愛がってくれているみたいで……ありがとうございます」
「え? あ、ああ……あああ!?」
 最初は意味がわからず。
 次は何となく。
 そして、最終的には月海がそう判断した理由を理解し、雪人は急速に
 顔面を真っ赤にして身悶えた。
 つまり、あの魚との会話は、壁越しに筒抜けになっていたと言う事だ。
 声のボリュームを上げた事が敗因だ。
「ああ、あれはその……」
「?」
 しかし、月海の表情に茶化したり訝しがったりと言った色は全く見られない。
 下手に弁解しても無意味だと悟り、雪人は冷や汗を拭いながら苦笑した。
 他に出来るのは、話題転換しかない。
「そ、それはそうと。えーと、吉原は何処かに移籍したりとか考えてるの?」
 自分がお隣さんをどう呼んでいたかを一瞬忘れるくらいの動揺ぶりを
 披露しつつ、何気なくそんな事を聞く。
 すると――――
「はい。大友研究室への移籍を志願する予定です」
 思ってもいない返答。
 雪人は思わず首を捻挫する勢いで捻った。
「え? ウチに? 何で?」
「今の研究室だと、余り自分のやりたい事を出来ないので」
 淡々と語る。
 自分のやりたい事――――この大学体験ツアーにおいては、殆どの参加者は
 体験そのものをそれとする。
 その為、具体的にあれをしたい、これをしたいと言うよりは、雰囲気を
 味わう事で目的を達成したと認識し、後は遊び惚けている連中が多い。
 そんな中で、月海は確かな目的を有しているようだ。
「やりたい事。ウチの研究室でそれが出来るって事?」
「はい。私はこの島の川や海を調べたいんです」
「成程。納得した」
 水質調査は、水理学よりもフィールドワークの範疇。
 月海にとって、移籍システムの施行は僥倖だったと言う事だ。
「ただ、色々複雑みたいなので、円滑に移れるかどうかはわかりません」
「みたいだね」
 今回の『パイロット・トレード』と呼ばれる移籍のルールでは、まず
 その動機が妥当かどうかの審査が行われる。
 そして、その上で移籍希望している研究室から誰かが出て行く事を希望
 しなければ、原則として移籍は成立しない。
 ただ、例外として教授が一名のみをトレードする事が出来るので、もし大友教授が
 現在の研究員のメンバーの中から誰か一人を指名し、月海と交換したいと言えば、
 それで移籍は成立する。
 つまり、空きが出るのを待つか、教授の判断で招き入れて貰うかの2通りの
 方法があると言う事だ。
「……ま、もし誰も空きが出なかったら、俺が何処かに行くよ」
 それを踏まえた上で、雪人はそんな事を口にした。
 実際、移籍する意思はないものの、留まる強い動機もない。
 それなら、少なくとも確かな理由の元に大友研究室に入りたいと願っている
 月海が優先されるべきと言う考えは、ごく自然に発生したものだった。
「それは……駄目です」
「遠慮しなくても良いって。別に俺がいてもいなくても今やってる事には
 大勢に影響ないし。それに、俺は別にあの研究室じゃなくても……」
「駄目です。黒木さんがいないと駄目です」
 決して口調は強くなかったが――――
「え?」
 雪人が思わず赤面してしまうような、そんな言葉を月海は発していた。
「あ……いえ、その」
 そして、伝染するかのように月海の耳と頬も赤く染まる。
「誰かを押し退けてまで入ると、後で雰囲気が悪くなると言うか、居心地が
 悪くなるかもしれませんから」
「あ、ああ! そう言う事か!」
 今度は羞恥による赤面。
 色々と忙しい感情の揺れに、地震でも起きたかのような錯覚を感じる。
「地震だーーーっ! 退避しろーーー!」
 本当に地震だった!
「え!? 嘘!?」
「黒木さん、こっちへ」
 揺れはそれ程大きくないが、地震と言う非日常そのものが、歩行者の
 判断力と行動力を大きく狂わせ、周囲は軽いパニック状態。
 その中で、月海は冷静にその場からの移動を促していた。
 地震の際は、指定されている避難場所へと向かうのが正しい行動。
 しかし、道路を跨ぐのはかなり危険だ。
 まずは頭上やその周囲に何かないかを確認し、なければその場で待機、
 あれば開けた場所へ移動するのが鉄則。
 雪人達の直ぐ傍には電柱があった。
「足元気を付けて下さ……っ!」
「危ねっ!」
 しかし、やはり動揺は隠せない。
 自分で喚起した注意とは裏腹に、月海はバランスを崩し、転倒――――
 しそうになったところを、雪人が強引に身体を寄せてそのまま
 地面へと雪崩れ込む形になった。
 お互いの身体がクッションの役割を果たした為、大きな負傷もなく、
 そのまま伏せた形で揺れが収まるのを待ち――――約30秒後、大地は
 静寂を取り戻した。
「……ふー」
 雪人の口から、思わず安堵の溜息が漏れる。
 普段、体感出来る程の地震は殆ど起こらない地域で生活している事もあり、
 地震と言うイベントには耐性が余りなかった。
「大丈夫か? 吉原」
「はい。ありがとうございました」
 結果的には綺麗に助けられなかったものの、雪人は照れ臭げに頷き、
 伏せたままの月海に手を差し出す。
 そして、握られた手の温度を感じつつ、少し強めに引っ張り上げた。
「ったく、こんな朝っぱらから……」
「ねえ。朝っぱらから、お熱い事で」
 突然。
 視線を下げていた雪人の真横から、そんな声が聞こえて来る。
 まるで直下型大地震の如く、鼓膜が揺れた。
「いやいや、ゆっきーってば、こんな公衆の面前で堂々と女の子を
 押し倒してるんだもん。いやいや、いやいや」
 呼称以前に、既に毎日聞いているその声に反応し、雪人は弾けるように
 立ち上がった。
 当然、視界に入るのは香莉。
 少し髪を乱したまま、黒目を点にして含み笑いに興じている。
「いや、ちょっと待って下さいよ谷口先輩。今のあの
 状況でその冷やかしはないですよ」
「いやいや、あんな状況だからこそ本性が顔を出すんじゃなくて?
 黒木後輩」
「いやいやいや。あんな切羽詰った場面で下心とかどうやって捻り出すのか
 むしろご指導頂きたいぐらいですって、谷口先輩」
「いやいやいやいや。多分今のは震度3くらいだしー? そんな、大げさに
 地面に倒れ込む程の事じゃないと思いませんかウフッフー」
 周囲が地震への感想で喧騒を作る中、何故かこの一体だけは全く異なる
 ベクトルの言い争いが勃発していた。
「ちなみに、直ぐ近くにゆいゆいもいるんだよねー。ショックよね、
 従兄が公衆の面前で女子を押し倒した、なんて知ったら。グレるかもよ?
 あ、そう言えば私今日いつも朝に飲んでる『エスプレッソ フラペチーノ』
 今日飲み忘れちゃったー、ウッカリさん♪」
「……スタバまであんのか、ここ」
 下手に交渉を長引かせると、一生引きずりかねない傷になると判断し、
 雪人は500円玉を財布から取り出し、投げ付けるように香莉の掌に置く。
「流石ゆっきー男前! でも、私はベンティ派なのよね」
「だああっ! 持ってけドロボー!」
 更に100円追加。
「気風の良い男は持てるにょん。んじゃねー」
 600円の徴収を終えた香莉は鼻歌交じりに街の中へと消えていった。
 そしてその10秒後、雪人の傍に本当に結衣が現れる。
「……ゆき、大丈夫だった?」
「ああ。そっちは怪我してないか?」
「うん。平気……あ」
 そして、直ぐに雪人の隣にいる月海に気付く。
「……」
 人見知り発動。
 雪人の陰に隠れるように、結衣は身体の位置をずらした。
「別に隠れる事ないだろ……初対面じゃないんだし」
 既に先日の新歓パーティー(と言う名目の悪ふざけ)の際に顔を合わせているが、
 それは緩和剤とはならなかったようだ。
「って言うか、それで良くあんな連中と……」
 そこまで言って、雪人は口を噤む。
 朝から色々あって、心が緩んでいたのかもしれない。
 ずっと遠慮していた事が思わず声になりそうになり、慌てて言葉を呑んだものの――――
 完全に遅かった。
「……あの人達の事、『あんな』って言わないで」
 ポツリと、そして淡々とそう呟き、結衣は影を背負う。
 そのまま、駆け足と早歩きの中間くらいのスピードで離れて行った。
「追わなくて良いんですか?」
 その様子を見ていた月海が心配そうに促すくらい、それは『危うい状況』だった。
「追う」
 当然、それを見過ごす事は出来ない。
 自身の失態を悔やみつつ、雪人は急いで後を追った。
 幸い――――それほど人の波は出来ていない。
 視界にまだ収まっていた結衣を追う事は、そう難しくはなかった。
 しかし、問題は直ぐに発生する。
「お、鳴海さんいたよ鳴海さん! チュース!」
 雪人が追い付く前に、結衣の姿を捉えた者が三人。
 それが直ぐに、以前見かけたあの『結衣と一緒にいたアゲ嬢ファッションの方々』
 だと気付く。
「さっきの地震マジビビッたっしょ? 鳴海さんチョープチってっから、
 軽くコケ入ったりしたんじゃね?」
「え、う、うん……ビックリしたね」
 そんな女子の面々を無視する訳にもいかなかったのか、結衣は立ち止まって
 笑顔で話を始めた。
 しかし、それが心からのものかどうかは、雪人には判断できない。
 子供の頃の笑顔とは違っていても、それが今の彼女の心からの笑顔じゃないと言う
 保証は何処にもないのだから。
 ただ――――1つ、たった1つ確実な事はある。
 恐らくは、結衣と彼女らは同級生。
 話し方でもそれはわかる。
 そもそも、同級生じゃければ接点は生まれないだろう。
 そして――――同級生の人間に『さん』を付けて呼ぶ場合、その殆どは
 尊敬や形式ではなく、揶揄や皮肉、或いは下から目線によるものだ。
「ちーっす」
 そんな三人に、雪人は少し声を張って挨拶した。
 同時に、結衣の目が未だかつてないほど大きくなる。
 まさか、話しかけるとは思ってもみなかったのだろう。
 実際、雪人も迷ってはいた。
 最悪、従妹の生活を根底から壊しかねない事態を引き起こす事を、
 これからしようとしているのだから。
「あ? 何だテメー。ナンパ?」
「はは、マジで? こんな朝っぱらから? ケッキサカンって感じじゃね?」
 何故かギャルはバラエティで偶に使われる、普段使われない言葉に
 チョーウケル性質がある。
 ただ、それは雪人にとってはどうでもよかった。
「ナンパじゃないけど、こいつちょっと借りて行っていい? 従妹なんだよね。
 ちょっと話があるからさ」
「あ?」
「何でウチらに聞くんだよ。勝手に持ってけ持ってけ。シラネーシ」
 予想通り――――結衣の『お友達』は、あっさりと結衣を『切り捨てた』。
 従兄、なんて寧ろ関係ない人間がその関係性を装う際の常套句。
 友達なら、男が連れて行こうとするその状況で、疑う言葉の一つくらいは向ける。
 結局、そう言う事なのだと理解するのには十分な対応ではあった。
 尤も、それを結衣は重々承知していたようで、特に深刻な顔をするでもなく、
 ただ静かに雪人と『お友達』の話を聞いていた。
「じゃ、そうさせて貰うな。結衣ちゃん、行こう」
 そして、その手を半ば強引に取り、退場。
 後ろでは、冷やかしの声が上がる。
 不快な音は、自然と耳の奥にまで届くもので、実際雪人は苛々する感情を
 胸の奥で必死に抑えていた。
 尤も、自分のしている事が正しい事とも思えなかったし、意味のある行動とも
 讃えられなかったので、その怒りの半分は自分自身に向かっていた。
「ゆき、痛い」
「あ……ゴメン」
 200m程離れた時点で、結衣はようやく自己主張をした。
 そこで立ち止まり、直ぐ傍にあった公園のベンチに座る。
 地震があったからなのか、元々なのか、公園の中には誰もいない。
 静寂の中、雪人は静かに待った。
 次の一言は、結衣が発するべきだと思いつつ、ゆっくりと待った。
 そこでもし、責められるようなら――――
「無理、してると思ってる?」
 しかし、詰られるような言葉ではなかった。
 沈黙時間は3分ほど。
 意外に早かった最初の一言は、そんな優しい疑問だった。
 とても会話に入りやすい、優しい前句。
「正直、かなり」
 それは単に、結衣とあの女子の風貌や話し方が全く異なる事だけではない。
 先程の『あんな』と言う失言の際に確信していた。
 友達をそんな風に言われれば、怒る。
 それは当たり前の事。
 でも、逃げ出す必要は何処にもない。
 自分の中で、葛藤や迷いがなければ。
「あんまりこんな事言えた義理でもないけど……友達は選んだ方が良いんじゃないか?」
 もし、先程の場面で、雪人に対してあの女子達が一言でも『嘘だろ?』と言えば、
 こんな事は本当に言う必要はなかった。
 だが、既に雪人の中に結論は生まれている。
『真面目ぶったクラスメートを茶化して遊んでいる』
 それが、『鳴海さん』と言う呼称に現れていた。
 少なくとも、そう言う呼び方を友達に対して行うようなタイプの連中ではないのだから。
「そんな風に言わないで」
 でも、やはり結衣は先程と同じように、そう答えた。
 決して雪人を責めるような口調ではなく、穏やかに。
 ムキにならず、ただ淡々と。
 何より、それが引っかかっていた。
「あのね。私……記憶がないんだ」
 刹那――――結衣はそう告白する。
 それは全く予想だにしない、まるで水族館の水槽の中からライオンが出てきた
 かのように、一種異質な発言だった。
「記憶……喪失って事?」
「うん。ゆきの事は覚えてるよ。でも、はっきりとじゃなくて、ちょっとだけ」
「それって、印象薄くて忘れた、って事じゃなくて?」
 雪人の言葉に、結衣は小さく首を横へと振る。
「若年性アルツハイマー、に近いんだけど、ちょっと違うってお医者さんは言ってた。
 少しずつ忘れていくんじゃなくて、ポツポツって記憶が零れるみたいに
 無くなっていったの」
「……」
 雪人は言葉を出せず、ただ結衣の告白を聞いていた。
 記憶が零れる。
 それは、普通ならそう珍しい事じゃない。
 誰だって、物忘れくらいはする。
 ただ、両親が医者に診せに行って、そこで『若年性アルツハイマー』と言う病名が
 出ている時点で、単なる健忘と言う訳ではない事がわかる。
「絵の具で書いた絵に、水滴を落としていくような感じ、って言われた。
 良くわからないけど……勉強とか、日常生活の事とか、偶にすごく簡単な事も
 わすれちゃうんだ」
 心当たりは、あった。
『せきがいせん』
 雪人はそれを思い出し、思わず眉間に皺を寄せる。
 そう。
 あんなギャルのような連中と少なからず交流があるのに、赤外線通信を
 知らない訳がなかった。
 知らなかったんじゃない。
 忘れてしまっていたんだ。
「だから、ずっとお友達が出来なかった。『何でこんな事忘れるの?』『何で?』って
 言われて。でも、あの人達は『何で?』って聞かないの」
「……そっか」
 そして、辿り着いた結論は――――自分の行動は半分正しくて、半分浅はかだったと
 言うものだった。
 記憶障害によって友達が著しく作り難い状況に陥っている結衣は、最も楽な、
 そして最も浅い人付き合いを選ばざるを得なかった。
 その結果が、彼女達だったと言う事だ。
「でもな、それでも……友達は選ぶべきだと思うぞ」
「……」
 そういう病気だと、伝える事の出来る友達。
 高校生となった中で新たに見つけるのは、決して簡単ではないだろう。
 それでも、だからこそ。
 その雪人の言葉は、理想を求めて現実を見ていないものではなく、自分自身が
『フラッシュバック症候群』と言う不明瞭なものを背負っているからこその
 実感の篭ったものだった。
「あと、ゴメンな」
「……何で謝るの?」
「今まで、少し取っ付き難いって思ってて」
 笑いながら。
 でないと、本当にそう思っていたと思われてしまうから。
「もう……」
 結衣は、少しだけ笑っていた。
 これが、まだ何の解決にも繋がらない笑顔だとしても。
 取り敢えず、雪人は安心していた。






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