雪人と結衣が研究室に赴くと、そこには既にそれ以外の全員+香莉がいた。
 その香莉だけ、部外者と言う事もあってご機嫌麗しゅうと言う顔でエスプレッソを
 ストローでコクコクと飲み干しているが、それ以外の面々の表情は硬い。
「教授は?」
 雪人の言葉に、宇佐美嬢が視線を隣の部屋と連なる壁に向ける。
 自室にいるらしい。
「昨日の段階でのトレード志願者の数が今しがたアップデートされたらしくて、
 プリントアウトしてるところです」
「つまり、この研究室に来たい人がいるかどうかわかる、って事よね」
 香莉の言葉に、一人過剰に反応を示したのは、やはり白石だった。
 しかし特に何も発言はせず、じっとソファーに腰掛けている。
 そして、そのまま時間が過ぎ、10分後――――
「お待たせ。結果出たよ」
 数枚の書類を手に、大友教授が隣の部屋から扉を開く。
 そして、全員が注目する中、徐に口を開いた。
「この研究室へ他所からの移籍を希望している人は……5人」
「5人?」
 思わず、雪人は声を上げた。
 かなり意外な人数。
 当初の振り分けの際にたった4人しか希望しなかったこの研究室に、
 たった3日でその人数を超える希望者が現れたと言う事になる。
「おー! 凄いじゃないですか教授! よっ、人気者!」
 場違いな拍手が香莉の手によって生まれる中、他の当事者となる
 研究室の面々の顔色は冴えない。
 原則として、現在の各研究室の人員数は変わらない為、誰かが
 他所への移籍を志願していない限り、入れ替えは行われない。
 だから、幾ら志願者がいても、本来ならば特に問題はないのだが――――
「大友教授……教授は、この中の誰かを移籍させる予定はおありになるのでしょうか?」
 そう。
 白石が今恐る恐る尋ねた点が、問題だ。
 教授は一名までなら、志願者と現在所属している生徒との交換を行う権限を持っている。
 審査が行われるので、正当な理由こそ必要だが、所属中の生徒の意思に関係なく
 それは施行出来る。
 望んでこの研究室に配属された人間にとっては、この上ない恐怖だ。
 特に、白石にとっては。
 自身が尊敬している教授から『要らない』と言われる事に等しいのだから。
「うーん……」
 大友教授の口からは、何処か緊張感が欠如した呻き声しか聞こえない。
 その反応に、白石は勿論、部外者一名を除く女性陣も不安そうにしていた。
「まあ、それは暫く考えるよ。君達も、他の研究室に移りたいと思ったら
 遠慮なく申し出てね」
 結局、具体的な返答はなく、白石は顔色が悪いまま項垂れてしまった。
「それと、先週行って貰った調査だけど、うん、とても良く出来てたよ。
 ありがとう。報告書も綺麗にまとまってた。最初にしては上出来、上出来」
 そんな重い空気の中、大友教授は課題となっていた他所の研究室に関する
 フィールドワークに対し、高評価を与えた事実を口にした。
 つまり――――出来が悪いから強制移籍をさせる、と言う事はないと言う
 事実上の通達だった。
「そ、そうですか! 良かった……本当に良かった」
 白石の顔に、今度は露骨なくらいの安堵が浮かぶ。
 喜怒哀楽の表現が激しいと言うより、情緒不安定に近い。
「で、今週からはパイロット・トレードも重なって来てちょっと活動が
 し難い状況になるから、基本的には自由行動で構わない事にする。
 一応、幾つか活動方針って言うか、僕の研究室でやって貰いたい事
 ここに書いてるから、目を通してみてくれると有り難い」
 そう唱えつつ、大友教授は一枚の紙をテーブルの真ん中に置いた。
「実際、大学の研究室に配属されると、一年かけて研究して卒論を
 書いていくんだけど、その時にも最初それぞれにテーマを決めるんだ。
 その予行練習のつもりで、実際に卒論を書くくらいの気持ちで決めてみてよ。
 決まったら僕の所へ持って来て。その後に個別に色々お話するから」
 ニッコリ笑い、大友教授は隣の自室へ戻って行った。
 つまり、これからは本当の大学の研究室っぽい活動をして行くと言う事だ。
「テーマ、か……」
 雪人は用意された紙に視線を向ける。
 そこには、3つの例が記されていた。

『閉鎖空間における心理変化の研究』
『経済学と地域振興の相乗効果』
『離島における自然と生態系の関係』

「小難しいタイトルばっかねえ……ゆっきー、どうすんの?」
 いきなり話を振られた雪人は、香莉に視線を向け、小さく肩を
 竦めてみせる。
「いきなりテーマを考えろ、って言われてもなあ。ま、考えるしか
 ないんだけど。そう言えば香莉さん、大卒?」
「まあね〜。短大だけど。ちなみに短大にもゼミやら卒論やらは
 あるトコはあるよん。そして私も経験者!」
 ビシィッ、と天を指差して偉そうに吼える。
 しかし、ある意味ここに来て初めて放った意義のある香莉の発言に、
 雪人だけでなく結衣も顔を上げて驚きの表情を作っていた。
「……何? 私が大卒で意外だっての?」
「その是非は兎も角、経験者ならヒントくらい下さいな」
「いーや、そこ重要! 場合によっちゃ、私ヘソ曲げてヒントなんて
 やんないつもりだからね!」
「自分でヘソ曲げるって言う人も相当珍しいですよ」
「やかましいやい。で、ゆいゆい? どうなの」
「あ……」
 目敏く結衣の顔を見ていたらしく、肉食動物のような目をして問う。
「えと……現役の大学生みたいに見えます」
「ホントに?」
 コクリ、と結衣は頷く。
「よし、宜しい。ゆっきー、イトコの見る目に救われたね」
「はあ……」
 良くわからない駆け引きはおべっかにて終了。
 雪人は視線を結衣に送り、目だけで『ご苦労』のサインを送る。
「……うん」
 通じた。
 意外な事に。
「まー、卒論なんてのはさ、テキトーでも結構通用するもんなのよね。
 テーマだって、結構ぶっ飛んだ所から持ってきても案外OK出るもんだし。
 駄目だったら、また考えればいいし。まずは自分の取り組みたい事を
 固めてみればいいんでない?」
「そうですね。それが一番良いかもしれません」
 意外とまともな助言を発した香莉の隣で、宇佐美嬢もウンウンと頷く。
「って言うか、宇佐美さんも大卒?」
「はい。同じ大学の同級生なので」
 それならそうと早く――――と言う言葉は、トラの様な香莉の目を
 敏感に感じた雪人の洞察力によって呑み込まれた。
 同条件なら宇佐美嬢に聞く方がよっぽど良い、と言う意図を先読みされたらしい。
「ま、まあ経験者が2人もいるってのは色々助かるよな。
 じゃ、今日はテーマを各自で考えて、夕方の5時までに提出って事にしよう。
 それで良い?」
「私は構いません」
「……私も」
 女性2名は、雪人の提案に合意した。
 しかし、残る一人――――白石からは、その声は聞かれない。
「白石。何か問題があるのか?」
「……僕は、これから個人行動を取りたい。テーマの決定も、今後の活動も、
 全て自分一人で行う。教授へは個人で提出する旨を伝えておく。了承願いたい」
 突然の、離別宣言。
 思わず雪人は周囲の面々を見渡す。
 皆、一様に『別に……』と言う顔だった。
「こう言っては何だけど、僕と君達とでは、モチベーションが違い過ぎると思うんだ。
 知識も、熱意も何もかもが違うしね。だから、合同での行動には限界があると……」
「あー、もう良いもう良い。わかったから。好きにやって良いよ」
 誰も特に白石の説明に興味がないと判断し、雪人は代表する形でその案を可決した。
 実際、内容の端々に見下した言葉があった時点で、これ以上の接触は百害あって
 一利なしと判断したからと言うのもあった。
「……ああ。そうするよ」
 斯くして、白石は一人研究室を出て行った。
 妙に重い空気が研究室内に漂う。
 そんな中、一人半眼で扉の方を眺めていた香莉が、小さく嘆息して腰を上げた。
「アイツ……自分が飛ばされないように、スタンドプレイに出るつもりみたいね」
「教授の『一名だけトレードが出来る』って言う権限に引っかからない為?」
「そ。アンタ等といたら、一人だけ浮いてるし、分が悪いと思ったのかもね。
 ま、仕切りたがりに限って協調性がないってのは、どこの世界でも一緒って事よ」
 蔑みの言葉を吐き、香莉も研究室から出て行った。
「……香莉さん、白石にだけはやけに突っかかるって言うか、厳しいな」
「そうですね。香莉はああ言うタイプが苦手だから」
 苦笑しつつ、宇佐美嬢も席を立つ。
「取り敢えず、私は5時にはここに戻ります。それまでにはテーマを決めておきますから」
「了解。何かあったら携帯にかけてよ。あ、番号は言ってなかったっけ」
 テーブルの紙の一枚を小さく破き、そこに番号を書く。
「番号知られたくなかったら、公衆電話や公共の電話からで良いから」
「そんな事ありませんよ。では、貰っておきますね」
 笑顔でその紙切れを受け取り、宇佐美嬢も部室を出て行く。
 残ったのは、雪人と結衣の2人だけとなった。
 消極的な従妹が話しかけてくるのを待つのは無謀と知っているので、
 先に話題を提供する。
「結衣ちゃんは、何をテーマにするか、考えとかある?」
「うん」
 意外にも、肯定の言葉が返って来た。
「へー、どんな事?」
「建物、調べたい」
「建物? この研究棟とか、施設とかを?」
「うん」
 コクリ、と屈託なく頷く。
「そっか。それじゃ、5時までにタイトルが決まったら、ここに来るか
 電話で教えるかしてくれな」
「わかった。電話する」
 結衣は、静かな眼差しを雪人に向け、また一つ首肯した。
 そしてそのまま、ジッと見つめ続ける。
「な、何?」
「……」
 不思議に思う雪人を尻目に、そのまま視線は固定され続けた。
 5秒。
 10秒。
 時の経過が重く雪人に圧し掛かる。
 それでも、結衣に動きはなかった。
 全く意図が読めず、雪人は硬直したまま動けない。
 そして――――
「今日は、ありがと」
 約20秒ほどの熱視線の果てに、結衣はそんな言葉を残して立ち上がった。
「え?」
「それじゃ、電話するね」
 そして、まるで逃げるように出て行く。
 お礼を言おうとして、でも言えなくて、その結果長時間見つめていた――――
 と言う雰囲気ではなかった。 
 それなら、言葉と同時に気恥ずかしさが滲み出た筈。
 結衣の表情には、そんな色は微塵もなかった。
 今のは、一体――――
「黒木君、いる?」
 そんな混乱の最中、雪人の耳に隣の壁越しのくぐもった声が届く。
「はい。俺だけ残ってますけど」
「なら、ちょっと御足労お願い」
 言われるがまま、隣へ赴く。
「扉、閉めておいて」
「あ、はい」
 そして、電気の付いた教授室で入り口の扉を閉め、大友教授の座る
 中央奥のデスクの傍に足を運んだ。
 机の上には、何種類かの栄養ドリンクのビンがボーリングのピンのように
 並べて置かれている。
「栄養ドリンク、好きなんですか?」
 思わず、雪人はそう尋ねずにはいられなかった。
 中年男性が栄養ドリンクを愛飲するのは、全く珍しい事ではない。
 ただ、同時期に複数の種類のドリンクを飲むケースは、珍しい。
 通常は、ケース買いするか同じ物を買って飲む。
「この酸味が癖になってね。コーヒーよりこっちが良いんだよ」
「わかります。ええ、わかりますとも」
 妙なところで、雪人は人生初の共感を得た。
「で。君への頼みって言うのはね……アルバイトを頼まれて欲しいんだ」
「アルバイト、ですか?」
「そう。勿論アルバイトだから報酬は出るよ。少々時間帯が特殊だから
 結構割高の時給になるけど、どうかな?」
「詳細を聞きましょう」
 懐に余裕のない状況を踏まえ、雪人は前向きな姿勢をとった。
「うん。実は、警備員のアルバイトなんだけどね。大手の事務所に依頼すると
 相当な額がかかるってんで、ツアーの主催者側が従業員にやらせてたんだけど、
 ちょっと人員不足になったみたいで、男の参加者の中から一人手配して欲しいって
 メールが届いてさ。時間帯は、20時〜5時。深夜だね。時給は1500円」
「1500円」
 内容や時間帯より、その額にまずインパクトがあった。
 この額は、平均的な警備員のアルバイトの時給よりはかなり高い。
 通常は、都会でも1200円が限度。
 あるいは日給12000円と言ったところだ。
 田舎の場合は、時給800円、日給8000円程度の場合も多い。
 20時〜5時なら、9時間と言う事になる。
 つまり、日給13500円。
 この離島で行われるバイトとしては破格だ。
 ただ、ネックは時間帯。
 当然、本来睡眠をとるべき時間が犠牲になる。
「ま、午前中の講義への出席は難しくなるだろうね」
 大友教授の言葉通り、5時に仕事を終えて家に帰るとなると、寝るのは
 早くて6時。
 正午あたりの起床となってしまう。
「……やりましょう」 
 それでも、時給1500円は美味しいと判断し、雪人は受ける事にした。
「助かるよ。じゃ、OKの返信メール送っておくね。
 もし泊り込みたい時は、この研究室を使うといい。
 あ、出来れば今日からお願い。そうだね、テーマの提出は何時頃になるかい?」
「夕方の5時の予定です」
「ああ、それならその時に説明とか手続きとか、その他諸々の事をまとめてしよう。
 履歴書だけ用意しておいて。コンビニとかに売ってるから。お金がないなら
 アルバイト代の前貸しにしておくけど?」
「あ、大丈夫です。それくらいならある……筈」
 慌てて財布を確認すると、一応小銭だけでなく紙幣もあった。
「それじゃ、また5時に来ます」
「うん。頼んだよ」
 斯くして、アルバイト成立。
 妙なタイミングで仕事を得た雪人は、活動テーマの事よりも
 警備員と言う仕事に思考を向けつつ、研究室を出た。






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