8月12日(水)。
雪人が目覚めた時間は、ちょうど正午だった。
12時ジャスト。
なんとなく、『道端を歩いてたら何らかの鍵が落ちていた』時のような
奇妙な感覚を抱く。
その鍵が自分の利となる可能性は皆無に等しい。
でも、その鍵が何処かの家の物で、この鍵を自分が拾う事でその持ち主は
盗難の心配をして、家の鍵を大金をかけて替えるのかもしれない。
或いは、自動車の鍵で、それがなくなった事で鍵穴から鍵の複製をして貰い、
やはり大金を無駄にするのかもしれない。
でも、それは自分には一切関係のないお金。
そんな想像をしながら、落ちている鍵をそのままに歩き過ぎて行く、あの感覚。
起きた時間が丁度12時である事に、一切の利はない。
だが、その12時と言う時間に起きた事に、今日は運が良いとか、なにか特別な事が
待っているんじゃないか、と言う想像が膨らむ。
けど結局は何もなく、その日をいつもと同じように過ごして行く――――
雪人はそんな感覚の中で、登校の準備を始めた。
警備員のアルバイトをすると言う事で、結果的に午前中の講義は諦めなくては
ならなくなったが、顔を出してみたい講義に関しては既に絞込みを行っており、
午前中に行われたものの中にはせいぜい一つくらいしかなかった。
そもそも、このツアーにおいて講義の持つ意味はあくまでも体験入部的なもの。
無理して出席する必要はないし、そこまで興味を引く講義は数えるほどしかない。
そしてこの水曜日は、先週も先々週も特に講義に出た記憶がない。
実際、プログラムを確認しても、出ようと思う講義は特になかった。
(取り敢えず、研究室にでも行くか)
大友研究室に正式に加入して、今日で丁度2週間。
そう言う考えが浮かぶ事に、妙な感覚を抱きつつ、買い溜めておいた朝食用の
栄養ドリンクを――――取ろうとして、切れている事に気付いた。
雪人の一日は栄養ドリンクで始まる。
それがないと調子が出ない。
実際には、そこまでの即効性はないと言う事は知りつつも、習慣として根付いている
行動を取れないのは何処か不満を覚えるもので、登校中に薬局へ向かう事にした。
何故、雪人が栄養ドリンクにここまで拘るのか。
実は――――雪人自身にも、はっきりとはわかっていない。
味が好きというのは確かにある。
酸味と甘みの程よい加減。
それがベースとなり、それでいて各会社の独特の味が堪能できる。
かなり甘さを重視した、ジュース感覚で飲めるドリンクもあれば、
渋みが強く、飲むだけでフレッシュな気分になれるものもあるし、
何処か漢方のような、その味を舌が感じるだけで健康になれそうな
テイストのものもある。
味のバリエーションと言う意味では、様々な会社がブランドを出している
缶コーヒーすら越えるかもしれない。
実は栄養ドリンクは、即席飲料の王だったりする訳だ。
しかしながら、それだけが目的ではない。
雪人は、自分の中でそれを飲む事によって安心できる何かがあると自覚していた。
その『ナニカ』はわからない。
あえて言えば、記憶。
とは言え、エピソード記憶じゃない。
飲む事で、自分の中の記憶が満たされる。
不思議な表現だが、これが一番しっくりくると言う感覚はあった。
だから、今日もそのダークブラウンのビンに手を伸ばす。
この日の気分は、ややサッパリ感が強いものの、全体的には
飲みやすい薄味のチオビタドリンク。
手に取り、レジへ向かう。
「……え?」
そのレジで先に並んでいた人物に、雪人は見覚えがあった。
二つのお下げがトレードマーク。
湖窓霞だった。
このツアーに参加する前に出会い、船上で再会を果たした女の子。
その同年代の女子が、薬局のレジカウンターの前で手にしていた物は――――
「きゃー! きゃー! ぎゃーーーーーっ!」
悲鳴によってかき消された。
「お、お客様!? いけない、お客様の一大事! この【ドラッグライブ】に
勤めて3年目の正社員、星空いずみがお客様を介抱します! ここが痛いですかーーーっ!?」
「痛ーーーーーっ!」
そして、湖は錯乱した従業員にアイアンクローのようなものを食らっていた。
「頭痛ですっ! 突然の頭痛ですねっ! それならコレ! ヘデクパウダー!」
「んんん〜〜〜〜っ!?」
そして、湖は狂乱の従業員に無理矢理、歴史ある由緒正しい薬を飲まされていた。
「ななな、何すんのよこのーっ!」
「こ、こらーーーっ!? キサマ何をやっとるかーーーっ! す、すいませんお客様!
コイツは本当ダメな奴でして……テメェいつになったら安定した接客が出来るんだコラ!?」
「は、はうーっ。すいません店長ーっ」
星空いずみさんが眉毛の濃い店長に散々叱られた後、雪人と湖はお騒がせのお詫びとして
手にしていた商品を只で貰い、薬局を出た。
太陽が真上にある、問答無用の真昼。
強い日差しを旋毛に受け、雪人は溶けそうになる頭を抱えた。
「何なんだ、今のは」
「アンタは何も被害にあってないから別に良いじゃない。私の方が吃驚よ。
いきなり薬飲まされて……」
「きっと、容姿を買って正社員にはしたものの、どうしようもないくらい使えないから
島流しにされたんだろな」
文字通りに。
「良い迷惑よ、ホントに……ハァ、何で私の周りってこう変人ばっかりなんだろ」
「今一瞬こっちを見た事、忘れないからな」
怨念にも似た言葉を吐き、雪人は徐にドリンクのキャップを捻る。
そして、少しずつ、舌の上で転がすように堪能。
テイスティングと言う訳ではない。
単純に、少ない量のドリンクを少しでも長く楽しむ為だ。
「栄養ドリンク? おじん臭ー」
「うるさいな。そう言うお前は結局何を買」
「ぎゃーっ! ぎゃーっ! ふぎゃーっ!」
またかき消された。
つまり、知られたくない物、らしい。
尤も、女性特有のそう言う用品だというのは想像に難くないので、雪人はそれ以上
聞く事は控え、登校を再開した。
「で、どーなの? そっちは。ツアー愉しんでんの?」
「ま、程々には。そっちは」
「ダメー。サークルはロクなのないし、講義は眠いし。自然はなんか雄大だし」
「最後のはよくわかんないけど……」
「だって、この前大学の中で蛇とか見たのよ? 信じられる?
どんだけ野生に近いってのよ」
実際、【青鳥大学】にはかなりの自然がそのままの形で残っている。
とは言え、それは別にここが離島だから、と言う訳ではない。
この大学都市はいずれも、都市部の大学をそのまま再現すると言うモチーフで
作られた物。
当然、この『雄大な自然』もまた、標準的な大学の装備だったりする。
それを雪人が解説すると、どんどん湖の目が細くなっていった。
「うっそだー。だって、大学よ? 大学病院っていうくらい大学よ?
もっと近代的で人工的でしょー」
「病院は関係ないと思うけど、実際そうらしいぞ。トーダイですら
敷地内は殆どが森林だそうな」
「トーダイでも!? うっそだーうっそだー!」
信じ難いという表情を影を帯びて作った湖は、その後瞑目して
眉間を押さえながら俯いた。
「なんて言うか、私の理想的な未来予想図IIがここに来て
どんどん潰れていく感じ」
「Iは何処に行ったのか敢えて聞かないとして……お前、まだサークルに
拘ってたのか」
「ま、ね。やっぱり大学って言えばサークルだし」
そのイメージの共有はできなかったが、雪人は歩を進めながら
一つの提案を頭の中に浮かべた。
「だったら、あそこに入れば? あの変態ナンパ師が立ち上げた……
名前なんて言ったっけ」
「何フザけた事言ってんのよ! アンタ私を殺す気!? 精神的に追い込んで
自殺させようとでも考えてんの!?」
物凄い剣幕で顔を近づけて来る。
雪人にとって、自分が女性と最も近付いた瞬間は、こんなとある日の
怒鳴り声と共に現れた。
「お前が言うほど変態でもないって思うんだけどな、あいつ」
「なーにそれ。ったく、男ってのはどうしてそう簡単に仲良くなるんだか……」
雪人のフォローに何かを察したのか、やさぐれた目で湖は悪態を吐いてきた。
そこで、ようやく大学の門が視界に入ってくる。
「つっても、もうそう時間残ってないぞ? どんな活動をしたいかハッキリさせて、
それに一番合うサークルを見つけるとか、自分で作るとか、何かしないと
ツアー費用の無駄遣いで終わるんじゃないか?」
特に思慮深い意見と言う訳ではなく、軽口の類で雪人はテキトーに
話していたが――――そこで湖が突然止まる。
その顔は、何処か悟りを開いたようにスッキリしていた。
「そ、それよ!」
「どれだよ」
「気に入ったのがないなら、作れば良いんじゃない!」
「世界を大いに盛り上げる為の団を?」
「は? 何言ってんのよ。サークルをよ! そっか、その手があったかー」
雪人の冗談を白い目で返し、一人ウルウルと目を潤ませる。
軽く凹みつつ、流された言葉を蹴飛ばすように、雪人は歩を進めた。
「ちょっと、何出番終わったみたいな感じ出してんの。サークル作るって
どうすればいいの? 教えなさいよ」
「知らねえよ……自分で調べろ、それくらい。俺はお前の知恵袋か」
「え……? 何で拒否するの? アンタまさか、自分が手伝わないでも良いって
何かとんでもない誤解とか勘違いをしてない?」
「どうして勘違いなんだよ! 俺はお前の執事か何かかっ!」
怒鳴りつつ、頭を抱える。
困った事に、本日は割と暇だった。
警備員の仕事は夕方から。
それまでは基本、自由時間だ。
研究も、夜じゃないと出来ない。
そう言うテーマにしてしまった以上は前倒しも不可能。
運命レベルで、手伝わないといけない流れが出来上がっていた。
「……ね、本当にダメ? 私こっち来て友達作ってないから、
協力お願いできるのアンタの外にいないし……」
何気に、厄介な告白だった。
社交性がないのか、或いは人間不信なのか。
何となく後者のように思いつつ、雪人は観念した。
「最初からそう言う態度なら、文句も言わねえのに……でも、協力出来るのは
夕方までだからな。夜はバイトだから」
「アルバイト? サークル活動よりお金大好きCMDって訳ね。どんなバイトしてんの?」
「その略に意味があるのかどうかの方が気になるんだけど……警備員だよ。
この大学敷地内の治安を守る立派なお仕事だ。時給も良い。サボれないんだ」
何となく、警備員と言う響きに不安要素を覚えた雪人は、ポジティブな要素を
幾つかあげて自己主張を試みた。
しかし――――寧ろ湖は目を輝かせていた。
「警備員!? それ良いじゃない! 決定! 私のサークルもその方向!
この大学の風紀を乱す人間を注意するサークルを立ち上げる事に決定!」
「……風紀? お前、まさか風紀委員だったとか?」
湖はコクン、と小さく頷く。
意外な事――――と雪人は一瞬捉えたが、男嫌いが嵩じて風紀委員という
流れは、別段珍しくもない。
納得しつつ、苦笑。
「アンタも入りなさいね。あ、警備員の仕事がそのまま活動ってことで良いから。
勿論、私もこれからはそこに加わるって事でOK? サークルだからお給料は
要らないけど、部費はちゃんと納めてね」
「だから何で俺の意思が基本放置されてんだよ!」
咆哮にも似た、或いは悲鳴と同種の叫び声も、まるで届かず。
雪人は夜間活動に際し、新たな仲間を得てしまった。
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