「うわ! 暗! なんで暗いのよ!」
第一声、湖は現象に向かって不平を言い出した。
余り建設的とは言えない言葉に、妙なテンションの高さを伺わせる。
明らかに、楽しそうだ。
「らーぶらーぶらぶ♪」
鼻歌など歌いだした。
何故かビートルズ。
しかし原型は留めていない。
凄く、とてつもなく、旋律がひん曲がっている。
蒼然たる下手さだった。
指摘してあげるのが親切なのか、黙っててあげるのが親切なのか、
判断に迷うくらいの。
「……ゆき」
「俺に言うな。直接本人に言え」
「そうじゃなくて。どうして夜って暗いの?」
湖の叫び声に誘発されたのか。
大学を出たところで、結衣はそんな事を雪人に聞いて来た。
夜が暗い理由。
太陽が沈むから――――等と言う回答は、実は適当ではない。
確かに、太陽は夜、地球の自転によって裏側に回る。
ただ、地球を照らす光源は、太陽ばかりではない。
そもそも、太陽だけだったら、夜の暗闇はこの程度では済まない。
一切の光を失い、何も見えなくなってしまうだろう。
では、その太陽以外の光源が、太陽ほど強い光を発していないのか――――
と言うと、それも適当ではない。
光源は夜空に瞬く星の数以上にある。
太陽に匹敵する、或いは上回る光を発している星も多数ある。
太陽が近いから、地球に与える影響が大きいと言うだけで、地球に届く光は
太陽のものばかりではない。
つまり、太陽が裏側にあっても、本来ならば明るくないとおかしい、と言う訳だ。
しかしながら、実際には夜は暗い。
この回答は――――実は、幾つかの有力な推論はあれど、明確な答えはない。
有力なのは、宇宙の現在進行形での膨張によって、太陽より遠くの星の光が
中々地球に届かない、と言うか今後も届きそうにない、と言う説。
その、友人――――周藤鷹輔に聞いた事をそのまま話すと、結衣は
僅かながら目を大きくして、驚いている様を見せた。
「ゆき、物知り博士」
「いやまあ、俺じゃなくて、俺の知り合いがそうなんだろうけど」
苦笑しながら、雪人は歩を進めた。
そして、今更ながらに思う。
自分の頭の中にある、周藤の言葉の多さ。
知識を貯蔵する事は、少なからずその知識を提供する媒体にも影響される。
テレビや雑誌を流し見して得た知識が直ぐに忘れられるのとは対照的に、
近しい人物、尊敬する人物の言葉は、いつまでも頭から離れない。
雪人にとって、周藤の存在はそれなりに大きいものだった。
友人A。
そう称するのは、或いは唯一の親友に対しての照れなのかもしれない。
フラッシュバック症候群の影響で、決して人見知りな性格ではないにも
関わらず、友人は殆ど作れていない。
そんな中で、周藤には『こいつにはこの病気がバレてもいいか』と思わせる、
懐の深さがあった。
実際には、器や懐と言うよりは、仮にその事を話しても『ああ、そうなのか』
と言う冷めた答えしか返ってこないと言う、ある種の安心感があると言うだけなのだが。
いずれにせよ、そう言う友人がいる事は、雪人の学生生活において大きな意味を持っていた。
それだけに、その友人と離れて暮らす事になるであろう大学生活には、結構不安がある。
無論、大学への進学を選択した場合、ではあるが、それは社会人になる場合も同じ。
親しい人間が誰も近くにいない状態でのリスタート。
実際、それで躓く人間も多い。
ただ、雪人はこのツアーに参加し、その懸念を多少は和らげる事が出来ていた。
一応ではあるが、ちゃんと出来ている。
知らない人ばかりの中で、強引に巻き込まれたり引っ掻き回されたりはしつつも、
適応は出来ている。
そう言う手応えはあった。
そして、そのきっかけをくれたのは――――
「あ、体育館ってあそこ?」
湖の声が、静寂に包まれる大学敷地内に響き渡る。
そう。
この、女子との出会いだった。
「ああ。ありがとう」
「? お礼言われる事でもないと思うけど……ま、いっか」
雪人の言葉は、少しばかりシチュエーション的な包み紙が巻かれていた。
そのやり取りを、結衣はじっと眺めていた。
「で、どうすんの? 機械の故障を調べるんだっけ?」
「そう。通信の問題だから、センサーの異常じゃないんだけど、こういう場合は
通信をする『本体』の状態を確認するついでに、センサーの点検も行うのがセオリーらしいから
全部点検する」
「うはー。面倒臭っ」
勝手に付いて来つつ悪態を吐く湖に、結衣が不意に視線を向ける。
その顔には、穏やかさと切迫感が混在していた。
そして――――体育館に到着。
体育大学以外の大学でも体育の授業があると言う事を知らない高校生は、意外と多い。
雪人もここに来て始めて知った。
尤も、高校までとは違い、一つの種目(主に球技)を半年間継続して行うと言う点や、
ノルマなどは特になく、取り敢えず出席さえしていれば何の問題もなく単位が
取れる点など、高校までの体育とは全く仕様は異なる。
加えて、体育館の施設としての機能も、高校よりは多様性を帯びている。
まず、広い。
サークル活動で使用する事も多い為、かなり広大なスペースを有している。
多くの大学では、複数の体育館を所有しているようだが、この大学都市においては
余り活躍の場がないと想定しているのか、一つだけだ。
「まずは灯りをつけよう。二人とも外で待ってて」
雪人は入り口の鍵を開け、街灯の届かない内部に懐中電灯片手に入っていった。
ちなみに、警備と言う仕事の性質上、あらゆる施設の鍵を預かっていたりする。
ただし、あくまでも施設の入り口の鍵だけで、当然ではあるが重要書類をしまっている
部屋などには入る事は出来ない。
また、各施設の見取り図も機械警備室には置かれており、雪人と小林は昨日それを
ずっとチェックしながら朝を迎えていた。
よって、灯りのスイッチの位置やセンサーの本体のある位置も、既に把握済みだ。
(ここか)
懐中電灯の怪しい光に包まれたスイッチを押すと、館内へ続く通路が光で灯される。
その後、体育館内の灯りも点けると、外で待っていた二人が靴を脱いで中に入ってきた。
「夜の体育館って、中々スリルがあるのね。一人ではちょっと来れないかも」
「……」
結衣はすっかり湖になついたのか、その背中にピッタリくっつきながら移動していた。
なんとなく複雑な気分を覚えつつ、雪人はセンサー本体のある管理室へ向かう。
センサー本体は壁に取り付けられており、そこにカードを差し込む事で稼動するのだが――――
「あれ?」
雪人はカードを入れた瞬間、『正常に』稼動し始めた機械に、思わず目を疑う。
「何? どったの?」
「機械がちゃんと動いたみたいです。だから、壊れてないみたいです」
「あ、そう言うこと」
一生懸命補足する結衣の頭を、湖は楽しそうに撫でていた。
「ん? でも、壊れてたからここに来たんだよね? 何で故障してないのよ」
「えっと……えっと……」
「あ、結衣ちゃんに聞いた訳じゃないのよ。ゴメンゴメン」
慌てて撫で撫で。
その和やかな空気を背中に感じつつ、雪人は暫し考え込んだ上で、結論を得た。
「配線の断裂かもしれない。センサーからこの本体まで正常にデータが届いてないし。
一応、小林に連絡入れてみるか」
単純に、データのやり取りでエラーが発生しただけで、機械も配線も正常と言う可能性もある。
「ああ、ああ。わかった。じゃ、こっちで調査してみる」
しかし、相変わらずデータは機械警備室には届いていないらしい。
雪人は携帯を閉じ、首を横に振った。
「大勢で来たのがここに来て功を奏したな。線が何処かで切れてないか、探してみよう」
「了解! 何かこういうの、ワクワクしない? 結衣ちゃん」
「します」
本当にしてるのか、と指摘したくなるような結衣の緩い返答に湖は大変満足しつつ、
センサー本体から伸びている線を追って、通路側へ出て行った。
機械警備のセンサーは基本、全ての種類の感知器が一つの本体と繋がれている。
本体をドライバーを使って開けると、それぞれの感知器の配線をセットする箇所が
設けられており、そこから外側に線が延びている。
ただ、感知器の数だけセンサーがある訳ではない。
同種類のセンサーにおいては、センサー同士を配線でつなげる事で稼動可能。
つまり、一つ一つのセンサーをいちいち本体に繋がなくても良い仕組みになっている
と言う訳だ。
よって、チェックする線は、パッシブセンサーに繋がる線、マグネットセンサーに繋がる線、
赤外線センサーに繋がる線の三つのみ。
「じゃ、俺が赤外線センサーをチェックするから、結衣ちゃんはマグネットセンサーをお願い。
体育館の窓に伸びてるこの線ね。何処か途中で切れてるとか、何か変なところがあったら
教えて」
「わかった。頑張る」
役割を与えられた結衣は、心持ち嬉しそうに線を目で追い始めた。
湖は既にパッシブセンサーの配線を勝手に調べている。
一方、赤外線センサーは屋外へ続いているので、雪人は体育館の裏側へと回る事になった。
体育館裏は藪蚊がかなり飛んでおり、10秒歩くともう蜂の巣ならぬ蚊の巣状態だ。
(虫除けスプレー、買っとけば良かったな……)
とは言え、女子の二人にこの役はさせられない。
雪人は意を決し、少し太めにコーティングされた線を追った。
――――30分後。
「おかえり……って、わ! わ!」
「ゆきの顔がお化けになってる……怖い……」
案の定、藪蚊に大量に刺された雪人は、見るも無残な事になっていた。
当然、発狂しそうなほどの痒みが次々襲ってくる。
「これってテレビのビックリ映像企画に送れるレベルじゃない? 一枚撮っとく?」
「止めてくれ……で、そっちはどうだった?」
ちなみに、これだけの代価を払ったにも関わらず、異常は見当たらなかった。
「ああ、あったよ。私が見つけた。割と直ぐ」
そして、湖の報告は残酷だった。
「だったら早く教えろよ! この惨状どうしてくれるんだよ!」
「って言っても、何処にいたかわかんなかったし」
「携帯に電話入れりゃ良いだろ!」
「電話は……ちょっと緊張するから……」
おかしな答えが返ってきた。
頭を掻き毟りたい衝動に耐えつつ、雪人は案内を頼み、問題の場所へ赴く。
すると――――
「……人為的な切断、だな。これ」
「よね。私もそう思う。結衣ちゃんはどう?」
「賛成に一票、です」
ポリ塩化ビニルのチューブでコーディネートされた銅線は、ある地点を境に
綺麗に断裂していた。
まるで、ナイフでザックリと切ったように。
「夜に進入する為に、昼間のうちに切ってたのかな?
湖の疑問はあり得ない事ではなかった。
センサーの配線を断裂させると言うのは、ある程度の専門知識がないと思いつかないが、
行使するのは簡単だ。
とは言え、余りメリットがないのも事実。
実際、体育館にはしっかり施錠がなされていた。
進入する術はない。
「いやがらせ、とか」
結衣が小首を傾げながら、そう唱える。
警備を行っているツアー主催者側への嫌がらせ。
ただ、それなら他にもっと効果的な方法がある。
「嫌がらせと言うよりは、欠陥を生み出したと言う方がしっくりくるかも」
昨日見かけた宗教団体を思い出し、雪人はポツリと呟いた。
あの連中は、このツアーにおける欠陥を探し、それをレポートにまとめると言う。
それにどれほどの意味があるのかは不明だが、もしそれが連中の行動理念なら、
こう言う欠陥を人為的に生み出す可能性は、ある。
とは言え、憶測の域は出ない。
「……なんかすっきりしないけど、取り敢えず直さないといけないんでしょ?」
「ああ。これくらいなら直ぐ直せるから、二人はその辺で遊んでてよ」
「遊ぶって言ってもね……あ、バスケットボールがあった。結衣ちゃん、ボール入れしよっか」
ダムッ、と言う床を叩くボールの反発音が響く中、雪人は修理を始めた。
修理といっても、特に難しい事はない。
別の銅線で断絶部分を繋ぎ、はんだ付けして、周囲をゴムテープで巻くだけ。
ものの5分で完了した。
程なく、雪人の携帯が鳴る。
データが正常に届いたと言う確認の――――
『た、助けてくれぇ。事務のお姉さんが酔っ払って俺の服を……
あああああぁあああああ! 嫌だあああああぁぁ!』
電話ではなかったので、切った。
そして、別の人にTELL。
『あ、はい。青色の文字だったら正常なんですよね? そうなってます』
宇佐美嬢の電話越しの言葉に安堵し、雪人は携帯を畳んだ。
「完全に大丈夫みたいだ」
「なんかこっちにまで悲鳴が漏れ聞こえてきたけど……本当に大丈夫なの?」
冷や汗を流す湖に力強く頷く。
何事も経験が必要だ。
帰る頃には、一皮剥けた小林が見られるだろう――――と言う意思を込めて、笑顔で。
「えいっ」
そんな雪人の視線に、一生懸命バスケットボールを放る結衣の姿が入ってくる。
しかし、ボールはゴールに掠りもせず、と言うか1メートル以上手前で落下し、
床を小さく弾いて転がって行った。
「私、運動神経ゼロ……」
「ま、まあ、か弱い女子は皆そんなもんだよ。その方が男は喜ぶって」
「ゆきの励ましは昔からへたくそ」
「ご、ゴメン」
多少理不尽なものを感じつつ謝罪する雪人を、湖が心底楽しそうに笑う。
「何がおかしいんだよ」
「性格悪いアンタでも、結衣ちゃんの前では形無しなんだ、って思うとおかしくて」
そして、そのままの顔でボールを拾い、雪人に向けて胸の位置から突き出すような
女子特有のフォームで投げた。
ノーバウンドで、そこそこの速度で正確に胸の位置まで届く。
それだけでも、運動神経の良さは十分に現れていた。
「で、そう言うアンタはどうなのよ。バスケットやった事は?」
「体育の授業だけ」
そう宣言すると同時に、ダムッ、っと一つドリブルし、シュート。
ボールは弧を描き――――ボードを叩いて、ゴールに触れる事なく落ちた。
それを見守り、雪人は自嘲気味に肩を竦めた。
「ま、フォームは中々ね」
「お前、バスケ部なのか?」
「全然。部活は入ってないのよ。委員会で忙しいから」
そう言えば、風紀委員だったな――――と言う事実を忘れていた事に少し
違和感を覚えつつ、雪人は体育館の壁まで移動し、背中を預けて座った。
自然と、二人の女子もその両隣に座る。
「……アンタってさ、何でこのツアーに参加したの?」
雑談モード。
ただ、その雪人に対する湖の問いは、それなりに真剣味を帯びていた。
「大学に行くか、行かないのか、それを見極める為」
「へえ。随分フツーなんだ」
「煩いな。お前は……何だっけ」
「サークルを経験する為よ。前に言ったでしょ?」
そうだった、と思い出し、小さく笑う。
少し疲れているのか、頭が余り回っていない事を自覚し、雪人は
結衣の方に視線を移した。
「結衣ちゃんは……どうして参加したの?」
その事に関しては、以前から気にはなっていた。
高校二年生。
高三よりはゆとりを持って過ごせる時期。
勿論、この時期に進路について真剣に考える生徒は結構いる。
ただ、このツアーの参加者の多くが高三と言う事実が、全体の中では
やや少数派に属する、と言う事も意味していた。
「友達から、誘われて」
結衣は、シンプルにそう答えた。
まだ彼女達をそう呼ぶのか――――と、雪人は思わず言葉にしそうになる
衝動を堪え、それを強引に飲み込む。
「でも、今は別の目的があるから。フィールドワーク、してみたい」
「フィールドワーク?」
「あー。えっと……」
唯一、研究室の人間じゃない湖に、雪人はその専門用語を解説した。
「……わ、結衣ちゃんカッコいい! 自然を相手に仕切るって事よね。
カッコいい! 私も手伝えないかな!?」
「え、え、え」
湖は瞳を輝かせて、結衣の方に顔を寄せる。
必然的に、その身体は雪人に覆い被さるような格好になったが――――
当人は余り気にしていないようだった。
(男は苦手なんじゃなかったのかよ……)
体重をかけられた雪人は、鼓動が高まるのを感じつつ、こっそり赤面していた。
そんな純朴青年を尻目に、二人はフィールドワークについての会話を始める。
「えっと、えっと……最初は、植物を観察して、どんな木があるのかとか、
どれくらい背が高いとかを調べて……」
「ふんふん。意外と地道なのね」
結衣は、これまで見せた事のないような、何処か高揚した顔で説明をしていた。
どんなテーマにしたのか聞こうかと思っていたが、その必要はなくなった。
植物。
結衣が興味を抱いたのは、この島の雄大な自然そのものだった。
雪人は何となく安堵し、天井を仰ぐ。
将来、自分が何になって、どんな事をしているのか。
未来の事など、今は考える余裕はない。
今している事が、その未来に役立つ保証もない。
世の学生が、中々勉強に集中しない言い訳の一つ。
雪人もまた、それに倣っていた。
ただ、未来を見据えていると言う現在を必死で演じているだけなのかもしれない――――と。
尤も、机の上で勉強する事と、今こうして体験している事は、同じ知識を得る為の
行動だとしても、明確な差がある。
楽しい記憶として――――いつまでも思い出として、人生の中に残る。
確かな足跡として刻まれる。
それは、かけがえのない事。
当たり前のようで、実感しない事には決してわからない感覚。
それが今、身に染みている。
心地いい。
この体育館での一時は、決して大きな出来事でもなければ、長い期間と言う訳でもない。
それでも、きっと10年後も覚えている。
覚えていたい。
雪人は仲良く話をする二人を眺めながら――――そんな事を漫然と考えていた。
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