翌日――――研究室のドアを開けると、そこには意外な人物の姿があった。
「……吉原?」
「ご無沙汰しています」
 妙に畏まった挨拶と共に、月海は頭を下げる。
 大河内研究室に属している彼女がここにいる理由――――それを推測するのは
 然程難しくはない。
「トレードの申請書を出して来たので、挨拶に」
 斯くして、予想通りの回答が月海の口から告げられた。
「そっか。やっぱりここに来たいんだな」
「はい。もう残された時間は僅かですが、少しでも悔いのないようにしたいので」
 その言葉には、強い意志がはっきりと含まれていた。
 実際、ツアーの日程を考えると、残された時間はそう長くない。
 今日はもう8月13日。
 あと2週間程度しかない。
 その中で、自分が本当にやりたい事をやると言うのは、容易ではない。
 月海にとっても、決して簡単な判断ではなかっただろうと、雪人は静かに感心していた。
 とは言え、この研究室から出て行く希望を出す生徒がいない場合、
 その申請が通らない可能性もある。
 そうなってしまうのは、余りに忍びない――――
「黒木さん、その袋……」
 そんな事を考えていた雪人が下げていた紙袋に、いつの間にか月海の視線が注がれていた。
「あ、良くわかったね。暫く家に戻らないかもしれないから、連れて来たんだ」
 苦笑混じりに紙袋から出されたのは、熱帯魚の入った小さな水槽。
 縷々と名づけられたベタは、尾を傷付けたり溶かしたりする事なく、優雅な姿のままで泳いでいる。
「ありがとうございます。縷々も喜んでいると思います」
「いや……ま、こう何日も身近に置いてると、逆にこっちがいないと調子狂うって言うか」
 実際それは本心だったが、なんとなく言い訳っぽい口調になってしまい、雪人は
 苦笑交じりの嘆息を吐いた。
「それでは、私はこれで」
「ああ。移籍、上手く行くと良いね」
「そう願っています」
 月海が静かに廊下へと出て行く。
 何処か陰のある、大人しい女性――――その第一印象は、雪人の中では今も変わっていない。
 ただ、明らかに以前とは異なっている部分がある。
 距離感。
 まるで、四階の窓から空を覗いている女の子を地上から眺めているような感覚だった
 以前とは違い、今は同じフロアで話をしている、通常の感覚になって来ている。
 その事を感慨深く思いつつ、雪人は水槽を自分の持ち場の机に置いて、隣の教授室に足を運んだ。
「やあ、こんにちは。おはようって言った方が良いかな?」
 そこには、部屋の主である大友教授がいた。
 パソコンの前でタバコを燻らす姿は、大学の教授としては中々様になっている。
 雪人は、この教授とは初対面時から妙にウマが合っている事を自覚していた。
 つい、気を許してしまう。
 そうなる事に何か意味があるのか――――そこまで考えてしまう。
 意味などある筈もない。
 只の相性。
 とは言え、相性のいい人間との出会いは、男女問わず非常に貴重なもの。
 迷う。
 10秒迷って――――そして、結論を出した。
「……さっきの女子、ここに移籍したいって言って来たんですよね」
「ん? ああ、そうだよ。変わってるよねえ。大河内教授の所からわざわざ僕の所に
 来なくてもいいのに」
 大友教授の言葉は、適度な謙遜と適度な社交辞令、そして適度な本心が含まれている。
 バランスが良い。
 雪人にはそう思えた。
 同時に、自分には出来ない事、とも。
「もしこの研究室から出る人がいないんなら、俺が移ります」
 それが――――バランスの悪い、雪人の出した結論だった。
「それは止めておいた方が良いよ」
 しかし、そんな結論はやはり正しくはないのか――――即座に否定される。
 その理由は、何となく雪人本人も理解していた。
「過程は知らなくても、結果を知れば、彼女は君に迷惑を掛けたと思う。
 知り合いなんだよね? 君がどんな言葉で因果関係を否定しても、彼女はそれを鵜呑みには
 しないだろう。自分の所為で居場所をなくした……そんな罪の意識に苛まれる」
 ごもっとも――――素直に心中で頷く。
「心配しなくても、彼女はここに来るよ。随分と熱心に、自分のしたい事を具体的に
 語って行ったからね。明確な目標を持ってる学生を無碍にするつもりはないさ」
 大友教授は、断言した。
 それが何を意味するか――――言うまでもない事。
 研究室の誰かが、移籍を希望している。
 若しくは、教授が自身の権利を施行し、大河内教授の研究室に一人交代要員を
 差し出そうとしている。
 そのどちらかだ。
 しかし、前者に関しては既に全員が意思を表明している。
 出る気はないと。
 つまり、必然的に、後者に――――
「君が色々気に病む必要はないよ」
 そんな雪人の思考を丁寧に朗読したかにように、大友教授は首を小さく真横に振った。
「教授が自身の研究室の人間を一名、自身の希望でトレードに出す事が出来る……
 この権利はね、別に例のトレードを活性化させたり、トレード希望の学生に対して
 間口を広くする為、って訳でもないんだよ。これは我々教授に向けての制度なんだ」
「教授に向けて?」
 言葉をなぞりながら、その意味を考える。
 しかし、中々答えは出てこなかった。
「そう。今時の指導者は、生徒に嫌われないよう、不快に思われないような立ち振る舞いを
 するようになってしまった、って言われててね。悪い言い方をすると、生徒に媚を売って
 事なかれ主義を貫き、教育は二の次……そう言う教育者が増えているって事」
「つまり、わざと恨まれる事で耐性をつけたり慣れたりする為に……?」 
「その通り。教授が恨みを買うようなシステムになってるのは、その為なんだよ。
 単にトレードの頻度を増やすだけなら、条件を緩和するだけでも十分だしね」
 雪人は思わず息を吐いた。
 一見乱暴なシステムには、そう言う意図が隠されていた――――
「多分、だけど」
 可能性があるらしい。
 公式にそうアナウンスされている訳ではないようだ。
 しかし、信憑性は十分だった。
「ま、そう言う訳だから。どう言う形になるにしても、責任は僕が取るから何も
 問題はない。君がどうしてもここを出たいって言うなら話は別だけど、そうでないなら
 君は今のまま、君のしたい事を続けてくれれば良いよ」
 その言葉には、恐らく複合的な意味がある――――雪人はそう確信していた。
 先日、大友教授の紹介で仕事を得た件もある。
 必要とされているかどうかは別として、少なからずここにいる事の必要性は存在すると言う
 結論に至った。
 とは言え、それも何処か自分自身への体裁を整える言葉。
 本心は――――何より、ここにいたい。
 これまで関わった人たちと、もう少し時間を共有したい。
 下らない事も。
 誇らしい事も。
 素直にそう思った。

「はい。じゃ、そうさせて貰います」
 雪人は一礼し、教授室を離れる。
 同時に、研究室に到着。
 そこには――――先程まではいなかった宇佐美嬢がいた。
「あら、黒木君。もう来ていたんですね」
 宇佐美結維。
 なし崩しの内に生徒の立場でツアーに参加しているが、元々は主催側の従業員。
 上司と折り合いが悪いらしいが、帰る場所はある。
 余りフィールドワークには興味がないらしく、テーマ決めの際にも、大友教授の例を
 そのまま流用していた。
 モチベーションを重視していた大友教授の弁を考慮した場合、最も不要論を唱えられる
 可能性が高い存在と言える。
「と言うか、ほぼ確定って気が……」
「へ? 一体何の事でしょうか?」
 雪人は数秒ほど虚空を見つめ――――小さく息を吐いた。
「宇佐美さん。今までありがとうございました。色々あったけど楽しかったです。
 またお会い出来る日を楽しみにしています」
 深々と、一礼。
「え? 黒木くん、もしかして別の研究室に移るんですか?」
「いえ。俺は……」
「じゃ、じゃあ何で……え? もしかして……私? 私が追い出されてしまうんでしょうか?
 私が使えないダメでノロマな研究員だから、見捨てられちゃうんでしょうか?」
 久々に出た宇佐美嬢の先取り暴走――――と言う訳でもなく、かなり核心を突いた
 意見だったので、雪人は何も言わず俯いた。
「そ、そんな……折角ここにいるのが楽しくなってきたのに……こんな私でも一杯お友達が
 出来て、高校時代の明るさを取り戻せそうだったのに……」
 声が涙ぐんでいる。
 罪悪感を覚えつつ、それでもかける言葉が見つからず、雪人は冷や汗混じりに
 俯いたままでいた。
「あの、冗談ですよね? 黒木くん、結構意地悪なトコありますから、私にそんな
 酷い事を行って、からかって楽しんでいるんですよね?」
 現実から目を逸らしたのか、宇佐美嬢は自身に都合の良い推測を口にし始めた。
「そ……そうなんです! いやー、見透かされちゃいましたか」
 解決法は最早それしかない。
 雪人はそれに乗っかる事にした。
「ですよね! そうじゃないかって思ったんですよ。もう、そんな意地悪な事しちゃ
 ダメですよ!」
「いやーすいません、反省します。あははは」
「はははは……はは……は……ふえ〜ん!」
 しかし、無理な科白を吐いた事による棒読み口調が災いしたのか、再び現実に
 目を向けた宇佐美嬢は泣きながら研究室を後にした。
「ちょっ、宇佐美が泣いてたじゃない! ゆっきー、泣かしたの? 年上の女を
 泣かすって、これ大事件じゃないの!?」
「目を爛々とさせるな、暇事務員」
「失礼ね。ちゃーんとお仕事一段落させてから来たのよ」
 その宇佐美嬢と入れ違いで、コーヒーカップ片手に香莉が入室。
 今や当たり前の光景になっている。
「って言うか、幾ら親友がいるって言っても、あんまり特定の研究室に入り浸らない
 方がいいんじゃないですか? 仮にも事務の人なんですし。」
「いーのいーの。他の研究室は結構派閥とか出来てて居心地良くないし。
 ここは約一名を除いて、まあ気楽なものだから」
「いや、誰もアンタの居心地について心配してる訳じゃないんですけど……
 まあそれは良いとして、派閥とかやっぱりあるんですね」
 ソファで寛ぐ香莉を背に、雪人は自身の椅子に腰掛ける。
 すっかり慣れた研究室の椅子。
 それを不本意な形で手放すのは惜しい――――改めてそう感じながら。
「まーね。女ばっかりの所は特にそう。大山研究室だったっけ。まー、ギスギスしたもんよ。
 男ばっかりの所はまだマシだけど」
 雪人が一度訪れた際には、そんな空気は微塵もなかった。
 女性は怖い。
 良く目にするそんなフレーズに、初めて血が通った感覚を抱いた。

「って言うか、全部の研究室を我が物顔で蹂躙したのか、アンタ」
「失礼な事言わないでよ! こうしてゆったり寛ぐのは、ここでだけよ。
 後は事務のお仕事で顔を出す程度なんだから。人をそんな誰とでも、みたいな言い方
 しないでくれる?」
 そんな言い方をした気は全くなかったので、雪人は自信を持ってスルーした。
「う……放置された」
 微妙に傷付いていた。
 微妙な充足感に包まれるが、それはやはり微妙でしかなかった。
「で、何で宇佐美は泣いてたの?」
「いや、実は……って言うか、未だに苗字で呼ぶのは止めてあげて下さい」
「え? あー。すっかり忘れてた」
 酷い親友だった。
 呆れつつ、雪人はその経緯を語る。
「――――って訳です」
「ああ、それなら結維で決定よね。あの子、向いてないもん、調査なんて」
「それはわかりませんけど、結構結衣ちゃんも……俺の従妹の方の結衣ですけど、
 結衣ちゃんもやる気見せてるし、白石はああなんで、やる気って意味では劣ると言うか」
 実際、消去法で考えると、そうなってしまう。
 雪人の提言を拒否した時点で、雪人が飛ばされる可能性はゼロ。
 大友教授を慕っている白石、フィールドワークに興味を持ち、自らテーマを
 考えた結衣も、手放す事はしないと思われる。
 つまり、どう考えても――――
「ま、あの子の場合はここをクビになっても、再雇用の可能性もあるしね。
 って言うか、それもクビになりそうな理由の一つよね」
「あの、クビって言ってあげないで下さいね、本人の前では。号泣しますよ多分」
「でも、結維の泣き顔って可愛いのよねー」
 ドSの思考を香莉は純真な笑顔で語った。
「あれ? あの水槽……」
 その顔のまま、目聡く間違い探しの答えを見つけたかのように、香莉が
 縷々の泳ぐ水槽を発見する。
「……チッ、目聡い」
 取って食われないか心配になった雪人は、露骨に嫌悪感を示した。
「今、舌打ちしなかった……?」 
「歯の間に挟まった物を取ろうとしただけです」
 懐疑の視線が細く貫いてくる中、雪人は縷々に関しての説明も掻い摘んで話した。
 ただし、月海に貰った事は省略して。
「熱帯魚ね……ゆっきーにそんな可愛いものを愛でる心があるなんて、あー、引くわー」
「酷い言われようだな! って言うかアンタにだけは言われたくない!」
「にゃーにおー!? この心優しき香莉さんになんて暴言よ! そこに直りなさい!
 説教してやる!」
 優雅に泳ぐ縷々が顔をプカプカ水面に浮かべる中、聞くに堪えない言い合いは
 その後一時間ほど続いた。
 

 翌日の夕方。
 大友教授の口から、今後の方針についての発表があった。
 正式な発表は、書類の審査が通過するのを待つ事になる、と言う前置きがあり、
 その後、吉原月海の移籍が内定した事を告げた。
 そして、彼女の代わりに――――白石悠真がこの研究室を去る事が、続いて語られた。







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