目を開けた感覚がない――――雪人には、そう言う一日の始まりが
稀に存在している。
稀、と言うほどではないのかもしれない。
ただ、記憶に残っているものは、ごく僅かなもの。
それ故に、稀と表現するしかなかった。
そして、そう言う感覚の際に見える景色は、いつだって唐突に、そして理不尽に、
自分が本来見るべき視界とは大きく異なる。
夢――――そう一瞬だけ思い、それが誤りだと気付く。
夢ならば、もう少し恣意的な空間が用意されている。
しかし、そこにある光景は、常に突拍子もなく、そして何処か空虚。
その理由は、雪人にはわからない。
かなり長い期間、その現象と付き合っているのに。
フラッシュバック症候群。
自分自身で名前をつけた事には、それなりに意味はある。
愛着に近い感覚が、そうさせた。
しかし、その現象の原因も対策も、一向にわからない。
そして今日もまた、視界を傍観する。
そこは――――森だった。
周囲は全て緑、と言う訳ではない。
半分くらいは、白も混じっていた。
それは木の幹の色ではなく、雪の色。
爽涼とした木漏れ日が揺れる黄緑の世界ではなく、静々と、そして深々と
眠り続ける森の中だった。
その光景に、雪人は暫し目を奪われる。
実際には、見ていないのかもしれない。
或いは、脳が作り出した幻かもしれない。
それでも、その景色に、胸が躍った。
周囲に人の気配はない。
凍えるような寒さもない。
フラッシュバック中に温度を感じる事はなかった。
それが幸いしたのは、今回が初めてだったが――――その事よりも、雪人の
頭の中には、その静寂に包まれた清涼な空気を吸い込みたい欲求ばかりを感じていた。
穏やかな心持ちで、木に触れる。
雪に埋もれた根元を掘り、その色、表面の手触りを確かめる。
木の太さは、樹齢200年を思わせる程に雄大。
その木の見てきた風景に思いを馳せる。
それは、森を見る上でとても大切な想像力――――雪人は、何故かその時そう思った。
森を詳しく見た事など、一度としてないというのに。
自身が経験した事を見るフラッシュバックもあれば、このように一切記憶にない
事を見る事もある。
ただ、今このように、光景を傍観する事で、自分にない感性が自分に発生した事は
これまで一度もなかった。
いや――――
本当に、なかったのか?
雪人は心躍る景色から一旦目を留め、自分自身の回想を始めた。
直ぐに、答えは出る。
ない。
一度として。
だが、その答えは、逆に不自然だった。
余りに結論が出てくるのが早かったから。
ふと、目を戻す。
フラッシュバックの中の自分は、既に別の木に視線を移していた。
今度は、若い木。
雪の重さに耐えられず、悲鳴を上げている――――そんな風に見える。
細い幹から派生している枝の多くは垂れ下がっていて、生命力のない、
弱々しさを覘かせている。
その木にも、触れる。
何も聞こえない。
何も感じない。
当然だった。
人間は、植物に触れて何かを感じる事は出来ない。
出来るとすれば、それは思い込み。
いや――――
本当に、そうなのか?
二度目の否定は、確信には到らなかったものの、雪人の中に一つの可能性を
生み出す事となった。
自分と違う所で、自分の思考が動いている。
それは、客観的にその世界を覘いている証。
それ自体は、かなり以前から普通に行われていること。
ただ、一度も見た事のないこの光景に関しても、何故かそこに思想がある。
自分なりの考えがある。
行動理念がある。
それを、感じ取れる。
そして、それを否定している。
そんな事実が雪崩れ込んできた。
一種の可能性。
今までは、過去自分の見た光景と、見知らぬ光景が混在していると言う
認識から、それを否定してきた。
この、フラッシュバック症候群は――――記憶なのかもしれない。
雪人は、薄れ行く視界――――雪に溶け込んだ森を眺めつつ、漠然とそんな事を
考えていた。
「……吉原月海です。宜しくお願いします」
その日の午後。
眠い目を擦って大友研究室を訪れた雪人の目の前で、月海が深々と頭を下げていた。
このツアーが総力を挙げて行った一つの実験、パイロット・トレード。
実際に移籍を申し込んだ生徒の数は、18人だった。
そして、実現したトレードの数は――――18。
全員が移籍を果たした事になる。
その数字は、明らかに作為的だった。
ただ、その事をここで語る必要性がある筈もなく、雪人は拍手する大友教授を
一瞥し、自分も手を叩いた。
「やー、良かったよー。まさかあのいけ好かない男の代わりにつくみんが来てくれる
なんてさー。私の理想通りの展開じゃーん」
「なんで自分の研究室みたいな喜び方をしてるんだ、あんたは」
一際大きな拍手をする香莉に、雪人はジト目を禁じえなかった。
そして同時に、複雑な気分になる。
大友研究室、所属研究員。
吉原月海。
鳴海結衣。
宇佐美結維。
黒木雪人。
これくらい、距離を感じた。
唯一の男性と言うのは、それくらいの疎外感がある。
まして、いつもいる香莉を含めると、5分の1の男。
肩身の狭さで言えば、かなりのものだ。
「あの……女子ばっかりなんですけど」
仕方なく、自分以外で唯一の大友教授に意見を述べる。
「そうだね。華やかで大変宜しいと思うよ」
「……まさか、それが目的だったんじゃないでしょうね」
「はっはっはっは」
否定の言葉はなかった。
「まあ、知ってる人も多いと思うけど、大河内研究室からここに移籍してきた
吉原さん。仲良くしてやってね。今後の活動は個人個人で行う事になってるけど、
出来るだけ協力してあげて。特に、黒木くん」
「まあ、協力しない理由はないですけど、どうして俺が『特に』なんですか」
「唯一の異性だからね。君がこの研究室の空気を作るようなものだよ。
じゃ、何かあったら呼んでね」
気軽にそんな事を言いながら、大友教授は自室へ引っ込んで行った。
実際――――唯一の男と言う立場は、この場においてそれだけで異質な存在と言える。
女子寮や女子高に迷い込んだ男のようなもの。
イヤでも目立つ。
余りそう言う立場に慣れていない雪人は、目を覆って嘆息――――しそうになるのを
どうにか堪えた。
「ま、あんまり深く考えても仕方ないか」
「そうそう。って言うか、明らかに役得じゃないの。これだけ女に囲まれる環境、
フツーないよ? こーのご都合主義男!」
肘で突いて来る香莉の言葉に、雪人は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「で、つくみん。つくみんはどんな個人活動すんの? ここに来るくらいだから、
フィールドワークがしたかったんだよね?」
「はい。水質調査と、水棲生物の調査を」
いい淀みなく、とはいえスローテンポで話す月海に対し、宇佐美嬢は一人
驚愕を覚えていた。
「うう、今時の女子ってしっかりしてますね……私なんてそれに引き換え、
流されるままここにいて良いんでしょうか」
「俺に聞かれても」
「ですけど、香莉に聞くと苛められそうだし」
宇佐美嬢は、ここにいても良いと言って欲しそうにしていた。
そんな中――――
「……私、宇佐美さん、ここにいて良いっておもいます」
「ゆいゆいが空気を読んだ!」
「香莉さん、その発言は双方に対してどうなの」
雪人が半眼で睨む中、香莉は驚愕の表情をキープしていた。
一方、宇佐美嬢は久々に優しくされたらしく、感涙。
本当に泣いていた。
「な、成海ひゃん……あ、ありがとう! 私、感動ひまひた〜!」
抱きつく。
「!?」
突然の抱擁に、結衣は混乱と狼狽と羞恥をクラブハウスサンドのように挟んだ表情で
されるがままになっていた。
「……ここに来た事、後悔してないか?」
そんな惨状を指差して問う雪人に対し――――
「とても斬新で、心躍ります」
月海は斬新な感想を述べていた。
そして、その夜。
「はー。なんつーか、スゲーな。あんた、もしかしてギャルゲー体質?」
警備室に遊びに来ていた童顔イケメンの布部に、雪人はこの日何度目か
数えるのも億劫な程の半眼を向け、嘆息した。
「あー、こいつさ、ちょっとオタク入ってんだよ。何言ってっか意味わからなかったら
俺に聞いて」
そして、友人が遊びに来ている事もあってか、小林は普段よりかなり
堂々としていた。
「って言うか、俺の代わりにこいつが警備員の仕事やった方が万事上手く行く
気がして来た……」
「あ? 何で俺が大学の警備員なんてしなきゃなんねーんだよ。将来自宅警備する予定なのにさ」
「お前、色々ダメな人だな……取り敢えず、今の発言はイケメンに産んだ親に謝れ」
雪人の言葉に、布部は愉快そうに口角を上げ、目尻を下げる。
特に親しい間柄ではないものの、元来の人見知りのなさも手伝って、
あっさりと打ち解けていた。
その様子に、小林が羨望の眼差しを向けている――――のを横目で確認し、
また半眼になり溜息。
そして、暫く三人で話し込んだ後、バイトの時間になったところで
布部が陽気に警備室を後にした。
ちゃんと時間を配慮して出て行く当たり、常識人である事が窺える。
「なあ、何でそんなカンタンに他人と仲良く出来るんだ?」
喧騒の余韻に乗ってか、或いは雪人に対しては大分打ち解けて来ているのか、
小林は多少声を張って聞いて来た。
「さあ……そんな事意識した事もないし、わからないけど」
「ンな事言わないで、教えてくれよ。俺マジで困ってるんだって。
布部みてーなのにあっさり順応できるって、相当スゲーよ? アイツ結構特殊だしさ。
どういう思考回路してんだよ」
「思考回路とは関係ないと思うけど……取り敢えず、自分を客観視する事、かな。
相手に合わせようとか、相手に不快な思いをさせようとか、そう言う事は
そんなに考えないで、自分も含めたその場の全てを俯瞰するような感じ」
雪人自身、それは常に意識している事だった。
同時に、このツアーに参加する上での、最大の目的でもある。
自分を客観的に見る。
これこそが、あらゆる人生の事象において、効率の良い対応が出来る手段だと
信じて、その機会を得る為にここへ来た。
大学の魅力を知る為というのは、その中の一要素に過ぎない。
それを言えば『こいつ変なヤツ』と思われるので、湖に対しては
当たり障りない回答をしたが、初心は今も忘れずにいる。
「へえ、変なヤツ」
そして、やはりそう思われた。
「……そう言う人が傷付く事を言うのは論外だ」
「す、すまん。あ、あ、睨まないで睨まないで。俺、睨まれると泣くんだ」
奇妙な体質だった。
「まあ、それは兎も角。あんた等の研究室はどうだったんだ? 誰かトレードに
出て行った?」
嘆息しつつ雪人が問うと――――それ以上の大きい溜息を付きながら、
小林は首を縦に振る。
「遊馬っていたろ? ホストっぽいヤツ。あいつが外国人部隊に加入した」
「外国人部隊……ブラックウェル研究室か。で、誰が代わりに?」
「アラン。なんか根暗っつーか、理屈っぽいヤツなんだよな。
なんか微妙っつーか、あいつが入って、研究室の空気が変わったしさ」
そして、もう一つ溜息。
小林にとっては、親しい人間の代わりに知らない人間が入ったのは不本意だったらしい。
もし、研究室に行ってそのアランだけだったら――――というシチュエーションを
危惧しているようだった。
「それも訓練と思えば良いんじゃないの」
「まあ、そうなんだけどよ。つーか、大体の研究室でトレードがあったみたいだぜ。
女ばっかの研究室あったじゃん。あそこにお前んとこの男と、外人部隊のルートが
入ったみたいで、そこの教授がテンパってるんだと。男嫌いらしい」
男嫌いの女教授と、白石。
その組み合わせを思い、雪人は修羅場を確信した。
「あと、大河内教授が体調不良で帰るらしい」
「お前、えらくゴシップばっか知ってんだな。そう言うサークルにでも入ってんの?」
「いや、昨日合コンで教えてもらった」
「……」
合コンに参加するメンタリティがあるのに、人見知り。
他の仲間と一緒だから――――という理由があるのは容易に想像出来るものの、
雪人は釈然としない心持ちで肩を竦めた。
「って言うか、二人きりになれない合コンに参加する意味あんの?」
「うわっ! 誰だ! だだだ……ひぃ! 事務の人出た!」
何処にでも沸いてくる香莉の機動力に感嘆しつつ、雪人は巡回へと逃げていく
小林に警棒を投げて寄越した。
「相変わらず、慣れないのねえ。ったく、こんな美人を掴まえてビビるって
失礼だと思わない?」
「そう言う科白はノック出来る人じゃないと説得力ないですよ」
嘆息する雪人の耳に、そのノック音が聞こえてくる。
入室許可の声をあげると、ゆっくりと扉が開き――――月海が入って来た。
「え? 何でこんな時間に……」
「研究室の皆さんとお話をしていたら、時間の経過を忘れてしまいました」
意外な発言が返ってくる。
尤も、雪人は月海の性格については、表面しか知らない。
意外と社交性があってお喋りと言う可能性は――――全く想像出来ないものの、
ある事はある。
「今日は、たくさんお喋りして喉が枯れました」
「そ、そうだっけ……つくみん、『はい』と『そうですね』以外は殆ど
喋ってなかった気がするけど」
香莉の証言から、可能性は全否定された。
しかし、当人は何処か満足げ。
そして、その顔を無に戻し、雪人の前に立つ。
「大河内教授に挨拶に伺った際に、貴方に伝言を頼まれました」
「え? あ、ああ。何?」
大河内教授――――担任であり、恩人でもある大河内静の父。
そんな人物の伝言に対し、雪人は微かに緊張した。
「娘を宜しく、と」
「……はあ」
「それだけです。では、また明日」
責任から開放された月海は、特に感情を見せる事なく、ゆったりと警備員室を
出て行った。
「娘? どう言う事? ゆっきー、大河内教授の娘さんと知り合いだったの?」
「俺の担任なんですよ」
そう答えつつ、一つの記憶が光を帯びるのを自覚する。
「あ、そう言えば……大河内教授、体調不良で帰るそうです。それでじゃないかな?
挨拶みたいなものなんでしょう」
娘の教え子に対しての、そして娘に対しての心遣い。
雪人は一人、そう納得していた。
しかし。
その推測が、半分は誤りだった事を、二日後に知る事となった――――
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