8月16日(日)。
 パイロット・トレードも無事終了し、残りのツアー期間を堪能すべく、日曜ではあるものの、
『青い鳥大学』には多数の参加者が集っていた。
 共通の目的があるわけではない。
 それぞれが、自分の所属しているサークルや研究室に赴き、それぞれ自由に課題や遊戯に
 取り組んでいる。
 高校までの部活動であっても土日祝日に出席する事は全く珍しくないが、その殆どは、
 顧問がそう言ったからと言う理由で眠い目を擦って登校している事だろう。
 しかし、この日の大学にいる参加者は、皆自分の意思で大学を訪れていた。
 そしてそれは、ツアーだからと言うものでもなく、大学に行けば誰もが体験する事になる。
 卒論を書く為に必要な実験が進んでいない――――という状況であっても、自己責任で
 休もうと思えば休める。
 親に口煩く小言を受けたり、教師に目敏く指摘される事はない。
 自由意志。
 だからこそ、ここに集っている参加者は、目を輝かせて自分の行動を満喫していた。
「……何で?」
 しかし、その中にあって、日曜の昼下がりの研究室にいる雪人は、一人目を泳がせていた。
 その視界に入っているのは、一人の女性。
 雪人の担任であり、恩師――――大河内静の私服姿が映っていた。
「大河内教授の娘さんだよ。教授の代わりに数日、研究室に入るそうだ。いやー、
 律儀だよね。わざわざ」
 その様子を暫し眺めていた大友教授が、コーヒーカップを片手に補足説明を始めたが――――
 雪人の頭には全く入ってこなかった。
「と、言うわけだ。普通の大学では当然ながらこのような代理はあり得ないが……
 所詮はツアーだからな。親の尻拭いを子供がする程度の事は問題ないそうだ」
「いやいやいや、それ以前に自分の仕事はどうした」
「うむ、いい質問だ。高校教師の夏休みは何気に忙しい。やたら会議も多いしな。
 就職希望者への進路指導や面談も多い。とは言え、最近はインターネットのおかげで
 会議も指導もネットがあれば大抵大丈夫。問題ない」
「あるだろ。会議はともかく指導くらい面と向かってしろ、この不良教師」
「最近の生徒はパソコンを介した方がよく話す。合理的だ」
 一歩も引かず。
 その様子を、大友教授ほか、研究室の面々全員が固唾を飲んで見守っていた。
 そして、その中の一人である宇佐美嬢がおずおずと手を上げる。
「……あの、大河内教授の娘さんって、担任なんですよね? 黒木君の」 
「ええ。前も話しましたけど……それが何か」
「な、なんていうか、担任って言うよりお姉さんと接してるみたいな感じだと思って」
「ほう。その指摘は中々当を――――」
「気の所為ですよ」
 ニッコリと微笑みながら、雪人は足をスッと伸ばし、静の足を軽く踏んだ。
 その様子に気付いた訳ではないが、結衣は先刻からずっと身を竦ませている。
「……ゆき、こわい」
「それも気の所為だ」
「……うー」
 宇佐美嬢の背中に隠れる。
 完全に怯えていた。
「ま、とにかくそう言う訳だ。長居をする事はないが、暫くこのフロアで共に研究を
 行うもの同士、仲良くしてくれ」
「は、はぁ……」
 結衣に盾にされている格好の宇佐美嬢は、首を捻りつつ首肯した。
「そちらの女子は、父の研究室にいたそうだな。移籍したのは残念だが、父からは
 真面目な研究員だったと聞いている。会う機会はそう多くないかもしれないが、宜しく頼む」
「はい。こちらこそ教授には良くして頂きました」
 大友研究室の新米研究員となった月海もこの場にいた。
 白石が使っていたデスク上で深々と一礼する姿は、かなり新鮮だったが――――
「ところで、そちらの女子は……」
 それ以上に、ソファーに腰掛けている湖の姿の方が新鮮だった。
「はい!? あ、あの私、湖窓霞と申します! 特技はクッキーを香ばしく焼く事でしてよ」
「おい、口調。口調がお嬢様になってる」
「あああああああああ」
 そして、関係者でないにも拘らず、夜間のサークル活動に備えて研究室に来ていた湖が
 この中で一番テンパっていた。
「いや、何故研究室の人間でない君がここにいるのかと言う純粋な疑問を述べただけであって、
 それに対して糾弾しようとか、そういうつもりは全くないんだが……」
「あ、そうですか! 良かった〜。てっきり不純異性交遊で怒られるのかと」
「不純異性交遊?」
 その言葉に、教師の血が騒いだのか――――静の目がギラリと光る。
「ひっ!?」
「雪人。お前は彼女と何をしている」
「何もしてねーよ! つーか湖、いきなり何言ってやがる!」
「……ゆき、不純?」
「違う! つーか当人、とっとと解説しろ!」
 結衣をはじめとした女性陣の視線が雪人に突き刺さる中、湖は俯きながら説明を始めた。
 と言っても、特に内容があるわけではなく――――
「やっぱりその、夜に男と女が一緒にいるのって、不純異性交遊でしょ? だから……」
 単に事態の悪化を招いた。
「雪人。少し話がある。隣へ行こうか」
「だーっ! 誤解にも程があるわっ! 単にバイトの手伝いをして貰っただけだ!
 しかも結衣ちゃんも一緒にいた!」
 その後、説明に10分を費やした。
「……成程。湖さん、君は真面目な生徒だな。うん、真面目なのは良い事だ。最近の
 女子と来たら、如何にして男から目当てのブランド品や高級品や現金を搾取してやるか、
 そればかりを話しているからな。それをガールズトークだなんだと品のいい単語に
 しているところが特に悪質だ」
「は、はい、ありがとうございます」
 怯えながら頷く湖は、時折雪人にヘルプを求める視線を向けていたが、雪人も
 対応に困っている為、結果的には期待には応えられずにいた。
 大河内静。
 雪人が通っている緑葉学園で教鞭を振るう高校教師。
 その熱心な指導は時として行き過ぎる事もままあるが、恵まれた容姿の為か、
 余り問題視される事はなく、一部のすさんだグループを除けば、概ね好意的に
 受け入れられている。
 一方、雪人にとっては――――とても複雑な女性だった。
 担任として、進路指導などで世話になっていると言う面もあるにはあるが、
 それは長い付き合いの中においては、極めて表層的な関係に過ぎない。
 雪人が彼女の叔父である不良警官、大河内陸に良いように利用されていた頃、
 彼女の鶴の一声により、雪人は彼女にその身元を引き受けられる事になった。
 当時、まだ大学生と中学生。
 それでも、静は慣れない家事と悪戦苦闘しながら、中学生の雪人の面倒を見ていた。
 とは言え、赤の他人同士が日常生活を共にする事は、そう簡単なものではない。
 幾度となく衝突し、幾度となく傷つけ合い、そして――――幾度となく分かり合ってきた。
 そういう間柄。
 複雑過ぎて、色々なものがこんがらがってしまっていた。
「……」
「どうした、雪人。顔が怖いぞ」
「だから名前で呼ぶなっての……」
 呼称もまた、そのひとつ。
 元々は名前で呼び合ってたが、高校三年になり、雪人を静が受け持つ事になった為、
 それ相応の呼び方にするよう、静の方から提案して来た。
 しかし、何故か提案した方が徹底出来ずにいる。
 そして、そんな二人の醸す微妙な空気を――――
「ねぇゆっきー、こっち向いて。恥ずかしがらないで、モジモジしないで言って。
 本当に担任と生徒の仲だけなの? ねぇゆっきー、こっち向いてってば」
 事務の人が気付かない訳もなかった。
「どこから湧いて出たとか、今更言う気はないけどな……その爛々とした目は止めろ」
「えー? だってー、こんな面白そうな事、中々ないんだもーん」
 香莉は好奇心で満たされた顔を艶々とさせ、身体をクネクネしている。
 非常に厄介な事態。
 雪人は、ついには机に突っ伏してしまった。
「まあ、そういう訳だから、みんな仲良くしてやってね。僕は仕事に戻るから」
 そして、いつものように大友教授が退場。
 場の空気は、多数の香水の絡み合いもあってか、更に華々しくなった。
「とりあえず……ご紹介に預かった大河内静だ。父の吟が世話になった。
 若輩者だが、暫くの間父の代わりを務める予定でいる。宜しく頼む」
「了解〜。で、ゆっきーとの関係は〜?」
「うむ。それを話すとなると、かなり長くなるが……」
 既に疲労困憊で動かなくなった雪人を一瞥し、静は思わず苦笑した。
「……それにしても、妙に女性が多いな」
「静ねえの所為で余計、な」
 口元だけで小さく呟きつつ。
 本当に、何故か女性率が異常に高まったその研究室で、雪人は静かに今後の
 身の振り方について真面目に考えることを誓っていた。








                                     3rd chapter  "falsememory syndrome "
                                         END




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