「誕生日や卒業、後は引越しの時、か。手頃なサイズの色紙に寄せ書きをして、それを送る風習が
あるが……あれはどうも、俺には理解出来ない」
突然、前フリもなく発せられた言葉に、雪人は思わずジト目を作り、その発言の主を見やった。
とは言え、それ自体は珍しい事ではない。
昼休みは教室の喧騒を嫌い、空き教室の一室を使って昼食を摂ることが習慣になっているのだが、
ほぼ毎日似たような経験をしている。
しかしながら、その経験の中身まで同じと言う事はない。
それくらい、この眼前の男――――友人Aは有識者だった。
尤も、識者とは言い難い事は、この日の発言からも明らかだったが――――
「理解出来ない事はないだろ? 貰って嬉しいと思う人だって多いだろうし」
「それが理解出来ない、と言っている。何故嬉しがる?」
友人Aの発言は、明らかに非道徳的と呼ばれる部類のものだ。
社会的通念において、所謂『寄せ書き』と呼ばれるものは、一人ひとりの思いが詰まった、
とても温かで優しさに満ち満ちた美しい贈り物、と言う定義付けがなされている。
実際、卒業式や引越しの日にそれを受け取った人間の多くが、多幸感に包まれる事は
純然たる事実として存在するのだから、その定義自体に間違いはないだろう。
よって――――それが絶対的な価値観であり、寄せ書きを『要らない物』、『不必要な物』と
一笑に付す事は許されない、と言う倫理観も成り立つ。
「それが、理解出来ないって事か?」
一通りの解説を受けた雪人は、更に瞼を落として口の中のから揚げを飲み込む。
このから揚げも、少し寄せ書きに似ていた。
大抵の人間が『美味しい物』と認識する食物。
嫌いな人間もいるにはいるが、パブリックイメージとして存在するのは、『誰でも大好きなから揚げ』
に他ならない。
「そうだ。心の底から喜ぶ者は、何ら問題ない。それは個人の嗜好であって、それに対して
俺が否定論を振りかざすなど、愚の骨頂だ。問題なのは、贈る側にある。はっきり言えば、
寄せ書きは悪意の塊とも取れる」
「……どう言う邪推だよ」
雪人はついに瞑目してしまった。
他には誰もいない、閑散とした空間。
それでも、かなり磨耗した喧騒の切れ端を、耳が忙しなく収集してくる。
静かな時間が好きだと主張しても、それを耳が聞き入れる事はない。
世の中、そう言うものなのだから。
「無論、意識的じゃない。贈る側としては、多分な好意を持って贈っているのだろう。
多人数を同じ水準で合わせ、一つの物を贈ると言う発想も、状況によっては機能的かつ
合理的だ。しかし、この寄せ書きと言う物は、精神論に傾き過ぎている。
受け取って喜ばない事を罪とでも言わんばかりに、善意を押し付けてくる。
これを邪道と言わず何を邪道と言う?」
「……いや、幾らでもあるだろ、もっと邪道な事。この世には」
目を開け、友人Aの姿を視認する。
その顔は、到って無表情だった。
一切の感情を読めない。
眼鏡の奥の光も、何色なのかわからない。
「確かにな。しかし、この寄せ書きの最も厄介な点は、大した手間も費用も必要とせず、
にも拘らず、まるで『他のどんな物よりも素晴らしいプレゼント』と言う主張をしてくる点だ。
費用対効果と言う観点で言えば、贈り手に優しいプレゼントと言えるだろう。
だが、受け取る側にとっては、この上なく厄介だ。要らないと断るのは論外だし、
受け取って笑顔の一つでも返せば良い、と言う訳にも行かない。心の底から感激し、
涙すら流して感謝を述べて、やっと常識人と思われる、そんな贈り物だ。
もしお前が、30人程度が一人1〜2分ほどを費やして100円の色紙の上に書いた寄せ書きを
受け取ったとしよう。そこで、少しだけ笑って『ありがとう』とだけ述べ、その場を後にしたとしよう。
この場合、かなりの可能性でそれを贈った連中は、お前を『人でなし』と判断する」
「俺を例に挙げるなよ。ってか、俺ならもっと喜ぶぞ」
「そうだろう。多少無理をして、感謝を表現するだろう。この寄せ書きと言うプレゼントは、
それを強要する魔力を有している。否定すれば、悪魔か魔女を見るような目で見られる。
たかが、100円程度の出費と、人件費換算でせいぜい300円程度のシロモノを、だ」
「今日はまた、随分と極論だな……」
大抵、友人Aの話は一般論に近い立ち位置で行われる。
或いは、自身の感情論を俯瞰したような話。
しかし、この日は少々傾向が異なっていた。
友人Aの話を、懐疑的な心境で聞く事は、珍しくはない。
ただ、何処か自分の心を千切ったかのような話と言うのは、もしかしたら
初めて聞いたかも知れない――――そう雪人は感じていた。
「喜ぶ事を強要させるような物は、贈り物としてはフェアではない、と言いたかっただけだ」
「……それ、お前の誕生日に金かけた物をくれ、ってアピールじゃないよな?」
嘆息交じりの雪人の声に、友人Aは呆れ気味に首を振る。
当然、横に。
ただし、それは雪人の発言に対して呆れている訳ではない。
雪人が、それを本心で言っている訳ではないと言う事を悟っているから。
そして雪人もまた、それを理解しているから、怒気は全く湧かない。
「何事においてもそうだが……価値観と言うのは、ある程度の公的認証が必要だ。
でなければ、人間が群れを成す事自体に意味がなくなる。だから、千差万別と言う言葉は
極論と言える。しかし、その度を越えた、『強迫観念を内包した共有』と言うのは、
到底認められるものじゃない。邪道だ」
「それに関しては、まあ……わからなくもないけど」
嘆息交じりに、雪人はこの日初めて同意をする。
尤も、同意自体はこれが初めてではなかった。
寄せ書きは、確かに『重い』。
自分自身がそれを貰った経験はなかったが――――小学生時代、全く親しくなかった
クラスメートの女子に、クラス全員でそれを贈ると言う企画が立ち上がった。
動機は、例によって引越しによる転校。
その為、クラスの全員が、一枚の色紙にそれぞれ転校する女子に対して、各々の言葉を贈る事になった。
雪人は、一言『さよなら』と書いた。
他に書きようがない――――と言う訳ではない。
『向こうでも元気で』、『転校先でもガンバレ』、『このクラスメートでいつか同窓会をしよう』。
言葉は幾らでも出てくる。
しかし、たかが数文字を上乗せして別れの言葉を装飾する事に、雪人は余り価値を見出せなかった。
結果――――雪人と同じように、短い文章を書いた数名の男子が、女子から糾弾を受けた。
スペースが多いと、貰う人が嫌な思いをするでしょう、と。
実に不可解だと、当時の雪人は本気で思った。
長く書く事が、そんなに重要なのかと。
足並みを揃える事が、この場合に必要なのかと。
それぞれの意思を反映させて集める事に、寄せ書きの意味があるんじゃないかと。
長く書く事を強要する時点で、それはもうタダの『模様付きの色紙』になるんじゃないか――――と。
友人Aは、この事に関しては言及しなかったが、当然それも嫌う理由に含まれているのだろう。
だから、雪人は実感に基づき、同意した。
尤も、そこまで極端に嫌っている訳ではなかったが。
「でも、そんな事間違っても他人に言わない方がいいと思うよ。それこそ、人でなしって思われるから」
寄せ書きが嫌い――――そう言えば、多くの人間が『優しさや温かさを無碍にする物欲に取り憑かれた
最低の人間』と思うのだろう。
それ自体、友人Aは嫌っている。
雪人もそれに関してはある程度共有している感情だった。
ただ、この世の中、無駄に敵を作ってしまうと、いつそれが致命傷になるかわかったものではない。
敵を作る事は必要だ。
それによって、人間にはモチベーションが生まれ、競争意識が芽生え、エネルギーとなる。
とは言え、無駄に多くする必要は何処にもない。
それら全てをわかっていて、敢えてそう言う生き方をしそうな友人Aを、雪人は少し心配していた。
「心配は無用だ。こんな話をする相手は、お前以外にいない」
「……あっそ」
「俺の俗物的な部分を見せるのも、反社会的な思想を語るのも、本音を暴露するのも、
全部お前にだけだ」
何故そんな事を言うのか――――雪人は顔をしかめつつ、それを目で問い掛けた。
「お前には、知っていて欲しいんだ。俺の知識や思慮、性質。その全てをな」
「……」
雪人は顔に更なる険と皺を増やし、友人Aと距離を置く。
「お前のその行動は、俺がお前の事を同性であるにも拘らず異性であるかのような好意、すなわち
同性愛的感情を抱いていると言う危惧に基づくものと察するが、それはない。俺は性的嗜好に関しては
マジョリティーに属するものが多い」
「もっとハッキリ『俺は女が好きであって男に恋愛感情は抱いていない』って言って欲しいもんだけど」
「……」
含み笑い。
実は、この友人Aは、こうやって笑い顔を作る事すら少ない。
それを自分だけに見せる事もまた、雪人にとってはかなり不気味ではあったが――――
それなりに嬉しくもあった。
無論、NotBLの方向で。
高校入学の日に始めて会った間柄。
決して付き合いは長くはない。
ただ、この時点において、自分の人生の中で最もウマの合う人間は誰かと言う質問が
紙に書いていれば、その隣には彼の名前を記すだろう、と言う確信が、雪人の中にはあった。
高校生になって、新しく親友が生まれると言うのは、実は意外と少ないらしい。
そう言う意味では、自分は恵まれているのだろう――――そんな事を考えながら、
この日も雪人は友人A――――周藤鷹輔の話を聞いていた。
「……」
そんな日の事を思い出したのは、特に偶然の産物ではないのだろうと、研究室の
ソファーで毛布に包まった『現在の』雪人は静かに考える。
フラッシュバック症候群と記憶との間に因果関係があると予測して以降、回想と言う行為にも
絶対に何らかの必然性があると確信していた。
それを思い出すのは、現在、過去、未来のいずれかに、その呼び水となる出来事が存在する、
と言う考え。
尤も、過去まで入れてしまうと、それはトートロジーの範疇になってしまうので、
実際には現在と未来に絞られるが。
いずれにせよ、この日に友人との会話を思い出した事には、何か意味があるんだろうと、
予感めいたものを感じていた。
この日――――雪人は初めて大学に寝泊りした。
警備の仕事を共にする、小林拓と言う男と一緒に。
(……まさか)
嫌な予感がして、肌を擦るように上体を起こし、部屋の灯りを付ける。
その小林は、対面する形で横たわるソファーを使って寝ている筈だが――――
「!」
起きていた。
じっと、何も言わずに薄目で雪人の方向を凝視している。
「な、何してんだよ」
回想シーンの終盤が、危機感を増幅させる。
膨らんでいるのは主に、貞操の危機。
返答によっては暴力も辞さない構えで、雪人は小林の言葉を待ったが――――
「……ZZZ」
小林は寝ていた!
「目を開けたまま寝るヤツ、実在するんだな……」
背筋の凍るような展開にはならなかったものの、その光景はそれはそれで結構ホラーだった。
イケメンなのに、目を開けて寝ると言うのは、他人事ながら余りに勿体ないと感じつつ、
雪人は再び部屋の灯りを消そうとしたが――――
「うー……あれ? もう朝か……」
その灯りの所為で、目を覚ましたらしく、小林は首を回しながら背伸びを始めた。
「あ、いや、その。悪い、まだ深夜だ。灯り付けちゃって」
「え? あ、マジだ。まー良いけどよ」
壁の時計で時刻を確認した小林は、特に起こされた事への怒りもなく、再度首を回す。
「つーか、こんなトコでこれからも寝なきゃなんねーって、マジキツくね?
仮眠室みたいな場所ねーのかな」
「でも、卒論書く時とかはこんな感じで寝泊りするんだと。今から慣れてて損はないかもよ」
「そっか〜ぁ。じゃ、慣れっか」
欠伸をしながら、小林はあっさり順応を選択した。
割と素直な性格らしい。
「ま、こう言う経験って大事だしなー。リアリティが出るし」
「リアリティ?」
「……あ!? 何でもねーし何でもねーし! 別に小説とか書いてるんじゃねーし!」
「小説、書いてんの?」
「ち、違げーし! そんなん書いてねーって! いや、マジで!」
まるで、本当は小説を書いていると言う事を伝えたがっているかのようなリアクションに対し、
雪人は対応に困った。
深追いすべきか、流すべきか。
「……まさか、人と会わなくて済むから小説家を目指してる、とか言うんじゃないだろな」
結果、前者を選択した。
円滑なコミュニケーションは、相手の意図を汲む事。
それに尽きる。
「いや、その、まあ……そんなカンジ」
「だったら大学も文系?」
「ま、まーな。ってか、あんまそこまで深く考えてねーけど。なんとなく、そう言う方向も
ありっちゃありかな? みてーな」
「じゃ、今度から日誌はお前が全部付けろよ。小説風にして。俺読むし」
「はァ!? ムリムリ! マジ無理だって!」
「安心しろ。文才があるかどうかなんて、俺にはわかんないし。ただ、小説家の卵って
どんな感じの文章書くのか、ちょっと興味あるんだよ」
実際は、日誌をサボりたいと言う思惑が四割ほどを占めていたが、一応それよりは
興味、関心の方が上回ってはいた。
「いや、マジでムリ! アイツ等にだって言ってねーしさー!」
アイツ等とは、同じ研究室のイケメン軍団の事。
実は人見知りで女性に対して極度のヘタレである事をカミングアウトしていないのだから、
当然、小説家志望と言う事を発言する筈もない。
「だからこそ、他人の俺の方が見て貰いやすいんじゃない?」
「……言われてみれば」
アッサリと。
やはり、自分の判断は正しかったと、雪人はコッソリ苦笑した。
「で、でも、嘲笑とかすんなよ。首を横に小刻みに振るのも、溜息吐くのも、目を閉じて
眉間を指で揉むのも、途中わざとらしい欠伸すんのもなしな。徹底してくれよ、そこ」
まるで、持ち込みをした際のトラウマを羅列しているかのような具体的な発言に対し、
雪人は無言で頷きもせず、灯りを消した。
「ちょっ! マジでやめてくれよ!? 俺、メンタル本気で弱いんだからな!」
それを自覚してるだけ、まだ強い方だ――――そんな事を考えつつ、再び眠りに付く。
全てが闇に包まれた場所。
実際は、瞼の裏でしかないけれども――――それは確かに、夜の闇とは違っていた。
夜には、夜にしか見えない風景がある。
目を瞑る事は、例え脳が認識していなくても、それから目を背ける為の行為なのかもしれないと、
雪人は意識が途絶える瞬間まで、そんな事を考えていた。