海の青と空の青。
どちらが先かと問われれば、多くの者が『空』と答えるのではないだろうか。
そして、それは正解。
ただし――――この回答を告げた人の中には、誤解している人も多いと思われる。
海の青と空の青の間には確かに因果関係はあるが、直接的な因子としての結びつきはない。
例えば、海は空を映しているから青い――――と言う訳ではない。
海は、光の『青く見える部分』のみを吸収し、残りを反射するから、青く見える。
空は、空気中の水滴や埃などに光がぶつかり、特に青い波が多く散らばるから、青く見える。
それぞれに『光』に起因すると言う点で共通しているが、同じ理由、或いはどちらかが
どちらかの原因となっている、と言う訳ではない。
偶々だ。
光に波長があり、その波長によって色が生まれるからこそ、起こり得る現象。
それが、ある意味自然を作ったと言っても過言ではない。
世界に広がる雄大な自然は、人間の手による綿密な計算によって作られたものではないが、
或いは人が『偶然』と呼ぶ別の存在がもたらした『必然』によって生まれたモノなのかも
しれない。
「うっわー! スゴーっ!」
そんな哲学的思想に囚われている雪人の耳に、爽快且つ清涼な雑音が紛れ込む。
ここは――――大学の敷地から2km程北上した、森の中。
真夏と言う事もあり、鬱蒼と茂る木々の緑が一層深い。
木漏れ日は風に踊るように揺れ、せせらぎのような影を作る。
普段、目にする事のない光景は、何処か他所他所しさすらあった。
雪人は基本的に子供の頃から自然と戯れる習慣がなく、また通っていた小学校も
林間学校などのイベントが存在しなかった為、森に入ると言う機会はこれが初めてだった。
ちなみに、林と森の違いと言うのは、割とまちまち。
尤も一般的なのは、人工の樹木群が林、自然の樹木群が森という解釈だが、
これも必ずしも万人共通の定義と言う訳ではないらしい。
そう言うどうでも良い豆知識を頭の中で再生するのは、雪人の悪い癖だった。
「なんか、ここに来て初めて『離島にキター!』って感じよねー」
目を細めながら、湖はうーんと背伸びをする。
その様子を、雪人は奇妙な既視感を覚えつつ、眺めていた。
この日――――8月17日の昼下がりに森の調査を始めると決めたのは、
実は僅か1時間前の事だった。
理由はごく単純。
「確かに、こう言う大自然を眺めていると、離島のイメージと一致するところはあるな。
実際には、これくらいの規模の森林は本州に幾らでもあるんだが」
車を運転できる人間が、偶々この時間に空いていたから。
と言う訳で――――現在この場にいるのは4名。
雪人、湖、運転役を買って出た静、そして――――
「……あの、川は何処に行けばあるのでしょうか」
河川の水質調査を行いに来た月海の、男1女3と言うパーティー構成となっている。
尚、車は大友教授の物を拝借中。
日中は使わないと言う事で、キーを頂いていた。
離島まで車を持ってくるには相当な費用が必要だが、このツアーに参加するに当たって、
その辺りはしっかりとカバーして貰えているらしい。
「ちょっと待って。湖、地図」
「あいさー」
語源がイマイチわかり辛い返事をしつつ、湖が手の中の地図を開く。
そこには、この離島を1/1500の縮尺で表示した島内が記されているが――――
「流石に川までは載ってないな。自力で探すしかないみたいだ」
インターネット上で拾った地図には、月海の欲しい情報はなかった。
「なら、最初は森林調査を全員で行いつつ、川を探すとしよう。その方が効率が良い」
「わかりました。お手数をお掛けします」
「こっちこそ、手伝って貰って悪いな」
無表情の月海に対し、雪人は苦笑しながら手を合わせた。
そんなおどけたポーズに対し、湖の妙に冷えた視線が突き刺さる。
「……な、何だよ」
「別に。で、森林調査って具体的には何すんのよ。こっちだって暇じゃないんだから、
手際よく段取り決めてよね」
先程まで大らかに深呼吸していた人間と同一人物とは思えない言い草だったが、
雪人は特に気にせず、その段取りを説明した。
森林調査――――等と仰々しい言葉を使ってはいるものの、実際に大学の研究室が
行っているような、本格的な内容をいきなりトレースするのは困難。
出来ない事はないが、残り2週間弱と言うツアーの期限を考えても、得策とは言い難い。
そこで、雪人はシンプルな調査を選択した。
「取り敢えず、森林生態系の調査をしようって思ってるんだけど……」
「妥当だな。生態系を把握すれば、自ずとその環境の傾向もわかる」
雪人の言葉に、静は小さく頷いていた。
一方、湖は細めていた目を更に細め、ジト目を作っている。
「それってつまり、虫とかヘンな生物とかを取って来い、って事?」
「有り体に言えばそうだ。お前には主に蜂とか蛇とかムカデなどを担当して貰おうと……」
目が閉じられ、同時に火花が散った。
「痛てーな! ノーモーションで殴るなよ!」
「うっさい! 何で私がそんな第一種接触禁忌生物ばっか担当すんのよ!」
「そこまで大げさじゃないし、冗談だっての。お前には木に登って貰って、
素手でセミを鷲掴み……」
今度はヒヨコが舞った。
「……私を何だと思ってんの? 何でそんな野生児のイメージなのよ」
「元気だからだ」
「確かに活力が有り余っているな」
「怒りの所為でよっ! あーもー、なんでこんな連中に協力してんだろ……私」
頭をワシワシと掻き毟りながら、湖は苦悩を顕にしていた。
「まあ、冗談はこれくらいにしておくとして……湖さんだったな。君は記録係を頼む。
この季節にそぐわない名前の男が見つけた生物を、何時に何処で発見したか、
どのような状態だったか……など、記録および備考を書いて貰えると有り難い」
「風紀委員なら、記録係は最適だろ」
雪人の今ひとつ意味が不明瞭な先入観に対し、湖は首を傾げつつも、そのまま
首肯した。
「吉原さんは、適当に探索を頼む。何か変わった生き物がいたら、我々に
報せてくれ。川が見つかったら、その場で自分の研究に移行してくれて構わない」
そんな静の言葉に、月海はコクリと頷く。
「って言うか、さっきから妙に張り切って仕切ってるけど、これは俺の仕事だぞ、
お静さんや」
「誰がお静さんだ。お前は昔からどうも年上を敬う配慮に欠けている。良いか、
幾ら親しくとも、親しき仲にも礼儀ありと言う先人の言葉を……こらっ、無視して
ズカズカ歩いていくな!」
静の説教は、教師をしている割には、余り上手くない。
要点を抑えず、無駄に長引かせてしまうと言う、校長の朝礼のような欠点がある。
それを知っている雪人は、そそくさと森の中を歩き始めた。
本日の調査対象となるエリアは、入り口を最下部とした、直径1kmの円内。
面積にして、0.785ku。
こうして見ると、大した広さには思えないが、坪換算だと実に約24万坪。
大学の敷地面積をも超えている。
当然、そんな広さを念入りに調査――――なんて出来る筈もない。
単に、そのエリア内で適当にブラブラして、生物を見つけよう、と言うのが
本日のやる事だ。
夜の警備員の巡回でかなり歩き回っている事もあって、一日中歩き詰め。
このツアーに参加したことで、雪人は知力以上に体力が強化されていた。
「やれやれ……」
理不尽さを覚えつつ、立ち止まる。
改めて、360°森の中と言う景色を見つめ、思わず深呼吸。
湖の気持ちを、この時点でようやく解した。
確かに、そう言う気分になる。
実際問題、田舎と都会の空気の汚染度と言うのは、大差はない。
よって、田舎だから、離島だからという理由で、空気が美味しいとか、澄んでいるとか、
そう言う事実はない。
ただ、森の中にいると、それとは別の衝動が湧いて来る。
植物の香り。
土の匂い。
嗅覚を擽る数多の要素が、空気まで美味しそうに錯覚させてくれる。
雪人にとって、それは初めての体験――――の筈だった。
にも拘らず、身体は自然と動く。
胸を張り、木々の葉を仰ぐ体勢を、まるでプログラミングされているかのように
無意識の内に作り出す。
蘇るのは――――先日見た、フラッシュバックの光景。
その為、これが人間の持つ本能的な衝動と、雪人は断定出来ずにいた。
「どうしたの? 何かヘンな虫がいた?」
「いや。って、静ねえ……じゃない、大河内センセは?」
「固まってても仕方ないから、別方向で調査するって」
拗ねたな、と瞬時に理解し、雪人は苦笑しつつ嘆息した。
大河内静の性格は、既に嫌と言うほど把握している。
教師と言う職に就き、昔から妙に堅苦しい言葉遣いこそしているが、その実、中身は
自堕落、且つ大雑把。
そして、直ぐに拗ねる。
扱い辛い大人だった。
「……静ねえ、ね」
そんな回想に頭を浸していた雪人に、湖はこの日何度目かのジト目を向けていた。
「ンだよ」
「教師と生徒、って言うのは聞いたけど、当然それだけの関係じゃないんでしょ?
そんな呼び方するくらいだから。一応、聞いとこっかな」
「偉そうに……ま、手伝って貰ってる手前、黙秘権もないか」
ただし、調査をしながらな――――と付け加え、雪人は静との関係を湖に話した。
ただし、イリーガルな点及び自分自身の心情は除いて。
「ふーん。居候、ね」
「高校に入ってからは、向こうも教師になった事だし、流石にマズイだろって事で
出て行ったんだけどな。お陰様で一足早く一人暮らしを経験出来たけど」
雪人としては、この言葉を持って、一人暮らしの方に話題のテーマを
移行させたかった。
話題は豊富にあるし、心に波打つ事もないので、調査しながらの雑談には持って来いの
内容、と言う思惑もあった。
「やっぱり、大人の女性との共同生活って、ドキドキする事多い?」
しかし――――湖はそっちには一切関心は持たず、静に関する質問を続ける。
「……多い、って程じゃないけど。そりゃ、最初はな。でも、慣れた」
「どーだか。例えば、夜寝てる時にムラムラして、ついフンガーって襲うとか
そう言う気持ちになったりはしなかったの?」
「妙な事聞くなよ」
当然、ない訳はない。
ただし、襲う、と言う発想はなかった。
尤も、それを他人に言う気もなかったが。
「……ま、良いけど。でも、同棲経験があるなんてねえ……道理で妙に冷めてるって言うか、
女子に慣れてる感じがする訳よね」
「女子に慣れた素振りなんて見せた覚えないんだけど……実際慣れてないし」
「嘘。谷口さんとか宇佐美さんとか、年上の女の人相手にしれっとしてるじゃない」
言われて、気付く。
自分の振る舞いが、周囲からはそう思われている、と言う事に。
「……そんなつもりじゃないんだけどな。香莉さんには寧ろイジられてるし」
「結構互角に渡り合ってると思うけど?」
不本意な見解に、雪人は思わず視線を外すように空を仰ぎ、嘆息する。
その視界に――――虫の姿が映った。
正確には、虫の大群。
上空、木々の隙間を埋めるように、数多の『羽を持つ虫』が飛び交っていた。
「……え? まさか……」
その瞬間。
雪人の肌が粟立つ。
「ホントだってば。大体、私に対しても初対面の時から……何見てんの?」
そんな雪人の様子にようやく気付いた湖も、上を見上げる。
「……」
硬直。
そして、数秒後――――
「スズメバチ、よね」
「スズメバチ、だな」
それが何なのかの意見交換をカタコトの口調で行い――――
「う……うわあああああああああああああっ!?」
同時に全力逃走。
初の森林調査は、開始から十分程度で生命の危機に瀕する事となった。
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