基本――――攻撃性の高いスズメバチであっても、自分達なりの縄張りであったり、
 攻撃を仕掛ける基準のようなものは持ち合わせている。
 人間のように、敵意を持っている相手にすら下手に出るような生物は、自然界にはいない。
 相手に敵意があると判断すれば、躊躇なく襲ってくる。
 では、何を持って敵意とするのか――――
「対象物が過敏に動いている場合、高い声をあげた場合、或いは、巣に近付いて来た場合。
 こう言った際にスズメバチは口をカチカチと鳴らす。それで威嚇し、それでも敵意を
 継続している相手に対し、集団で襲い掛かる。つまり……ダッシュで逃げると言うのは
 最悪に近い防衛手段だった」
 肺からすべての酸素を出し切ったかのような錯覚――――かどうかも怪しいほどに
 息を切らし尽くして地面に仰向けで倒れる雪人と湖を団扇で扇ぎながら、静は
 説明口調で淡々と教育を施していた。
 尚、幸いな事に、二人とも針と毒の餌食となる事はなく、五体満足。
 スズメバチに刺されようものなら、複数種の毒によって激痛に見舞われる。
 神経毒もある為、注入量が多くなると呼吸不全、最悪心停止もあり得る程に強力な毒だ。
「場合によっては、少量であっても血管分布異常性ショックで生命の危機に瀕する事もある。
 聞いた事があるだろう? アナフィラキシーショックと言うヤツだ。アレルギーの一種でだな……
 おい、聞いているのか?」
「……ぴひー……ぴひー」
 何らかの信号のような音で、雪人は返事をした。
 人間、息が切れるとマトモな声は出せない。
 湖に到っては、殆ど気絶状態だった。
「やれやれ。これでは調査どころではないな。この子は車で寝かせておこう。
 熱中症になられると、私の監督不行き届きになるしな」
「……ぴひー」
 呼吸で返事。
 過呼吸を引き起こしかねない程に、心臓や肺が凄い勢いで仕事をしている。
 真夏の真昼間とあって、太陽は辛辣な程に輝いている為、汗の量も尋常じゃない。
 ただ――――それはそれで、楽しくもあった。
 スズメバチに追い回され、命からがら逃げる。
 普段の生活では、まずあり得ない事。
 ある意味、離島に来たという実感を最も得た時間だった。
 大学体験ツアー。
 その一風変わったツアーは、離島に大学とその周辺都市をまるごと作るという、
 かなり特異な環境下で行われている。
 そこにインパクトがありすぎて、離島にいると言う事を暫し忘れてた。
 本来、『大学の街頭化現象を考える』と言うテーマに、この森林調査は全くそぐわない。
 しかし、それでもここへ来たのには、二つほど理由がある。
 一つは、離島の自然に触れて、実感を持ちたかったから。
 そして、もう一つは――――先日フラッシュバック症候群の最中に見た、あのイメージ。
 雪に囲まれた森の中。
 森になにかがある。
 なんとなく、そう思っていた。
 尤も、その景色がこの森だと言う訳ではないだろうし、季節も真逆。
 深い意味がある訳ではなく、寧ろ衝動に近かった。
 けれど。
 そうしなくてはならないような、そんな焦燥感にも似た感覚があるのも、事実だった。
「……どうされました?」
 突然の呼びかけに、雪人の身体が揺れる。
 その数秒後、視界に月海の姿が入った。
 相変わらず表情が乏しいが、少し心配そうにしている――――ように、雪人には見えた。
「ぴぴー、ぴひー。ぴひー、ぴひー、ぴひー」
「……すいません、わかりません」
 呼吸での会話が通じる筈もなく、困惑した顔――――に移行したように見える。
「……ぴひー……ぴー……ひー……はー、はぁ。ああ、やっと生き返った」
 カラカラになった喉を震わせ、言語を発する。
 雪人はようやく人間に戻った。
「えっと、スズメバチの大群に襲われて、命からがら走って逃げて来て」
「スズメバチは、頭を低くして静かに離れれば、襲って来ませんよ」
 静だけでなく月海にまで注意され、流石に雪人は凹んだ。
「そ、それは兎も角。川、見つかった?」
「はい。ありました。今日は地理の把握と予備調査だけなので、写真を撮って
 目印を付けて、水温や透視度等を測って、何箇所かの川の水を少し頂いて、それで終わりです」
 自然の調査は通常、まず予備調査を行う。
 少人数で行うのが基本だが、学習も兼ねている場合は多数の者に一度に
 経験を積ませる事もある。
 基本的には、本格的な調査を行う前に必要な事項をある程度調べておく事、
 本格的に調査するに値する場所かどうかを検討する事などが目的となる予備調査だが、
 これによって調査の方法や必要期間などにも影響が出てくるので、
 予備だからと言って気楽には出来ない――――のが通常の調査。
 ただ、これはあくまでも『大学体験ツアー』内における、お試しの調査。
 そこまで本格的に行う必要はない。
 にも拘らず、月海は自動計器まで用意していた。
 生真面目な性格がハッキリ行動に出ている。
 一方、雪人は殆ど行き当たりばったりの、適当な調査に近かった。
「……これが、目標がある人とないヤツとの差か」
「?」
 月海は小さく首を捻る。
 その仕草は、どこか猫のそれに似ていた。
「いや、何でもない。ところでさ、吉原って、何で熱帯魚が好きなの?」
 会話を繋ぐ為の、簡単な話題振り。
 それ以上の理由は、特になかった。
 特別興味がある訳でも、具体的な回答を欲している訳でもなかった。
 そんな、何気ない雪人の問いに対し――――月海は、表情を変えないまま、
 その場に座り込んだ。
 雪人の顔の直ぐ傍に、月海の細い太腿が静かに着地する。
 若干、胸が跳ねた。
「私は、子供の頃からずっと、白い部屋で暮らしてました」
「……?」
 突然の、幼少期の告白。
 雪人は思わず、視線を月海に向ける。
「白い、本当に白い部屋でした。ただ、不自然に全てが白い訳ではありませんでした。
 カーテンやエアコンは、既製品の白いものでしたけど、すべての部位が白では
 ありませんでした。ただ、全体のイメージとしては、白一色でした」
「……白が好きでそうしてる、って訳じゃなさそうだね」
「はい。その部屋は、私が彩ったものではありません。私は、施設にいましたので」
 施設――――この場合、親を有しない子供が生活をする場と言うのが、最も
 適合率の高い答えと思われる。
 ただ、雪人はなんとなく、そうではないと感じていた。
 それも踏まえ、敢えて問う事もしなかった。
「そこでは、何もなく、静かに時間だけが経過していました。時計もなく、
 時を刻む要素は自分の胃の中身くらいでした。ただ、それは割と正確でしたけど」
 苦笑しているような錯覚を覚えさせる、月海の声。
 雪人は、何故彼女がこのような告白を続けるのか、理解出来ないまま、耳を傾け続けた。
「そんな毎日を過ごす中で、私に与えられた初めての色が、熱帯魚でした。
 大きな水槽の中を泳ぐ、銀色の魚。とても口が大きくて、優雅に泳ぐ様は、
 見ているだけで、とても爽快に感じました」
「……アロワナ?」
「御名答、です」
 なけなしの知識で正解を引き当てたものの、肝心の意図は未だ読めず。
 雪人は、再び耳に神経を向けた。
「次は、青く光る小魚の群れ。その次は、平べったい、ちょっとユニークな顔で
 背びれが細長いお魚。そして次は、綺麗な赤と青の、尾びれの長い、派手だけど 
 とても小さなお魚が、私の部屋に届けられました」
 最後の魚は、雪人にも馴染み深い熱帯魚だと確信出来た。
 そして――――ようやく理解する。
 正確には、疲労によって著しく低下していた理解力が、ここでようやく戻った。
「私にとって、熱帯魚は思い出であり、子供の頃の唯一のお友達でした」
 そう言うこと、らしい。
 それは決して楽しい思い出ではない筈なのだが――――月海の顔は、まるで
 笑顔のように、雪人の目には映っていた。
 或いは、自分の先入観の所為なのかもしれない、と自覚しつつ、自分が苦笑する。
「友達……か。それじゃ、好きになるのも当然だよね」
「はい」
 淡白な答えの中にも、何処か信念にも似た響きがある。
 ただ、それが何を意味するのかを理解するには、雪人は余りにも
 吉原月海と言う女子を知らな過ぎた。
「黒木さんは……」
 そんな月海が、ゆっくりと首を動かし、寝転がったままの雪人に
 視線を向ける。
「以前、熱帯魚の事を『嫌いじゃない』と言いました」
「言ったっけ?」
「はい。講義で一緒になった時に」
 記憶の糸を手繰る。
 しかし、該当する場所には辿り着けなかった。
「……今も、同じですか?」
 そんな雪人の反応に不安を覚えたのか、月海は少し声のトーンを小さくし、
 そんな事を問い掛けてきた。
 記憶にはないが、実際、熱帯魚に対する自分の感情としては、月海の言葉は
 到って正当なものだった。
 そして、それが過去のものである、と言う事も。
「何を話しても、応えてはくれない。触れ合えないし、鳴きもしない」
 雪人は、なんとなく不安げに見える月海に、諭すように応える。
「そんな生物を、こんなに好きになるなんて、思ってなかったよ」
 そして、苦笑。
 本当に、心からの苦笑だった。
「……そうですか」
 特に喜ぶでも、嬉しがるでもなく。
 それだけを応え、月海は再び視線を虚空へと向けた。
 ただ――――その声は、微かにだが、震えていた。
 灼熱のような暑さの中、また一つ月海の知らない一面を垣間見た雪人は、
 同じ虚空に視線を泳がせ、暫し空の下で涼んでいた。






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