夕方まで森林を歩き回り、そして夜は警備員としての勤め。
 殺人的なスケジュールをこなす雪人には、明らかに疲労の色が見えていた。
「……大丈夫なの? フラフラじゃん」
「や、流石にキツかったです。ってか、帰らなくて良いんですか? 結構深い時間ですよ」
 巡回を終えて警備室に戻った雪人を待っていたのは、香莉ただ一人だった。
 小林は雪人に続き、巡回中。
 既に時刻は0時を回っており、宇佐美嬢や結衣もとっくに帰宅している。
 本来なら、事務員の香莉も自分の仕事を終え、家路についている時間帯なのだが――――
「家っていっても、所詮は仮のネグラだしねー。暇なのよ、帰っても」
 と言う事で、この警備室で小林に愚痴りつつ、書類の整理などしていたらしい。
 ちなみに、大学の事務員の仕事と言うのは、決して楽な仕事ではない。
 事務員と言うと、とかくパソコンと睨めっこをしながら伝票入力を行い、
 偶に電話対応やお茶くみ、接客などの仕事をすると言う印象が強いが、
 大学の事務の場合は兎に角フォローしなければならない範囲が広い。
 履修や成績と言った、小中高では教員が行うような分野も事務が行うし、
 学生への通知を始め、様々な手続きに関しての対応を行わなくてはならない。
 中には外国との国際交流業務も含まれる事がある。
 そして、当然ながら通常の事務、つまり書類作成や経理などと言う作業も
 こなさなくてはならない。
 分業とは言え、その仕事量は相当なものだ。
 そんな仕事を、香莉は実にそつなくこなしている。
 勿論、実際の大学ほど学生の人数が多くない、幾つかの分野に関しては 
 省略されているなど、実際の事務員ほどの仕事量はないのだが、それでも
 目が回る忙しさと形容されるには十分なだけの作業量。
 それを、涼しい顔をして対応する香莉は、何気に仕事の出来る女だったりする。
「何気に、香莉さんって寂しがりやなんですか」
「ま、ね。仕事が出来て美人で気立てのいい女性って、いつの時代も孤独なもんよ。
 同僚からは嫉妬されて、男からは可愛げがないと言われて。はぁ。空しい人生……」
 ふてぶてしい物言いとは裏腹に、香莉は本気の溜息を漏らして、机に突っ伏した。
 実際、疲労感はかなり見て取れる。
 肉体的な負担が大きかった雪人以上に。
「そう言う手前様は、元気よねー。一日中歩き回って……携帯の歩数計見せて御覧なさいよ」
「そんなごく最近ついた機能、俺の携帯にはないって」
「へー。そんなに古いの? ゆっきーの携帯……うわ、古! 畳めるようになって
 直ぐくらいの型じゃん、これ」
 実際にはそこまで古くはないが――――雪人の携帯は、初めて購入した時から
 一度も変更されていない。
 静の叔父、大河内陸に持たされてからずっと、この型だ。
 特別な理由はない。
 変える理由がないと言うのが、最大にして唯一の動機だ。
「意外とレトロ派だったのねー、ゆっきー。テレビはブラウン管を愛用するタイプ?」
「もう売ってないでしょ、あの無駄に重いの。アレ、俺らの下の世代が見たら
 金庫と間違えるんじゃないですか?」
「そう言うジェネギャ、あるかもねー。ふわー、ねむねむ」
 造語と思しき略語を使用した香莉は、目をしばたかせて椅子の背もたれに
 体重を預けた。
「にしても、元気よね。最近のゆっきー。って言うか、ここ何日か。何か良い事でも
 あったの? 育ててたたまごっちがついにカエルになったとか」
「なんか色々混じってるような……ってか、別にないですよ、ンなコト。
 別に元気もないですし。強いて言えば、コレが効いてるって事じゃないですか?」
 既に飲み干した後のアリナミンVのビンを指差す。
 雪人にとって、栄養ドリンクは必ずしも栄養剤と言う意識での飲用ではないが、
 本当に疲れた時はそれなりにその効能を期待して服用している。
 実際、カフェインには一時的な興奮状態を生む作用があるし、各種ビタミンには
 肉体疲労を回復させる手助けをする効果が期待出来る。
 とは言え、あくまでそれらは『期待出来る』レベルのもの。
 栄養ドリンクを愛する雪人は、その事も当然理解はしている。
 その為、ある種最も効果のある『暗示』が雪人には効かない。
 栄養ドリンクを飲めば、身体がシャキッとする――――実の所、栄養ドリンクの 
 最大の効能は、そう言った気の持ちようにこそ重きが置かれている。
 すなわち、暗示。
 実際、数百円で疲労が取れるような飲み物などあれば、誰も苦労しない。
 あくまでも気休め程度だ。
 それでも、雪人の栄養ドリンクに対する愛は変わらない。
 味も。
 効能も。
 全てが愛しい存在だ。
「まあ、ゆっきーが病的にソレを好きなのは知ってるけど。私が言ってるのは
 そーゆーコトじゃあないのよねー」
 眠そうな目をそのままジト目にし、香莉は口元を緩めた。
「私の見解では、どーもあの講師のおねーさんが来てから、張り切りだしたように
 思えるんだけど……どう? この香莉さんの名推理」
「そんなバカな」
 雪人は鼻で笑いつつ、そっぽを向いた。
 同時に、その行動は裏目だったと深く後悔する。
 案の定――――香莉は口元の緩みを更に濃くしていた。
「おろろ? やっぱりそうだったの? そっか、だから清く正しく美しい私をはじめ
 沢山の女に囲まれてても、鼻の下伸ばしてなかったのねー。そりゃ、本命がいれば
 ガマンは出来るよねー。で、実際どうなの? ちゅーとかした?」
「してねーっつーの。ってか、その純情ぶった質問はなんか鼻につくな」
 実際、香莉の性格ならばもっとエグい質問が来そうなものだと踏んでいただけに、
 雪人は逆に不気味な印象を抱いていた。
「別に純情ぶってるワケじゃないけど。ちゅーは大事よ? ちゅーしてるかどうかの方が、
 その……なんだ。ホラ、アレよりアレでしょ?」
「そんな代名詞ばっかで言われても、全然わかりませんが。具体性を持ちましょう」
「くっ……何よその羞恥プレイは。そこまで私に下ネタ言わせたいっての?
 この野獣! 野獣ユックル!」
 奇妙な言い草だったが、香莉は香莉で結構動揺しているようだ。
 雪人はそんな目の前の女性に新鮮さを覚えつつ、小さく息を吐いた。
 実際、疲労はかなりある。
 それでも、充実感がそれをある程度抑えてくれていると言うのが現状だ。
 昼から始めた森林調査は、特に大きな収穫はなかった。
 持ち帰った虫は、スズメバチの死骸とアシダカグモ、そして名前のわからない
 数種類の小さな甲殻類っぽい虫。
 ヤモリやトカゲもいたが、掴まえる事は出来なかった。
 尚、今回の調査で得た最大の収穫は、『アシダカグモはちょっと追い込みかけると
 直ぐバテて動きが鈍くなる』と言う特徴を知った事だった。
 無論、実用性は皆無。
 100均ショップで親戚の子供用に買った風船の余りくらい、使い所がない。
 ちなみに、湖はクモが見つかった途端、全力で車へと逃げ込んでいた。
「いや、疲れてるんで、セクハラとかする気は全くないんですけど。
 疲れてない時にも全くないですけど。寧ろ被害者になりそうで悩んでますけど」
「失礼な……ふーん、上等じゃない。ゆっきーはどうやら、私がちょっとHな
 お姉さんだって思ってるみたいね。アレでしょ、3〜4番手のヒロインとして
 登場する、やけにセクシーさを売りにしてサービスショット振り撒いてるけど
 実は純情って言う、古い定番キャラだけれど現実には希少種の、そんな女だって
 思ってるんでしょ?」
「いや、特に」
「いーーや、思ってるでしょ! そしていつか私が一皮剥けてサービスサービスぅな
 コトをしてくれると期待していたに違いないわ!」
 誰かの物真似をしているようだが、ソレが誰なのか雪人にはサッパリわからなかった。
「つーか、もう疲れてるんで休ませて貰って良いですか? あ、ブザー鳴ったら
 起こしてくださいね。夜食にプリン買っといたんで、それ食って良いですから」
「仕事押し付けて寝ようとすんな!」
 景気のいいツッコミの音が、警備室にこだまする。
 尚、雪人は特にボケたつもりはなかった。
「そんなコトより。どうなのよ。あの講師の女、好きなの? 愛してんの?
 ちゅーしたコトあんの? どーなのよ!」
「だから! 違うつってんでしょーが! あの人はただの担任!」
 再び視線を外しつつ、叫ぶ。
 そんな雪人の様子に、香莉は更に目を細め、ジト目からジ目に移行した。
「あらそーう。そこまで頑なに拒否するんなら、私にも考えがあってよ」
「何ですか」
 嫌な予感を覚えつつ、雪人も目を細める。
「ふっふっふー。前々から、女の子に囲まれてる割にみょーにスカしてた
 その態度にはちょっと不満があったのよね。もっとキョドってくれないと
 いい絵が取れないじゃない?」
「盗み撮りしてんのかよ!?」
「単なる広報活動の一環よ。事務のお仕事の範疇。
 次回のツアーの際に使用するパンフレット用に、講義の様子とか
 研究室の風景を写真に収めてんのよ」
 その割には、そう言った素振りは一切見せていなかった。
 確実に、盗み撮りの上位スキルを有している。
 雪人は改めて、眼前の女性の能力の高さに愕然とした。
「そこで、ハーレム状態の男の子のデレデレした写真があれば、次のツアーの
 男性客は安泰だって話が会議であってさー。それなのに……全く、使えないヤツ」
「どう言う非難だよ……」
 脱力しつつ、時計に視線を送る。
 既に時間は1時を回っていた。
 そろそろ小林が帰還する時間帯だ。
「……よし、決めた。ゆっきー、明日の午後は講義を休みなさい。
 そして12時に研究室に集合。これは年上としての命令よ。破ったら
 雑に顔張るからね」
 スゴく嫌な罰ゲームだった。
「決めたって……何するつもりなんだよ」
「フッフーン。悪いようにはしないから、安心なさい。寧ろ喜ばれて
 拝まれてもおかしくないくらい、パラダイスなコトよ。ハーレム状態なのに 
 スカしてる自分を悔いるコト請け合いってなもんよ。くっくっく」
「うわ、マジで不安だ……」
 最近微妙に大人しくなっていた香莉を目覚めさせてしまった事に、雪人は
 この上ない後悔を覚えつつ、天井を仰いだ。


 そして――――翌日の正午。
「これから私達は……海に行きます!」
 香莉のそんな提案が、研究室内にやけに高く響いた。






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