Q:夏と言えば?
 
 シンプルではあるが、中々に侮れないこの質問。
 素直に暑さに纏わるものと考えても、納涼グッズから食べ物まで、
 様々な種類の回答が用意出来る。
 また、夏祭りや花火に代表される、風物詩に関する回答も多いと思われる。
 そして、その多くが、ポジティブな内容で埋められるだろう。
 そこからわかるのは――――夏と言う季節には、半ば強制的な肯定性が含まれている、と言う事。
 これには、少なからずメディアによる刷り込み効果もあるだろうが、やはり
 子供の頃、夏休みを楽しく過ごした日々が忘れられない、と言う懐古の念がある。
 誰もが、あの頃は夏が好きだった。
 そんな中で、雪人は少年時代からずっと、夏と言う季節に対し、何気に余り良い印象は持っていない。
 なにしろ、名前に『冬』をこの上なく連想させる文字が含まれている。
 その由来は不明だが、少なからず季節が関連している事は間違いないだろう。
 よって、夏は雪人にとって、敵とも言える時期。
 季節を敵視すると言うのは、余り前例のない事だと承知しつつも、何処か
 居心地の悪さを覚えながら生活していた。
 しかし――――そんな心象など、頭の中から弾け飛ぶくらいの光景が、今その
 目の前に広がっている。
「……こりゃ綺麗だ」
 海。
 それは、何時の時代も人間にとっては憧れの対象。
 母なる――――そんな冠言葉があるように、人間は元々海から生まれた存在。
 そこに郷愁を感じるのは、当然の事かもしれない。
 ただ、実際に砂浜に下りて眺めるその景色は、船の上から見た海とは全く違う、
 別の世界だった。
 360°、何処を見ても海と言う船上の景色の方が、雄大さは上かもしれない。
 一方、何処か遠くの場所にある、御伽噺の風景のように感じていた。
 しかし、今雪人が眺めている景色には――――実感が篭っている。
 すぐ目の前にある海。
 そこへ身を委ねれば、瞬く間に今とはまるで違う感覚が全身を覆い、
 非日常へと誘ってくれる。
 それは、この世のどんな物よりも、慈しみに溢れた感覚。
 雪人はそれを確かめるべく、ゆっくりと、砂浜に素足を――――
「熱っつ! 何だコレ!?」
 かけた時間は0.1秒にも満たなかった。
 尚、既に海パンには着替えている。
 そもそも、当日に行き先が発表された訳なので、水着など用意できる筈もないのだが、
 そこは抜かりなき谷口香莉。
 女性陣を引き連れて水着を買いに行った先で、しっかりと男性陣の水着まで用意して来ていた。
 ブーメランパンツに代表される卑猥な物を想像し、雪人は背筋を凍らせながら
 包装を解いたところ、意外にもノーマルなトランクス系だった。
 ちなみに、柄はミリタリー。
 衣服として着用すると大抵は変人扱いされるのだが、水着だと意外にも違和感のない柄。
 ある意味、世界の七不思議のひとつに数えられてもおかしくない謎だ。
「ここらはかなり日が強いからねえ。慣れるまで暫く掛かるかもしれないよ」
 そんな雪人の海パンとは違い、大友教授は『漁』と言う毛筆体のフォントの文字が
 プリントされた、青々としたデカパン。
 香莉の持つ大友教授のイメージには、何故かコレがしっくりと来たらしい。
「やれやれですね……で、女性陣はいつまで着替えてるんでしょうか」
「水着次第じゃないかな。谷口君の事だから、変な水着を買って来てるかもしれない」
「……同性のセクシャルハラスメントって、どの辺まで行くとアウトなんですかね」
「日本だと割とその辺は寛容だろうね」
 雪人は適当に雑談をしながら、海の様子をじっと眺めていた。
 この西折浜海岸は、そのまま『西折浜海水浴場』と言う名称で、毎年多くの
 観光客を招く名所となっている、との事。
 娯楽目的で来た訳ではなかったので、海水浴場の存在自体初耳だった。
 そもそも、この島の事に関して雪人は殆ど知らない。
 知る必要がなかったからだ。
 しかし今は、フィールドワークを行っている事もあり、単純な知的好奇心として
 この島自体にも関心を抱くようにはなっている。 
「さて、僕は一足先に休憩スポットを確保しておくよ」
「えらく後ろ向きな先走りですね」
「人間、年を取ると安定しない足場では踊りたくなくなるんだよ」
 大友教授は、そんなエスプリの効いた言葉を発しながら、
 温和な笑みを残し、日陰を探しに出かけた。
 一人残された形の雪人は、苦笑しながら視界を広げる。
 改めて見る海水浴場は、日常と非日常の真ん中――――現実と少しだけズレた
 小さな特別が詰まった世界のように見えた。
 この離島へと訪れて、もう直ぐ一ヶ月が経とうとしている。
 そんな中で、ようやく今日、海に囲まれた場所で過ごして来たという事を自覚し、
 小さく胸が躍った。
 一瞬、大声で叫んで海に向かって駆け出したい衝動が湧き上がる。
 それを打ち消すのは、理性や気恥ずかしさと言った、抑制力。
 そう言う感情がかなり薄くなるのがリゾート地のメリットであり、実際
 ここに遊びに来ているツアー参加者と思しき人達の多くは、かなり
 開放的な空気を醸し出しているのだが、雪人はそこまでハジける事は出来そうにない、
 と自覚して、もう一度苦笑した。
 そして――――その笑みのまま、凍る。
 視界の中に、見知った顔が入って来たからだ。
 しかも、一人ではない。
 二、三人でもない。
 集団。
 砂浜の中央に位置取り、ビーチボールで戯れている。
 そして、その連中は、先程まで一緒にいた研究室の面々ではなかった。
 雪人は思わず視線を逸らし、隠れられそうな場所を探す――――が。
「む? もしやそちらにおわすは、黒木様ではございませぬか」
 見つかってしまった。
 すっ呆けても無理な相手である事は明らかなので、嘆息しながら振り向く。 
 そこには、ブリーフ型水着に下腹部を包んだ無量小路の姿があった。
 そして、その背後には、三越研究室のイケメン軍団、大山研究室のなでしこ軍団、
 ブラックウェル研究室の外国人部隊が集結している。
 結果、雪人は一緒に来た女性陣より先に、別の研究室の女性陣の水着姿を拝む事になった。
「……随分大人数だな」
「ふっほっは。実は、我がサークル『コイ☆バナ』の主催したイベントに
 沢山の人達が集まってくれまして。主催者として鼻が高い次第なのですぞ」
 イベント、と言う怪しい言葉に対し、雪人は当然のように顔をしかめ、一歩後退った。
 嫌な予感しかしない。
「とは言え、そのイベントが何なのか聞いておかないと、後々足元を救われそうな気がする。
 一応聞いておこう」
「何が『とは言え』なのかは存じませぬが、他ならぬ黒木様の頼み。無論、教えましょうぞ」
 無量小路は何故か両手で親指を立て、それをグルグル回し始めた。
 何かの意思表示のようだが、雪人には全く意味がわからず、スルーを敢行。
 結果、10秒程この世のものとは思えない時間が流れた。
「実は、このような催しを企画した次第です」
 珍しく仄かに赤面した無量小路が、ビラを掲げる。
 それには――――『恋のドッジボール大会』と記されており、その後も能書きと思しき
 大量の文字が紙面を踊っていたが、雪人はそれ以上黙読する意味を見失い、
 視線を下に落とした。
 そこには、賞品の記載もあり、優勝したチームには『? ? ?』が贈られると言う。
「……なんで隠す必要があるんだ?」
「そこがミソですぞ。その『?』の表記が好奇心を擽るのです。恋愛も同じだと
 思いませぬか? あの婦女子の秘密を知りたい、隠している所を見たい……
 それが、燃え上がる恋の正体であられるのです」
 余り共感出来ず、雪人は首を傾げた。
「あ、黒木。お前も来てたのか!」
 そんな中、イケメン軍団のリーダー、且つ小説家志望の隠れ人見知り、小林が
 妙に爽やかな笑顔で近付いてい来る。
 他のイケメン軍団がいる時は、基本この顔らしい。
「やっぱ、夏は海だよな。お前もそう思うだろ?」
「……何だろう、この違和感は」
「な、何だよ。俺はいつもこんなカンジじゃねーか。なあ?」
 誰に同意を求めているのか不明瞭な物言いの後、小林は身を潜めて
 雪人に耳打ちを始めた。
「普段の俺はこんななんだ。合わせてくれよ」
「まあ、別に良いけど……無理する必要もないんじゃないか? アイツ等、
 ガキの頃からの友達なんだろ?」
「だからなんだよ……失望されたくねーんだ」
 その感覚は、雪人にもわからなくはなかった。
 よって、首肯。
「うう、サンキュな。後、小説の事とかも……」
「話題に出る要素もないから、心配する必要なし」
「ありがてぇ。じゃ、また後でな」
 小林は目に涙を溜めて、雪人の手を取りブンブンと上下に振った後、
 元いた場所へと戻って行った。
「ふうむ……暫く出番を失っている間、かのような友情が芽生えていようとは。
 このままでは、黒木殿の物語の中において、この無量小路五月雨が親友ポジションから
 脱落しかねませぬな」
「いや、最初から端役AEくらいだぞ」
「ぬうう、Zまででは飽き足らず……ごぼう抜きせねばっ」
 何故か無量小路は小林にジェラシーを感じているらしく、苦悶の顔を浮かべていた。
 非常に気持ち悪いので、雪人は再び後退る。
「ちょっと良いー?」
 そんな中、今度は水着姿の女子が一名、近付いて来た。
 セパレートの水着なので露出は少ないが、それでも女っ気の殆どない人生の所為で、
 雪人は思わず耳を熱くし、緊張した面持ちになる自分を自覚する。
「は、はい。なんでがしょ」
「随分奇怪な口調ですな」
「お前に言われたくないな……えっと、なんでしょう」
 赤面しながらポリポリと頭を掻く雪人に、近付いて来た女性は嫌味のない笑みを浮かべていた。
 名前は――――米山。
 湖の知り合いだが、雪人との接点は殆どない女子だ。
「君、窓霞の彼氏だよね。あの子来てる?」
 衝撃が、雪人の脳裏を走る。
 誰某の彼氏、と言う言われ方をしたこと自体、生まれて初めての事だった。
「いえ。全然違いますが。つーか何処でそう思ったんですか」
「え? 違うの? なんだー、折角……ま、いっか。で、窓霞は?」
「来てますよ。今着替えてる最中です。表に出られる水着なら、そろそろ出てくると思いますけど」
「よくわかんないけど、来てるのね。ありがと!」 
 米山はスポーツマンらしく、先程の小林とは違う種類の爽やかさを残し、
 雪人から離れて行った。
 そんな背中を眺めながら、雪人の中で一つの疑問が湧き上がる。
 湖は、その女子の事を『友達じゃない』と言っていた。
 それ程親しくはない、と。
 だが、やはりそれは不自然だ。
 米山は、湖を『窓霞』と呼び、湖は米山を『ヨネっち』と呼ぶ。
 親しくない物同士が、こんな呼び方をし合うのは、近年の10代の薄っぺらい人間関係を
 考慮に入れても、納得出来る事とは言い難い。
 まして――――米山の態度は、完全に湖を友達として認識している。
 一方的な認識とも思えず、雪人は再び首を捻らざるを得なかった。
「あ、いたいた! 窓霞ーっ!」
 奇妙な疑問が頭の中に霞のようにまとわりつく中、その霞の文字を含む女子を
 呼ぶ声が、ビーチにこだまする。
 どうやら、大友研究室オールスターズがようやく出て来たらしい。
 雪人は奇妙な緊張感を抱きつつ、その声のした方に目を向けた。
 見知った女子の水着姿と言うのは、思わず口が渇くくらいに期待せざるを得ないもの。
「む、もしや憧れの君の水着姿をこの目に焼き付けるまたとない好機?」
「その前にコイツをなんとかしないと!」
 雪人は知人が視姦されるのを防ぐべく、水平チョップでその目を狙う。
「ほっ!」
 鮮やかなダッキングで無量小路はそれをかわした。
「何っ!?」
「ふっほっは! この無量小路、何時いかなる時も目だけはマークしているのですぞ!」
「意味がわからないが、粋がるのもそこまでだ。研究室をお通夜にしない為にも
 全力でお前を倒す」
「むうっ、凄まじい殺気! やはり黒木様、この無量小路を永遠のライバル視しているのですな!」
 心の底から嬉しそうに笑う童顔の変態に対し、雪人は両手を胸元に引き寄せ、
 ピーカブースタイルを作り、インファイターのごとく身を屈めた。
「ほう、黒木様はボクシングを嗜んでおられるのですな。面白いですぞ。
 この無量小路のサバットと、どちらが上か……オフッ」
 異種格闘技戦の様相を呈する中、雪人は足で砂を蹴り上げ、目潰しに成功した。
「ぬうっ! 見えませぬぞ! 天使達のキャッキャウフフなサービスショットが
 この目に焼きつきませぬぞーーーーーっ! まさかボクシングの構えから
 足技とは……無念ッ」
 斯くして、雪人は悪を滅ぼす事に成功した。
「ふぅ……」
 言い知れぬ満足感。
 汗を手で拭う中、雪人は確かな手応えと共に、空を仰いだ。
「……ん?」
 そして、唐突に、何の前触れもなく――――倒れた。





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