無造作に拾い上げたボールを片手で抱え込みながら、白石はその顔を
 コートとは別の場所へと向けていた。
 自身が最も尊敬し、最も良い所を見せたかったであろう相手――――
 そんな相手に対し、白石の視線は明らかに敵意を込めていた。
 裏切られた、と言う気持ちが強い事は明白だ。
「……無量小路君。確認させて欲しい」
 現在、二人のヒットを許したチーム『コイ☆バナ』の内野には、
 白石の他には水野と井本が陣取っており、無量小路は未だ外野にいる。
 その無量小路に視線を移し、白石はボールを指先で回しながら再度口を開いた。
「本当に、この試合に勝ったら、僕の言う事を聞いてくれるのか?」
「勿論ですぞ。この無量小路に二言はありませぬ」
 童顔を屈託なく笑顔で染める。
 そのやり取りを、雪人達は怪訝な顔で眺めていた。
「そろそろ、公開しても良いでしょう。この大会の優勝賞品はズバリ!
 MVPたる活躍をした優勝チームの誰か一名の願いを叶えると言うものなのです!」
 ビシッ! と青空を指差し、無量小路が吼える。
 一方、チーム『オーバープロテクション』の面々は、冷え切った顔をしていた。
「何だ、その抽象的な賞品は」
「って言うか、だったら『車買って』って言ったら買ってくれるの?
 無理でしょ? どの当たりの範囲までOKかわからない事にはねー」
 雪人と香莉の現実的意見に対し、無量小路は意外そうな顔を向けた。
「車程度でしたら、全く問題ありませんぞ?」
「……何ですと?」
 今度は香莉が目を丸くする。
「その男は、このツアーのメインスポンサーの息子だ。自由に動かせる金額は
 サラリーマンの平均年収を超えるらしい」
 そして、白石の呟きに今度は雪人と湖も同じ顔を作る。
 この『おたのしみ☆大学都市体験ツアー 〜ブルーバード・オデッセイ〜』と言う
 ツアーは、娯楽であると同時に、大学体験ツアーと言う未知のドル箱に対する
 実験的な意味合いもあり、それなりに複数の分野から注目を集めている為、
 複数のスポンサーが存在している。
 その中でも、メインとなっているスポンサーは――――
「グーゴルの跡取り息子……?」
 googol株式会社。
 10の100乗と言う意味を持つ言葉を会社名としているのは、その創始者であり
 現社長でもある人物の無量小路と言う姓に関連している。
 無量大数(10の68乗)を更に越える――――そんな信念を元に作られた、
 日本有数のソフトウェア会社だ。
 今や世界に支社を構える大企業。
 資本金300億円以上。
 今一番勢いがある企業だと、雪人は少し前に周藤から聞いた事があったと
 思い出していた。
「ボンボン、なのですよ」
 斜陽に染まるような顔で、無量小路はその童顔に自嘲気味な笑みを浮かべた。
 とは言え、実際問題として、メインスポンサーの跡取りとなると、 
 相当な権限を有している事になる。
 仮にこの無量小路が、無量小路パパに対して『こいつからイジメられたのですぞー!』
 とピーキャー言いつければ、確実に強制帰還の道を辿る事になるだろう。
 そしてそれは、教授であっても例外ではない。
 なにしろ、このツアーにはとてつもない費用が掛かっている。
 それは、初日の時点で雪人も実感していた。
 大学のみならず、その周辺までも再現しているのだから。
 その莫大な費用の大部分を出資している人間の身内となれば、
 当然ながら好き勝手出来るだけの権力を持っている。
「……だからそんな変態に育ったのか」
 雪人は涙を禁じえなかった。
「いやいや、ゆっきー、そのリアクションは違ってないかい?」
「まさか泣かれる事になるとは……この無量小路、ここまで自分に対して
 想いをダイレクトに伝えてくれる友人を持った事に感涙を禁じえませぬ」
 無論、雪人の涙はこれまでに周囲で苦労したであろう使用人や
 拘ってきた人物に対する同情だったが、特に口にする必要はないので
 そっと涙を拭った。
「と言う訳で、ある程度の事でしたら叶えられますぞ。尤も、勝つのは
 我ら『コイ☆バナ』ですが」
「成程ね。で、そっちの生意気ガキんちょが望んでるのは、研究室への
 復帰、ってワケね」
 香莉の言葉に、白石は反応を示さなかった。
 代わりに、深呼吸をしている。
 少しでも多くの力を、自分の体内に取り込もうとしているようだった。
「無量小路君。僕の質問には答えて貰ってないよ」
「おお、申し訳ない。無論、肯定ですぞ」
 その返答に満足げに一つ頷き――――白石は強い視線を香莉に向けた。
「お、来るかい?」
 香莉は不敵な笑みで、腰を落とす。
 筋肉の存在を感じさせない、引き締まった肢体。
 しかし、既にその身体能力は披露済みだ。
「お待ちなされ、白石様。彼女を仕留めるのは容易ではありませぬ」
「……フン」
 そして、その視線を外し、無量小路へとパス。
 今度は挑発には乗らず、引き締まった顔で『オーバープロテクション』の
 様子を観察している。
「狙いはゆっきー、ってトコか」
「だろね」
 無量小路は香莉と雪人の呟きに対し、薄く笑む。
 実際、それが最も妥当な判断だった。
 ヒットの困難な香莉。
 湖を盾にしている限り無敵の雪人。
 となると、パスを繋いで雪人と湖を分断させ、離れた所でどちらかを狙うと
 言うのが、一番現実的だ。
 湖をヒットしても、次に入る女子が同じく雪人の盾になれば、
 戦力の低下はない。
 だが、雪人を当てる事が出来れば、コート上には女子三名。
 香莉だけが戦力として突出した状態になる。
 当然、他の二人を守る為奔走し、体力を消耗する。
 そうなれば、集中力も落ちる。
 キャッチ出来るボールも、出来なくなる。
 いつの間にか、『オーバープロテクション』の命運は、雪人に握られていた。
「何時まで逃げられますかな?」
 無量小路は珍しく顔を引き締め、パスを送る。
 現在、外野は布部、遊馬がサイドを固めているので、全員が男。
 更に、内野の前方部に白石が陣取り、男四人で菱形を形成。
 その間を高速のパスが行き来していく。
『オーバープロテクション』の内野は当然、ボールを持った人物から
 離れなければならない為、パスが行く度に動かなくてはならない。
 求められるのは、パス先を読む洞察力と、パスを受けた人間に対して
 常に距離を取る俊敏性。
 そして、それを持続する体力と集中力。
 だが、コート上にそれを持ち合わせていない人物が一人いる。
「あっ!」
 何度も体重移動とダッシュを繰り返す中、湖の足が砂に取られ、転倒!
 先にダッシュしていた雪人は気付くのが遅れ、数歩先へ出てしまった。
「こっちだ!」
 ボールを要求した白石の元に、パスが送られる。
 湖が転倒したのは、ほぼ中央部。
 そこから3歩ほど内野寄りの地点で、雪人は急ブレーキをかけた。
 だが、遅い。
 白石は既に捕球し、投球体勢に入っている。
 渾身の一投。
「……!」
 雪人は、そのボールが放たれる瞬間――――声を聞いた気がした。
 それは、女声ではなかった。
 自分に指示を送る男性が、この場にいる筈がない。
 それを理解しつつも――――その声に従った。

 ――――下だ

「……あっ!?」
 白石が驚愕の声をあげる。
 同時に、ボールは雪人の右目を直撃した。
 本来なら肩に当たるところ。
 雪人が瞬時に身体を沈めた為、右肩ではなく顔に当たった。
「顔面のヒットはセーフ! 黒木選手はノーヒット!」
 黒服の審判が叫ぶ中、ボールは軌道を変え、遊馬の方へ飛ぶ。
「まだ体勢を崩してる! 狙え!」
「ケッ、誰がテメーの言うコトなんぞ聞くかよ!」
 流れ球を受けた遊馬は、雪人ではなく起き上がったばかりの湖に照準を向けた。
「わ、わわっ!」
「ゴメンな。後でしっかりケアしてやっからさ!」
 イケメンならではの気遣いを口にし、遊馬は思い切り振りかぶって、
 湖の身体を蹂躙すべく全力投球――――
「……!」
 した瞬間、その動きに気付く。
 投じられた直径20cmの塊が直線を描く中――――その線と湖を結ぶ直前で、
 別の何かが割り込んで来た!
「黒木!?」
 飛び込んだ雪人の左手が、ボールを上方へ弾く。
 まるで、バレーのダイビングレシーブのように。
 この状況で『特別ルール』が採用されるかどうかは微妙だが――――
「任せて!」
 砂煙を上げる雪人の身体の上を、今度は香莉が飛ぶ。
 ボールは――――落ちる直前で、香莉の両手に収まった。
「ノーヒット!」
 審判の咆哮と共に、観客が大きく沸く。
 解説の静も、仕事を忘れ見入っていた。
「やるじゃん、ゆっきー! バレーやってた!?」
「いや……」
 右目を抑えながら、雪人は直ぐに立ち上がる。
 激痛以上に、違和感が強い。
 右掌には、液体の感触。
 血も出ているようだと、直ぐに悟った。
「く、黒木……」
 庇われた格好の湖が自身の感情を持て余している中、
 雪人はその顔を逸らし、垂れて来た血を舌で受け止めた。
 味覚は、かつて何度も味わった鉄の記憶を呼び起こしている。
 思い出されるのは、静の叔父の歪んだ笑顔。
 生きる為の手段だけが免罪符だった頃の、苦い映像。
 大した事はしていない。
 数多の犯罪者の生活を見て来た――――それだけの事。
 ただ、逃げ足は必要だった。
 そして、耐久力も。
 それは持久力とは違う。
 痛み、苦しみに耐える力。
 激痛と流血は、当時の禍々しい体験を呼び起こし、それを映像として
 雪人の目の中に蘇らせた。

 ――――フラッシュバック症候群

 現実との連動性がなかった筈のそれは、今、明らかに記憶のフラッシュバック
 となって、雪人の視界を支配していた。
 そこにある風景は、静の叔父の家の中。
 宛がわれた部屋は、人が住む場所ではなかった。
 離れの倉庫。
 電気、水道、ガス、全て皆無。
 布団もない。
 ただ、空間と壁と天井があるだけ。
 そこで、殴られた傷の度合いを手触りで計っていた。
 募るのは、恨み。
 積もるのは、暗黒。
 圧縮された闇は、人間としての価値と実感を徐々に塗り潰して行く。
 死にたい。 
 死ぬべきだ。
 死んだ方が良い。
 毎日、自問自答。
 記憶は、その感情で埋まっていた。
 その筈だった――――

「黒木さん」

 ふと、そんな声が聞こえた。
 今度は女声。
 先程の男の声とは違う。
 現実だった。
 ついさっきも聞いた声。
 雪人は目を開けた。
 瞼ではなく、目を。
 そこには――――心配そうに視線を向けている月海の姿があった。
「大丈夫ですか?」
「あ、うん。大丈夫」
 混乱する頭が正常に戻る前に、雪人は反射的に口を手で拭った。
 時間経過は、ない。
 遊馬はまだ悔しがっているし、白石は指示を無視され顔をしかめている。
『今』が、そこにはある。
 これまでとはまた違う、実感の篭った過去の映像が、一瞬その『今』と
 自分を切り離そうとしたような感覚が、冷や汗を生む。
 もし、月海の声が聞こえなかったら、あのまま過去を生き続けたのでは――――
 そんな錯覚すら、実感として残っていた。
「ホントに大丈夫? 治療した方が良いんじゃない?」
 しかし、珍しく真面目なトーンで話し掛けてくる香莉の余りに珍しい姿に、
 そんな残像は立ち所に消え失せる。
 フラッシュバックの傾向の変化は気になるところだが、それより
 今はすべき事がある――――そう結論付け、右目を押さえていた手を下ろした。
「うわ……」
 湖が思わず声をあげる。
 それを聞くだけでも、今の自分の外見は想像に難くなく、雪人は
 苦笑を禁じえなかった。
「ね、ねえ。やっぱり治療した方が良いんじゃない?」
「そーよねー。タイムとって……」
「いや。今向こうは動揺してる。この好機を逃す手はない」
 雪人は香莉の持つボールを取り、空を仰いだ。
 見えるのは、ごく平凡な風景。
 青い空の中で、太陽を覆う薄い雲が泳いでいる。
 昔――――静と生活を共にする以前の雪人は、いつも下ばかり見ていた。
 空を仰ぎ見る事などなかった。
 自信がなかった。
 興味もなかった。
 視界に映る全てのものに。
 生きている事にも。
 それで良く、静の叔父に怒られていた。
 洞察が出来ないから、視野を広げろ、と。
 しかし、それを素直に聞き入れる事はしなかったし、そんな気にはなれずにいた。
 それが今、自分の意志で上空を見上げる事が出来ている。
 これも、進歩なのだろうか――――そんな事を考えつつ、その風景から視線を外し――――
 雪人はまだ他の二人が心配顔を崩さない中、その空へ向かってボールを放り投げた。
「……え?」
 香莉と湖がキョトンとした顔を作る中、ボールは放物線を描き、
『コイ☆バナ』のコートの上空を舞う。
 そのボールの行方を、雪人は左目だけでじっと眺めていた。






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