雪人の放ったボールは、かなりの高度を保ったまま、『コイ☆バナ』の
コート上を少しずつ進んでいく。
パスにしては高過ぎる。
そして、落下を始めた地点も、前方過ぎる。
そう判断したと思われる白石の動きは俊敏だった。
コートの後方のライン上まで近付き、ボールが落ちてくるのを待つ。
その様子を、雪人は静かに見ていた。
初対面時――――白石に対して雪人が抱いた感情は、『爽やか』。
実際、外見だけではなく、言動にしても声にしても、それが前面に出ていた。
それが、今はまるで真逆の行動に出ている――――とは思わない。
やはり今も、白石への印象は変わっていない。
爽やかな男子だと雪人は感じていた。
彼が何故、大友教授に心酔し、尊敬してたのかは知る由もない。
そんな白石をあえて遠ざけた大友教授の真意も定かではない。
ハッキリしているのは、その事で傷付いた白石が、復讐の場として
スポーツを選んだこと。
香莉は苛立っていたが、雪人は敵意を向けてくる彼に対し、余り責める気には
なれなかった。
信じていた者に裏切られ、その怒りを当人だけではなく、その関係者にまで
向けると言う構図は、人間の心理としてはかなり単純な構図だ。
ただ、それを実行する為には、倫理が邪魔をする。
『そんな自分でいいのか?』と言う自分が邪魔をする。
それでも尚、突っ切ってしまうと言うのは、最初から倫理など無視している人間か、
倫理とぶつかり合ってもまだ負のエネルギーが残り続ける程、強い思いを持っていた人間か。
仮にどちらだとしても、結果は同じな訳で、非難は免れない。
何より、自分の評価を貶めてしまう事も。
それをわからないような人間ではないだろうと、そんな事を考えている雪人の視界に、
落ちてくるボールが映る。
落下地点は、コート後部のラインのほぼ真上。
狙い通り。
しっかりコントロール出来ていた。
「あ、わかった! ラインギリギリで取らせようとしてミスを誘う戦法じゃない?」
香莉が手でスタンプを押しながら叫んだ言葉は、半分正解だった。
それもある。
重力による加速を得た落下して来るボールは、胸で受けるのは難しくない。
だが、これを手だけで受けるのは、結構難しい。
そして、そのシチュエーションを作れる唯一の方法が、ラインをギリギリ越えるくらいの
位置にボールを放ると言うもの。
そうすれば、手を伸ばさないとキャッチ出来ない状況が生まれる。
そして、しっかりキャッチ出来なかった場合、高確率でコート外に弾いてしまう。
そうなると、地面に落ちる前に再度キャッチすると言う二段キャッチも使えない。
ただ、これだけでは不完全。
雪人がさりげなくボールを投げたのは、単に適当に放った訳ではない。
上空を絶えずチェックしながら、タイミングを見計らって投げていた。
それは――――太陽が丁度、雲の切れ間から顔を出すタイミング。
雲の動く方向さえ確認すれば、後は雲の端に薄い光が移った頃合を見て、
上空へと高く投げる。
落ちてくるまでの間に、雲から太陽が顔を覗かせれば――――ボールの位置を
確認する際に空を見た瞬間、モロに太陽光を肉眼で見てしまうのは必然。
それが、視界を潰す。
「……!」
白石が顔をしかめた瞬間、ボールは既に伸ばしていた手を弾き、外野をコロコロ
転がっていった。
「白石選手、アウト!」
そのボールを、白石は険しい顔のまま、じっと眺め――――視線を雪人へと向ける。
「……狙っていたのか?」
「一応」
雪人はそれだけ答え、肩を竦める。
実際には、もう一つ意味を込めていた。
『眩しい物を見つめると、盲目的になる』
それは結果的に、泣きを見る事になる。
そんなメッセージが届くとは思えなかったが、雪人はなんとなく、そうしたかった。
「ラッキー! これでパーフェクト行ける!」
一方、雪人の狙いを一つも把握していないらしき湖が、健康的に叫ぶ。
その姿は、とても躍動的に映った。
或いは、色々な事を知らない方が、いいのかもしれない――――そう思わせるほど。
「ま、色々よね。私は嫌いだけど」
そんな雪人と同調していたのか、香莉がポツリと呟いた。
その『嫌い』が、何を指した言葉なのか、雪人にはわかりかねたが――――
物言わず外野へ歩いていく白石を眺めてはいなかった。
取り敢えず、これで残りは女子二名。
しかも、『オーバープロテクション』のマイボール。
勝敗はほぼ決した。
「さて、と。女子に痛くする趣味はないけど、これも勝負だからね。遠慮なく
当てて差し上げましょ」
外野からのパスを片手で受け取り、香莉がニヤリと歪な笑みを漏らす。
「……」
「そこ、引かない。ホントにないからね、そんな趣味」
湖の顔色を確認して慌てた後、香莉はキッと相手コートを睨み付けた。
そこにいるのは、保育士志望の水野と、女優志望の井本。
水野は明らかに怯えており、まるで檻の端っこで身を縮めるウサギのように
悲しげな目をしていた。
だが。
もう一人の井本には、怯えるどころか、たじろぐ気配すらない。
大胆不敵。
そんな表現が良く似合う。
その顔を確認した香莉は、まるで舌なめずりでも始めるような表情で、
標的を決定した。
「さて……行きましょっか!」
助走を十分に取り、振りかぶる。
躍動。
飛び散る汗が砂を固め、放つ咆哮が空気を揺らした。
そして、次の瞬間――――
「……っ!」
ボールが直撃。
井本の顔面に。
メキョメキョ、と言う擬音が聞こえそうなほど、めり込んだ――――ように見えた。
「お、鬼……」
湖が戦慄する中、香莉は別の意味で驚いていた。
顔面直撃。
すなわち、ノーヒット。
井本は、それを狙って実行した――――ように雪人には見えた。
「い、井本さん!」
「良いの」
水野が強張った顔で近付く中、それを表情を変えずに制するその女子に、
観客も解説の二人も、そしてコート上の全員も釘付けになっていた。
「負けられない……絶対に」
そんな呟きが、井本の口から零れるように漏れる。
ただ、雪人はその異様な迫力を目の当たりにしながらも、水野が叫んだ
その名前に引っ掛かりを覚えていた。
イモト。
それを、どこかで見たと。
同時に、現在その井本から感じている異常性に近い空気も、その時に
感じていたような気がしていた。
しかし、思い出せない。
首を捻りつつ、井本が外野へ投げるボールを目で追う。
「ゆっきー、まどっちをしっかりガードして!」
「了解」
そして、一息吐いて、頭を一旦リセット。
思い出せないあやふやな記憶を追いかけるより、今は試合が大事なのは明白だった。
ボールを受け取ったのは、白石だったのだから。
「……」
白石は切迫した顔で、雪人の方に視線を向ける。
散々敵意を示してきた香莉ではなく。
湖を背後に配置させている以上、当たってもアウトにならない特別ルール。
標的にする意義は、少なくとも試合上においては、ない。
当てられた事への報復か、研究室所属者への復讐か、それとも――――男としての意地か。
雪人は、なんとなく全部違う気がしていた。
険しい顔。
しかしそれは、怒りや憎しみと言うよりは――――切羽詰っているように見える。
或いは。
その感情は――――嫉妬のように、見えた。
「……何故、君なんだ」
ポツリと呟いた白石の言葉は、雪人にも、他の誰にも意味を汲めない。
それに構う事なく、白石は歯を食いしばった。
「白石君! 彼じゃなくて事務員を狙って!」
それを諭すかのように、井本が指示を出す。
今、コート上で最も勝利への執念を見せているのが、彼女だった。
女優志望と言う事で、そのような役どころを演じているのか。
それとも、無量小路の『望みを叶える』と言う賞品が必要なのか。
「ああ……ああああああっ!」
そんな切実さの混じる指示を無視し、白石は絶叫と共に投げる。
そのボールは鋭い楕円に変形し、雪人へと向かって一直線に飛んで来る。
そんな光景を、雪人は――――雪人の『脳』は、全く別の記憶と重ね合わせていた。
小学生の頃の、体育の授業。
そこでドッジボールをした頃の記憶。
当時、決して運動が得意ではなかった雪人は、ただひたすら逃げ回っていた。
そして、最後の一人になった時、同じチームの誰もが諦め、溜息を漏らしていた。
屈辱感と共に顔を出した『奮起心』が、胸目掛けて飛んで来たボールに呼応した。
投げた相手は、クラスで一番速い球を投げる、運動神経抜群の岩下君。
見下した目で、自分の投擲によるゲームセットを確信している。
――――負けるか
その一心だった。
次の瞬間、雷でも落ちたかのような衝撃が、身体全体に走る。
気が付けば、胸の前にあったボールは、一瞬でその推進力を失っていた。
「ナイスキャッチ!」
香莉が叫ぶ。
ハッと我に返った雪人の両手には、あの時よりちょっとだけ大きいボールが収まっていた。
両掌がヒリヒリと痛む。
腫れた右目の瞼が視界を遮っており、距離感は全く掴めていない。
それでもキャッチ出来たのは――――イメージ。
普段と異なる視界を、記憶から想起したイメージで補った。
「クソッ! クソッ! クソッ! クソッ! クソッ! うわああああああああっ!」
白石が今にも泣き出しそうな顔で、精神崩壊でもしたかのように
その場に蹲る中、雪人は深呼吸を一つして、外野へとパスを送る。
「……?」
受け取った月海は、驚いたように雪人に目を向けた。
雪人は、静かに一つ頷く。
女子とは、女子が。
本来はそれが正しいスポーツのあり方だ。
その意図を解したのか、月海は宇佐美嬢へ向けてパスを送る。
「え、あ、あ、はいっ」
結衣へパス。
「……んっ」
もう一度宇佐美嬢へ。
「はいっ」
月海へ。
そのパス交換の最中、水野が逃げ遅れ、月海の直ぐ傍でアタフタしていた。
「……やっ」
緩やかなボールが、水野の足にヒット。
「くっ!」
その零れたボールを拾おうと井本がダッシュするが――――月海の直ぐ傍まで
来た時には、ボールはその月海の手に戻っていた。
「やっ」
「あっ!」
そして、再度投擲したボールが、やはり足へとヒットし、コート上に
力なく転がった。
「全員ヒット! チーム『オーバープロテクション』の優勝!」
審判の先刻と同時に、観客から大きな歓声が飛ぶ。
宣言通り――――パーフェクトゲームが達成された。
「お見事でしたぞ。白石様の執念の塊のようなボールをあえてキャッチに行った
心意気も、素晴らしきスポーツマンシップ。いや、やはり流石は黒木様。
それでこそ、この無量小路の唯一無二のライバルですな。はっはっは」
外野で高笑いする主催者を尻目に、同じく外野にいる白石は座り込んだまま
動かずにいた。
香莉を中心にチーム『オーバープロテクション』が歓喜の輪を作る中、
雪人が視界をその白石へ向けていると――――そこへ大友教授の姿が入って来る。
普段、常に笑顔を絶やさない教授の顔が、別の感情を有していた。
が、それが何なのかはわからない。
哀れみとも、厳しさとも、悲しみとも取れなかった。
「君は、僕の近くにいるべきじゃない。健やかに生きなさい」
そして、それだけを告げ、いつもの顔に戻る。
その言葉の意味するところなどわかりようもないが――――雪人は先程の
大友教授の顔に、不思議な感覚を抱いていた。
単なる、ギャップに対する驚きなのかもしれないが。
「やー、おめでとう。いい試合だったよ。解説忘れるくらい」
「確かに、解説を忘れるほどの緊張感溢れる勝負だった。感動したぞ」
いつの間にか、静も傍まで来ていた。
「そんなに良い勝負って訳でもなかったような……結構グダグダだったろ」
「私としては、お前がスポーツに汗を流す姿を見るだけでも、十分に感動に値する。
あの雪人が、ここまで健全になるとはな……」
感慨に耽る静に対し、雪人はポリポリ頬を掻きながら、小さく溜息。
それなりに張り切った甲斐があった――――
「で、MVPって誰が決めるの? ま、当然誰が決めても私なんだけどね。
エステ券100万円分と子会社一つ、どっちにしようかな……フフフ」
そんな満足感が、香莉の物欲によって押し潰される。
そして、その発言を受け、主催者の無量小路はプリティフェイスを
ニヒルな笑みに染め、拳を握って前方へ掲げた。
「MVPの選定は、一回戦で敗退した10名の猛者の方々にアンケートをとって
一番多い人、と決めております。やはり、同じコートで闘った戦友なればこそ、
正しいジャッジが出来ます故に」
「フッ、余裕ね。会社貰った!」
どうやら子会社に決めたらしい香莉が勝利宣言する中、アンケートの結果が
無量小路の元に寄せられる。
そして、発表。
特に息を呑む者もいない中、発表されたのは――――
「会心の連続ヒットによって勝利を決定付けた、吉原月海様に決定!」
「……え?」
実労働1分程度の、か弱い女子の名前だった。
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