8月20日(木)。
 長かった大学体験ツアーも、もう直ぐ最終週を迎える事になる。
 最終週となる24日〜30日は、毎日本州からフェリーがやって来て、いつでも
 帰って構わないようになっており、フェリーから下りた時点でツアー終了、
 と言う事になっている。
 その間は、いつ帰っても良い。
 これは、ツアー終了日を遅くしすぎる事で、新学期に間に合わない生徒を
 出さないようにする為の処置だ。
 早めに、例えばこの20日にツアーを終了してしまえば問題ないのだが、
 主催側の意向で、ギリギリまで残りたいと言う生徒がその希望を
 実現出来るように、このような『帰宅期間』を設ける事になった、との事。
 ちなみに、高校の夏休みは、登校日のある学校と無い学校がある為、中には
 ツアー参加中に登校日だけ本土へ帰る生徒もいたようだ。
 雪人の学校は登校日はないので、途中抜け出す必要はなく、高校生活 
 最後の夏休みを、この離島で過ごしている。
「……ふわ」
 目覚めたばかりの視界に飛び込んできたのは、『見慣れた』天井。
 ――――そう自覚し、思わず雪人は苦笑する。
 実際には、そう何度も見た天井ではないからだ。
 そこは、アパートの407号ではなく、大友研究室。
 警備のアルバイトをしている関係で、アパートへは帰らずにこの研究室で
 寝泊りをしている。
 ちなみに、同僚の小林も、自分の研究室で寝泊りしているらしい。
 雪人はまだぼやけたままの視界を一度閉じ、ソファの少し冷たい感触を
 暫く堪能した。
 研究室にはクーラーがあるとは言え、タイマーをつけて就寝するので、
 起きた瞬間には夏の蒸し暑い空気がそのまま充満している。
 尤も、寝起きの人間の身体は余り外気の温度に対して敏感ではなく、
 感覚も鈍いので、暑くもなければ寒くもない状態。
 気だるさを感じる中、雪人はゆっくりと上半身を起こし、首を回して軽い
 ストレッチを行った。
 そんな行動の最中、視界に違和感が発生する。
 そうなると、気分は間違い探し。
 周囲を注意深く睨み、その元凶を探る。
 その結果――――直ぐに理由は判明した。
 縷々がプカプカ泳いでいる隣のスペースに、かなり大きな水槽がある。
 その縷々の入った小さい水槽の位置も変わっていた。
 狭い研究室の奥の机に、その二つの水槽が並んでいる。
 机の下には、巨大なろ過装置も見えた。
 大きい方の水槽には水のみが入っており、酸素が送り出されている為
 ポコポコと泡を立てている。
 いつでも、熱帯魚を迎える準備は出来ている、と言わんばかりに。
 それを暫し眺め――――それが『賞品』である事を、雪人は思い出した。
 例のドッジボール大会で、見事MVPを獲得した月海のリクエスト。
 もう後10日もいない筈のここで、月海は熱帯魚を飼う事を願った。
 何故そこまで熱帯魚に拘るのか――――それは、雪人にはわからない。
 好きだという事は知っていても、そこに明確な理由やきっかけがあるかどうかは
 定かではないからだ。
 ただ好きというだけでは、このリクエストは少々常軌を逸している。
 何かがある――――そう思わざるを得ない。
 とは言え、それを知った所で得をする事もない。
 想像する事は控え、雪人は縷々の泳ぐ小さい水槽に近付いた。
「よう、今日も元気か?」
 当然、ベタである縷々は答えるはずもなく、優雅に水に漂っている。
 が――――返事は、あった。
 声ではなく、その身体の異変が示している。
 それまではなかった、白い点々が身体に付着していた。
 明らかな変調。
 病気――――
「……!」
 寝起きの頭から、瞬時に血の気が引く。
 魚なので悲鳴をあげる事はないし、寝込んだりする事がないだけに、
 今の今までその変調に気付く事が出来なかった。
 ビジュアル的に、かなりマズそうな病気。
 人間で言えば、前進に発疹が出ているような感じなので、重い可能性もある。
(マズい! 縷々が、俺の縷々がっ!)
 雪人は心臓の鼓動が早くなっている事を自覚しつつ、オロオロ取り乱した。
「……ゆきが取り乱してる」
 そんな雪人の様子を、研究室のドアを開けたばかりの結衣が驚いた様子で
 眺めていた。
「結衣ちゃん! どうしよう! 縷々がこのままじゃ死ぬ!」
「え? え? え?」
「白いんだ! 畜生どうなってんだよ! だって、もし人間に白い斑点が
 ビッシリ出たら、それもう重症って言うかほぼアウトじゃん! あーもーどうすんだよ!」
 苦悩しながら頭を抱え、叫び声をあげる雪人にかなり衝撃を受けたらしく、
 結衣は驚愕を超えて怯え始めた。
「……あ。いや」
 その様子に気付き、雪人は少し落ち着く。
 流石に従妹を不安がらせるのも宜しくない。
 とは言え、心は一向に落ち着かず、焦るばかり。
 今この瞬間にも、縷々の命が尽きるかもしれないのだから。
「結衣ちゃん! 熱帯魚とか詳しくない?」
「う、ううん。全然くわしくない」
「そ、そうだよなあ……どうしよう、全然対処法がわからない。どうすりゃ良いんだ」
 脳内が右往左往。
 血液の循環も上手く言ってないらしく、まるで頭が働かない状態だ。
「吉原さんに、聞けば良いんじゃない?」
「それだ!」
 結衣の好アシストを受け、雪人は携帯を手に取り――――そっと置く。
「携帯、登録してない……」
 とは言え、住んでいる場所は知っている。
 直接訪ねると言う手は残されていた。
「結衣ちゃん、もしここに吉原が来たら、縷々が病気ですって伝えて」
「う、うん。わかった。がんばる」
 何故『がんばる』必要があるのかはさて置き――――雪人は研究室を飛び出した。
 ちなみに、就寝用に特別着替えると言う事はしていないので、
 外出する上で支障はない。
 ただし、まだ完全に覚醒していない脳ミソと体は思うように働かず、学棟を出る頃には
 かなり息切れしていた。
 心臓が無駄に忙しなく動いているのも、体力が続かない原因となっている。
 それでも、前へ。
 全力は無理でも、マラソン大会でやる気を出している際に出す速度くらいの
 速さで、雪人はひたすら走った。
 縷々が死ぬ――――その事が、やたら怖かった。
 たかだか半月ほど面倒を見ただけの熱帯魚がいなくなる事が、何故か
 恐ろしく嫌だった。
 話しても、決して反応は返ってこないのに。 
 触る事も出来ないのに。
 懐いて見えるのも、単なる習性動作の一つかもしれないのに。
 それでも――――死なせたくはなかった。
 まだ午前中ながら、日差しは強い。
 徐々に、それが体内を侵食し、大量の汗腺を刺激する。
 既に息は上がり、体中に汗が噴き出ている。
 肺は悲鳴をあげ、心臓は爆発しそうなほどに脈打っている。
 そんな状態になるのは、雪人にとって久し振りの事だった。
 命の事を考えたのも、久し振りだった。
 あの、高校生活初日以来――――

「――――うわああああ!」

 突然。
 本当に、何の前触れもなく、突然。
 雪人の耳に、悲鳴のような泣き声が割り込んで来た。
 聴覚の暴走とも思えるような、まるで脈絡のない叫び声。
 何故なら、その声は、遠くから聞こえた訳ではないから。
 そして、記憶の中にある声と一致したから。
 それは――――あの日、聞いた声と同じ音量で、同じ高さだった。
 はっきりと、雪人はそれを記憶していた。
 高校生活最初の日に見た、あの異質な光景。
 駅前広場で、血みどろになり、パニックになっていた連中。
 あの時に聞いた声と、何故か重なった。
 認識として、そう判断を下した訳ではない。
 理性が働く余地はなかった。
 一瞬。
 声が聞こえた一瞬で、記憶が現実と折り重なった。
 ふと、前にだけ向いていた視線を周囲へ散らすと――――そこが
 駅前広場の一角である事に気付く。
 現在いる離島にはない風景。
 その瞬間、雪人はこれがフラッシュバック症候群によって発生した
 世界である事を理解した。
 いつでも、突然現れるこの症状。
 ただ、走りながらと言うのは、初めての事。
 まして、何かに集中している時に、と言うのは、例がない事態だった。
 こんな時に――――と言うもどかしさが生まれる中、同時に冷静になる
 機会を得た事も自覚し、複雑な心境に陥る。
 フラッシュバック症候群の発生中、時間の経過は殆どない。
 よって、現実の邪魔になる事は殆どなかった。
 体力は回復しないが、頭は回復する。
 そして、少し冷静さを取り戻したその時――――雪人はその目を疑った。
 現在、雪人の体は地面に横たわっている。
 野次馬の女の子を、暴走した輩から救う為にダイブした成果だ。
 身体には痛みが発生しているが、大きな怪我はない。
 それは、記憶通り。
 しかし――――今、目の前――――しゃがみこんだ雪人の視界の先には、
 その記憶とは異なる光景が見えた。
 現在、雪人の目の前からは、野次馬は離れている。
 突っ込んできた暴走した男から離れたからだ。
 その為、開けた視界には、血みどろになった男や呆然としたまま動かない女の
 姿がハッキリ見えるのだが、問題なのは、その連中の傍へと歩み寄る男の姿。
 それは――――周藤鷹輔、のように一瞬見えた。
 だが、実際には少し違う。
 メガネをかけていない。
 体格はそっくりだし、髪型もほぼ同じ。
 学生服も、雪人が身に付けているそれと同じ。
 だが、別人だ。
 とは言え、問題なのは、それではない。
 そのような記憶を、雪人は持っていなかった筈――――という点だ。
 記憶では、この後雪人は周藤に手を貸してもらい、立ち上がった。
 その一連の流れの中で、このような光景は見ていない。
 覚えていないのではなく、視認していない。
 以前、フラッシュバック症候群で見たばかりの記憶と、明らかに違っていた。
 何故そのような齟齬が生まれたのか。
「だだだ、大丈夫ですか!? ケガしてませんか!?」
 そして、代わりに雪人に対して手を差し伸べたのは――――
「……湖?」
 逆光でハッキリ顔は見えなかったが、そのシルエットはツインテールの女子である事を
 雄弁に述べていた――――
「そうよ。湖。湖窓霞よ」
 突然。
 そう、終わりもまた、いつだって唐突だった。
 気付けば、再び息を切らしていた。
 心臓は高鳴り、不快感が呼吸器官を間断なく襲っている。
 そんな雪人の視界には、先程までと同じ、ツインテールのシルエットが見えた。
 ただ、こちらは顔まではっきりと見える。
 湖の、ちょっと怪訝そうな顔だった。
「……何かあったの? 必死になって走ってたけど」
 混乱する頭の中を整理する為には、その問い掛けは抜群の作用があった。
 何があったのか――――それは雪人自身が神様か何かにぶつけたい質問。
 色々な事が、一度に起こり過ぎる。
 記憶の中のツインテールの女性と、湖が重なったのは、何故か。
 一瞬早く、現実が顔を覗かせただけの事なのか、それとも――――
「ねえってば」
「あ」
 思考が停まる。
 そして、気付けば息も少しずつ整っていた。
 それを自覚すると同時に、混乱も徐々に消えていく。
 今は、その事を考えている場合じゃない、と言う冷静な判断の元に。
「研究室にさ、水槽あったろ。ヒラヒラした魚が泳いでる」
「ああ、あのキレイなお魚の入った、ね。それがどったの?」
「そのお魚が病気でヤバいから、吉原に治療方法を聞きに行ってんだよ。
 ってかお前、吉原の携帯とか知ってっか?」
「知ってるけど」
 後光が見えた気がして、雪人は思わず握手を求めた。
「な、何?」
「俺……お前に会えて本当に良かった」
 アパートまでの距離は、まだまだ遠い。
 この出会いは紛れもなく僥倖だった。
「そ、そんな……そんなコト、こんなトコで言わないでよ、もうバカ」
 そして湖は、何故か顔を赤くしていた。
「それじゃ、悪いけど電話お願い。代わるから」
「う、うん」
 事なきを得た――――そう胸を撫で下ろしていた雪人は、安堵しつつ
 湖の携帯が差し出されるのを待つ。
 ――――が。
「……出ない」
 いつまで経っても、それは実現しなかった。
「寝てる、のかな」
「そんな時間じゃないと思うんだけどな」
 現在、10時20分。
 勿論、それが必ず人間が起きていなくてはならない時間帯という訳ではないが、
 月海が夜更かしをすると言う印象は二人とも全く持っておらず、不自然さを
 感じずにはいられなかった。
「別のヤツにかけてんじゃねーか? 若しくは、登録した時に番号間違えた、とか」
「ちゃんとかけてるし、履歴でかけてるから間違ってない筈よ。でも、変ねー。
 って言うか、私が避けられてるとか……」
「ネガティブ過ぎだろ。流石にそれはない。トイレか風呂か、何か別の理由があるのかもな。
 仕方ない。悪いけど、吉原の携番教えてくれ。行きながらかける」
「だ、ダメに決まってんじゃない。無闇に女子の番号を教える訳はいかないでしょ?
 私も一緒に行く。ちょっと気になるし」
 暇なのか、実際気になるのか、湖もついて来る事になった。
 その後、二人でアパートに向かいつつ、時折電話をかけたが――――
 目的地に着くまで、月海がそのコールに応える事はなかった。







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