「吉原ー。いるかー? いるなら返事してくれー。お隣の俺だー」
大声を出すのは少し気恥ずかしい為、やや抑えた声で雪人はドア越しに呼びかける。
自室の直ぐ隣の部屋から――――返事はない。
携帯にかけてみても、一向に出ない。
そして、室内から着信音が聞こえてくる事もない。
この状況下で考えられるのは――――
「講義に出てるんじゃない?」
「それが一番妥当か……参ったな」
眉間にシワを作り、雪人は縷々の状態を聞くべく結衣へ電話をかけた。
『うん。元気だけど。白い点はいっぱいついてる』
『そっか……サンキュ』
状況に変化はなし。
とは言え、熱帯魚に詳しくない雪人は、この状況がどれ程危険なのか
依然としてわからず、途方に暮れるしかなかった。
「ふーん、こんなトコロに住んでるんだ、アンタと吉原さん」
一方、そんな雪人を尻目に、湖の興味はアパートの方へと移ったらしく、
ジロジロと壁や雪人の部屋のドアを眺めている。
或いは、これが目的だったと言わんばかりの勢いで。
「中はどうなってんのかな?」
「……見せんぞ」
「ちぇーっ、ケチ! いーじゃんちょっとくらい。減るもんじゃないのに」
「時間が減るだろ。取り敢えず大学に戻ろう。講義受けてる可能性が高いんなら
ここにいても仕方ないし」
嘆息交じりに答えた所で――――雪人は頭の中に一つの懸念が溶け出してきたのを
自覚し、顔から血の気が引くのを感じた。
「……鍵かけてないかも」
「え? あー……でも大丈夫なんじゃない? たかが数時間でドロボウなんて
入られないでしょ?」
「いや……もう何日も帰ってないんだ、ココ。今俺バイトしてるだろ?
研究室に寝泊りしてんだよ。でも、前に帰った時に鍵かけた記憶が……」
定かではない。
曖昧。
記憶はいつでも、そう。
不安定。
無秩序。
自分のものである筈なのに、所有している感覚は全くない。
何故なら、持ち主である筈の自身すら、その正確な形を維持できず、
把握する事すら出来ないのだから。
「なら、開けてみればいいじゃん」
「え」
躊躇なく、湖がドアのノブを握り、回す。
あっさりと、扉は開いた。
「ええっ!? ちょっ、待っ!」
特に見られて困るものは置いていないものの、まるで何か恥ずかしいものを
晒すような感覚を覚え、雪人は思わず慌てて中へ先んじて入ろうと試み――――
その視界に入った光景に戦慄が走った。
台所の先――――居間の畳の上に、人が倒れている。
少なくとも、人形ではない。
ある程度距離があるとは言え、人間の質感ははっきり見て取れる。
玄関の方から見て、頭を左側にした状態で横たわっており、顔は見えないが、
服は確認出来た。
若葉色のカーディガンと、薄い水色のスカート。
女性である事は明らかだ。
当然、この部屋にいて良い存在ではない。
同時に――――この部屋にいる可能性があるとすれば、それが誰であるかと言う
推測が、更に戦慄を濃くした。
「どうしたの? ……え? え? ええええええっ!?」
雪人の背後から、様子を覗き見た湖が大声で叫ぶ。
「だっ、どっ、だっ……じょっ、女子が黒木の部屋でおねんね!?」
「……お前はそこにいろ。確認する」
パニック状態の湖が挙動不審なジェスチャーを繰り広げる中、雪人は
心臓が先程の何倍もの速度で鼓動を打つのを自覚しながら、一歩、二歩と
自室へ入って行った。
目の前にある服は、見覚えのない服。
とは言え――――それが『知らない人』である保証になどならない。
女性であれば、尚更だ。
一歩一歩近付くにつれ、体の震えが顕著になっていく中、雪人の視界に
徐々にその女性の顔が見え始める。
「……!」
そして、居間の入り口に差し掛かったところで、完全にそれを確信した。
倒れている女性は――――月海だった。
「どうして……」
それを視認し、思わず出た第一声は、心からの本音。
どうして、彼女がココに?
どうして、倒れている?
どうして?
どうして?
どうして?
どうして?
――――同じ言葉がグルグルと頭の中を回遊していた。
「え……吉原さん?」
そんな雪人の背後で、待つことを拒否したらしき湖が、蒼褪めた声をあげる。
思わず振り向いた雪人と視線が合うと――――湖は一歩後ろへ下がった。
「そ、そんな……」
「……」
雪人は何も言えないまま、呆然とそれを眺めていた。
頭の中が整理出来ず、情報が上手く処理出来ない。
意識せず呼吸が荒くなっていく程に、躊躇えていた。
「二人はそんな仲だったの!?」
「そっちかよ!」
「だって、呼吸荒くなってたし……うわー、黒木ってケダモノだったんだ……
女子を部屋に連れ込んでその上放置なんて……」
「どんだけ俺ダークなんだよ! つーかそんな事してたら意地でもお前を
この部屋に入れてないっての! そもそもそんな事より! 吉原が死……」
「死んでるの!?」
脱力した所為か、多少冷静さを取り戻した目で改めて横たわる月海を
視界に納めた雪人は――――
「……んでないな」
その事実にようやく気付いた。
寝息を立てている。
胸も微かに上下動している。
ごく普通の、睡眠中の人間の挙動だった。
「何で死んでるって思ったのよ……不謹慎ね」
「いや、だってな……自分の部屋に自分の知らない間に人が横たわってたら、
『寝てる』って発想より『死んでる』って発想の方が上に来るだろ、何となく。
スゲー事件性あるじゃん」
等と、湖にまるで賛同も共感も得られない自論を吐きつつも、雪人は
心底安堵していた。
まだ、知り合って一ヶ月も経っていない女子ではあるが、その子が帰らぬ人と
なった事を想像していた間、ずっと尋常ではない心的負荷に襲われていた。
ただ単に『知った人間が死ぬ』と言う、悲観と薄気味の悪さが残る後ろめたい
心境とは訳が違う。
純粋な恐怖。
笑顔こそ記憶にないものの、この一月近くの間に見てきた幾つもの表情が
消失してしまう事への、畏怖。
それが立ち消えた事が、何よりも安堵を生んだ。
「……で、どうして吉原さんはココで寝てるの? やっぱり昨日連れ込んで
み、淫らな行為に及んだ疑い?」
「どうしてそっちに持って行きたがるんだ……つーか報道みたいな言い方は止めろ」
安堵の次にやってきたのは、先程頭の中を回っていた疑問のマイナーチェンジ版。
月海がこの部屋とその主を知っている事は純然たる事実としてあるが、
それが『この部屋を訪れて勝手に寝泊りする事』に繋がる筈もない。
そもそも、幾ら真夏とは言え、畳の上で布団も何もなく寝ると言うのは、
女子として明らかに異常行為。
不自然だらけの状況だ。
「事件……これは事件ね」
湖はまるで香莉のような物言いで、現状をまとめた。
「アンタが連れ込んだんじゃないとしたら、どうして吉原さんがココで寝てるのか。
そして今は真夏。これは間違いなくミステリーよっ!」
「夏は関係ねーだろ。そもそも、吉原を起こして理由聞けば即解決編じゃねーか」
「そんな無粋な真似しないでよ。ま、いーわ。推理時間は吉原さんが起きるまで。
私が実は、勉強こそ出来ないけどIQは20以下だって事を証明してみせるからね」
「なんでIQとBMIがごっちゃになってるんだよ」
湖は勉強よりダイエットの方に興味があると言う事が判明し、
実にどうでも良い豆知識として雪人の頭の中に入ってしまった。
「この状況、この現場、そして今は夏……見えた。真実が見えた!」
「夏にやけに拘るな」
「ふっふん。ナメた口利けるのも今のウチよ。私の考察力の高さに恐れおののいて
醜態晒したくなかったら、早めに謝っておきなさい」
湖はまた香莉に似た口調で、不敵に微笑む。
悪い意味で影響を受けているな――――と、雪人はこの場にいない事務員の
顔を思い浮かべ、舌打ちした。
「え、何で舌打ち……」
結果、湖がショボーンとなってしまった。
「いや、今のはお前に対してじゃないんだけど、そもそもそれくらいで
いちいち気落ちするなよ。メンタル弱いな」
「うるっさいなー! 良いから黙って聞いてよもー! もー!」
そして、今度は怒り出した。
非常に感情表現豊かな情緒不安定ぶりだ。
「わかったから、少し静かにしろ。で、何だってんだ」
「これはね……事故だったのよ……不幸な、とっても不幸な事故」
雰囲気を出したかったのか、湖が突然後ろを向き、背中で語り出す。
「……んんっ」
同時に、静かに月海が目を覚ました。
「吉原さんは昨日、訳あってこの部屋を訪れた。理由は……そうね、作り過ぎた
おでんをおすそ分けしに来た、ってところかしら。きっと冷蔵庫には
昨日作った練り物中心のおでん種を入れたお鍋が入ってる筈よ」
スラスラ言葉を並べる湖を背に、月海は寝ぼけ眼で雪人の姿を確認し、
一瞬身を竦ませ、驚きを顕にする。
まるで、背後から突然触られた小型犬のようなリアクションだった。
「あ、あの……私」
「でも、この部屋を訪れた吉原さんは、部屋の主、つまり黒木が帰って来てない事に
気付いて、部屋の中で待つ事にしたの。なんでお隣なのにわざわざ中で待つのかって?
それは勿論、お鍋にいっぱい練り物を入れすぎて、一旦引き返すのが億劫だったからに
決まってるじゃない。零すかもしれないし、置いておくと虫が入ったりするかも
しれないし、ね」
月海の声が湖の凛とした解説でかき消される。
「で、暫く居間で鍋持ったまま待ってたのよ。でも、今は夏。冷房なしじゃ暑くて
倒れちゃうくらいの猛暑。そんな中、他人の部屋のエアコンを勝手に入れる訳にも
いかず、吉原さんはおでんの入った鍋を持ったままじーっと待ってたのよ。
なんとなく絵に浮かびやすいんじゃない? 吉原さんって、おでんの入った鍋持って
畳の上でじっと待つタイプの女子って感じするし。で、そのおでんの熱が篭った部屋で
脱水症状を起こして、ふと意識を失った。で、そのまま眠りに……どう!? この名推理!」
「あの、良くわかりませんけど、私はおでんは余り得意ではないので、
作った事はないんです。すいません」
月海はまだボーっとしたままの顔で、良くわからず頭を下げていた。
「嘘っ!? わ、私の名推理が破綻した!?」
「どこかの意味不明な条例並に最初から破綻してたぞ。そもそも、おでんを
入れてたっつー鍋とやらは、いつの間に冷蔵庫へ移動したんだ」
「小人さん達が出て来て……は、運んだのよ……きっと」
「慣れない事はするもんじゃねーぞ」
「うう……」
正論に屈し、湖は俯いた。
「で、吉原。ちょっと遅れたけど、おはよう」
「おはようございます。湖さんも、おはようございます」
「あ、うん、おはよ。なんかゴメンね、さっきは」
「いえ。私こそ、おでんを作れなくてすいませんでした」
奇妙なほんわか感が部屋中に漂う中、月海は徐々に眠気が取れてきたらしく、
表情を曇らせて行った。
普段余り感情を顕にしないその顔が、珍しく湿っている。
「あの、黒木さん。勝手にあがってしまって、すいませんでした」
「それは良いけど、理由は聞かせて貰えるのか?」
「はい」
そして、その顔のまま、月海は告白した。
「私、昨日……脅迫、されました」
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