数日振りに帰宅したその部屋を改めて眺めつつ、雪人はその発言の意味を
イマイチ理解できず、何度か首を捻っていた。
脅迫。
確かに、珍しい言葉ではない。
日常で聞く機会こそないが、創作物の中ではしばしば目にするワードで、
当然ながらその意味も十分に理解はしている。
ただ、日常生活の中で、実際にそれが自分の身近な人間に対して行われると
なると、特例の部類に足を突っ込まざるを得ない。
例えばそれが、何らかの冗談ではない限り。
ただ、その発言を何の躊躇もなく唱えた月海は、雪人の知る限りでは
決して冗談を言うタイプの女子ではなかった。
「……脅迫?」
なので、思わず鸚鵡返しになってしまう。
一方、月海の方はというと――――特に怯えた様子もなく、いつものように
淡々と、何処か儚げに頷いた。
「え、それって……ストーカーとか?」
湖のそんな指摘に、雪人は自然と宇佐美嬢の件を思い出す。
ただ、あの件は――――
「いえ。そう言う種類の犯罪ではないと思います」
回想の間もなく、月海はそれを否定した。
そして、ポツポツと自身の身に降りかかった事件に関して語る。
脅迫があったのは――――昨夜。
携帯電話に、非通知の着信があったと言う。
訝しがりつつも通話ボタンを押し、耳に当てると――――
「今直ぐこの島を出て行け。出て行かなければ、これからその部屋に押し入って
実力行使に出るぞ、と、くぐもった声で言ってきました」
克明に呟きつつも、やはり月海の顔に感情の起伏はない。
まるで、作り話のような印象さえ受ける物言いだった。
胸に当てた手が震えている事を除けば。
「それで、こいつの部屋に?」
湖の問い掛けに、月海はコクリと頷く。
「ご相談に窺おうとノックをしたんですが、返事がなくて……失礼を承知で
ノブに手を掛けたら、鍵が開いていたもので……すいません」
「何言ってんのよ。緊急事態なんだから、それくらい別に良いに決まってるじゃない。
って言うか、鍵が開いてて良かったねー。誰かさんのズボラな性格が幸いしたって感じ?」
「うるさいな……」
しっかり鍵を掛けた――――記憶は、雪人にはなかった。
曖昧。
ただ、改めて状況的に考えると、掛け忘れるというのも妙な話ではあった。
アルバイトの為、大学に泊り込むと言う事は事前に決心していたので、
しばらく部屋を空ける事は織り込み済みだったのだから、戸締りをいつも以上に
入念にしていて然るべきだったからだ。
一体、何故――――
「ま、結果的にそれで助かったのなら良いけど。で、実際にその脅迫者は
吉原の部屋に来たのか? 足音がしたり、物音がしたりは……」
「いえ。そう言った音はしませんでした」
そこまで聞いて、雪人は顔をしかめる。
「なんか腑に落ちない」
「あにがよ」
湖の半眼に対し、雪人は同じく半眼を返す。
「お前は今の話で全部すんなり納得したのかよ」
「……したけど。何? まさかアンタ、吉原さんが嘘吐いてるって言ってんの?」
そして、今度はその目が月海に向けられる。
「私は……嘘は言っていません」
「よねえ。こんないたいけな女子を疑うなんて、なんて人でなしなんでしょ。
吉原さん、悪いコト言わないからこんな男とは早々に縁切った方が良くてよ?」
久々の湖のお嬢言葉に、そんな癖があったなと懐かしみつつ――――
雪人は頬をポリポリ掻いた。
「疑ってるのは、そこじゃねーよ。その脅迫自体が奇妙だっつってんだ」
「……どゆコト?」
埴輪のような顔で、まるで意図を把握しきれていない湖を、雪人は
もう無視してしまった方が話が円滑に進むと判断し、その視線を
月海の方に向けた。
「その脅迫電話は、昨日の夜に初めて掛かってきたんだよな?」
「はい。今までは一度も」
「なら、おかしい。夜に『今直ぐ島を出て行け。さもないとこれから
実力行使に出る』……不自然だろう?」
「……あ」
月海も、ようやくその事実に気付いたらしく、微かながら目を丸くして
驚いた感情を顕にする。
一方、湖はまだ把握し切れていない様子で、埴輪のまま話を聞いていた。
「そもそも、脅迫の意図もわからないな。吉原がこの島を出て行って、
誰が何の得をするんだ?」
「確かに……おかしな事ばかりです」
「ちょっと! 私を置いて二人で話し進めないでよ! 解説!」
溜まりかねた湖がついに吠える。
雪人は嘆息しつつ、視線を仕方なしにそちらに向けた。
「この島、夜に船出てたか? 出てないよな。少なくとも、ツアー参加者なら
全員が知ってる事だ。なのに、夜に『今直ぐ出て行け』なんて、普通に考えておかしいだろ」
「……島の住民の人なんじゃない? ホラ、ツアー参加者がいっぱい来て、
不快な思いをしてるかもしれないじゃない」
「で、その住民が吉原に個人攻撃して、一体どう事態が変わる? それ以前に
島の人ならもっと船の出る時間くらい把握してるだろ」
「うぐ……」
押し黙る湖から視線を外し、雪人は首の運動も兼ねて天井を見上げた。
何度も見た――――というにはやや足りないその視界は、それでも何故か
しっくり頭の中に納まっている。
奇妙な感覚だと思いつつ、頭の中に描いてある仮説を一つ、喉まで持って行った。
「……心当たりがない事もない、けどな。吉原も、もう気付いてるんじゃないか?」
その問いに――――月海は肯定も否定もせず、ただ俯いていた。
「え? 心当たりあんの? だったら……」
「だけど、俺の心象では可能性は低いんだよな」
「なら、私が判定してやろうじゃないの。言いなさいよ」
湖の挑発的な物言いに乗せられた訳ではなかったが――――雪人はその心当たりを
言葉として出した。
「ある人物の嫌がらせだ」
「……あ! わかった!」
そして、鈍い湖でも『嫌がらせ』と言う言葉で直ぐに思い付くほど、それは
非常に易しい回答だった。
「あの、名前は覚えてないけど、ドッジボールの時に喚いてた人でしょ?
吉原さんが入る前までアンタんとこの研究室にいた」
「そう。白石だ」
白石悠真。
月海が大友研究室へトレードを希望した事で、結果的に追い出されてしまった男。
その無念さと恨みは、あのビーチで存分に堪能していた。
それだけに、怨恨で吉原に無理難題を吹っかけ、精神的な圧力をかけた――――
そう見れば、矛盾はない。
「よね! 間違いないでしょ、その線で。やっぱり最後は名探偵マドカちゃんの
指摘した通りになるのよねー、うんうん」
「……幼稚園児にナゾナゾを解かせてる気分だ」
一人満足げな湖をジト目で見つつ、雪人はその可能性をほぼ否定していた。
その理由は、まさしくドッジボールの際に垣間見えた、白石の『ある性質』。
「私は、あの方が犯人だとは思いません」
そして月海もまた――――そう推測していた。
「え? 何で? だって、吉原さんに恨みがあるヤツなんて、アレくらいのもんでしょ?
いかにも脅迫とかしそうな、おっかない顔してたし」
「でも……あの方は」
「最後の最後まで、俺を狙ってたんだ。お前が転倒した時も」
月海の言葉を遮り、雪人はその判断材料を提示した。
もし、白石が女子に対して脅迫行為を行うような性格なら――――
弱い者を狙って嫌がらせを敢行するような人物なら、少なくともドッジボールの
際にその片鱗は見て取れただろう。
だが、実際にはそうではなかった。
「そんなの、状況が変われば行動も変わる、って事じゃないの?
もうカッコつける余裕もない、って感じで」
「そうかもしれない。でも、あのドッジボールの時点で、あいつには
余裕なんて全く見えなかった」
先入観で全てを判断する訳には行かないが、現時点では可能性薄というのが
雪人と月海の見解だった。
「んじゃ、他に誰がいるってのよ。吉原さんを脅して得する人。誰かに
恨み買ってるとか、心当たりないでしょ?
「……」
湖の冗談めいた物言いに対し、月海は暫し考え――――困ったように俯いてしまった。
「他人に恨まれてるかどうかなんて、本人にはわからない事も多いからな。
まして逆恨みともなると想像も出来ない」
「それもそうよね。何にしても、今の時点ではわからないってコトかー」
意地でもこの話し合いに参加した気になりたかったのか、湖はまとめに入った。
ただ、現状ではそれ以上の結論は導き出せそうにない。
脅迫内容自体に矛盾を孕んでいる以上、無理難題による嫌がらせとしか
思えないのだから、それこそ『吉原月海に惚れた男に惚れていた女子』が嫉妬で
行った悪戯の可能性だってある。
それくらい、間口の広い脅迫だ。
「今は誰の仕業かってトコより、今後どうするかを考えた方が良いかもね。
とりあえず、ツアーの運営会社に連絡しとく?」
割とまともな提案をする湖の言葉に、雪人は頷きつつ携帯を手に取った。
「香莉さんに言って対処して貰おう。こう言う事態に対しては結構手厚い保障が
されてる筈」
このツアーに参加した初日、分厚いマニュアルを受け取ったものの、
雪人はまだそれに目を通していない。
ただ、受けた説明からは身の安全に関する保障はしっかりしていると言う印象を
受けていた。
『脅迫? それは穏やかな話じゃないね。そっちにつくみんいる? 替わって』
実際、今回の件を香莉に話すと、普段のおちゃらけた物言いから一変、
真面目な声色でそう要求してきた。
この辺りは流石に社会人。
『お電話替わりました。はい、はい……』
そんな香莉と月海が会話をする中、雪人は視線を持て余し、部屋を見渡す。
当然だが、特に変わった様子はない。
壁の色も、畳もそのまま。
そんな中、窓だけは外部の影響を受けた結果、少しだけ汚れたらしく、
白い曇りが点在していた。
そして、それを見た事で、ここに来た本来の目的を思い出した。
『はい、ありがとうございます。それでは失礼します』
丁度その頃合に通話が終わる。
「あ、吉原。こう言う時になんだけど、ちょっと縷々の事で相談が」
「縷々に何かあったのでしょうか?」
熱帯魚の事となるとレスポンスが早い。
加えて、普段の2倍くらいの音量にたじろぎつつ、雪人は白い点の事を話した。
「それは――――白点病です」
「白点病……やっぱり病気なんだな。対処法は? まさか不治の病とか……」
不安に駆られる雪人に、月海は直ぐに首を横に振ってみせる。
「いえ。熱帯魚の病気の中では最も一般的で、治療方法も確立しています。
今から研究室に行きましょう」
「今から? 良いのか?」
「谷口さんが、今直ぐこっちに来い、と仰ったので」
「それなら話が早いじゃない。戻りましょ。あ、今度は戸締り、ちゃんとしなさいよ」
湖の指摘に苦笑いしつつ、雪人は嘆息しながら鍵を――――
「……あれ」
取り出そうとジーンズのポケットに手を入れ、財布の中を確認したが、
そこに鍵は入っていなかった。
いつもは財布の小銭入れに入れているのだが、そこには10円玉2枚と1円玉3枚だけが
広々とした空間を堪能しているのみ。
雪人の顔が蒼褪めて行く。
「鍵、落としたみたいだ」
「え? それってマズくない?」
湖の指摘通り。
このアパートの部屋はあくまでも短期間の借り物であって、鍵もその一部。
幾ら盗まれるような物がないとは言え、それは現時点での話だ。
今後別の誰かが使う際、鍵穴がそのままだと、今回雪人が紛失した鍵を
何者かが所持しているとなると――――当然、大問題となる。
「こっちも報告事が出来たな。罰金とか改修費とか取られないと良いけど……」
肩を落としつつ、バツの悪い思いで雪人は自身の靴を手に取った。
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