「つくみん! 大丈夫? 何もされなかった? 怪我とかない? って言うか
 貞操は大丈夫? そこ一番大事だから、もし何かあったら私に言って!」
 大学に戻った雪人達を待っていたのは、いつものけたたましい香莉だった。
「あの、電話口で脅されただけなので……」
「でも、男の部屋に一晩連れ込まれたんでしょ? 大丈夫、心配しないで。
 親戚まで一生遊んで暮らせるくらいの慰謝料を出させる準備は整ってるからね!」
 ビシッと親指を立てる香莉に、雪人は先程感じた心強さを返して欲しい心持ちで
 思いっきり嘆息する。
 折角の緊張感はあっさり破綻していた。
「アンタは俺の話をどう婉曲したんだ……」
「ま、冗談よ。つくみん、事情を細かく説明して。緊急性が高いようなら
 直ぐにホテルを手配させるから」
「は、はい」
 そう思うや否や、やけに真面目な対応を見せる。
 これもある意味、プロの姿と言えなくもない。
「でも、その前に少し時間、良いですか?」
「良いけど……他に何か気になる事でもあるの?」
「はい。時間は掛かりませんので」
 少し恐縮した様子で、月海は自分用の机に向かい、上部の引き出しを開けた。
 そこには、白い粉の入った透明なビニール袋が入っている。
「そ、それはまさか……クスリ!?」
「はい。お薬です」
「え?」
 肯定されたにも拘らず、香莉は目を丸くしていた。
「そ、そんな……この世に生まれて一番テキトーに言ってみた冗談が
 大スクープを引き当ててしまうなんて……」
 明らかに香莉が大きな誤解をしていると、ものの4秒で把握出来た雪人は、
 それを指摘する事で色々面倒なやり取りが生じる事を懸念し、放置する選択肢を選んだ。
「それが、あの白い点が出た時の為の薬?」
「そうです。と言っても、食塩ですけど」
「しょくえん〜?」
 背後で香莉の間の抜けた声が聞こえる中、月海は食塩を躊躇なく縷々の泳ぐ
 水槽の中へと投入した。
「だ、大丈夫なのコレ? 縷々って海水魚じゃないよな?」
「淡水魚です。ただ、白点病の場合には塩水を治療に使います」
「塩水……食塩で良いの?」
「はい。ただ、本来は塩よりもメチレンブルー等の治療薬の方が効果的です。
 そして、最も重要なのは塩分よりも――――」
 月海は話しながら、水槽の裏に置いてある機械のダイヤルを回し始めた。
「温度?」
「そうです。水槽内はこの電子式サーモスタット付ヒーターで調整していますけど、
 これで温度を30℃くらいまで上げてあげます。白点病の原因となる寄生虫は、
 淡水魚や海水魚等、熱帯魚の種類によって異なっていて、それぞれの寄生虫に
 繁殖しやすい温度と言うものがあるのですが、ベタの場合は比較的低い温度を
 好む寄生虫が付くんです」
 つまり――――縷々の体では現在、低温の水でやる気を出す寄生虫が
 悪さをしている、という事だ。
「温度を上げて塩入れるだけで効果的なのか……」
「人間の病気も、ウイルスを高い体温で弱らせる事で治療しますから、
 そう言う意味では、風邪を治す事と近いのかもしれません」
 そんな解説を、雪人は感心しながら聞いていた。
 その内容と言うより、一つ一つの言葉が妙にスムーズに出てくる事に。
 本当に、熱帯魚が好きだと言う事が伝わってくる。
「ありょ、ルルぴょんが病気だったんだ」
「魚にまでそのヘンなセンスを発揮するのか……」
 自分のペットが妙な呼び方をされた事に遺憾の意を感じつつ、雪人は暫く
 その水槽内を眺めていた。
 特に苦しそうにしているような気配はない――――が、もし自分の体に
 湿疹でも出てきたら、余り良い気分じゃないのは確か。
 その気持ちは十分に理解できた。
「ゆき、縷々は大丈夫?」
 そんな中、結衣がお盆を持って研究室に入ってくる。
 盆上には、人数分の麦茶が並んでいた。
「うん、大丈夫みたい。留守番してくれてありがと」
「よかった」
 余り感情を表に出す女の子ではなかったが、結衣は小さく破顔していた。
 そして、その手に抱えた麦茶入りのコップを一人一人配っていく。
「サンキュ! プッはー! 夏は麦茶に限るね! そんじゃつくみん、
 事情聴取するから事務室においで」
「はい」
 まるで罪人のような扱いに引っかかる事も特になく、結衣と入れ替わるように
 月海と香莉は研究室を出て行った。
 室内には、雪人と湖、結衣だけが残る。
 ちなみに――――湖はここへ来てからまだ一言も発していなかった。
「随分大人しいな。どうした?」
「……ちょっと考え事してたのよ」
 口元を手で隠し、湖は真面目な顔で呟く。
「あらためてだけど、吉原さんにちょっかい出したの、誰だと思う?」
 そして、一刻前の話題を再度提示してきた。
 実際、特定できるものならしておきたいところだ。
 幾ら会社が対応するとは言え、出来る事はあくまでも応急処置。
 それこそ、縷々に対する治療のようなものだ。
 根本的な解決を考えるならば、犯人探しは必須。
 そして、それをツアー主催者側に求めるのは難しい。
 電話での脅迫だけでは、証拠が少なすぎる。
 月海とある程度の接点がある雪人達の方が、まだ特定できる可能性がある。
「そうだな。本格的に考えてみるか。このままじゃ不安だろうし」
「なんの話?」
「……あ、そっか。まだ結衣ちゃんには言ってなかったっけ」
 結衣だけ仲間はずれの状態だった事に気付き、雪人は少し早足で事情を説明した。
「脅迫……怖い」
 結果、怯えさせる事になってしまった。
「もし、吉原さん個人を狙ったわけじゃなくて、この大友研究室を狙った嫌がらせなら、
 えーと……鳴海さん? にとっても他人事じゃないかもしれないもんね」
 名前をうろ覚えらしく、途中半疑問系も挟みながら、湖は重要な事を言い放った。
 そう――――脅迫と一言でいっても、標的がどの範囲なのか、と言う点から
 まず考えなくてはならない。
 もし大友研究室を狙っているならば、偶々月海が選ばれただけの話であって、
 今後雪人や結衣に被害が及ぶ可能性もある。
 決して他人事ではない。
「やっぱりあの白石って男じゃないの? 一番可能性高いし、一番それが
 収まりいい気がするんだけど」
「俺は違うと思うんだけどな。ま、候補の一人として一先ず置いといて、
 他の可能性も考えてみよう」
「ぶー」
 自論を弾かれ、不満げに口を尖らせる湖を尻目に、雪人はテーブルの上に
 積んであった雑誌の間に挟まっていた紙を取り出し、何かの公式や落書きが
 書き殴られている面をひっくり返し、真っ白な裏面を上にして、やはりテーブル上に
 転がっているボールペンを掴み、その紙の中央に『吉原』と書き出した。
「取り敢えず、吉原の交友関係を知ってるだけ書いてみよう」
「……こう言うの、吉原さんが戻ってきてからの方が早くない?」
「本人がいると案外やり難いもんなんだよ。それじゃ、まずこの研究室と
 白石、そんでお前……と」
『吉原』と書いたその下に、大友研究室所属の面々と湖の名前を記す。
「香莉お姉さんも」
「おう」
 結衣の指摘に従い、それも追加。
「後は……前の研究室か」
「あ。そっか。吉原さんって最初からココにいた訳じゃないんだ」
 そこで、湖がようやくそれに気付く。
 そう。
 怨恨の可能性は、何も白石だけに当て嵌まるものではない。
 移籍した理由も含め、以前の研究室で何かあった可能性も否定出来ない。
「これは……本人には聞き難いかもねー。どうする? 聞き込み調査とか
 した方が良いのかな?」
「あんまり気は進まないけどな。状況が状況だ。やるしかないだろう」
 他人のプライバシーを詮索するのは、決して褒められた行為ではない。
 それだけに雪人も湖も気乗りはしない心持ちではあったが――――
「……」
 脅迫と言う言葉に未だ不安を隠せずにいる結衣を視界に納めると同時に、
 止むを得ないという気持ちの方が強くならざるを得なかった。
「よし。それじゃ、吉原のいた大河内研究室に行ってみよう。結衣ちゃん、
 吉原が戻って来たら、今の話をしといてくれ」
「わかった」
 話が纏まったところで、移動。
 と言っても、大河内研究室は隣の研究室なので、移動時間は10秒と掛からない。
 そして、現在のこの研究室の主はと言うと――――
「ん? 雪人か。寂しくなって私に会いに来たか?」
 静に代わっているので、話は早い。
「そ、そんなワケないだろ。重要な用件があんだよ」
「……」
 静の冗談に思わずドモる雪人に、湖は白い目を向けていた。
 そんなこんなありつつ、これまでの経緯を説明――――
「ふむ……それは少々洒落にならない事態だな」
「って事で、吉原がここにいた頃の交友関係を知りたいんだけど。聞き込みとか
 やっても良いか?」
「構わないぞ。ただし、女が他の女に抱く本当の感情を素直に他者へ
 教えるとも思えんからな。聞き方はちゃんと考えろ」
「わかってるよ。ま、許可はありがたく貰っておく」
 やり取りはそこで終わり、雪人は踵を返した。
 ちなみに、ここは教授室。
 生徒はその隣の研究室にいる。
「ね、ねえ。黒木」
「あんだよ」
「聞き方って……どゆ事?」
「要するに、本人に直接『お前さんは吉原をどう思ってたか?』なんて聞き方は
 すんな、って事だよ」
 まだピンと来ていない湖を連れて来たのは失敗だったと嘆きつつ、
 雪人は隣に繋がる扉をノックした。
「……これも、フィールドワークの一環って事になんのかな」
 そんな不毛な事を呟きながら。







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