そのフィールドワークの一環で、同じ館の研究室に関する調査を事前に
行っていた事が幸いし、既に大河内研究室に所属している生徒の事は
雪人の頭の中にある程度入っていた。
ただ、それは月海が大河内研究室所属だった頃のデータ。
以前いた生徒が現在もいるのか、逆に新たな生徒が加わったのかどうか、
と言う事は、これから把握しなくてはならない。
「失礼します」
教授室に隣している研究室の扉を叩き、中へ入ると――――8つの視線が
雪人の身体に向けられた。
合計、四人。
それは、月海がいた頃よりも一人少ない。
月海が抜けた分が減っただけ。
そして、そこにいる面々は、全員が以前調査した際に見た顔だった。
ただ、ここに今いるメンバーが、現在の研究員の人数と等号で繋がるとは限らない。
今の時間、顔を見せていない生徒もいるかもしれないからだ。
「以前、この研究室の調査をさせて頂いた、大友研究室の者です。
申し訳ありませんが、もう一回だけ御協力して貰えないでしょうか?」
それを最初に調べるべく、雪人は腰を低くして『研究室で与えられた課題を
粛々と行っている研究生』を演じた。
若干の戸惑いはあったものの、大河内研究室の面々はそれを承諾。
それを受け、雪人と湖は聞き取り調査を開始した。
その結果――――幾つかの事実が判明した。
まず、現在いる面子が、そのまま今の大河内研究室の体制であると言うコト。
他に研究生はいないらしい。
よって、必然的に全員が容疑者。
それを踏まえ、今度は月海との関係や印象を聞いてみたが――――
要領を得た回答を得る事は出来なかった。
と言うより、月海の印象は、揃って『大人しくて喋らない女子』だった。
特別親しかった人間はいない。
寧ろ、殆ど会話もしなかったと言う。
「まあ、確かにそんなイメージだけど……」
大河内研究室を出た湖は、雪人の隣で頭を捻りながら顔をしかめている。
恐らく自分も同じような顔をしてると自覚しつつ、雪人も余り腑に落ちない心象だった。
熱帯魚の事を語る時以外は、基本的に無口。
大人しく、社交性は決して高くない。
それは、雪人も同意見だった。
だが、吉原月海と言う女子は――――何となく守ってあげたくなるような、
力になりたくなるような、そんな保護欲を掻き立てる雰囲気を持っている。
そして、接してみれば、その礼儀正しさや心配りが直ぐに判明する。
よって、雪人は彼女に対して『優しくて大人しい子』と言うのが印象として強くある。
事実、だからこそ雪人は率先して月海を脅かす脅迫者を掴まえてあげようと
言う気になっているし、湖も同じ感情を抱いていると判断していた。
それだけに、それなりの期間、同じ研究室にいて、全員がそこまで辿り着けなかった
と言う事実には、違和感を覚えずにはいられなかった。
「どう思う?」
扉を通過しないよう、声を潜めて湖が問い掛けてくる。
「距離を置き過ぎてる気がする。確かに吉原は無口だけど、そんなに人当たりに
潔癖なタイプじゃないし」
同じボリュームに落とし、雪人は断言した。
「そうよね。なーんか冷たいって言うか、微妙な空気。吉原さん、
苛められてたんじゃないでしょーね。若しくは集団無視とか」
「その仮定が事実なら、全員が容疑者だな……もっと情報が欲しいトコだ」
そこまで言って、現在は本土へ帰っている大河内教授に客観的な意見を聞こうか、と
一瞬雪人は考えたが――――流石に教授の前で露骨な苛めなど見せる筈もない。
結局、本人に聞くのが一番手っ取り早い。
尤も、そんな事実があったとして、当人が話す気になるかどうかと言うと、
難しいところだが――――
「あ、出て来た」
思考の揺らぎを湖の声が抑え付ける。
雪人の視界が上がると同時に、事務室から月海に続き香莉も出て来た。
更に、それに続いて宇佐美嬢も出て来る。
事務室にいたらしい。
「事情徴収、終わった? カツ丼頼まなかったの?」
「カツ丼……は余り食べた事ないですけど」
意味がわかっていない月海に、湖は苦笑しながら近寄っていく。
一方、雪人は年上の女性二名の方に歩を向けた。
「前の研究室で苛めにでもあってたのかと思ったけど、違うんだって」
「あ、やっぱりそっちの方向で話進めてたんだ」
腐っても、大学出身の大人の女性。
雪人の考えるような事は、既に通過していたらしい。
「ゆっきーはどう思う? 私的には、やっぱりあの白石ってのが大本命なんだけど」
「俺は、あいつは違うと思ってんだけど。で、結局吉原は今後どうすんの?」
「本部に連絡したら、早速別の部屋を手配するって。ただ、一日掛かるから
今日は私と一緒に一夜を過ごす予定。きゅふ」
「きゅふ、じゃねーよ。ホントにレズなんじゃないだろな」
「恋愛は自由だからねー。ってか、レズって言葉、何かスゴく直接的で
冗談でも恥ずかしくなってくるから、変えて。百合とかズーレーとか
色々あるでしょ?」
後者に関しては聞いた事なかったが、話の腰を折ってまで追及する
事でもないと判断し、雪人は無視を決め込んだ。
「そういや、電話のくぐもった声ってのは、ボイスチェンジャーか何か
使ってたのか?」
振り向いた雪人の突然の質問、月海はまるで動じる事なく、首を傾けた。
「ボイスチェンジャーと言うもので声を変えたかどうかは、わかりません」
「よくテレビで見るのは、機械的な音声にするカンジのヤツよね。
ああ言うのじゃなかったんだ」
湖の言葉に、今度はコクリ、と頷く。
「ま、最近はボイスチェンジャーなんて簡単に買えるし、声の感じも色々
表現できるみたいだしな。パソコン使って電話するツールでも、声変えられるらしいし」
「犯罪者に優しい世の中になったものですね……」
宇佐美嬢が嘆息しながら呟く。
その姿を横目で見ていた雪人は、ずっと抱えていた疑問を聞く機会を得た。
「宇佐美さん、ちょっと良いですか? 教授から預かってる書類があって。
サインしなきゃいけないみたいなんですけど」
とは言え、それを他の面々がいる状態で聞くのは憚れる為、事務室へ
誘導する為の嘘を吐く。
「あ、はい。それでは事務室にいきましょう」
上手く行ったらしく、宇佐美嬢は何の疑いもなく率先して事務室へ向かった。
そして、雪人もそれに続き、室内へ入り――――扉を閉める。
「えっと、書類は……」
そんな雪人に対し、宇佐美嬢はメガネ越しの笑顔を見せていたが――――
徐々に、雪人を囲む空気を察し、それは消えて行った。
「あ、あの……」
「……」
「あ、あれ? 黒木……さん?」
沈黙。
宇佐美嬢は、一歩後退さった。
「ま、まさか私、密室になったこの事務室で襲われ……?」
「鍵掛けてないでしょ」
「そ、そうですよね。ビックリしました〜」
安堵で胸を撫で下ろしたのも一瞬。
再び真顔に戻り、宇佐美嬢は両手を胸に当てて不安を顕にした。
「実は、書類って言うのは嘘です。ちょっと他人の聞いてない所で
質問したかったので。大した事じゃないんですけど」
「えっ?」
意図を読めていないらしく、宇佐美嬢は困った顔のまま固まっていた。
「敢えて、ぶっちゃけます。以前のストーカーの件、あれって、
宇佐美さん、って言うかツアー会社のブラフですよね」
さり気なく、しかしある程度語意を強め、雪人はそれを放った。
以前、無量小路に耳打ちされた『可能性の一つ』。
そしてそれは、ストーカー被害を訴える事件の中でも、ある程度の割合を
占める真実の一つ。
つまり、狂言だ。
実際の警察によるストーカー捜査と関わった過去を持つ雪人は、当然ながら
それを知っていた。
そして、あくまでも可能性の一つだったその答えは――――
中途半端な形で調査を打ち切った後、宇佐美嬢と香莉が全く話題に挙げなくなった事で
確信に近いものとなっていた。
特に香莉は、スチャラカな性格をしているとは言え、今回の件でもわかる通り、
ツアー会社に従事している者としての責任感と、身内に対しての情というものは
決して浅くはない。
それなのに、自分の友達である宇佐美のストーカー調査に関しては、あれ以降
全く話題にしていない。
不自然。
そして同時に、自然さも見えた。
一つの仮説に対して。
「……ブラフ?」
「そう、ブラフです。違いますか」
「いえ、その、そう言う意味ではなくて……すいません、ブラフと言うのは
一体どう言う意味の言葉なのでしょうか」
雪人の肩がカクン、と落ちた。
「す、すいません。緊張感を台無しにしてしまって」
「それはどうでも良いんですが……要するに、こけおどしと言うか、嘘でしょ、って事です」
手元にハンカチがあれば、それで頬を拭いたい心境に駆られつつ、
雪人は答えを待った。
「つまり、私がストーカー被害にあっていると言うのは、嘘、って事ですか?」
「はい。宇佐美さんの意思ではなく、会社の指示だと思うんですけど」
「……」
回答はない――――が、怒っている様子もない事から、正解である事を
確信し、その根拠を述べるべく、小さく息を吸う。
「要は、注意喚起の一環だと思うんですけど。1万枚『ストーカーに注意』って言う
ポスター刷るより、実際に被害にあっている人が身近にいる、って言う事実の方が
効果的ですから」
その仮説は、離島においてストーカーが出没した筈の中で、余り注意喚起が
行われていない事実からも、真実味を帯びていた。
幾ら未確認の段階とは言え、本来なら、回覧板のようなものを配る、掲示板に
注意文を貼る、等の処置を行ってしかるべき。
ツアー参加者の約半分は女子。
それくらい用心深くするのが、寧ろ必然だ。
「こ……」
ずっと宇佐美嬢の反応を待っていた雪人は、ようやく発した第一声に、
その聴覚を傾ける。
「この場合、私はどうすれば良いのでしょう……素直に認めるべきか、
それとも違う違うそうじゃそうじゃないって言い張るのか……
ど、どっちが正しいと思います?」
「知らんがな」
「ああっ、私どうしたら」
既に答えを言っているにも拘らず、宇佐美嬢は混乱していた。
「取り敢えず、当たってるかどうかだけ言ってくれれば」
「わ、わかりました。えっと、その通りです」
「了解です。じゃ、この件は他言無用って事で、俺の胸の内にしまっておきます」
「助かります〜。秘密事項なんです、この事」
実際には経費削減の一環なのだろうが、有効性を考慮すれば、犯罪の抑制に
繋がる大芝居として、特に悪質な嘘でもない。
元より、問題とする意思は雪人の中にはなかった。
あるのは――――
「で、ここからが重要なんですが……」
今起こっている問題との関係を検証すると言う意図。
「吉原を脅した件も、その注意喚起の一環である可能性は?」
それが聞きたくて、ここまで手の込んだ解答編を行っていた。
「いえ、それは違います。ストーカー被害に遭ってるって言う嘘は、
会社関係者だけが行っている事ですし、ツアー開始から2週目の段階で
行う事なので、それ以降はない筈です」
「って事は、宇佐美さんは今も社員なんだ」
「はうっ!」
もう一つの疑惑。
クビになった、と宇佐美嬢は言っていたが、実際には社員のままと言う事も
明らかとなった。
これに関しては、ツアーをクビになった人間が参加者として居座ると言う
あまりに不自然な状況から、既に雪人の中では既定事実ではあった。
目的は恐らく、観察。
実験的要素の強いこの『大学体験ツアー』において、顧客の反応や
行動パターン、或いは正直な意見を聞く為の、スパイのようなものと
雪人は踏んでいたが、今それを指摘する必要はないので割愛した。
「ま、それは良いとして。今回の件はツアー会社がやってる訳じゃない、
って事ですよね?」
「それは間違いないです。私が保証します」
その答えをもって、雪人は今回知りたかった事を全て知る事が出来た。
尤も、事態はより面倒な方向に転がった事になるが――――
「あの……黒木さんって、探偵さんか何かなんですか?」
「そんなコトはじめて言われました」
苦笑しつつ、扉を開ける。
廊下では、まだ香莉等が立ち話をしていた。
「とても賢いんですね……高校生なのに。スゴいですよ……尊敬しちゃいます」
「そんな事はないですって」
年上の褒め言葉に居心地の悪さを感じ、雪人はその扉を少し力を込めて閉めた。